セオドア・ルーズベルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
セオドア・ルーズベルト
Theodore Roosevelt
President Theodore Roosevelt, 1904.jpg

任期 1901年9月14日 – 1909年3月4日
副大統領 チャールズ・W・フェアバンクス (1905-1909)

任期 1901年3月4日 – 1901年9月14日
元首 ウィリアム・マッキンリー

任期 1899年1月1日 – 1900年12月31日

任期 1897年 – 1898年
元首 ウィリアム・マッキンリー

任期 1882年 – 1884年

出生 1858年10月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
死去 1919年1月6日(60歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州オイスター・ベイ
政党 共和党 (1897-1912)
革新党 (1912-1916)
配偶者 (1) アリス・ハサウェイ・リー(1880年結婚、1884年死去)
(2) イーディス・カーミット・カーロウ(1886年結婚)
署名 Theodore Roosevelt Signature-2.svg

セオドア・"テディ"・ルーズベルト・ジュニア英語: Theodore "Teddy" Roosevelt, Jr.発音: [ˈθiːəˌdɔːr ˈroʊzəˌvɛlt][1][2][3]1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国軍人政治家であり、第25代副大統領および第26代大統領。姓はローズベルトローズヴェルトとも表記[4]。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは従弟(12親等)に当たる。彼はその精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男性らしさでよく知られる。共和党のリーダーおよび、短命に終わった革新党の創設者であった。大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍した。彼はまた政治家としての業績と同じくらい、軍人、作家、狩猟家、探検家、自然主義者としての名声も併せ持つ。

概要[編集]

裕福な家庭に生まれたルーズベルトは、博物学好きで喘息に苦しむ虚弱な子供であった。彼は体力の無さに応じて生涯の奮闘を決心した。彼は自宅で学習し、自然に情熱を抱くようになる。大学はハーバードに入学し、そこで海軍への関心を高めるようになる。ハーバード卒業から1年後の1881年、彼は最年少議員としてニューヨーク州下院に選任される。1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って市警察の腐敗と戦うことで名声を得る。ルーズベルトが海軍次官として事実上海軍省を運営していた間に米西戦争が勃発した。彼は直ちに職を辞し、陸軍士官としてキューバで小さな連隊を率いて奮戦した。2001年1月16日、その功績に応じて名誉勲章が授与されている。戦後彼はニューヨークに戻り知事選に出馬、僅差で当選する。それから2年の内に、彼は副大統領に選出された。

1901年、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺され、ルーズベルトは42歳という若さで大統領に就任した。彼は米国史上最年少の大統領であった[5]。ルーズベルトは共和党を「進歩」の方向に動かそうとし、当時、鉄道を支配していたモルガン反トラストで規制し、独禁法の制定や企業規制を増やした。彼は国内の課題を説明するため「スクエア・ディール Square Deal」という句を作り出した。そして、一般市民がその政策の下で正当な分け前を得ることができると強調した。彼はアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援した。世界の檜舞台でルーズベルトの政策はそのスローガン「穏やかに話し、大きな棒を運ぶ。(大口を叩かず、必要なときだけ力を振るう。)Speak softly and carry a big stick」によって特徴付けられた。ルーズベルトはパナマ運河の完成の後ろ盾となった。彼はグレート・ホワイト・フリートを派遣し、アメリカ合衆国の力を誇示した。そして、日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。彼はノーベル賞を受賞した初のアメリカ人であった[6]

ルーズベルトは1908年の大統領選に再出馬するのを断った。公職を退いた後、彼はアフリカサファリを行い、ヨーロッパを旅行した。帰国後、彼は指名した後継者のウィリアム・ハワード・タフトとの間に大きな亀裂を生じた。1912年の大統領選でタフトから共和党候補の指名を手に入れることを試みたが、失敗すると革新党を結成した。彼は第3党の候補として選挙戦で2位となり、タフトには勝利したものの、ウッドロウ・ウィルソンが大統領に当選した。選挙後、ルーズベルトは南米への遠征旅行を行う。彼が探検したルーズベルト川(en)は現在その名を冠する。旅行でマラリアに感染し、その数年後、60歳で死去した。ルーズベルトは歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。

生涯[編集]

生い立ちと家族[編集]

