石原慎太郎
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いしはら しんたろう
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石原 慎太郎(2006年)
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| 生年月日 | 1932年9月30日(76歳) |
| 出生地 | 兵庫県神戸市須磨区 |
| 出身校 | 一橋大学法学部 |
| 所属政党 | 無所属(1995 - ) 自由民主党(1968 - 1995) |
| 公式サイト | 宣戦布告 |
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| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1999年4月23日 - |
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| 内閣 | 竹下内閣 |
| 任期 | 1987年11月6日 - 1988年12月27日 |
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| 内閣 | 福田赳夫内閣 |
| 任期 | 1976年12月24日 - 1977年11月28日 |
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| 当選回数 | 8回 |
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| 選挙区 | 旧全国区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 石原 慎太郎 | |
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| 活動期間 | 1956年 - |
| 主な受賞歴 | 第34回芥川龍之介賞 |
| 処女作 | 太陽の季節 |
| 芥川賞選考委員 | |
石原 慎太郎(旧字体表記は石原 愼太郎、いしはら しんたろう、1932年(昭和7年)9月30日 - )は、日本の政治家、小説家。東京都知事(第14・15・16代)。
参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。
俳優の石原裕次郎は実弟。家族は妻と4男(内訳は政治家の石原伸晃・タレントの石原良純・政治家の石原宏高・画家の石原延啓)。
目次
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[編集] 概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
大学在学中の1956年に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 −新日米関係の方策−』(盛田昭夫との共著)、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選し、以後連続8回当選。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で都知事選に自民党推薦で出馬し落選(1975年東京都知事選挙)。その後1976年に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如辞職を表明して衆議院議員を辞職。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補の中、当選する(1999年東京都知事選挙)。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選。2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り再選(三選)。
都知事に就任以降、毎年欠かさず8月15日に靖国神社へ参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg、血液型AB。
[編集] 年譜
- 1932年9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜に生まれ、旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退後山下汽船に入社、店童(商店で言えば丁稚)から出発し、関連会社とはいえ重役に出世した人物[1]。母・光子は大阪に生まれ、広島県宮島、神戸で育った。なお石原自身は神奈川県を出身地としている[2]。
- 1934年12月28日 - 弟・裕次郎が生まれる。
- 1936年6月 - 父・潔が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
- 1943年2月 - 父・潔が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸[3]。
- 1945年4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1951年10月 - 父・潔が脳溢血で急死。父の上司の助言により公認会計士を目指し一橋大学を志望する[4]。
- 1952年4月 - 一橋大学法学部に入学[5]。柔道部、サッカー部に入部する。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いてないと悟り公認会計士になることを断念する[6]。
- 1955年12月 - 当時18歳だった石田由美子(広島市己斐町(現・西区己斐)生まれ。後に典子と改名)と結婚。由美子は小泉純一郎(元首相)と縁戚になる[7]。
- 1956年1月23日 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞。史上最年少受賞(当時)。ベストセラーとなり、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となる。
- 1956年3月 - 一橋大学法学部を卒業。学位は法学士。
- 『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・石原裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たす。
- 1957年4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年 - 東宝で映画「若い獣」の監督を務める。また、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
- 1962年1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年 - 四男・延啓が誕生。
- 1967年 - 読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
- 1968年7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自由民主党から出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男3位上田哲であり、ライバル関係になっている。
- 1969年11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年12月10日 - 参議院議員を辞職し衆議院選挙に東京2区から無所属で出馬して当選。後に自由民主党に復党。
- 1973年7月 - 渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
- 1975年4月13日 - 現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
- 1976年 - 衆院選で国政に復帰(対立候補に大内啓伍加わる)。福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
- 1981年 - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から自衛隊機で帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年 - 自由民主党の派閥、自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ。
- 1983年 - 黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。
- 1987年7月17日 - 弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(52歳)。
- 1987年11月6日 - 竹下登内閣で運輸大臣に就任。
- 1989年8月8日 - 亀井静香らに推される形で自民党総裁選に出馬するも経世会が推す新政策研究会の海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
- 1990年2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙で伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年4月14日 - 国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 1996年 - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年4月11日 - 再度、都知事選に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
- 2003年4月13日 - 308万票(得票率史上最高)を得て、東京都知事に再選。
- 2004年11月17日~11月21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年4月8日 - 投票の過半数にあたる281万票を得て、東京都知事に三選。
[編集] 作家として
一橋大学在学中、弟・裕次郎の放蕩生活に着想を得た『太陽の季節』を発表し、第34回芥川賞を受賞。他の主な著作に、『化石の森』(芸術選奨文部大臣賞)、『生還』(平林たい子賞)、『弟』(毎日文学賞特別賞)などがある。文学作品以外でも『スパルタ教育』『「NO」といえる日本』などのベストセラーを執筆・刊行している。
