池田大作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池田 大作[1][2](いけだ だいさく、1928年1月2日 - )は、新宗教団体(宗教法人)創価学会名誉会長[3][4][5][6]、SGI(創価学会インタナショナル)会長、創価学会元会長(3代目)、公明党創設者。80歳。
目次 |
来歴
入信以前
- 1月2日 東京府荏原郡入新井町大字 不入斗<いりやまず>(現:東京都大田区大森北)[7]。[8][9]に海苔業者[10][2]の父、子之吉(ねのきち)と母、一(いち)[11]の間の第6子(5男)として生まれる[12][13]。
- 3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職[9]。
- 4月(?)に高等小学校(後に「萩中国民学校」と改称)に進学[14][10]。
- 少年・青年時代に多くの在日コリアンと出会い、父から韓国語を習う[15]。
- 5月24日 実家が空襲により消失。蒲田区森ヶ崎(現:大森南)に移転[7]。
- 8月15日 6度目の結核による肋膜炎を患う。茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える[10]。
- 9月 新橋にある「昭文堂印刷」で文選工をする傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋高等学校)夜間部の2年に編入学する[7]。
- 東京都大田区森ヶ崎にある「協友会」に加入[16][17]。
- 10人余りほどの青年たちと国家や人生や天皇制などを議論する「郷友会」という研究会(読書会)を作り、学者や労働組合の指導者を訪ねたりする[18]。
- 高校卒業と同時に「昭文堂印刷」を退社。半年後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合「蒲田工業会」(現:「蒲田工業協同組合」)に書記として勤務[19]。
入信以降
- 3月、東洋商業学校を卒業。
- 8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ、「協友会」の仲間で小学校の同級生の二人と共に蒲田(大田区北糀谷)の創価学会員宅で行なわれた座談会に出席[20][8][21]。入信を拒むが、後に教学部長になる小平芳平に理論的に説き負かされ、本尊を受ける[22][10]。
- 8月24日 小平に付き添われ、中野区の昭倫寺(当時は「歓喜寮」)で創価学会に入信手続きを行なう[23][17]。入信したことで、家からは勘当状態になる。
- 「大世学院」(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。
- 1月3日 座談会に誘われた女性の母親に、 戸田城聖(2年後に創価学会の第2代会長となる)を紹介してもらい、戸田が経営する出版社「日本正学館」に入社[10]。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。
- 大森のアパートで一人暮らしを始める[7]。
- 5月 「日本正学館」編集長に就任[7]。
- 秋 戸田から自分が勉強を教えるからやめろと勧められ、「大世学院」を2年で中途退学する[24][25]。
- 10月 「日本正学館」の倒産により、同じく戸田が経営する、金融業「東京建設信用組合」に日本正学館の全社員と共に入社。給料がまともに出ず苦しい生活を送る[18]。
- 8月22日 「東京建設信用組合」が大蔵省から営業停止を命じられる。戸田は事業破綻の影響が及ばないように創価学会の理事長職を辞任。
- 10月 戸田が新しく設立し、顧問となった、手形割引を主業務とする金融会社・「大蔵商事」(現:「日章」)[26]に移動。
- 11月27日 営業部長に昇格し[14]、業績を上げる[14][18][27][28]。
- 5月3日 戸田城聖が創価学会の第2代会長に就任。
- 5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。
- 7月 戸田会長直属の青年部(男子部)が結成され、第4部隊の幹事長に任命され、間もなく第1部隊長になる[17]。
- 2月9日 戸田会長の信頼を得て、創価学会青年部の教育参謀に任命される[24]。
- 3月 参謀室長となる。青年部1万人総登山や、体育大会などの斬新な企画を立てる。さらに渉外部長に就任し、対外的交渉を行う。
- 5月3日 砂糖卸会社で重役を勤める戦前からの有力会員の次女、白木かねと結婚[7]。 目黒区三田に住む[29]。
- 8月27日 創価学会は日蓮正宗の信徒団体(法華講)でありながら、東京都知事の例外的措置をもって宗教法人の認証を得る[30][31]。