ルーズベルト家はユダヤ系オランダ人が起源の移民であった。1649年にクラウス・M・ローゼンベルツがオランダから移住、二代目ニコラスが名前をルーズベルトと改め、その時代に家系が二つに分かれた。一方がセオドアの家系、もう一方がフランクリンの家系である。一族は多くの財産に富み、19世紀には多くのビジネスに影響力を持っていた。その中には板ガラスの輸入も含まれた。一家は1850年代の半ばまで強い民主党支持者であり、その後新たに結党された共和党に加わった。「Thee」として知られたセオドアの父はニューヨークの篤志家であり、商人であり、一族の板ガラス輸入会社「ルーズベルト・アンド・サン」社のパートナーであった。父親は情熱的なユニオニストであり、南北戦争の期間はエイブラハム・リンカーン北軍を支援した。母親のマーサ・「ミッティー」ブロックはジョージア州ロズウェル出身のサザン・ベルであり、その家族は奴隷を所有し、南軍を支持していた。母親の兄弟、セオドアの伯父のジェームズ・ダンウッディ・ブロックはアメリカ海軍の士官で、南部同盟の海軍大将、海軍の資材調達将校およびイギリスの諜報部員であった。もう一人の叔父、アーバイン・ブロックは南部同盟のスループ、アラバマ (CSS Alabama) の士官候補生であった。両名とも戦後はイギリスに留まった[7]。ルーズベルトはニューヨークにある祖父母の家で、幼少時にエイブラハム・リンカーンの葬列が通るのを目撃している。

セオドア・ルーズベルトは1858年10月27日にセオドア・ルーズベルト・シニア(1831年 - 78年)およびマーサ・ブロック(1835年 - 84年)の4人の子供の2番目、長男としてニューヨーク市東20番街28番地、現在のグラマシー・パークの一部で生まれた[8]。母のマーサは、美貌で「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのモデルといわれた。 姉のアナは幼少時「バミー」、成長してからは「バイ」の愛称で呼ばれていた。弟のエリオットは後のファーストレディエレノア・ルーズベルトの父親であり、妹のコリーヌは新聞コラムニストのジョセフ・オルソプおよびスチュワート・オルソプの祖母であった。

幼少時は病弱で、喘息持ちであった。幼児期の大半をベッドで支援されるか、椅子で猫背になって眠らなければならず、頻繁に病気に罹っていた。しかしながら病気がちにもかかわらず多動で悪戯好きな子供であり、ひどい音痴であった[9]。彼の一生の動物学への関心は、7歳の時に地方の市場で見かけたアザラシの死体によって形作られた。ルーズベルトは二人の従兄弟(一人は映画監督であり、リゾートホテル経営者のアンドレ・ルーズベルト)と共にアザラシの頭を手に入れ、彼らは「ルーズベルト自然歴史博物館」を開設した。彼は剥製術の基本を学び、間に合わせの博物館を自らが殺すか捕らえるかした動物で満たし、研究し、展示の準備をした。9歳で彼は「昆虫の博物学」と題する論文を体系化した[10]

ルーズベルトは1903年の手紙の中で、自らの幼年期の経験について次のように記述している。

私が覚えている限り、それらは全く平凡であった。 私はかなり病弱で、かなり臆病な小さい少年だった。そして、とりとめのない読書と博物学が非常に好きで、どんなスポーツにも優れなかった。私は喘息のため学校へ行くことができなかった。神経質で、自意識が強かった。私の記憶では、私の信念はリーダーシップの点で普通の遊び仲間よりかなり下にあったと思う。しかしながら、私には想像的な気質があり、これは時々私の他の短所の埋め合わせをした。要するに、私は父母のおかげで非常に幸せな幼年期を送り、自身がそこから出てこなければならなかったことを、若干の驚きをもって振り返りたいと思う!。私は16歳になるまでどんな才能や、普通の能力さえ示し始めなかった。そのときまで、博物学のコレクションを製作し、ある一定の限られた分野の読書を行い、運動に優れていない小さな少年の普通の走り書きに満足する以外、私を何が平均まで引き上げたのか思い出すことができない。[11]

病弱な体質を克服するため、父親はルーズベルトに運動を始めるよう勧めた。 彼はボクシングの練習を始め[12] 、運動を好むようになり、グランド・キャニオンのような自然の地域に通い、アウトドアスポーツに熱中した。彼の精力的な規範は20世紀初頭、都市のスポーツ・ブームの中で運動の流行に影響を及ぼした。 1869年から70年にかけて一家で行ったヨーロッパ旅行と、72年から73年にかけて行った中東旅行は彼に永久的な影響を与えた。

