石原慎太郎
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石原慎太郎 いしはら しんたろう |
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| 生年月日 | 1932年9月30日(75歳) |
| 出生地 | 兵庫県神戸市須磨区 |
| 没年月日 | |
| 死没地 | |
| 出身校 | 一橋大学法学部 |
| 前職 | {{{前職}}} |
| 現職 | {{{現職}}} |
| 所属政党 | 無所属(1995 - ) 自由民主党(1968 - 1995) |
| 称号・勲章 | |
| 世襲の有無 | {{{世襲の有無}}} |
| 親族(政治家) | {{{親族(政治家)}}} |
| 配偶者 | |
| サイン | [[画像:|128px]] |
| 公式サイト | 宣戦布告 |
| 内閣 | |
| 選挙区 | |
| 当選回数 | 3回 |
| 就任日 | 1999年4月23日 |
| 退任日 | |
| 退任理由 | |
| 所属委員会 | {{{所属委員会}}} |
| 議員会館 | {{{議員会館}}} |
| 元首 | |
| 内閣 | 竹下内閣 |
| 選挙区 | |
| 当選回数 | |
| 就任日 | 1987年11月6日 |
| 退任日 | 1988年12月27日 |
| 退任理由 | |
| 元首 | |
| 内閣 | 福田赳夫内閣 |
| 選挙区 | |
| 当選回数 | |
| 就任日 | 1976年12月24日 |
| 退任日 | 1977年11月28日 |
| 退任理由 | |
| 元首 | |
| 内閣 | |
| 選挙区 | |
| 当選回数 | 8回 |
| 就任日 | |
| 退任日 | |
| 退任理由 | |
| 元首 | |
| 内閣 | |
| 選挙区 | 比例区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 就任日 | |
| 退任日 | |
| 退任理由 | |
| 元首 | |
| その他の職歴 | |
| その他の職歴 | |
| 文学 |
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石原 慎太郎(石原愼太郎、いしはら しんたろう、1932年(昭和7年)9月30日 - )は、日本の政治家、小説家。東京都知事(第14・15・16代)。
参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。
俳優石原裕次郎は実弟。家族は妻と4男(政治家石原伸晃・俳優石原良純・政治家石原宏高・画家石原延啓)。
目次 |
[編集] 概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。身長は181cm。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。在学中の1956年に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となるなど、日本にブームを巻き起こした。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。現在は芥川賞の選考委員を務めている。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。
ベトナム戦争を見て、1968年に参議院議員に出馬・初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自由民主党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自由民主党総裁選挙に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如辞職を表明して衆議院議員を辞職。
1999年、再度、都知事選に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、当選した。2003年には、史上最高の得票率で再選。
2007年には石原の都政私物化疑惑への批判という逆風の中、佐々淳行を選挙対策本部長に迎え、「ソフト路線」への転換(安藤忠雄や野口健らが支持を訴えるポスターを作成)と実績をアピールしての選挙戦を展開。元宮城県知事の浅野史郎ら他の候補を圧倒的な差で下し、三選を決めた(→2007年東京都知事選挙)。
知事に就任以降、毎年欠かさず8月15日に靖国神社へ参拝している。
政治家としての活動とともに執筆活動も継続し、『「NO」と言える日本 −新日米関係の方策−』(盛田昭夫と共著)、『弟』はミリオンセラーとなった。産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
最近では大東亜戦争時の特攻隊員達を描いた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』で製作総指揮兼脚本を手がけている。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。
[編集] 略歴
- 1932年9月30日:兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜に生まれ旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退後山下汽船に入社、店童(商店で言えば丁稚)から出発し関連会社とはいえ重役に出世した人物。母・光子は広島県宮島の出身(出生地は大阪)。なお石原自身は神奈川県を出身地としている[1]。
- 1934年12月:弟・裕次郎が生まれる。
- 1936年6月:父・潔が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
- 1943年2月:父・潔が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸[2]。
- 1945年4月:神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年:1年間、休学する。この頃描いた絵を「ゴーギャンさえも驚愕する名作である」と自賛。公式サイト内では「石原の迸る感受性の果実」と紹介している。
- 1951年10月:父・潔が脳溢血で急死。父の上司の助言により公認会計士を目指し一橋大学を志望する[3]。
- 1952年4月:一橋大学法学社会学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いてないと悟り公認会計士になることを断念する[4]。
- 1955年12月:当時18歳だった石田由美子(広島市己斐町(現・西区己斐)生まれ。後に典子と改名)と結婚。由美子は小泉純一郎(元首相)と縁戚になる[5]。
- 1956年1月23日:『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞。史上最年少受賞(当時)。ベストセラーとなり、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となる。
- 1956年3月:一橋大学法学部を卒業[6]。学位は法学士。
- 『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・石原裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たす。
- 1957年4月19日:長男・伸晃が誕生。
- 1958年:東宝で映画「若い獣」の監督を務める。
- 1962年1月15日:二男・良純が誕生。