- 7月 第4回参議院議員通常選挙において、大阪地方区の選挙参謀を担当し、元プロ野球選手の白木義一郎を初当選させる。
- 7月4日 参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、渉外部長として6万人の創価学会員に戸別訪問を指示したとする公職選挙法違反の疑いで逮捕され、大阪東警察署と大阪拘置所に15日間勾留される(「大阪事件」)。
- 7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴され、検察官より禁固10か月の求刑を受ける[34]。
- 3月1日 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂落慶法要の後、戸田会長から後継指名がなされたとされる[35][18]。
- 4月2日 急性心衰弱により、戸田会長が他界(享年58)。4月28日の「学会葬」で司会を務める[36]。
- 6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任[36]。
- 6月2日 第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務め、全国で249万票を獲得、無所属で立候補した創価学会員6人を当選させる[36]。
- 6月30日 同じ参謀室の北条浩、龍年光と共に「創価学会」の理事に就任。青年部参謀室長からは降りる[36]。
会長就任以降
- 5月3日 戸田の没後3年を経て、32歳の若さで創価学会第3代会長に就任。戸田の7回忌までに300万世帯の信徒獲得と邪教撲滅[37][38][39]を目標に掲げる。(この当時140万世帯だった創価学会は、池田の指導の下、10数年後には、公称800万世帯[40]を超える国内最大規模の宗教団体となる)。
- 10月 北・南米を訪問し、現地の創価学会員を激励。
- 5月3日 創価学会の「文化部」を「文化局政治部」に挌上げし、「文化局」内に「政治部」を設置[7]。
- 8月24日 最初の『会長講演集』を発刊。
- 11月27日 「文化局」内の「政治部」を解消し、創価学会本部の外郭団体として「公明政治連盟」を発足(委員長:原島宏治、副委員長:北条浩、書記長:龍年光)[7]。
- 5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。
- 宗門から法華講総講頭に任命される。
- 11月17日 「公明政治連盟」を改組して政党、「公明党」を結成(委員長:原島宏治、副委員長:辻武寿、書記長:北条浩)。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
- 1月29日 第31回衆議院議員総選挙で公明党が25議席を獲得し、衆議院に初進出。
- 創価学会と公明党が自身に対する批判本の出版・流通を妨害したとされる「言論出版妨害事件」により社会的な批判にさらされ、国会で証人喚問の要請がなされるが、公明党と与党、自民党の反対により実現には至らなかった。
- 5月3日 創価学会第33回本部総会において、「言論妨害というような陰湿な意図は全くなかった」と弁明しながらも、関係者や世間に対して謝罪した。また、これまでの方針を一大転換し、日蓮正宗の国教化と見られて来た「国立戒壇」を目指さないこと、創価学会と公明党を制度的に分離すること、日本共産党に対して対決姿勢を取らないことなどを表明する。
- 4月1日 創価大学を創立。
- イギリスの著名な歴史学者アーノルド・J・トインビーと対談。
- 5月29日 夫人や幹部らと共に中国を初訪問。
- 9月 ソ連を初訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。「中国を攻撃する意思はない」との答えを引き出し、それを中国の首脳に伝える承諾を得たという。
- 10月29日 平和・文化の推進のため海外での活動期間が多くなっているという理由で創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。
- 11月 中国の文化大革命を肯定的に評価した『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版(広い国土ゆえに生じる地域格差がある国を巨大な官僚機構が統治することによる弊害があったとしたものの、文革解放後の中国についての「発展性」を高く評価した)。
- 12月5日 再び訪中し、周恩来首相と会見した。
- 12月29日 作家、松本清張の仲介により、日本共産党の宮本顕治委員長と松本の自宅で密かに会談。創価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7月)。