芥川賞選考委員を長年務めているが、作品に対し批判的な選評であることが多く、川上未映子の『乳と卵』受賞の際には全選考委員の中で石原のみが作品の内容を全否定し、他の選考委員から遠まわしの表現ではあるが苦言を呈されたことがある。
映像作家としては1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。以降『狂った果実』『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『処刑の島』『秘祭 HISAI』などの多くの映画、TVドラマで脚本を担当している。2007年5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
[編集] 東京都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京(石原銀行とも)の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
また、警察官の増員、警察官僚竹花豊の副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した[9]。
2007年には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想(山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す)を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現職の作家というのは異例の組み合わせである。
[編集] 主要な政策
[編集] 新銀行東京
詳細は「新銀行東京」を参照
石原の発案で東京都が2003年、「東京発金融改革」と銘打ち、『資金調達に悩む中小企業を救済すること』を理念として設立した銀行である。“石原銀行”とも呼ばれている。
2008年3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している[10]。さらに、2005年4月から2008年1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が回収見込みの立たない不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針としているが、石原氏に好意的な産経新聞や読売新聞さえも社説で銀行廃止を求めており、さらに与党自民党も含め都議会も増資に反対しており、2008年1月11日の都議会では「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」と追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張している。
世論調査では都民の7割以上が反対していたが、石原は「都民が議会以上のことを知っているわけないんでね」として400億円の税金投入による銀行再建を都議会で自民、公明両党の賛成多数で可決させた。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣に賠償を請求せよと都に求める住民訴訟を起こしている。
[編集] 都立高校改革
1967年の学校群制度導入以来、東京大学を始めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでいた都立高等学校に対して、2001年に横山洋吉教育長(のち東京都副知事)により「進学指導重点校」が設けられた。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これにより「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校の特色化を打ち出す中で、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年には第二号として国立・立川・青山が追加された。2003年には学区制度を完全撤廃、2005年には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年には10校まで増える予定である(桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹)。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校ごとの特色化を推進。また、需要の少なくなった定時制や職業科の廃統合も行った。
[編集] 福祉改革
「何が贅沢かといえば、まず福祉」[11]の主張に基づき、石原都知事主導で「福祉改革」(社会保障費の削減・合理化)が行われた。1999年から2004年までに以下の政策により福祉予算を661億円削減した[12]。
- シルバーパス(敬老パス)の全面有料化
- 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
- 障害者医療費助成の対象を縮小
- 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円(85%)削減
- 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
- 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
石原都知事主導で、『利用者指向の「開かれた福祉」』を目的として下記のとおり「東京都福祉改革推進プラン」が行なわれている[13]。
- 利用者が「選択」するために必要なサービスの質と量の確保
- 安心して「選択」できるためのしくみづくり
- 利用者指向のサービス実現のための「競い合い」の促進
- 「地域」の力と特性を活かした身近なサービスの提供
- 社会の変化に合わせた一歩先の福祉を構想
平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算(一般会計総額6兆1,720億円)全体に占める割合は11.5%となっている[14]。
[編集] 米軍基地返還
米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地(赤坂プレスセンター、ハーディバラックス)が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。
[編集] 外形標準課税
一定規模以上(資金量の残高が5兆円以上)の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した(いわゆる銀行税)。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1〜4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。
敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。
[編集] カジノ構想
税収を増やすためにお台場カジノ構想を提案していたが、国会による法改正を必要とするので、実現見通しが立たず2003年に正式に断念を発表(日本においては、公営競技およびスポーツ振興くじ以外は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。
[編集] 首都大学東京
設立前後の経緯と大学の詳細については首都大学東京を参照
「まったく新しい大学をつくる」と公約、東京都立大学の改編により2005年に設立された大学である。
一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した[15]。
石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して(COEの)金がでなくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している[16]。
[編集] ディーゼル車排ガス規制
ディーゼル車の実態と法規制についてはディーゼル自動車を参照
青島都政の政策を引き継ぎ、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行った(環境確保条例)。東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せたパフォーマンスは環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる[17]。しかし、CO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという見方もある[18]。
関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅にも注力している。
[編集] 羽田空港再拡張事業
2010年10月完成・供用開始を予定して工事が進む羽田空港の四本目の滑走路(D滑走路)は、親友の亀井静香が政調会長時代に、石原と亀井とで計り、当時の運輸省をほとんど脅して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだもの[19][20]。
[編集] 臨海副都心開発
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
[編集] 首都機能移転に反対
詳細は「首都機能移転」を参照
首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している[21]。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には石原の意向により首都という言葉が組み込んだ首都大学東京が採用された。2001年11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は(同決議の際に)起立していた」と指摘された[22]。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した[23]。
[編集] 東京オリンピック構想
「東京オリンピック構想」も参照
2016年夏季オリンピックの東京都での開催を目指し、招致活動を進めている。2006年8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、今後3年間でさらに3000億円積み立てると表明している。
「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げている[24]。