セオドア・シニアは息子に大きな影響を与えた。ルーズベルトは「私の父、セオドア・ルーズベルトは私が知る限り一番の人物であった。彼は強さと勇気、優しさと思いやり、大きな利他性を持ち合わせていた。彼は私たち子供に対して利己心、残酷さ、怠惰、臆病、不誠実を許容しないだろう。」と綴っている[13]

彼は妹のコリーヌに、国のためにいかなる重大な処置や重大な決定を行う際、父がどのような立場を取ったかを考えなかったことはなかったと語った[14]

ルーズベルトの最初の妻はアリス・ハサウェイ・リーであり、彼女はアリスの母親であった。妻のアリスは1884年2月14日に死去した。彼女は、妊娠により診断未確定だった腎臓病で、最初の娘アリスの出産2日後に死去したのである。同日の午前3時、同じ家で母も腸チフスのため死去した。妻が死ぬおよそ11時間前のことであった。ルーズベルトは娘を妹のアナに預け、ニューヨークに残していた。同日の彼の日記には大きな×と、「私の人生から光が消え去った。」と書かれていた。その後間もなく彼は妻への追悼文を書き、個人的に出版した[15]。ルーズベルトは死ぬまで妻のことについて公的にも私的にも話すことはなく、自叙伝でも彼女について言及することはなかった。ルーズベルトの自叙伝執筆者、エドモンド・モリスは「妄念にとりつかれたライオンが脇腹から槍を引き抜こうとしているように、ルーズベルトはその精神からアリス・リーを消し去ろうとし始めた。それが快いならば、彼にとって非常に傷つきやすい弱さであった郷愁を満たすことができるが、それが苦痛であるなら、抑えられなければならない。『記憶が脈動できないくらいまで静寂になるまで。』」[16]と記している。

ルーズベルトは母、妻の死後ノースダコタ州へ転居し、ひとりで農場に住んでいた。1886年12月に、イーディス・カーロウと再婚。彼女との間に5人の子供(セオドア・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルドおよびクェンティン)をもうけた。

政治経歴[編集]

ハーバード在学中に、発展途上のアメリカ海軍米英戦争においてどのような役割を果たしたかを組織的に研究し、二章の論文として完成、1882年に「The Naval War of 1812」として出版した[17]

1880年ハーバード大学を卒業し、コロンビア大学ロースクールに入学したが、州議会議員就任とともに中退、1882年から1884年までニューヨーク州議会のメンバーだった。


ルーズベルトがニューヨークに戻ったのは1886年で、ベンジャミン・ハリソン大統領によってアメリカ行政委員会(1889年 - 1895年)のメンバーに指名され、ニューヨーク市警の警察部長を辞職した。

1886年には、倫理的な狩猟団体であるブーン&クロケットクラブ(en:Boone and Crockett Club)を創設した。このクラブはのちの1930年、国際野生動物保護アメリカ委員会(The American Committee for International Wild Life Protection)を設立し、さらにこの委員会が国際自然保護連合(The International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)へと発展していった。バチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリによれば、このブーン&クロケットクラブの幹部メンバーであったマディソン・グラントやヘンリー・フェアフィールド・オズボーンらが同時にアメリカ優生学協会のメンバーであったことに着目し、優生学運動と自然保護運動は、「人種改良」と「限られた資源の活用」という目的において連携していたと指摘している[18]

1897年ウィリアム・マッキンリー大統領によって、海軍次官に任命されたが、米西戦争に従軍するため、翌1898年その職を辞した。

軍歴[編集]

サン・フアン高地に突撃するラフ・ライダース

ルーズベルトは常に海軍の歴史に心を奪われていた。親友の下院議員ヘンリー・カボット・ロッジの推薦で、ウィリアム・マッキンリー大統領は1897年にルーズベルトを海軍次官に任命した。(当時の海軍長官ジョン・D・ロングはあまり活動的でなく、それによってルーズベルトが海軍省を支配した。)ルーズベルトは米西戦争のために海軍を整備するのに尽力し[19]、戦闘でアメリカ軍をテストすることについて熱心に支持した。彼は「私はほぼいかなる戦争でも歓迎しなければならない。なぜなら、国がそれを必要としていると思うからだ。[20][21]」と述べた。

1898年のスペインに対する宣戦布告で、ルーズベルトは海軍省を辞職した。彼はレナード・ウッド陸軍大佐の協力を得て、西部領域のカウボーイやニューヨークのアイビー・リーグの友人達から義勇兵を募り、第1合衆国義勇騎兵隊を結成した。新聞は同部隊を「ラフ・ライダース」と呼び表した。