- 1963年3月:『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年6月19日:三男・宏高が誕生。
- 1966年:四男・延啓が誕生。
- 1967年:読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
- 1968年7月:第8回参議院議員通常選挙に自由民主党から出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。
- 1969年11月:『スパルタ教育』を光文社より出版。 子供はスパルタのように厳しく育てろと説いた。
- 1972年12月:参議院議員を辞職し衆議院選挙に東京2区から無所属で出馬して当選。後に自由民主党に復党。
- 1973年7月:渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
- 1975年4月:現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自由民主党推薦で出馬。233万票を得票するも落選[7]。
- 1976年:衆院選で国政に復帰(対立候補に大内啓伍加わる)。福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
- 1981年:弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から自衛隊機で帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年:自由民主党の派閥、自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ。
- 1983年:黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。
- 1987年7月17日:弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(52歳)。
- 1987年11月:竹下登内閣で運輸大臣に就任。
- 1989年8月:亀井静香らに推される形で自由民主党総裁選挙に出馬するも経世会が推す新政策研究会の海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
- 1990年:総選挙で伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年4月:国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 1996年:弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年4月:再度、都知事選に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
- 2003年4月:308万票(得票率史上最高)を得て、東京都知事に再選。
- 2004年:「弟」テレビドラマ化。
- 2006年5月14日:フジテレビの討論番組「報道2001」に生出演し、「オリンピック招致を言い出した以上、やらないわけにはいかない。それまで体力がもつかなあ」と発言し、2007年4月の都知事選への三選出馬の意向を示した。
- 2006年12月7日:都議会本会議で2007年の都知事選への出馬を正式表明。
- 2007年2月16日:記者会見で既に決定している自民党の推薦を受けるつもりがないと発言。
- 2007年4月8日:投票の過半数にあたる281万票を得て、東京都知事に三選。
[編集] 作家としての活動
一橋大学在学中、弟・裕次郎の放蕩生活に想を得た『太陽の季節』を発表し、1956年1月に第34回芥川賞を受賞した。
[編集] 映像作家としての活動
- 1958年東宝映画『若い獣』で初監督を務める。
- 以降『狂った果実』『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『処刑の島』『秘祭 HISAI』などの多くの映画、TVドラマで脚本を担当している。
- 2007年5月「俺は、君のためにこそ死ににいく」を発表した。窪塚洋介主演の神風特攻隊に取材した映画である。石原が制作、指揮、脚本を手がけた。
[編集] 政治家としての活動
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。
右派・新保守主義的政治家と言われる場合と、国粋主義者・新保守主義者の代表的存在と言われる事がある。とりわけ中華人民共和国・中国共産党・北朝鮮・朝鮮労働党に対して厳しい。
[編集] 天皇・君が代に対する姿勢
天皇に関しては、「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」[8]と過去に発言したことがある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を仰ごうとするなど、天皇ないし皇室の置かれた地位の特殊性に対する慎重な配慮を欠いた言動を行なうことがある。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある。[9]また、2008年2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する地対空誘導弾パトリオットミサイルPAC3を皇居前広場で展開すべき、との見解を示し話題となった。
毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答える。しかし、のちに都知事として、文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。この処分に関しては東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしている[10]。
天皇の靖国神社参拝を期待する発言を行なう一方、いわゆるA級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えている[11]。
[編集] 障害者に対する発言
1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
これらの「人格あるのかね」、「西洋人なんか(は)切り捨てちゃう」、「安楽死につながる」などの発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している[12]。
東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。
石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。
[編集] 在日外国人・諸文化に対する発言問題
在日朝鮮人を始めとする在日外国人やフランス語、及びそれらの文化を否定・揶揄する発言をしばしば行い、しばしば排外主義的な態度を示す。2005年の国連人権委員会ではディエヌ特別報告者(セネガル)から「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか、説明を求めたい」と苦言を呈されている[13]。
1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、栗原秘書は現行犯逮捕された[14]。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている。
2000年4月9日の陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」[15]と発言し、三国人という言葉が一部で問題とされた。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している[16]。