開催都市が決定する2009年に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任をとらなきゃいかんでしょうね」と発言している[25]。
2008年6月には徳仁皇太子に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは……」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた[26]。この発言は都議会民主党に7月、「64年東京、72年札幌、98年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。“一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、“皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない”なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている[27]。
また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言している[28]。
[編集] 三宅島オートバイレース大会
2000年に発生した三宅島火山の噴火による観光客減少への対策として、イギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、日本初となる一般道路を使用した本格的なオートバイレースを三宅島で開催することを提唱した。レースは東京都と三宅村が主催し、2007年11月9日から11月11日に開催が予定されていたが、「公道でスピードを競うのは危険すぎる」との意見が本田技研工業など二輪大手4社から続出し、中止が決定した。都は、専門家による検討経費などに4000万円、都道改修に3億円を2007年度予算に計上していた。結局、三宅村では代替イベントとしてチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルを開催することを発表している。
東京都が2006年に三宅島で実施したテスト走行に参加したプロレーサー3人のうち2人が報告書で危険性を指摘し、公道レースの開催に反対を表明していることが2007年2月23日の都議会で明らかになっており、バイクレースの専門家からも「殺人レースだ。絶対にやめるべし」と批判されていることに対し、石原は「レースは危険があるからエキサイトする。ある程度ライダーの自己責任もある」として同レースを強行する姿勢を示していた[29]。また、三宅島は現在も火山ガスが噴出しており航空路は再開していないため、観光客誘致の起爆剤となるのかは未知数、と報じるメディアもあった[30]。石原知事は観光客や機材の輸送には海路を用いる考えを示していた[31]。
[編集] 築地市場移転計画
石原は、中央区築地にある築地市場を、施設の老朽化やアスベスト問題のため、2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしている。しかし、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。関係者は「生鮮食品を扱う市場の移転先としては論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって移転反対運動を行っている。
石原は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」として移転計画を変更するつもりはないとし、移転後の跡地は招致活動を行っている2016年東京オリンピックのメディアセンターとする構想を明らかにしている[32]。
また、石原は2006年9月8日の定例記者会見において築地市場跡地に「NHKが移転する」発言し波紋を広げたが、NHKは「そんな計画はない」と完全否定している[33]。
2007年10月6日には、東京都は移転予定の豊洲において調査した56カ所のうち14カ所で有害物質のベンゼンが基準値の1000倍の値で検出されたと発表した[34]。
[編集] 参議院議員宿舎建て替えに反対表明
詳細は「議員宿舎#参議院議員宿舎」を参照
都心部である千代田区紀尾井町に残るわずかな緑の空間を候補地にした、参議院による新清水谷議員宿舎建て替えに反対を表明した。宿舎立て替えは2009年1月現在まで着工には至っていない。
[編集] 都立霊園再開発
谷中霊園や青山霊園など、使用料の払われていない無縁墓地を整理・除去し、空いたスペースを2003年より新たな貸付スペースとしている。併せて、霊園内の再開発の理由も相まって、舗道の敷石の撤去、前述の新たな貸付スペース確保の理由と合わせて大木など木々の伐採が進み、さらに側溝板の設置などにより、そこを寝床等にしている周辺の小動物などに影響が出ている。また、無縁墓地の改葬には外人墓地は含まれないことになり、日本人墓地だけが対象となっている。
[編集] 選挙公約
- 選挙公約(1期目)
- 都が主導の債券市場にYES
- 踏切のない東京にYES
- 健康を損なう排ガスにNO
- 福祉に立ちはだかる規制にNO
- 借金漬けの財政にNO
- 横田返還にYES
- 首都移転にNO
- 住みやすい東京にYES
- 命が守れない危機管理にNO
- 新しい道徳教育にYES
- 選挙公約(2期目)
- 安心・安全の確保、都市の再生から始める「都民福祉の充実」
- 中小企業の能力を引き出す「新しい銀行を創設」
- 都民、国民の健康を損なう「大気汚染を解消」
- 利用者から高い評価を受けている「認証保育所を大増設」
- これまでの日本にない「まったく新しい大学を実現」
- 千客万来の「観光都市を実現」
- 雇用促進のため、利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
- 都庁の一層の合理化と「第二次財政再建に着手」
- 選挙公約(3期目)
- 環境革命の続行
- 子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
- 都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
- 神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
- 2016年に東京オリンピックを招致
- 高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
- 都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
- 公立小中高校グラウンドの芝生化
[編集] 浜渦副知事の重用と辞任
「浜渦武生」も参照
石原は衆議院議員時代の公設秘書で青嵐会の裏方も務めた浜渦武生を副知事に就任させた。石原自身の登庁が週2〜3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンでおこなった。意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は「知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”」「恐怖独裁」として共産党などから批判された[35]。 2005年3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、2005年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。
石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた[36]。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している[36]。
石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した[37]。 また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「(殴り合いなど)男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している[38]。
[編集] 浜渦の天下りと再雇用
浜渦は副知事辞任直後の2005年9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。
石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し[39]、2006年7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。
[編集] 政党との関係
東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党である。民主党や社民党、生活者ネットなども通常はいわゆるオール与党であり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。ただし2007年の知事選以降、民主党などは距離を取ることも増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めていった。
石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っている。
3期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした[40]。
また、石原は2007年3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった[41]。
[編集] 情報公開
全国市民オンブズマン連絡会議による2006年の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった(他の失格自治体は香川県のみ)。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている[7]。東京都のこの調査における失格評価は石原都政となる以前も含み、2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのは、とんちんかん」と反論している[42]。
[編集] 不透明な政策・私物化疑惑
[編集] トーキョーワンダーサイトと四男
詳細は「トーキョーワンダーサイト#石原慎太郎一家による私物化疑惑」を参照