当初ルーズベルトは中佐の階級で、ウッド大佐の下で働いた。ルーズベルト自身が「ラフ・ライダース」を指揮するようになったのは「ヤング将軍が熱で倒れた後、ウッドは旅団を担当した。これによって私は連隊を指揮するようになった。私は非常に嬉しかった。なぜならば、そのような経験は素早い先生となるからだ。[22]」したがって、ウッドは義勇兵部隊の准将に昇進し、ルーズベルトは大佐に昇進、連隊の指揮権を与えられた[22]

ルーズベルトの指揮下、ラフ・ライダースは1898年7月1日にケトル・ヒルサンフアン・ヒルへの二度の突撃で有名になった。全ての隊員の中で、ルーズベルトのみが乗馬して戦った。輸送船が不足しており、隊員の馬は輸送されていなかったためである。そして彼の馬はケトル・ヒルの最前線の塹壕の間を前後に何度も往復するのに使われた。彼は上官からの命令無しで、その危険な任務を強行した。しかしながら彼の馬、リトル・テキサスは疲れ果て、有刺鉄線のため彼はケトル・ヒルの最後の地域を徒歩で歩かなければならなかった。

この戦闘の功績でルーズベルトは名誉勲章にノミネートされたが、授与は却下された。歴史家のジョン・ゲーブルは「後年ルーズベルトは、1898年7月1日のサンフアン・ヒルの戦いについて『私の人生における最良の日』と『私の曇った時間』と表現しただろう...(しかし)マラリアとその他の病気が戦死者よりも多くの兵を殺した。8月にルーズベルトとその他の士官は兵を帰国させるよう要求した。有名な『回状』と、今や連隊の司令官となった[23]ルーズベルトからの強い手紙が、司令官から新聞にリークされた。これは陸軍長官のラッセル・アルジャーとマッキンリー大統領を怒らせることとなった。ルーズベルトはこの一件が名誉勲章を逃すこととなった原因だと信じていた。[24]」と記している。

1997年9月、ニューヨークの下院議員リック・ラジオーは2通の推薦状を陸軍栄誉局に送った。これらの推薦状は陸軍総務局長のアール・シムズ准将と承認部長のゲイリー・シューツ一等軍曹に宛てられたが、これによってルーズベルトへの名誉勲章授与が認められた[25]。ルーズベルトは2001年に名誉勲章が授与された[26]。勲章は現在ホワイトハウスのルーズベルト・ルームに展示されている[27]。彼は最初かつ唯一のアメリカ合衆国における最高位の勲章を授与された大統領である。また、歴史上唯一軍事上最高位の勲章と、平和に関する最高の賞を得た人物である[28]。彼の長男、セオドア・ルーズベルト・ジュニアもまたその死後にノルマンディー上陸作戦での功績で名誉勲章を受章している[29]

軍を退役した後、ルーズベルトは「ルーズベルト大佐」や「大佐」と呼ばれるのを好んだ。「テディ」というあだ名は、彼が下品と感じ、「激しく生意気」と呼んだという事実にもかかわらず、大衆にははるかに人気のあったままであった[30]。ルーズベルトの政治上の友人や彼と親しく働いていた人々は、彼をその階級で呼んだ。

戦争後は警視総監および州知事として、ニューヨーク州の政界で有名になった。 ちなみにのち大統領となった親戚のフランクリン・ルーズベルトハーバード大学を卒業し、海軍次官、ニュ-ヨ-ク州知事をつとめている。

大統領職[編集]

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1906年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:

1900年、大統領選の副大統領候補として当選、翌年9月大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い大統領に昇格する。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。ちなみに、テディベアが誕生したのは大統領就任後のことである。1904年セオドア・ルーズベルトの下問で、陸海軍統合会議が、仮想敵国を色で表現した長期的戦略計画と言われているカラーコード戦争計画の一環である、対日本「オレンジ計画(O-range Plans)」の作成に着手。その30数年後、この計画は実行に移された。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。

一方で国内では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、対外的には海軍力を盾にカリブ海政策を推し進めた(棍棒外交)。 在任中、1081回もの大統領令を発令し、これは同令を活用したリンカーンをはるかに上回る。

内閣[編集]