2001年5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張[17]。中国人が凶悪犯罪を起こす民族性を持つとした上、これを遺伝的であるかのように発言したことが、民族差別発言として批判された。政治問題には発展しなかった。
2003年11月2日、TBS「サンデーモーニング」が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。この放送に石原側は抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないため、石原側は刑事告訴を行った。その結果、名誉棄損容疑でTBSの社員ら4人が東京地検に書類送検された[18]。また視聴者側からも回答すらしないTBSの姿勢から発言の意図的な捏造を疑う声がある。この問題では関係者4名が書類送検されたが、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。
2004年10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などとフランス語やその関係者を揶揄する発言を行ったため、フランス語教育関係者らが抗議の会見を開いたこともある。
2005年には、石原都知事がフランス語を侮辱する発言をしたとして石原知事個人に謝罪と慰謝料を求めて訴訟を起こしている。その裁判の中で知事側が「都知事としての公的発言だった」と主張したため、東京都に対しても2007年3月19日にはフランス語学校長のフランス人のほか、カナダ人や日本人ら計74人が謝罪広告と1人当たり5万円の慰謝料を求め提訴している[19]。
韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている[20]。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人」と罵倒した。
[編集] 移民「賛成」
移民の受け入れについては『大賛成』との立場をとり、アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである、と主張している[21]。
[編集] 「ニート」・フリーターに対する見解
「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです。」[22]「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ。」[23]「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは。」[24]との見解を示している。
田中良都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います。」として過去の自身の発言とは矛盾する見解を示した[25]。
[編集] ジェンダー・性について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です [26]」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」[27]という発言をし、裁判に発展したが、最高裁で石原が勝利をおさめている(いわゆるババァ発言事件)。
性の問題については勃起したペニスを用いて障子紙に穴を開けるというシーンが登場する『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、自著「国家なる幻影」で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行い、その女性に自身のブリーフを記念にプレゼントするなど、自由な性行為を行っている。都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない[28]。
[編集] 震災に対する発言問題
2007年4月8日の都知事選で当選が決まった直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論を行った。反論を受けた石原は4月27日の定例会見では「ちょっと数字は違ったかもしれない」と今までとは異なる曖昧な態度を取り出し、更に「佐々さんの受け売りなので、彼に聞いてほしい」と知事選の選対本部長も務めた佐々淳行元内閣安全保障室長への責任転嫁ともとれる発言に終始した[29]。
また、選挙中の3月26日には、能登半島地震について、「震度6の地震がきた。ああいう田舎ならいいんです」「東京ならかなりの被害が出ただろう」と嘲っていたという[30]。
[編集] 諸国に対する見解
[編集] 台湾
都知事就任後も数回に渡り台湾への渡航を行う他、各種行事への参加も行うなど、“中国共産党による一党独裁国家である”中華人民共和国への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、中国との対立の下、議会制民主主義制度を保つ台湾[31]に対しては非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている。また、中国との間に国交を樹立し台湾との国交を断絶(「一つの中国」論)した日本政府の姿勢に対しても批判的である。
一方、台湾総統大戦において国民党の馬英九は台北市長時代の性風俗の取り締まりの厳しさやパフォーマンス的な言動から台湾の石原慎太郎と民進党支持者から揶揄されている(2008年3月20日新聞台新聞夜視界)。
[編集] 中国
中国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる。」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについては「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」[32]と発言をしている。しかし、その反中の姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする可能性が高い(中国はアジアやアフリカの一部の発展途上国に強い影響力を持つ)という指摘がある[33]。
日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。
在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した[34]。
2008年1月、中国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件:毒入り餃子事件に関して、「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中国当局を名指しで批判した[35]。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の“六番目の星”になるだろう」と発言している[36]。
[編集] 北朝鮮
北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な発言を繰り返し、北朝鮮に対してはタカ派の好戦的な姿勢を取る。Webキャスターの草薙厚子によれば、『朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね』との発言を1998年に行ったという[37]。
2002年にはニューズウィークのインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容―モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したという―について語り、これを『国家の国民に対する責任を示している』とし、『私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す』と、そして『アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる』と述べている[21]。