東京都の若手芸術家支援事業トーキョーワンダーサイトを2002年に設立。石原都政下では既成の都文化施設に対する予算の減額とは対照的に、ワンダーサイトのみが別格として増額されているが、芸術家としては無名の四男・石原延啓を重用したり、家族や知人を運営に参画させるなど、事業計画・予算決算の不透明な点について公私混同の疑いを指摘されている[43]。
[編集] 海外出張旅費
2006年11月、資料が入手できた15回の石原の海外出張旅費の総経費が2億4000万円を超えることが明らかになった。海外出張の回数は1999年の就任から2006年までに19回と多く、その目的のほとんどが、オリンピック、マラソン、観光などで、石原の個人的関心にもとづき計画されたものだった。
- 南米エクアドルのガラパゴス諸島への出張(2001年6月)では、206万円もかけて最高級の宿泊施設を備えた大型クルーザーで諸島を見物し、その際石原だけで、約450万円の経費がかかった。ロンドン及びマン島出張(2006年5-6月)に関してはオリンピックに関する調査は実質約1時間半で、マン島でのオートバイレース見物を含め、3600万円の費用がかかった。
- 石原の海外出張は東京近県の知事の海外出張と比べても桁違いに高額となっており、他県では一回あたり200万円余から800万円程であるのに対し、東京都は平均2000万円に上った。
これらはしんぶん赤旗2006年11月16日号の調査によって暴露され、各種メディアでも"都政の私物化"として批判された。
石原は「僕は(視察先の)宿舎について注文を付けたことはない。特にワシントンはホテル代が高い。規定を上回る場合、事前に人事委員会で許可をもらっている」と説明し、各党からの代表質問で「国内外問わずこれからもどんどん出て行く」との姿勢を明らかにした。
| 年 | 訪問地 | 日数 | 費用(万円) |
| 99 | 中華民国(台北市以外) | 3 | 不明 |
| 00 | 中華民国(台北) | 4 | 不明 |
| 00 | マレーシア | 5 | 不明 |
| 01 | スイス | 6 | 不明 |
| 01 | エクアドル | 11 | 1444 |
| 01 | アメリカ | 7 | 2161 |
| 02 | シンガポール | 4 | 564 |
| 02 | アメリカ | 7 | 1701 |
| 02 | インド | 9 | 2267 |
| 03 | アメリカ(ハワイ) | 5 | 978 |
| 04 | スイス・フランス | 9 | 2815 |
| 04 | 中華民国(台北市) | 4 | 226 |
| 04 | アメリカ | 10 | 2136 |
| 04 | 中華民国(台北市など) | 5 | 123 |
| 04 | インドネシア・ベトナム | 8 | 2202 |
| 05 | 中華民国(台北市) | 4 | 398 |
| 05 | アメリカ | 8 | 2263 |
| 05 | 中華民国(台北市) | 5 | 1504 |
| 06 | イギリス | 7 | 3574 |
1999年〜2001年の4件については情報が保存されておらず、不明。
[編集] 新銀行東京
新銀行東京は本来の目的である中小企業向け融資が1225億円で貸出金全体の約52%にとどまるなど、設立目的が揺らいでいる。また、融資の大半が三男・石原宏高の地盤である品川区と大田区の企業に集中していたことから、身内の選挙対策との疑いも持たれている[44]。石原は設立当時の記者会見(2003年5月)では、貸し倒れが多くなった場合の都税投入の可能性について「公私混同であり幼稚・粗雑・週刊誌的発想」と否定していたが、2008年には都税400億円が経営再建のために出資された。
[編集] 官官接待
私的な飲食に公費を流用したとして、2000年6月から2003年12月まで78件の飲食費支出は違法だとして計1,194万円の返還を求め、葛飾区の市民団体が知事を提訴していた。
判決が違法支出として認定したのは、2003年6月、東京都中央区築地の高級料亭で石原、棚橋都参与ら8人の会食計341,992円、2003年3月石原、特別秘書・高井英樹、民放テレビプロデューサーの3人が中央区銀座の割烹料理店で行った会食計58,065円の計約34万1000円の飲食費を支出した2件である。78件中67件は住民監査請求の期限が過ぎているとしたり、残りの9件については棄却した。2007年1月30日、東京地方裁判所の鶴岡稔彦裁判長は2件分の計約40万円については「社会通念を逸脱する違法な支出にあたる」と認定し、石原と特別秘書に対し同額を都に返還するよう命じた[45]。原告側は請求が容認されなかった残件について控訴したが東京高等裁判所は1件のみを認める判決に変更。また最高裁判所(中川了滋裁判長)も2009年5月20日、原告の上告を不受理とした[46]。
[編集] 現金2000万円受け取り疑惑
石原が元衆院議員や支援者ら計3人(糸山氏、水谷氏、埼玉県の石材業者T氏)が用意した現金2000万円を受け取りながら、政治団体の政治資金収支報告書に記載していなかったとして、都内の男性らが、石原と資金管理団体の会計責任者を務める特別秘書の2人について、政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を提出している。
石原は料亭で元衆院議員らと会食したことを認めているが、現金については「疑惑は一切ない」と全面的に否定し[47]、宴席に同席した糸山英太郎も「作り話」としている。
一方、同じく同席した水谷建設元会長の水谷功は『週刊朝日』(2006年12月29日号)のインタビュー取材で金銭授受について「直接はやってない。Aさん(=女性経営者)が用意してた」と、女性経営者が500万円を立て替えたことを認め、2000万円の金銭授受についても「その話は聞いた」「(石原は)そりゃ、感謝してたわな!」「(宴席後は)みんな上機嫌だった」と、疑惑をほぼ肯定するような証言をおこなっている。
[編集] 東京マラソン
石原主導で2007年から始まった東京マラソンに関して、次男・石原良純がフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。良純は今回の出演を依頼される以前に石原から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ。」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている[48]。石原が良純に協力を依頼した後にフジテレビ出演が決まったことから、石原とフジテレビの関係に疑問を呈する見方があった[49]。
[編集] 選挙対策と見做された花粉症対策ポスター
2007年に入ってから、"STOP花粉"という文字と石原の写真が大きく写った花粉症対策のポスター5万2000枚が、都内23区と全ての市町村に配布された。東京都森林課により製作され、デザイン、印刷等に要した費用は227万円である。石原は都庁における花粉対策会議の席上「自分ができることをしたい」と積極的な姿勢を示し、15の図案から自身の顔が一番大きく写っている図の採用を決めた。
この「顔写真ポスター」に対し、中央区など7つの区や町内会が、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがあるとして、掲示板への掲載を拒否していたが、残りの16区や町内会は問題がないとして掲載していた[50]。
[編集] 政治姿勢・発言
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。
石原は右派・新保守主義的政治家、あるいは国粋主義者・新保守主義者の代表的存在と呼ばれる事がある。日本国内のメディアから「極右」と呼ばれることはほとんどないが、海外では「極右政治家」として認識されることがある。例えば、韓国の中央日報からは「極右政治家の代表」[51]、オーストラリアのABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン」[52]と呼ばれている。また、日本共産党の機関紙・『しんぶん赤旗』によれば、フランスの報道機関からは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト」と呼ばれている[53]。
[編集] 天皇・君が代に対する姿勢
天皇に関しては、「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」[54]と過去に発言したことがある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある[55]。また、2008年2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3を皇居前広場で展開すべきとの見解を示した。
毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。しかし、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った[56]。
天皇の靖国神社参拝を期待する発言を行なう一方、A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えている[57]。
[編集] 障害者に対する発言
1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している[58]。
東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。
石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。
[編集] 在日外国人・諸文化への態度
在日朝鮮人を始めとする在日外国人、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。
1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である栗原俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された(黒シール事件)[59]。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている。
詳細は「黒シール事件」を参照