職名 氏名 任期
大統領 セオドア・ルーズベルト 1901 - 1909
副大統領 チャールズ・フェアバンクス 1905 - 1909
国務長官 ジョン・ヘイ 1901 - 1905
  エリフ・ルート 1905 - 1909
  ロバート・ベイコン 1909
財務長官 ライマン・ゲイジ 1901 - 1902
  レスリー・ショウ 1902 - 1907
  ジョージ・コーテルユー 1907 - 1909
陸軍長官 エリフ・ルート 1901 - 1904
  ウィリアム・ハワード・タフト 1904 - 1908
  ルーク・エドワード・ライト 1908 - 1909
司法長官 フィランダー・C・ノックス 1901 - 1904
  ウィリアム・ヘンリー・ムーディ 1904 - 1906
  チャールズ・ジョセフ・ボナパルト 1906 - 1909
郵政長官 チャールズ・E・スミス 1901 - 1902
  ヘンリー・C・パイン 1902 - 1904
  ロバート・J・ワイン 1904 - 1905
  ジョージ・コーテルユー 1905 - 1907
  ジョージ・フォン・レンガーク・マイヤー 1907 - 1909
海軍長官 ジョン・デイヴィス・ロング 1901 - 1902
  ウィリアム・ヘンリー・ムーディ 1902 - 1904
  ポール・モートン 1902 - 1906
  チャールズ・ジョセフ・ボナパルト 1906 - 1908
  ヴィクター・メトカーフ 1906 - 1908
  トルーマン・ニューベリ 1908 - 1909
内務長官 イーサン・A・ヒチコック 1901 - 1907
  ジェームズ・ルドルフ・ガーフィールド 1907 - 1909
農務長官 ジェイムズ・ウィルソン 1901 - 1909
商務労働長官 ジョージ・コーテルユー 1903 - 1904
  ヴィクター・メトカーフ 1904 - 1906
  オスカー・ストラウス 1906 - 1909


親日派から日本脅威論者へ[編集]

1902年
ポートレート、1903年
ラシュモア山にある四人の大統領の彫像(左から右へ) ジョージ・ワシントン, トーマス・ジェファーソン, セオドア・ルーズベルト, エイブラハム・リンカーン

ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーバード大学の同窓生で、面識のあった金子堅太郎(1878年卒業)の働きもあったと言われる。また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。また、忠臣蔵の英語訳本(『47ローニン』)を愛読していたとの逸話がある。

ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も見られた。日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。

1893年、アメリカのハワイ王朝乗っ取りの際、日本の巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、アメリカの横暴を牽制したので、アメリカはハワイ併合を断念し、ハワイ共和国とした。[要出典]。また翌年、同共和国の一周年を祝う礼砲要請を艦長の東郷平八郎は断り、他国の艦船もそれに倣った。

1897年3月、「できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている」と友人に書き送った[要出典]

高山正之は大統領就任前から彼は日本を敵視していたと見て、著書で以下のように主張している。

  • 新聞王のハーストと組み、世論を焚きつけて米西戦争を起こしてグアムフィリピンを獲得した[31]
  • その功で副大統領に就任するが、直後にマッキンリー大統領が暗殺され、大統領に就任した。暗殺の黒幕はルーズベルトだったという説も出たせいか、暗殺犯は電気椅子で処刑された後、骨まで硫酸で溶かされて噂も封印された[32]
  • 大統領に就任するとすぐにパナマを独立させ、運河建設に着手し、ハワイの日系人の本土移住を禁止した。また、ハーストをして反日キャンペーンを展開させて、日系人の子弟を学校から締め出し、土地所有を禁止し、市民権の取得も拒否した。さらに、脅威の日本がロシアから賠償を獲得してより強力にならないように、一銭の賠償も取れない講和を押し付けた[31]
  • 朝鮮のアメリカ外交公館を閉鎖し、「日本が朝鮮を手に入れるのを見たい」と言ったという[32]

ルーズベルトとインディアン[編集]

ルーズベルトが大統領職に就いた時代は、すでにインディアン民族が保留地(resavation)に強制移住させられ、表立った軍事衝突は終わった後だった。1901年の大統領就任祝賀パレードにはアパッチ族ジェロニモが見世物として連れてこられ、コマンチ族クアナが騎馬参列している。クアナとは、二人でコマンチ族の土地で狩りをする仲だった。

一方で、故郷アイダホからワシントン州に強制連行されたままのネ・ペルセ族の窮状について、世論の批判が高まっていたのに対してまったく放置した。ギボン将軍が後押ししたジョセフ酋長の嘆願も、まったく無視し、死ぬにまかせた。「ノーベル平和賞」を受賞したルーズベルトだが、インディアン民族に対しては歴代大統領の絶滅政策を支持していた[33]