[編集] 米国
日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎、江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした[38]。
政治家となって以降は、日米安保は支持するものの、日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。これは湘南中学時代に受けたアメリカ軍兵士からの暴力が原因しているとされる。
[編集] 諸団体との関係
[編集] 霊友会
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する。[39]自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」には連載を持っている。[40]霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎とは対談を行っている。[41]また、2002年には霊友会の新年会では挨拶を行っている。[42]
[編集] 創価学会及び公明党
公明党は自由民主党と並んで事実上石原都政の与党であり、都議会では石原の提案に100%賛成を示している。[43]2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている[44]。
1999年の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた[45]。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。
[編集] 「戸塚ヨットスクールを支援する会」
「戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指す[46])に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」という主張を産経新聞のコラム(『日本よ』)や自らの公式サイト上で公開している。
[編集] 崇教真光
石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において対談を行っている30ページの記事がある[47]。
長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露するなど、家族ぐるみの付き合いが明らかになっている。[48]また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている[49]。
[編集] 新党構想
中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰され、国民的な知名度の高さも手伝って、一時は中央政界のキーマンと目されていたこともあった。かつての自民党総裁選の折、自派閥の領袖であり総裁立候補者でもあった中川一郎が自ら票集めに奔走する傍らで、参謀役であるべきはずの石原自身は裏で福田派との連携を模索するなどの過去の一連の反派閥的行動が災いして、中央政界内での人望が薄いことでも有名となり、事実、中川没後に中川派を継承はしたものの、派をまとめきれずにたちまち空中分解した(石原派は福田派に吸収)。
[編集] 東京都知事としての活動
財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減(シルバーパス(敬老パス)の全面有料化や、寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止、障害者医療費助成の対象を縮小など)を行ったが、一方では「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億もの都税を投入した新銀行東京の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。一方で、都財政に数千・数百億の損失をもたらすこととなった政策(新銀行東京の設立や臨海副都心開発など)や、中途半端な段階のまま進行がみられなかったり断念した政策(カジノ構想など)がある。
登庁は就任から2007年まで週に2~3日程度で、午後数時間だけの出勤も多い[50][51]。秘書部門でさえ、不在時にはどこで何をしているのか把握し切れていないという。そのため、実質的な政務は副知事に任せることが多く、特に浜渦副知事(2005年7月に偽証で辞任)は都知事の威光を背に絶大な力を振るっていた[52]。
知事公館は利用していない(民間に貸し付け)。自身や特別秘書らが飲食代として使った知事交際費の総額が7年間で約1615万円に達したり[53]、四男をめぐる問題などの疑惑もある。
「外国人による犯罪の増加」を主張し、警察官を大量に雇用した。これにより新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した。また、警察官OBを再雇用し、かつ元警察官僚、竹花豊を副知事に任命した[54]。
首都大学東京・新銀行東京・大江戸線・心の東京革命など、作家の感覚からネーミングを提案している。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
都知事として二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、知事3期目は東京オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。
2007年6月15日、猪瀬直樹を副知事に起用すると正式に発表した。猪瀬は東京DC特区構想(山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す)を提案し、2016年オリンピックの東京への誘致にも懐疑的であるなど主張が異なっている。石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。
猪瀬の副知事就任は6月27日都議会で共産党以外全ての政党議員の賛成多数により可決され、6月28日に猪瀬は正式に副知事に就任した。知事・副知事共に現職の作家という史上例を見ない組み合わせである。
[編集] 浜渦副知事の重用と辞任
浜渦武生は石原の衆院議員時代の公設秘書であり、自民党タカ派議員グループ青嵐会の裏方も務め、その肝煎りで副知事に就任した。石原自身の登庁が週2~3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンで行った。また、意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は『知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”』『恐怖独裁』としてメディアにより批判された[55]。 2005年3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦副知事が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、2005年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦副知事の偽証を認定した。2005年6月2日の都議会では浜渦副知事の問責決議が可決され、2005年7月には副知事を辞職した。