- 創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。昭和54年(1979年)もしくは昭和65年(1990年)までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。
- 1月1日 創価学会本部に宗門に無断で模刻した本尊を安置し、導師として入仏式を行なう[42]。他の七体の模刻本尊も海外を含む各地に安置されていたことが公になり、教義逸脱の問題として内部で大きな問題となる[43]。
- 1月 創価学会の世界的組織、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。
- この頃から全国に文化会館等の施設を建設[44]。
- 創価学会の青年部が中心になって集めた核廃絶・原水爆禁止の1千万人の署名をニューヨークの国連本部で事務総長と会見し、手渡した。
- 池田と創価学会員の女性との関係を報じた月刊誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵[45]を刑事告訴。
- 8月 宮本委員長から「創共協定」を遵守するようにと、会見を申し込まれるが、拒否。公明党からの異論が大きくなり、「創共協定」は死文化する。
- 1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。寺院否定論など、独自の教義を打ち出し、創価学会独自の経本や本尊を作る(「昭和52年路線」と呼ばれる)。これに反発した宗門内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正すという活動を始める。
- 1月 池田が本尊を模刻したことが発覚[7]。
- 9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認める記事を掲載[7]。
- 11月7日 本尊模刻などの教義逸脱の責任を取る形で、幹部2千名と共に大石寺に登山を行う(おわび登山)[7]。
- 6月30日 「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明する。
- 11月7日 創価学会創立48周年記念登山代表幹部会として、2千人の創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に出向き、本尊模刻を初めとする教義逸脱を謝罪(通称「おわび登山」)。
名誉会長就任以降
- 4月24日 宗門との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。池田時代は終身制だった会長職は5年の任期と変更し、後任の会長には北条浩が就任。
- 4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束する。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。
- 5月3日 日達が創価学会第40回本部総会において、宗門の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。
- 1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。
- 6月 ルーマニアを訪問し、大統領官邸で(後に独裁者として処刑されることとなる)ニコラエ・チャウシェスク大統領と50分間に渡り会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈る[46]。
- 8月8日 「世界保健機構」を初め、国連機関への貢献が評価され「国連平和賞」を受賞[47][48]。
- 1月2日 日達の後を継ぎ、67世の法主となった 日顕により再び「法華講総講頭」に再任される。
- 7月10日 東京高裁は『月刊ペン』について、被告人である月刊ペン社の編集長隈部大蔵に対して当時の名誉毀損罪では最高額にあたる「罰金20万円」の有罪判決を下した。
宗門との決裂以降
- 11月16日 衛星放送で全国の会員に中継された創価学会第35回本部幹部会において、宗門および日顕を批判。
- 12月13日 宗門は、創価学会に対して池田のスピーチの真意を問う文章を提出したが、「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は受け取りを拒否。
- 12月27日 宗門は法華講総講頭に任期制を導入。これにより1990年末の任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失うことになる。
- ”JNN”の報道特集で、直撃インタビューされた映像が放映される。宗門との対立については、「より高い次元に行くための現象」と説明、宗門からの独立についてはきっぱりと否定する。