彼はマニフェスト・デスティニーのなかの「インディアンに対する虐殺と土地の略奪」について、次のように述べている。

それ(インディアンに対する虐殺と土地の強奪)は回避不能だったし、最終的には有益なことでした。

女・子供を含む無抵抗のシャイアン族のバンドが米軍によって徹底虐殺された「サンドクリークの虐殺」については、次のように賛辞を送っている。

これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。

また、こうも発言している。

私は、「死んだインディアンだけが良いインディアンである」とまでは言いませんよ。しかし、私は10人インディアンがいたとして、そのうち、9人まではそうじゃないかと思っています。それと、私はあまり10人目については真剣に考える気になれませんね。

語録[編集]

The President is merely the most important among a large number of public servants. He should be supported or opposed exactly to the degree which is warranted by his good conduct or bad conduct, his efficiency or inefficiency in rendering loyal, able, and disinterested service to the Nation as a whole.

元首はただ単に数多い公僕のなかの最も重要なひとりに過ぎない。
元首はまさにその善行や悪行、国民全般に対し忠誠心があり、有能で不偏不党な奉仕を為す上で効率的であるか不効率であるかで以って、その程度に応じ支持されまた反対されるべきものである。

余談[編集]

セオドア・ルーズベルト大統領一家(1903年)

セオドア・ルーズベルト一家は、過去・現在ともに前例の無い大家族(妻と4男2女)でホワイトハウスに住んでいた。メインハウスの2階部分にあったスタッフのスペースも手狭になったため、現在の大統領執務室などがあるウエストウィングを増築。現在はメインハウスを公邸とし、ウエストウィングを官邸とするようになった。

大統領として初めて、自動車、飛行機に乗り、また本格的に新聞を利用した。

アフリカン・サファリ[編集]

1909年3月、退任後間もなくルーズベルトはニューヨークを発ち東および中央アフリカでのサファリを行った。ルーズベルト一行は英領東アフリカ(現在のケニア)、モンバサに上陸し、ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)に向かい、その後ナイル川を遡上、現在のスーダン、ハルツームに向かった。アンドリュー・カーネギーの融資と自らの著書からの収入を資金とした一行は、スミソニアン博物館およびニューヨークのアメリカ自然史博物館のための標本を探した。

1912年の大統領選[編集]

ルーズベルトは、当時、大統領職の3選が認められていなかったため、彼の政策を継続してくれるだろうと考え長年の友人ウィリアム・ハワード・タフトを支持した。しかしながら、タフトの勝利後に、ルーズベルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、ますます悩まされるようになった。

その結果、1912年にルーズベルトは革新党(ブル・ムース)公認候補として大統領選に立候補し、タフトに対抗した。彼は1912年10月14日ウィスコンシン州ミルウォーキーでの遊説中に、酒場の主人ジョン・シュランクによって銃撃された。胸ポケットの手帳が幸いし、軽傷だったためルーズベルトはそのまま予定されたスピーチを行った。傷は重傷ではなかったが、医師は弾丸の摘出を危険だと考え手術を行わなかった。このため彼は死ぬまで胸部に弾丸を入れたままだった。しかし、結局彼は大統領選に敗れた。ルーズベルトの出馬により共和党の支持票は割れ、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利に貢献することとなった。

南米探検[編集]

大統領選に敗れた後、1914年2月にルーズベルトは従来より興味を持っていたアマゾン川流域の探検に乗り出した。直接の目的はアマゾン川最大の支流、マデイラ川の奥地にあるとされた「謎の川」(ドービト)の調査にあったが、彼の趣味である博物目的の狩猟も兼ねていた。ドービト川の調査自体は成功(後にブラジル政府により、河川名として彼の名前が冠された)したものの、探検の責任者であったカーンジト・ロンドンの補給に対する認識の甘さによる物資不足、急流や滝などに阻まれる川下りの困難さに直面し、数名の犠牲者を出し、ルーズベルト自身もマラリアに罹患、探検後半は動けなくなるほど衰弱し、ボートで寝ているしかなかった(他の隊員に迷惑をかけてしまった)自分自身を嘆き自殺まで考える程の苦難の探検となった。探検前からあまり良好とは言えなかった彼の健康状態を決定的に悪化させたのがこの探検である、と推測する歴史家も多い。彼は帰国後探検手記を出版したが、その中で印象的に描かれていた「アマゾンの獰猛な肉食魚」ピラニアの知名度をアメリカ人の中で上げるきっかけともなった。