石原知事は浜渦副知事が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた[56]。石原知事は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの」と肯定的な見解を示している[57]。
石原知事は定例記者会見で浜渦副知事を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げた。また、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した[58]。 また、浜渦は度々暴力事件を起し、問題になっていたが、石原は「(殴り合いなど)男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね。」とむしろ暴力行為を容認する発言をした[59]。
[編集] 政党との関係
東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党であり、民主党や社民党なども選挙前には批判ポーズをとるが通常はいわゆるオール与党である。また、自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っている。
3期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。同年2月22日の都議会において都知事は手打ちとして、都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした。[60]
また、石原は2007年3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった。[61]
[編集] 情報公開
全国市民オンブズマン連絡会議による2006年の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった(他の失格自治体は香川県のみ)。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている[6]。東京都のこの調査における失格評価は石原都政となる以前も含み、2007年まで10年連続である。石原都知事は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのは、とんちんかん」と反論している[62]。
[編集] 主要な政策
[編集] 新銀行東京
詳細は新銀行東京を参照。
石原の発案で東京都が2003年、「東京発金融改革」と銘打ち、『資金調達に悩む中小企業を救済すること』を理念として設立した銀行である。石原の独断で作られたため石原銀行とも呼ばれている。
2008年3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している[63]。さらに、2005年4月から2008年1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が回収見込みの立たない不良債権化している。同銀行の再建について石原は、「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針としているが、産経新聞や読売新聞も社説で銀行廃止を求めており、さらに与党自民党も含め都議会も増資に反対しており、2008年1月11日の都議会では「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」と追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張している。
世論調査では都民の7割以上が反対していたが、石原は「都民が議会以上のことを知っているわけないんでね」として400億円もの税金を投入しての銀行再建を都議会で自民、公明両党の賛成多数で可決させた。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した1000億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。
[編集] 都立高校改革
1967年の学校群制度導入以来、東京大学を始めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでいた都立高等学校に対して、2001年に横山洋吉教育長(のち東京都副知事)により「進学指導重点校」が設けられた。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これにより「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校の特色化を打ち出す中で、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年には第二号として国立・立川・青山が追加された。2003年には学区制度を完全撤廃、2005年には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年には10校まで増える予定である(桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹)。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校ごとの特色化を推進。また、需要の少なくなった定時制や職業科の廃統合も行った。
[編集] 福祉改革
「何が贅沢かといえば、まず福祉」[64]と主張して、石原都知事主導で福祉に関連する「福祉改革」(社会保障費の削減・合理化)が行われた。1999年から2004年までに以下の政策により福祉予算を661億円削減した。[65]
- シルバーパス(敬老パス)の全面有料化
- 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
- 障害者医療費助成の対象を縮小
- 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円(85%)削減
- 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
- 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算(一般会計総額6兆1,720億円)全体に占める割合は11.5%となっている[66]。
[編集] 米軍基地返還
米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地(赤坂プレスセンター、ハーディバラックス)が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求しているが、現在までにあまり進展はみられていない。
[編集] 外形標準課税
一定規模以上(資金量の残高が5兆円以上)の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した(いわゆる銀行税)。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1~4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。
敗訴により、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829億円に留まった。税収を増やすための税導入だったが、現実には還付加算金123億円を銀行側に支払うだけの結果となり本来の目的としては失敗した。
[編集] カジノ構想
税収を増やすためにお台場カジノ構想を提案していたが、国会による法改正を必要とするので、実現見通しが立たず2003年に正式に断念を発表(日本においては、公営競技およびスポーツ振興くじ以外は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。