2000年4月9日の陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」[60]と発言し、三国人という言葉が一部で問題とされた。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している[61]。2001年5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張[62]。中国人が凶悪犯罪を起こす民族性を持つとし、これを遺伝的であるかのように発言したことが、民族差別発言として批判された[誰に?]。政治問題には発展しなかった。2003年11月2日、TBS『サンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないため刑事告訴に踏み切った。その結果、名誉棄損容疑でTBSの社員ら4人が東京地検に書類送検された[63]。また視聴者側からも回答すらしないTBSの姿勢から発言の意図的な捏造を疑う声がある。この問題では関係者4名が書類送検されたが、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。2004年10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などと発言。フランス語教育関係者らによる訴訟に発展した[64]。韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている[65]。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人」と非難した。
[編集] 移民「賛成」
移民の受け入れについては『大賛成』との立場をとり、アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである、と主張している[66]。
[編集] 「ニート」・フリーターに対する見解
派遣村問題に関して国に苦言を呈した[67]。また、収容施設の充実を指示し、逆に「東京は対応がいいのに、なぜこの県は対応が悪いのだ」と言われる県もあった。「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです。」[68]「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」[69]「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」[70]との見解を示している。田中良都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と発言[71]。ネットカフェ難民についても否定的な意見を持っており、2008年10月3日の定例会見では、「山谷に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんていうのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているというのはマスコミの偏向だと主張した[72]。この発言に関して台東区長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている[73]。
[編集] ジェンダー・性について
「ジェンダーフリー#反対・否定派の主張」も参照
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です [74]」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」[75]という発言をし、裁判に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。
詳細は「ババア発言」を参照
性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、『国家なる幻影』で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど、自由な性行為を行っている。都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない[76]。
[編集] 震災に対する発言
2007年4月8日の都知事選で当選が決まった直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論を行った。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「佐々さん(=佐々淳行)の受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言[77]。また、選挙中の3月26日には、能登半島地震について、「震度6の地震がきた。ああいう田舎ならいいんです」「東京ならかなりの被害が出ただろう」と発言したという[78]。
[編集] 東京中央郵便局建替問題に関して
鳩山邦夫総務大臣が東京中央郵便局建物の文化財的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないことだとして、建物の一部を保存した現行の建替え案を容認する考えを示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める都市計画決定を行った[79]。
[編集] 諸外国に対する見解
[編集] 中華民国
中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある議会制民主主義国家である中華民国(台湾)に対しては非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている。都知事就任後も数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加している。また、中華人民共和国との間に国交を樹立し中華民国との国交を断絶した日本政府の姿勢(「一つの中国」論)に対しても批判的である。
なお、2008年中華民国総統選挙において国民党の馬英九は台北市長時代の性風俗の取り締まりの厳しさやパフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と民進党支持者から揶揄された[80]。
[編集] 中華人民共和国
中華人民共和国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについては「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」[81]と発言していた。その反中の姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする可能性が高い(中華人民共和国は、ODAを元にアジアやアフリカの一部の発展途上国に影響力を持つ)という指摘もあったが[82]、実際には、中華人民共和国の招待に応じて開会式に出席した。感想として「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね。」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、 (大学生は)とっても親切で礼儀正しくてね。」「やっぱり、それはね、いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね。」さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べ、今までの反中姿勢を変えたのではないかと思われるほどの高評価をした。日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した[83]。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件:毒入り餃子事件に関して、「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した[84]。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の“六番目の星”になるだろう」と発言している[85]。
[編集] 北朝鮮
北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの草薙厚子によれば、1998年に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという[86]。2002年には『ニューズウィーク』のインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容(モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている[66]。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を泉田裕彦新潟県知事や上田清司埼玉県知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち達増拓也岩手県知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「民主党代表の小沢一郎さんの出身地である岩手の知事にはご参加いただけませんでしたが……どうしてだかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した[87]。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた[88][89]。
[編集] 米国
日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎、江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした[90]。 政治家となって以降は、日米安保は支持するものの、日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。
[編集] 南アフリカ共和国
1984年6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった[91]。同議連には40人が参加し、南アフリカ共和国で実施されていたアパルトヘイト政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、レアメタルなどの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。アパルトヘイト政策の撤廃後にBBCが行ったインタビュー内で、BBCの女性インタビュアーから日本南ア友好議員連盟に所属していた理由を尋ねられた際、手元の水を彼女に浴びせてインタビュー会場から立ち去っている。
[編集] 諸団体との関係
[編集] 霊友会への入信