第一次世界大戦[編集]

1914年に第一次世界大戦が始まるとルーズベルトは連合国を強く支持し、ドイツに対して、特に潜水艦戦に対するより厳しい政策を要求した。ルーズベルトはウィルソン大統領の外交政策を、ベルギーの極悪さに関する失敗とアメリカ合衆国の権益に対する侵害だとして怒りをもって糾弾した[34]1916年の大統領選では、自らも大統領候補指名戦に出馬したものの、敗れてからはチャールズ・エヴァンズ・ヒューズを強力に支持し、アイルランド系アメリカ人とドイツ系アメリカ人はアメリカの中立を支えたことから愛国心が無いと繰り返し批難した。彼は、複数の愛国心を巧みに操る「外国系アメリカ人」ではなく、100%のアメリカ人でなければならないと主張した。1917年にアメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、ルーズベルトは義勇歩兵師団を立ち上げようとしたが、ウィルソンはこれを拒否した[35]

ウィルソンに対するルーズベルトの攻撃は、共和党が1918年の中間選挙における議会のコントロールを勝ち得るのに援護となった。ルーズベルトは真剣に1920年の大統領選で共和党の指名を争うことができるくらい人気があったものの、長引いているマラリアのため1918年までに彼の健康は衰えていった。彼の家族と支持者は結局長年の軍における友人であったレナード・ウッド将軍を支持したが、ウッドは指名戦でウォレン・ハーディングに敗れた[36]

ルーズベルトの息子クェンティンは、陸軍パイロットとしてフランス戦線に従軍し、1918年に乗機が撃墜され戦死した。クェンティンは末子であり、恐らくルーズベルトのお気に入りであった。息子の死はルーズベルトに大きな衝撃を与え、そこから決して回復することはなかったと言われている[37]

[編集]

ルーズベルトは急速に健康が衰えたものの、最期まで活動的であった。彼はスカウティング運動の熱心な提案者であった。アメリカ合衆国ボーイスカウトは彼に対してチーフスカウトシチズンのタイトルを授与した。彼は同タイトルの唯一の保持者である。初期のボーイスカウト指導者の一人は「スカウト活動に大きな刺激を与えて、非常に人気があるようにした二つのものは、ユニフォームとテディ・ルーズベルトの主戦論であった。」と語っている。

ルーズベルトはニューヨーク州ナッソー郡オイスター・ベイで炎症性リウマチで2ヶ月半の闘病生活を送った後、1919年1月6日、就寝中に冠状動脈血栓(心臓発作)のため死去した。遺体はヤング記念墓地に葬られた。息子のアーチーは兄弟に父の死を伝える際、「年老いたライオンは死んだ The old lion is dead」との電報を送った。当時の副大統領、トーマス・R・マーシャルは「死は眠っている間にルーズベルトを連れて行かなければならなかった。なぜならば、彼が起きていたならば、戦いが生じたろうからだ。」と語った。

ニミッツ級航空母艦の4番艦セオドア・ルーズベルト (USS Theodore Roosevelt, CVN-71) は彼にちなんで命名された。

その他[編集]

フリーメイソンの正装を着たルーズベルト

メディア[編集]