- 11月28日 創価学会とSGIが宗門から破門される。
- 8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。
- 創価学会独自の本尊の曼陀羅を作成し会員に配布。
- 8月8日 第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得した[49]と語ったことが、国会で問題となる[31][50][6]。
- 9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。
- 4月 『中央公論』1995年4月号において、田原総一朗と対談。14年ぶりに国内ジャーナリストのインタビューを受ける[51]。
- 11月28日 国会の宗教法人に関する特別委員会において、宗教法人法改正の問題で、池田を参考人招致しようとする自民党に対し、公明党出身の新進党議員やその秘書ら約三百人が、佐々木満委員長を委員長室に閉じ込め、 ピケを張り、座り込みをして審議再開を妨害する。
- 11月30日 創価学会の会則上では責任者ではない池田の招致は見送られ、会則上の代表者となっている秋谷栄之助会長を翌月4日に招致することで決着する。
- 12月1日 宗門の「宗規」の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。
- 6月4日 フィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領と会談。
- 創価学会は会則を変更し、初代牧口会長、第二代戸田会長、第三代池田会長の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる。
- 3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと「聖教新聞社」で会談。
- 4月末~6月にかけて、池田が重病で入院したという情報がマスメディアを書け巡る。脳梗塞や心臓病だとの憶測が飛んだが、創価学会広報室は「風邪と疲労で体調を崩した」とのコメントを出す。
- 12月 アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集したが、記事内容に多くの誤りがあった事を全面的に認め、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のガイ・マクロスキー主任副理事長の抗議文を掲載。編集部名にて訂正した。
- 3月10日 長男の博正 が創価学会の副理事長に就任。
- 9月22日 首相就任直前の安倍晋三の希望で、極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、会談を持ったと主要新聞(『産経新聞』を除く)を初め各種メディア[53]が伝えた[54][55]。
- 9月28日 小泉純一郎からの総理辞任挨拶の申し入れを受け、東京都内の聖教新聞本社で会談[56]。
- 4月12日 来日中の中国の温家宝首相と会談。日中友好を訴えた[57]首相の国会演説を「不滅の名演説だった」と讃える[58]。また、首相との対面時の発言が自身を「庶民の王者」と称したのではないかという憶測を呼び、物議を醸した(詳細は本項のエピソードの節を参照)。
略歴
- 1928年1月2日 東京都大田区に生まれる
- 1947年8月24日(19歳) 「創価学会」に入会、戸田城聖に師事
- 1949年1月3日(21歳) 「日本正学館」(戸田城聖経営)に入社・後に戸田経営の金融業「大蔵商事」に籍を移す
- 1952年5月3日(24歳) 結婚
- 1960年5月3日(32歳) 「創価学会」第3代会長に就任
- 1964年11月17日(36歳) 「公明党」発足
- 1968年(40歳) 「富士短期大学」経済学科卒業
- 1968年4月8日(40歳) 「創価学園」創設
- 1970年(42歳) 公明党と創価学会との分離を表明
- 1971年4月2日(43歳) 「創価大学」創設
- 1975年1月26日(47歳) 「SGI(創価学会インタナショナル)」初代会長に就任
- 1979年4月24日(51歳) 「創価学会」会長職を退き、名誉会長となる
- 1981年 (53歳) 「桂冠詩人」の称号を受ける(「世界詩人会議」・「世界芸術文化アカデミー」)[60]
- 1983年8月8日(55歳) 「国連平和賞」受賞
- 1985年(57歳) 「創価女子短期大学」創設
- 2001年5月3日(73歳) 「アメリカ創価大学」開学
人物
関連団体の設立
- 政党:「公明党」
- 教育機関:「創価幼稚園」(札幌、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル)、創価学園(東京、大阪、ブラジル)、創価大学(東京、アメリカ)