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する。[92]自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている[93]。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている[94]。また、2002年には霊友会の新年会で挨拶を行っている[95]。
[編集] 創価学会批判と公明党支持
公明党は自由民主党と並んで事実上石原都政の与党である。[96]2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている[97]。
1999年の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた[98]。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる[99]。
[編集] 戸塚ヨットスクールを支援
「戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する[100])に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」という主張を産経新聞のコラム(『日本よ』)や自らの公式サイト上で公開している(実際は医学的な証明がされた事実はない。cf.疑似科学)。
[編集] 崇教真光の代表との家族ぐるみの付き合い
石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において対談を行っている30ページの記事がある[101]。
長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露するなど、家族ぐるみの付き合いが明らかになっている。[102]また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている[103]。
[編集] 新党構想
中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰され、国民的な知名度の高さも手伝って、一時は中央政界のキーマンと目されていたこともあった。しかし1982年の自民党総裁選で、自派閥の領袖であり総裁立候補者でもあった中川一郎が自ら票集めに奔走する一方、参謀役の石原は裏で福田派との連携を模索するなど、過去の反派閥的行動により、中央政界内での人望が薄いことでも有名である。石原は中川没後に中川派を継承したが派をまとめきれず、石原派は福田派に吸収された。
[編集] 家族 親族
- 実家
- 自家
[編集] 系譜
- 石原家
- 石原家の先祖について佐野眞一の著書『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28-30頁によると、石原家は潔の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)が、服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入り家を再興したという。慎太郎の父・潔は信直の三男である。佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている[104]。潔は警察官だった父・信直の人事異動に伴って愛媛県各地を転々とし成長したという。
小泉又次郎━━芳江
┃
┣━━━━━┳小泉純一郎━━┳小泉孝太郎
┃ ┃ ┃
小泉純也 ┗小泉正也 ┗小泉進次郎
┃
┃
┏石田重蔵━━石田吉之輔━━━美枝子
┃
┃
┗石田光治━━典子
┃
┣━━━━━━┳石原伸晃
┃ ┃
石原潔━┳石原慎太郎 ┣石原良純
┃ ┃
┃ ┣石原宏高
┃ ┃
┃ ┗石原延啓
┃
┗石原裕次郎
┃
まき子
[編集] 著書
- 太陽の季節 新潮社、(1956年芥川賞受賞・1955年文学界新人賞受賞)のち新潮文庫 ISBN 4101119015
- 北壁 三笠書房 1956
- 狂った果実 新潮社、1956 のち角川文庫
- 日蝕の夏 三笠書房 1956
- 理由なき復讐 三笠書房 1956
- 青春にあるものとして 河出書房, 1956
- 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫
- 完全な遊戯 新潮社、1958 のち角川文庫
- 完全な遊戯
- 若い獣
- 乾いた花
- 鱶女
- ファンキー・ジャンプ
- 狂った果実
- 海の地図 角川書店 1958 のち文庫
- 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958
- 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4101119023
- 月蝕 角川書店、1959 のち文庫
- 夜を探がせ 光文社 1959 のち角川文庫
- 男の掟 角川書店 1959
- 乾いた花 文芸春秋新社 1959
- 殺人教室 新潮社 1959 のち角川文庫
- 青年の樹 1-2 角川書店 1959-60 のち文庫
- これが恋愛だ 講談社 1960
- 南米横断一万キロ 講談社 1960
- 挑戦 新潮社 1960 のち文庫
- 見知らぬ顔 新潮社 1960
- 青い糧 講談社 1961
- 汚れた夜 新潮社 1961 のち集英社文庫
- 死んでいく男の肖像 角川書店 1961
- 雲に向かって起つ 第1-2 集英社 1962
- 禁断 角川書店 1962 のち文庫
- 断崖 新潮社 1962
- 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 新潮社 1963
- 日本零年 文芸春秋新社 1963 のち角川文庫
- 密航 新潮社 1963
- てっぺん野郎 青雲編 集英社 1963
- 死の博物誌 新潮社 1963
- 石原慎太郎文庫 全8巻 河出書房新社 1964-65
- 行為と死 河出書房新社 1964 のち新潮文庫
- てっぺん野郎 昇竜編 集英社 1964
- 銀色の牙 講談社 1964 のち角川文庫
- 傷のある羽根 文芸春秋新社 1964
- 終幕 集英社 1964 のち文庫
- 青春とはなんだ 講談社 1965 のち角川文庫
- 命の森 読売新聞社 1965 のち角川文庫
- 星と舵 河出書房新社 1965 のち新潮文庫
- おゝい、雲! サンケイ新聞出版局 1965 のち角川文庫
- 砂の花 新潮社 1965
- 人魚と野郎 集英社 1965 のち角川文庫
- 大いなる海へ 集英社 1965
- 還らぬ海 講談社 1966
- 飛べ、狼 講談社 1966
- 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫
- 青い殺人者 集英社 1966 のち文庫
- 野性の庭 河出書房 1967
- 黒い環 河出書房新社 1967
- 青春との対話 番町書房 1967(人生のことば)
- 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967
- 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫
- 祖国のための白書 集英社 1968
- 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫
- プレイボーイ哲学 集英社 1968(プレイボーイ・ブックス)
- 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社, 1969
- 鎖のついた椅子 新潮社 1969
- スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969(カッパ・ホームス)
- 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
- いかに国を守るか 羽仁進、藤原弘達 日新報道 1970
- 慎太郎の政治調書 講談社 1970
- エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文芸春秋 1970
- 化石の森(芸術選奨文部大臣賞受賞)新潮社 1970 のち文庫
- 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971
- 男の世界 集英社 1971
- 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫
- 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972(カッパ・ホームス)
- 信長記 河出書房新社 1972
- 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973
- 石原慎太郎短編全集 新潮社 1973
- 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973
- 男の海 集英社 1973
- 対極の河へ 河出書房新社 1974
- 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文芸春秋 1975
- 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975(カッパ・ホームス)
- 風の神との黙約 北洋社 1975
- 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976
- 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976
- 大いなる手との黙約 文芸春秋 1976
- 情熱のための航海 大和出版 1976(わが人生観)
- 光より速きわれら 新潮社 1976
- 刃鋼 文芸春秋 1976 のち角川文庫
- 暗闇の声 光文社 1977
- 嫌悪の狙撃者 中央公論社 1978 のち文庫
- 型破りで勝つ! ロバート・J.リンガー(訳)三笠書房 1978.12
- 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979
- 一点鐘 集英社 1979
- 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫
- 大いなる海へ 舵社 1983(海洋文庫)
- 秘祭 新潮社 1984 のち文庫
- バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984
- 暗殺の壁画 河出書房新社 1984
- 流砂の世紀に 新潮社 1985
- 現代史の分水嶺 文芸春秋 1987 のち文庫