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. ^ Hart, Albert B.; Herbert R. Ferleger (1989年). “Theodore Roosevelt Cyclopedia (CD-ROM)”. Theodore Roosevelt Association. pp. 534–535. 2007年6月10日閲覧。
  2. ^ How to Pronounce Theodore Roosevelt”. 2007年6月10日閲覧。
  3. ^ "T.R.: The Story of Theodore Roosevelt", 1996, 'The American Experience'
  4. ^ 近年世界史の研究書や辞典類では、ローズヴェルトと表記するものが多い。帝国書院 | Q&A 変わる社会科 -歴史
  5. ^ ジョン・F・ケネディは選挙で選出された最年少の大統領であった。ルーズベルトは1904年まで選挙で選出されず、選出されたときの年齢は46歳であった。
  6. ^ Frederick W. Marks III, Velvet on Iron: The Diplomacy of Theodore Roosevelt (1979); Greg Russell, "Theodore Roosevelt's Diplomacy and the Quest for Great Power Equilibrium in Asia," Presidential Studies Quarterly 2008 38(3): 433-455
  7. ^ Pringle (1931) p. 11
  8. ^ Roosevelt, Theodore An Autobiography, 1913, The MacMillan Company, "On October 27, 1858, I was born at No. 28 East Twentieth Street, New York City..."
  9. ^ Lost in tone (PDF)”. 2010年9月14日閲覧。
  10. ^ "TR's Legacy—The Environment".. Retrieved March 6, 2006.
  11. ^ Bishop, Joseph Bucklin,(1920)"Theodore Roosevelt and His Time Shown in His Own Letters - Book I, p. 2
  12. ^ Thayer, William Roscoe (1919). Theodore Roosevelt: An Intimate Biography, Chapter I, p. 20. Bartleby.com.
  13. ^ Roosevelt, Theodore (1913). Theodore Roosevelt: An Autobiography, Chapter I, p. 13.
  14. ^ "The Film & More: Program Transcript Part One". Retrieved March 9, 2006.
  15. ^ Nathan Miller, Theodore Roosevelt - A Life, (1992) pg 158,
  16. ^ Morris, Rise of, pg 232.
  17. ^ Autobiography, pg 35
  18. ^ リッカルド・カショーリ/アントニオ・ガスパリ『環境活動家のウソ八百』洋泉社新書,2008年,38頁
  19. ^ Brands ch 12
  20. ^ April 16, 1897: T. Roosevelt Appointed Assistant Secretary of the Navy”. Crucible of Empire - Timeline. PBS Online. 2007年7月26日閲覧。
  21. ^ Transcript For "Crucible of Empire"”. Crucible of Empire - Timeline. PBS Online. 2007年7月26日閲覧。
  22. ^ a b Roosevelt, Theodore (1898). The Rough Riders, Chapter III, p. 52. Bartleby.com.
  23. ^ Miller, Nathan, (1992) Theodore Roosevelt - A Life, pg 308, ISBN 978-0-688-13220-0, ISBN 0-688-13220-0, New York, Quill/William Morrow
  24. ^ Trthegreatnewyorker.com[リンク切れ]
  25. ^ Soots Letter
  26. ^ Brands ch 13
  27. ^ Rucker, Philip (2009年3月21日). “Obama's Turnabout On Vets Highlights Budgeting Nuances”. The Washington Post: p. A02. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/20/AR2009032003236.html?hpid=topnews 2009年3月23日閲覧。 
  28. ^ Medal of Honor”. Life of Theodore Roosevelt. Theodore Roosevelt Association. 2007年10月25日閲覧。
  29. ^ Center of Military History
  30. ^ Matuz, R.: "The Presidents Fact Book", page 402. Black Dog and Leventhal Publishers, Inc., 2001.
  31. ^ a b 高山正之『サダム・フセインは偉かった』
  32. ^ a b 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』
  33. ^ 『American Holocaust: The Conquest of the New World』(David E. Stannard、Oxford University Press、1992年)
  34. ^ Brands, 749-51, 806-9
  35. ^ Brands 781–4; Cramer, C.H. Newton D. Baker (1961) 110–113
  36. ^ Pietrusza, David. 1920: The Year of the Six Presidents (2007). pp. 55-71 (on Roosevelt's prospective candidacy), 167-175 (on Wood and his support by TR's family)
  37. ^ Dalton, (2002) p. 507
  38. ^ http://freemasonry.bcy.ca/textfiles/famous.html

外部リンク[編集]

公職
先代:
ウィリアム・マッキンリー
US flag 46 stars.svg アメリカ合衆国大統領
1901年9月14日 - 1909年3月4日
次代:
ウィリアム・H・タフト
空位
最後の在位者
ギャレット・A・ホーバート
US flag 45 stars.svg アメリカ合衆国副大統領
1901年3月4日 - 1901年9月14日
空位
次代の在位者
チャールズ・W・フェアバンクス
先代:
フランク・S・ブラック
Flag of New York.svg ニューヨーク州知事
1899年 - 1900年
次代:
ベンジャミン・B・オーデル
官職
先代:
ウィリアム・マカドゥー
United States Department of the Navy Seal.svg アメリカ合衆国海軍次官
1897年4月19日 - 1898年5月10日
次代:
チャールズ・ハーバート・アレン
党職
新党結成 革新党大統領候補
1912年
党解散
先代:
ウィリアム・マッキンリー
共和党大統領候補
1904年
次代:
ウィリアム・H・タフト
先代:
ギャレット・A・ホーバート
共和党副大統領候補
1900年
次代:
チャールズ・W・フェアバンクス