- 芸能・芸術関連:(財)「民主音楽協会」、(財)「富士美術館」(東京、静岡)
- 学術関連:財団法人「東洋哲学研究所」、「戸田記念平和国際研究所」
- 財団:「牧口記念教育基金会」
執筆
随筆、小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆している。[61][62][63][31][64]また、写真家・詩人としても活動している。
人間革命は創価学会を描いた小説で、2代目会長戸田が書いていたのを引継ぎ、『聖教新聞』紙上に、1965年から1993年まで連載。続編の『新・人間革命』を1993年11月18日から現在まで同新聞に連載中。いずれも山本伸一のペンネームで発表している。
2007年3月7日にリリースされたアグネス・チャンの新曲『そこには 幸せが もう生まれているから』の作詞を手がけた(山本伸一名義、作曲はアグネス・チャン)。
対談・講演
国家指導者を初め、教育者、文学者、科学者、芸術家、社会活動家などと会見を多数行なっている。[65][4]また、海外の大学・学術機関で講演を多数行なっている。
顕彰
国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を華々しく飾る。2007年10月20日現在において、受賞した名誉称号は223ある(名誉学術称号内訳:名誉博士107 名誉教授101 名誉学長3[66][67])。
批判者からは、それらの賞は寄付や経済援助などによる見返りであり、自らの権威づけに利用しているものだとして批判されている[68]。また、多くの元創価学会幹部も、これらの受賞の裏には寄付行為をはじめとするさまぎまな金権工作が存在していると語っている[69]。 これらの勲章、名誉称号は中国の大学から授与されることが多い。このことについて、池田や創価学会を親中派に取り込み、日本の世論形成に影響を与えようと画策している中国政府の意向が働いているという指摘もある[70]。近年は外国の大学[71]より「名誉博士号」を授与されることが多いが、日本の大学からは創価大学(創立者は池田大作自身)を除き、授与されていない[72]。日本では静岡県の富士宮市の名誉市民となっている他、第2代会長、戸田城聖の故郷の北海道の厚田村(現「石狩市」)から「栄誉村民章」(1977年)を授与されている[73]。ちなみに当の富士宮市民からは、「名誉市民条例」を廃止し、池田に対する名誉市民称号も取り消すべきという声も上がっているという[69]。
台湾・台南県が池田へ「名誉県民」の称号を授与した[74]際、同県政府文化局の会議が批判で紛糾。蘇煥智(そかんち)台南県長が「強硬な要求によって、授与してしまった」と釈明し謝罪に追い込まれる出来事があった[75]。
「平和活動」
創価学会系のメディアでは池田が精力的に平和活動をしていると度々報じられている。その主な内容は上述したような著名人との対談や諸外国の大学等での講演等である。
批判者側からは、池田が平和活動をしているとアピールするのは池田に「ノーベル平和賞」を取らせるための戦略だとの見方がなされることがある。一方で池田自身は「ノーベル平和賞」について、「そのような栄誉はほしくもありません。また下さるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもいいでしょう」と語っている[76]。
政見
公明党に関して
1976年11月16日に、「天下を取れることが少し私には見えて来た。天下を取らない党ならやる必要はない、私が控えているから心配するな」など公明党議員と記念撮影において述べた[6]。
その他の政見
- 安全保障
- 「憲法改正の論議はいいが、憲法第9条だけは絶対に変えてはいけない。」との見解を持っている[77]日本は国連の常任理事国入りを望んでいるが、安全保障理事会の機軸である集団的自衛権という考えと、それを禁じる日本の憲法との間には矛盾があるので、「国際連合平和維持活動」(PKO)に参加するために、自衛隊とは別個の組織を作るというのが正しい道であろうと思う」との見解を示した(1991年・第16回「SGIの日」記念提言)。1991年の湾岸戦争の直前には、5人の識者と共に、「戦争回避のための『緊急アピール』」をイラクのフセイン大統領宛に送ったが、「イラク戦争」の開戦が迫っていた2003年1月26日の「SGIの日」を記念しての『聖教新聞』紙上の提言では、「軍事力を全否定するということは(中略)政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」、「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。そうした毅然たる姿勢がテロへの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」と武力行使を容認する見解を示した。