- 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987(カッパ・ホームス)
- 生還(平林たい子賞受賞)新潮社 1988 ISBN 4103015055
- 「NO」と言える日本(共著:盛田昭夫)光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4334051588
- それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題-(共著:渡部昇一・小川和久)光文社,1990,ISBN 433405174X
- 不思議な不思議な航海 白泉社 1990
- わが人生の時の時 新潮社 1990 のち文庫
- 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫
- 光速の時代に PHP研究所 1991
- 十代のエスキース 成瀬書房 1991
- 来世紀の余韻 中央公論社 1991
- 断固「NO」と言える日本(共著:江藤淳)光文社 1991 ISBN 4334051847
- 三島由紀夫の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4103015071
- 禁断の島へ 加納典明、大津善彦写真 集英社 1992
- 遭難者 新潮社 1992
- かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994
- 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
- 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4087740595
- わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 408774163X
- 亡国の徒に問う 文芸春秋 1996 のち文庫
- 肉体の天使 新潮社 1996
- 弟(毎日出版文化賞特別賞受賞)幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4877281193
- “父”なくして国立たず 光文社 1997 ISBN 4334971504
- 宣戦布告「NO」と言える日本経済 ―アメリカの金融奴隷からの解放 一橋総合研究所共著 光文社 1998 ISBN 4334971903
- 法華経を生きる 幻冬舎 1998 のち文庫 ISBN 4877282718
- 国家なる幻影 わが政治への反回想 文藝春秋 1999 のち文庫
- 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4877283064
- 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
- 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
- この日本をどうする 再生のための10の対話 文藝春秋 2001 のち文庫
- いま魂の教育 光文社 2001 ISBN 433497225X
- 生きるという航海 海竜社 2001 のち幻冬舎文庫
- 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
- 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 416320380X
- 東京の窓から日本を 1-3 文春ネスコ 2001-03
- わが人生の時の人々 文芸春秋 2002 のち文庫 ISBN 4167128098
- 老いてこそ人生 幻冬舎 2002 のち文庫 ISBN 4344403827
- 日本よ 扶桑社 2002 のち文庫
- 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
- 惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦 扶桑社 2004
- 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
- 息子たちと私―子供あっての親 幻冬舎 2005 のち文庫 ISBN 4344010647
- 日本よ、再び 産経新聞出版 2006
- 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007(以下が収録作品。括弧の数字は収録巻)
- 刀鋼(はがね)(1)ISBN 4166415808
- 化石の森(2)
- 亀裂(3)
- 死の博物誌(3)
- 星と蛇(4)
- 風についての記憶(4)
- 行為と死(5)
- 暗殺の壁画(5)
- 光より速きわれら(6)
- 秘祭(6)
- 生還(7)
- 弟(7)
- わが人生の時の時(8)
- 短編集Ⅰ『太陽の季節』『完全な遊戯』(9)
- 短編集Ⅱ『遭難者』(10)
- 東京の窓から世界を 対談集 PHP研究所 2007 ISBN 4569646565
- オンリー・イエスタディ 幻冬舎 2008
- 生きる自信 健康の秘密、石原結實と対談 海竜社 2008
- 私の好きな日本人 幻冬舎 2008
- 火の島 文藝春秋、2008
[編集] 関連作品
[編集] 映画
- 太陽の季節(1956年、原作・出演)
- 処刑の部屋(1956年、原作)
- 狂った果実(1956年、脚本・原作・出演)
- 日蝕の夏(1956年、脚本・原作・出演)
- 婚約指輪(1956年、脚本・原作・出演)
- 月蝕(1956年、原作)
- 危険な英雄(1957年、出演)
- 穴(1957年、唄・出演)
- 俺は待ってるぜ(1957年、脚本)
- 錆びたナイフ(1958年、脚本・原作)
- 霧の中の男(1958年、脚本・原作)
- 死の壁の脱出(1958年、脚本)
- 若い獣(1958年、監督・脚本・原作)
- 完全な遊戯(1958年、原作)
- 海は狂っている(1959年、脚本・原作)
- 海の地図(1959年、原作)
- 海底から来た女(1959年、脚本・原作)
- 夜を探がせ(1959年、原作)
- 青年の樹(1960年、原作)
- 接吻泥棒(1960年、原作・出演)
- トップ屋を殺せ(1960年、脚本)
- 愛と炎と(1961年、原作)
- 青い狩人(1961年、原作)
- 雲に向かって起つ(1962年、原作)
- 禁断(1962年、原作)
- 二十歳の恋(1962年、監督・脚本)
- 素晴らしい悪女(1963年、原作)
- 狼の王子(1963年、原作)
- 小さな冒険旅行(1963年、原作)
- 乾いた花(1964年、原作)
- 敗れざるもの(1964年、原作)
- おゝい雲!(1965年、原作)
- 青春とはなんだ(1965年、原作)
- 処刑の島(1966年、製作・脚本)
- これが青春だ!(1966年、脚本監修)
- 男なら振りむくな(1967年、原作)
- 復讐の歌が聞える(1968年、脚本・原作)
- 狂戀詩 Summer Heat(1968年、原作)
- 野蛮人のネクタイ(1969年、原作)
- スパルタ教育 くたばれ親父(1970年、原作)
- 化石の森(1973年、原作)
- 青年の樹(1977年、原作)
- 秘祭(1998年、脚本・原作)
- 俺は、君のためにこそ死ににいく(2007年、製作総指揮・脚本)
[編集] テレビドラマ
- 深夜のメス(1957年、原作)
- 幽霊と宝石と恋(1958年、原作)
- 見知らぬ顔(1959年、原作)
- この情報を買ってくれ(1959年、脚本)
- 分身(1960年、脚本)
- 降霊(1960年、脚本)
- 怒りの果実(1960年、原作)
- これが恋愛だ(1961年、原作)
- 密航(1961年、原作)
- 殺人キッド(1961年、原作)
- 青年の樹(1961年、原作)
- 死んでゆく男の物語(1961年、脚本)
- 喪われた街(1962年、原作)
- 夜を探せ(1962年、原作)
- 闇から来る(1962年、原作)
- アラスカ物語(1962年、脚本)
- 青い糧(1963年、原作)
- 断崖(1963年、原作)
- 雲に向って起つ(1963年、原作)
- 夜の道(1963年、原作)
- 喪われた街(1964年、原作)
- 小さき斗い(1964年、原作)
- 有馬稲子アワー 喪われた街(1965年、原作)
- てっぺん野郎(1965年、原作)
- 青春とはなんだ(1965年、原作)
- おゝい雲!(1965年、原作)
- 人魚と野郎(1967年、原作)
- おおい雲(1971年、原作)
- 恐怖の人喰い鱶 鱶女(1980年、原作)
- 太陽の季節(2002年、原作)
- 狂った果実2002(2002年、原作)
- 弟(2004年、原作)
[編集] 演じた俳優
[編集] 参考文献
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 231、244頁
- 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 角川文庫、2000年がある。
- 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社 2003年) ISBN 4-06-211906-4
- 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫、2009年
- 斎藤貴男 『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』(岩波書店 2003年、ちくま文庫 2006年)
- 江藤淳 『石原慎太郎論』(作品社 2004年)
- 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』(菁柿堂 2008年)
- 前野徹 『救世主石原慎太郎』(扶桑社文庫、2004年)
- 別冊宝島編集部 『石原慎太郎の値打ち』(宝島社文庫 2003年)
- 嶋田昭浩 『解剖・石原慎太郎』(講談社文庫 2003年)
- 浅野史郎ほか8名 『石原慎太郎の東京発日本改造計画』(人物文庫・学陽書房、2002年)
- 上杉隆『石原慎太郎「5人の参謀」』(小学館文庫、2000年)
- 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊>(旬報社 2004年)
[編集] 関連項目
- 東京都知事選挙
- 自由革新同友会
- 清和政策研究会
- 青嵐会、平沼赳夫、塩谷一夫
- 新しい歴史教科書をつくる会
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
- 非核三原則 - 核武装論
- 三国人
- タカ派
- マッチョイズム
- 反フェミニズム
- ババア発言
- ネッシー
- 弟
- 南京の真実 賛同者
- 国家基本問題研究所 理事
- 兄弟有名人一覧
- 軍国主義
- 自衛隊
[編集] 脚注
- ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』32-33頁に「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ痰壺洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」とある
- ^ 『人事興信録』
- ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 180頁
- ^ >『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 217頁
- ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』218頁に「ちなみに一橋大には商学部、経済学部、法学部、社会学部の四学部があり、入学試験は第二志望まで希望することができた。慎太郎は公認会計士を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった。」とある。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の昭和26年(1951年)に学部改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した。(一橋大学/キャンパスガイド|大学受験パスナビ:旺文社)
- ^ >『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 218-219頁
- ^ 由美子の従兄弟の子にあたる美枝子が純一郎の実弟・正也と結婚した。慎太郎は「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、親戚筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど(笑)」と述べている(系図でみる近現代 第27回 小泉純一郎・純也・又次郎 小泉進次郎 石原慎太郎)
- ^ 産経新聞 石原知事会見詳報
- ^ ただし、政策推進の動機である「犯罪の増加」については、「メディア報道が増えたことによる印象に過ぎず、統計的に否定される」との批判がある(久保大『治安は本当に悪化しているのか』公人社 ISBN 978-4-344-00795-6 著者は元都治安対策担当部長)。
- ^ http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080307k0000e010079000c.html [リンク切れ]
- ^ 『文藝春秋』 1999年7月号
- ^ http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2004-2/d5224214.htm
- ^ 福祉保険局
- ^ 東京都の福祉保健予算
- ^ http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2004/10/20ead200.htm
- ^ 『毎日新聞』2004年10月20日
- ^ http://www.tdk.co.jp/techmag/knowledge/200610u/index.htm TDK Techno Magazine 第56回「クリーン・ディーゼルエンジン」
- ^ 『ディーゼル車に復権の兆し 技術革新で「環境に優しく」』‐『産経新聞』2006年8月21日
- ^ 『産経新聞』2009年3月2日朝刊 1面
- ^ MSN産経ニュース
- ^ 「首都移転にNO!」
- ^ [1]
- ^ 『日本経済新聞』2001年12月22日朝刊 29面
- ^ http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070316-170249.html [リンク切れ]
- ^ http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070316-OHT1T00016.htm
- ^ 『皇太子さまの五輪招致、宮内庁「難しい」 石原知事反発』アサヒコム2008年7月4日
- ^ オリンピック招致に皇室の関与を求める石原知事に申し入れ都議会民主党
- ^ 『毎日新聞』2006年6月24日付朝刊
- ^ 慎太郎にダメ出し…三宅島公道でオートバイレース構想 www.iza.ne.jp 2月21日
- ^ http://www.asahi.com/special/061213/TKY200612130376.html
- ^ http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2006/060929.htm
- ^ 『毎日新聞』2007年3月10日
- ^ http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_09/g2006091118.html
- ^ 『日本農業新聞』2007年10月7日
- ^ 『君側の奸・浜渦副知事を切れ!』‐『週刊新潮』2003年4月24日
- ^ a b 石原知事定例記者会見2006年6月3日
- ^ 『日本経済新聞』2006年6月5日
- ^ 石原知事定例記者会見2000年10月27日
- ^ 【石原知事発言から】懐刀失い非常に残念 asahi.com 2006年7月26日
- ^ 『読売新聞』2007年2月22日
- ^ http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007032200471
- ^ 「情報公開が争点に浮上」毎日インタラクティブ
- ^ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/28961/ [リンク切れ]
- ^ 『週刊現代』2007年1月6日・1月13日号、『FACTA』2007年2月号、『朝日新聞』2008年2月16日社説(「新銀行東京―石原知事は失敗を認めよ」[2])
- ^ 『毎日新聞』2007年1月30日
- ^ 「飲食費公費支出 石原都知事ら一部敗訴が確定」産経新聞
- ^ 『毎日新聞』2007年3月12日
- ^ 「東京マラソン2007」のスペシャルサポーターが決定(2007年2月8日発行 フジテレビ広報部のリリース) また、良純は『週刊新潮』の自身の連載『石原良純の楽屋の窓』の中でも「お前もメディアで働く人間ならば、大会が大勢の人に認知され、成功するように協力してくれ」として生まれて初めて親父に頭を下げられたと語っている。
- ^ 『週刊朝日』2007年3月9日号 同記事には疑惑を否定するフジテレビと石原良純事務所の見解もあわせて掲載された。
- ^ 『週刊ポスト』2007年3月2日号
- ^ Japanese JoongAngIlbo
- ^ The World Today Archive - Japan's Le Pen (英語)
- ^ 石原都知事が「現代美術は無」-仏メディアが批判
- ^ 『文藝春秋』1959年8月号
- ^ 『産経新聞』2002年10月21日
- ^ この処分に対し東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしている(asahi.com 2007年2月9日)
- ^ 『産経新聞』2005年9月5日
- ^ 『朝日新聞』1999年9月18日
- ^ 『読売新聞』1987年11月20日付夕刊。いわゆる石原本人の関与の有無は明らかとなっておらず、秘書の責任ということになっている。
- ^ 『朝日新聞』2000年4月12日
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- ^ 『産經新聞』2001年5月8日
- ^ http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_12/g2004121501.html
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- ^ カフェ難民の報道おかしい 石原都知事
- ^ 石原都知事:「山谷は200~300円」発言を撤回(2008年10月11日 毎日新聞)
- ^ NPO法人JKSK「異議あり-偉そうな男たちの言葉の暴力-(松信章子)」
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- ^ 石原慎太郎都知事のふざけた「差別感覚」 - Web現代 MouRa BIGLOBE edition
- ^ 石原都知事、「中国が北朝鮮を合併するのが一番楽」 AFP・BBニュース2009年1月13日付
- ^ 韓国、石原都知事発言に反発 沈黙の政府にも批判 茨城新聞2009年1月14日
- ^ 石原都知事発言に北朝鮮「容赦しない」 スポニチ・アネックスニュース・2009年1月17日
- ^ 『芸能人別帳』ちくま文庫
- ^ アパルトヘイトへの加担の罪 2008年9月20日閲覧
- ^ 「てっぺん野郎本人も知らなかった石原慎太郎」佐野眞一
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- ^ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/69566/
- ^ 『週刊文春』2007年3月29日号
- ^ 石原慎太郎『法華経を生きる』
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- ^ http://www.geocities.com/Tokyo/shrine/5712/protocols.htm
- ^ 『崇教真光』誌平成13年12月号
- ^ 『崇教真光』誌平成16年12月号
- ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』29頁に佐野は「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭寺の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだったという。」と記している
[編集] 外部リンク
- 公式サイト「宣戦布告.net」
- 知事の部屋 - 東京都の広報ページ
- 石原慎太郎都知事の記者会見 - 東京都公式
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