- 選挙
- 1999年 SGI(創価学会インタナショナル)の日(1月25日)付けの『聖教新聞』で首相公選制を提言。
- 早くから「外国人参政権」を認めるべきだと主張してきており[78]、創価学会を支持母体とする公明党も積極的に推進しているが、そもそもは、韓国の大統領金大中と池田大作との間で、在日コリアンに地方参政権を与えることの見返りに、創価学会(韓国SGI)の韓国内での布教を認めるという密約があったとも言われる[79][80]。
- 教育
- 『朝日新聞』(2001年5月23日付)の「私の視点」というコラムで、「教育基本法」の見直しについて、「拙速は慎むべきである」、「『教育勅語』に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまう」と述べている。
歴史観
豊臣秀吉の朝鮮出兵を、朝鮮から仏教を初め、様々な文化的恩恵を受けたことを踏みにじる侵略だとして強く非難している[81]。日本が大恩を受けた朝鮮を裏切ったのは、心理的には“劣等感の反転”があるとしている[82]。
太平洋戦争中に、広島、長崎の二都市がアメリカから原爆投下を受けたことについて、日本が日蓮正宗・創価学会を弾圧し、正法を誹謗(謗法)した「報い」であるとしている[83]。
池田本仏論
池田が創価学会会長となった1960年以降、内部で池田会長を仏であるかのような指導や主張があるとの指摘がなされ[84][85]、内外から論議を呼んだ。
1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している[86]。
1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。
マスメディアとの関係
テレビなどのマスメディアに登場しない為、写真以外で見たことのある外部の人間は殆どいない。池田について報道することはタブーとされていると見られている。テレビ局によっては、国会で池田名誉会長のことが取り上げられても、取り扱わなかったり、名前を伏せることもある[87][62] 。
公明党が連立政権入りした1999年の前後から新聞を初めとする各種メディアに池田のインタビューや記事が掲載されるようになった[88][89]。批判者らの間ではこれを、創価学会の豊富な資金を背景に、創価学会系列のメデイアの印刷を委託することにより、批判を封じ、礼賛記事を書かせるメディア戦略であると批判している[90][91][92][93]。
創価学会と関わりのない国民にとっては長らくテレビで見ることのない「謎の人物」的な存在であったが、2007年には約14年ぶりに、各局のニュースで温家宝と会談する池田の姿が見られた[94]。
関係する人物や団体
- 安倍晋太郎 1985年、大石寺の正本堂完成記念の祝典に岸信介の代理で安倍晋太郎が出席して以来、何度も面会したという。「きれいな心で学会のこと、世界のことなど私と話し合うことを楽しみにして下さったようである」と池田は述べている[95]。
評価
- 冬柴鐵三(公明党元幹事長の衆議院議員、国土交通大臣):「人生で最も影響を受けた人物」として池田大作の名を挙げ、「あらゆる面で影響を受けた」と語っている[96]。
- 遠藤乙彦(元外交官、公明党所属の衆議院議員):「人生に関するどんなことでも相談して、教えを受けられる先生」、「池田先生の思想・仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっと(世界の)問題が解決していくでしょう」などと語っている[97]。
- 蘇歩青(そ・ほせい 復旦大学名誉教授):「日本人に、桁違いの大人物がいる。それが池田先生だ」(『聖教新聞』 2006年5月7日付)。1984年6月9日、池田を同校の名誉教授とした。
批判
- 田中角栄(元首相、自民党元幹事長):秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」と語ったという[8][98]。
- ポーリー・トインビー(アーノルド・J・トインビーの孫娘):「池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。」と語った[99]。
- 石原慎太郎:東京都知事選挙を直前に控えた1999年3月、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」と答えた[100]。
世間からの攻撃や批判について、池田は「古今東西を問わず、歴史に残る人物は、みな迫害の連続です。そのなかで鍛え抜いて、精神的・肉体的に強靭な自分をつくっています。」、「(攻撃や批判は)ない方がいいに決まっているが、それをバネにして、どう自分を鍛えるかを考えたほうが利口だ」という旨を語っている[4]。
批判する立場になった元幹部たち
- 龍年光(元創価学会幹部・元公明政治連盟書記長・元公明党東京都議会議員)[101]
- 藤原行正(元公明党東京都議会議員)[102]
- 原島嵩(元創価学会教学部長)[103]
- 山崎正友(元創価学会副理事長・元顧問弁護士)[104]
- 竹入義勝(公明党元委員長)[105]
- 矢野絢也(公明党元委員長)[106]
- 福島源次郎(元創価学会副会長)[107]
- 石田次男(元公明党参議院議員)[108]
- 大橋敏雄(元公明党衆議院議員)[109]
エピソード
- 1969年、『月刊宝石』紙上での「話せるなァ、会長は!」と題する青島幸男との対談において、「もし、それだけの理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認めます。」と述べた。池田の女性スキャンダルを書いた『月刊ペン』を告訴した裁判の中で、最高裁の裁判長はこの発言に言及し、「学会幹部の男女問題に疑惑を感じていた者らにとってはやはりそうであったかと思わせる素地につながっていることも否定し難いのである。」と述べた。(最高裁判所 第一法廷1981年4月16日)
- 2001年、「スイス銀行」が個人預金を扱わなくなったため、池田大作が自分名義の個人預金をニューヨークとブラジルの銀行にそれぞれ、6000億円、4000億円と振り分けたことで、1兆円の個人資産を「スイス銀行」に預けていたことが判明した[112]。
- 2007年4月12日、来日した中国の温家宝首相と会談。会談の冒頭5分間を報道陣に公開した。要人との会談を公にするのは極めて異例であるが、創価学会は「日中関係改善に向け役割を果たしていることを、国民に理解してもらいたかったため公開した」と説明した。池田がマスコミに姿を表したのは14年ぶりである。
- テレビ朝日系の「スーパーJチャンネル」は、池田が温首相に「閣下、光栄です。うれしいです。政治家でなくて庶民の王者と会ってくだ××(語尾が不明瞭)。庶民は大事です」[113]と話しかけた[114]場面に「政治家でなくて庶民の味方である私と会ってくださって」(「報道ステーション」では「庶民の代表」)とのテロップを流した。このことで池田が自らを「庶民の王者」と称したものと解釈され、反発を買った。また、そう解釈した者たちは、世間から池田が問題視されないように実際の発言を修正する捏造報道をしたとしてテレビ朝日を批判した[58]。
家族
- 父 子之吉(ねのきち):生涯、真言宗の信仰を持ち続けた[115]。
- 母 一(いち)[11]
- 兄 4人の兄がおり、長兄はビルマ(現:ミャンマー)で戦死[116]。
- 妻 香峰子(かねこ)「インド創価池田女子大学」名誉校長。「創価世界女性会館」名誉館長。「創価女子会館」名誉館長。
- 長男 博正:創価学会副理事長。
-
次男(著名活動をしていないので名前は伏せる):1984年10月 29歳で急逝。
- 三男 尊弘: 創価学会の総東京組織の副総東京長。
著書
- 『人間革命』 聖教新聞社
- 『新・人間革命』 聖教新聞社
- 『私の履歴書』 日本経済新聞社
- 『若き日の日記』
- 『忘れ得ぬ同志』 聖教新聞社
- 『心に残る人びと』 角川書店
- 『法華経の智慧』 聖教新聞社
- 『アレクサンドロスの決断』 集英社
- 『青春対話』 聖教新聞社
- 『母の詩』 聖教新聞社(発行部数120万部のベストセラー)
ほか
共著
- 『二十一世紀への対話』(共著:A.J.トインビー)文藝春秋社
- 『人生問答(上・中・下)』(共著:松下幸之助)潮出版社
- 『社会と宗教』(共著:B・ウィルソン)講談社
- 『人間主義の大世紀を―わが人生を飾れ』(共著:J.K.ガルブレイス)潮出版社
- 『太平洋の旭日』(共著:P.エイルウィン)河出書房新社
- 『吉川英治 人と世界』(共著:土井健司、志村栄一)六興出版
- 『世界市民の対話』(共著:N.カズンズ)毎日新聞社
- 『21世紀の精神の教訓(上・下)』(共著:M.S.ゴルバチョフ)主婦の友社
脚注
- ^ 池田本人によれば、親から「太く大きく丈夫に育ってもらいたい」との願いをこめて「太作(たいさく)」と名づけられる。自然と「ダイサク」と読まれるようになるが、「太作」を「ダイサク」とは読みにくいので、「大作」に改名したという。
- ^ a b 池田大作 『私の履歴書』 聖教新聞社 1993年4月
- ^ 池田自身によれば名誉会長の職は名誉職ではなく、創価学会の会則としては「信心指導」「布教」「会員の擁護・育成」の役目があるという。そして、創価学会の基本方針は会長を中心とした中央会議や総務会が決めるという。SGI会長としては日本も含めて全世界の会員の指導・育成・布教、全般に関与するという。
- ^ a b c 田原総一朗 『戦後五十年の生き証人』 (中央公論社 1996年4月)に収録された 池田大作と田原総一朗の対談
- ^ 1995年の国会で、当時、創価学会の会長であった秋谷栄之助は池田名誉会長の位置づけを「信仰の指導の上の指導者」と説明した。
- ^ a b c 第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第8号 平成7年(1995年)12月4日
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 古川利明 『シンジケートとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年11月20日) ISBN 978-4807499243
- ^ a b c 新「創価学会」を斬る【第7回】(『週刊新潮』2003年12月18日号)
- ^ a b c 『月刊ペン』1976年5月号(月刊ペン社)
- ^ a b c d e 小口偉一(編)『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房 1956年
- ^ a b 創価学会の公式ウェブサイトでは父母の名前をこのように記しているが、池田大作や両親の名前、本名、国籍などについては諸説があって明らかではない。
- ^ a b 溝口敦『池田大作 権力者の構造』 三一新書(1972年3月)、講談社(2005年9月)
- ^ a b 『週刊宝石』(1996年4月号)
- ^ a b c d 年譜・池田大作編集委員『年譜・池田大作』 第三文明社(1981年、1989年3月、1995年3月)
- ^ 創価学会機関誌『大白蓮華』(2000年3月号)での池田大作談
- ^ 「協友会」は東大出身の経済学者が主導していた20名ほどの青年グループであり、文化・芸術・政治・経済・哲学などを研究していた
- ^ a b c 『財界』(1967年8月1日号)
- ^ a b c d e 『フォーラム21』21号(2003年1月1日)
- ^ 加盟業者への社会保険の指導と業界内の連絡などの仕事を任される。
- ^ 池田を誘った女性の妹やその場に立ち会った元幹部などは、創価学会側の文献がこの座談会で池田が戸田と会い、即興の詩を読んだとしていることなどは事実と違うと語っている。
- ^ a b 「私の見た「池田大作」の実像1-龍年光氏(その1)」 『フォーラム21』21号(2003年1月1日)
- ^ 『聖教新聞』昭和32年(1957年)10月18日付
- ^ 創価学会機関紙『聖教新聞』(1957年)
- ^ a b 『朝日新聞』(1965年2月)「新人国記」
- ^ 創価学会の会長になった後、富士短大からの勧めで卒業論文を提出し、退学から20年になる1968年に経済科の卒業が認められた。
- ^ 創価学会元教学部長の原島嵩によれば、「大蔵商事」は高利回りを謳い文句に資金を調達し、それを個人(ほとんどは学会員)に貸し付ける。池田は資金調達や取立てに殊腕を振るったという。
- ^ 特集/徹底比較―武富士・武井保雄と創価学会・池田大作 『フォーラム21』(2004年1月1日)
- ^ 当時の『聖教新聞』の名刺広告に「大蔵商事」の幹部としての肩書きが載っている。『週刊新潮』平成15年(2003年)12月18日号
- ^ 『随筆 人間世紀の光』「師弟正義の目黒」(『聖教新聞』 2004年3月27日付)
- ^ 戸田が日蓮正宗を外護するため創価学会の宗教法人化の必要性を強く主張し、宗門から「折伏した人は信徒として、各寺院に所属させること」、「日蓮正宗の教義を守ること 」、「三宝(仏・法・僧)を守ること」の3か条を守るという前提で承諾され、東京都はそれを創価学会の「設立の目的」に明記することで例外的に宗教法人として認証した。そのような経緯から、創価学会が宗門から破門されたことで宗教法人としての資格を失ったのではないかという指摘が一部である。
- ^ a b c 創価学会「宗教法人規則」変更の認証の取り消し求め龍年光氏が異議申し立て 『フォーラム21』34号(2003年7月15日)
- ^ 戸口浩 『創価学会の真実――「地涌正統」からの通信』(日新報道 1992年4月)P200
- ^ 1954年6月6日付の『聖教新聞』によれば、「情報部」は池田会長の目となり耳となって、各支部各地区の状況や社会各層の動きを把握すべき任があるとされている。
- ^ (『朝日新聞』1957年7月29日付夕刊)
- ^ 『人間革命』12巻では戸田から「あとはお前だ。頼むぞ」とエレベーターの中で後継指名がなされたとされるが、池田の入信に関わった当時の関係者は事実関係が違うと語っている。
- ^ a b c d 古川利明 『システムとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年10月25日) ISBN 978-4807499229
- ^ 池田は会長就任の際に「西の天理教・東の立正佼成会を討て」と会員に指導した。
- ^