東祥三

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日本の旗 日本の政治家
東 祥三
あずま しょうぞう
東祥三
生年月日 1951年5月1日(62歳)
出生地 日本の旗 東京都新宿区
出身校 創価大学経済学部
創価大学大学院経済学研究科博士課程
前職 国際連合難民高等弁務官事務所職員
所属政党 公明党→)
公明新党→)
新進党→)
自由党→)
民主党→)
国民の生活が第一→)
日本未来の党→)
生活の党
公式サイト 東 祥三 ホームページ

選挙区 旧東京6区→)
比例東京ブロック→)
東京15区
当選回数 5回
任期 1990年 - 2003年
2009年8月31日 - 2012年11月16日
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東 祥三(あずま しょうぞう、1951年5月1日 - )は、日本政治家

衆議院議員(5期)、内閣府副大臣菅第1次改造内閣菅第2次改造内閣)、外務政務次官衆議院石炭対策特別委員長、衆議院経済産業委員長、衆議院安全保障委員長国民の生活が第一幹事長(初代)等を歴任した。

目次

来歴 [編集]

東京都新宿区で生まれ、板橋区で育つ。東京都立板橋高等学校創価大学経済学部卒業。創価大学大学院経済学研究科博士課程修了。1980年から8年間、国際連合工業開発機関国際連合難民高等弁務官事務所に勤務した。

1990年第39回衆議院議員総選挙旧東京都第6区から公明党公認で出馬し、初当選を果たした。公明党の当選同期に北側一雄山口那津男がいる。当選後は市川雄一公明党書記長の下、副書記長を務める。1993年8月、細川内閣外務政務次官に任命された。1994年、公明党の解党に伴い公明新党を経て新進党結党に参加する。1995年の新進党党首選挙では、小沢一郎新進党幹事長を支持した(小沢は羽田孜副党首を破り、第2代新進党党首に就任)。1996年第41回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、3選。1997年の新進党解党に際しては、旧公明党系議員が小沢への反発を強めたのに対し、東や二見伸明権藤恒夫らは親小沢の旗幟を鮮明にし、旧公明党議員らが結成した新党平和黎明クラブではなく、小沢を党首に自由党を結党した(ただし自由党は、1998年第18回参議院議員通常選挙では、東京都選挙区公明代表浜四津敏子を推薦した)。1998年11月には、分党状態であった旧公明党の流れを汲む公明・新党平和・黎明クラブ3党が合併し公明党が再結成されたが、自由党に参加していた東らは合流せず、自由党に残留した。

1999年1月、自自連立政権発足により自由党は与党入りした。同年3月、東京都知事選挙に出馬するため東京都第15区選出の柿澤弘治自民党東京都連幹事長が衆議院議員を辞職(柿澤は都知事選に出馬するも落選)。東は補欠選挙に出馬する意向を表明するが、以前から比例区選出の議員の選挙区への鞍替えには批判があり、また東が辞職した場合、当時マスコミを賑わせていた野村沙知代が繰り上げ当選し批判を受ける恐れがあったため、最終的に出馬を断念した。補選には東京都議会議員の木村勉が自民党公認で出馬し、当選した。

同年10月、公明党が加わり自自公連立政権小渕再改造内閣が発足した際、河野洋平外務大臣の下で外務総括政務次官に任命された。2000年4月、自由党が連立政権を離脱。連立政権への残留を主張する議員は保守党を結党し袂を分かったが、東は小沢に従って自由党に残留した。同年の第42回衆議院議員総選挙には東京都第15区から自由党公認で出馬。得票数は立候補者6人中5位であったものの、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、4選。

2012年1月19日、ミラマー海兵隊航空基地にて

2003年民由合併により民主党に入党。同年11月の第43回衆議院議員総選挙には東京都第15区から出馬したが、自民党の木村勉に敗れ、次点で落選した(公明党は木村を支援)。2005年第44回衆議院議員総選挙でも再び木村に敗れ、落選[1]

2009年8月、第45回衆議院議員総選挙で東京都第15区から民主党公認で出馬。自民党公認の木村を破り、6年ぶりに返り咲いた。2010年9月、菅第1次改造内閣内閣府副大臣(金融、郵政改革、国際平和協力、拉致問題、防災、原子力安全担当)に任命され、菅第2次改造内閣まで務める。2011年3月11日の東日本大震災発生後は、現地対策本部長を務めた。同年6月、菅直人首相に対する批判が民主党内で高まり菅おろしが起きた際は政府の一員でありながらこの動きに同調。内閣府副大臣の辞表を提出し、内閣不信任案に賛成する意向を示した(鈴木克昌三井辨雄内山晃樋高剛も同調)[2]が、菅首相が退陣の意向を示したため内閣不信任案は反対多数で否決され、翌日菅は東ら辞表を提出した政務三役を官邸に呼び、辞表の撤回を求め、東は辞意を撤回した[3]

2011年9月、衆議院安全保障委員長に就任。同年11月、一新会小沢グループ)顧問に就任。同年12月、小沢一郎を中心に結成された新しい政策研究会では事務総長を務める[4]

2012年野田佳彦首相が推進する、消費税増税を含む社会保障・税一体改革関連法案の衆議院における採決では、党議拘束に逆らって造反し、反対票を投じる。同年7月2日に民主党に離党届を提出したが[5]、受理されず同月9日に除籍処分が確定した[6]。7月11日、国民の生活が第一の結党に参加し、同党幹事長に就任[7]。12月に行われた第46回衆議院議員総選挙には東京15区に日本未来の党から出馬するも落選。

2013年5月、第23回参議院議員通常選挙の生活の党公認候補(比例区)に決定した。

人物 [編集]

  • 創価大学OBであり、国政進出は公明党からであるが、新進党時代には「私の政治の師は小沢一郎」と公言。1997年の新進党解党に際しても、旧公明党系議員が結成した新党平和や黎明クラブには参加せず、公明党・創価学会とは事実上袂を分かつ形となった。その後も、選挙では公明党・創価学会から公式な支援は受けていない。
  • 2011年3月12日、東日本大震災に見舞われた宮城県を訪れ上空からヘリで被災地を視察した際、居眠りをしていたとして、同乗した宮城県関係者から「眼下で多くの県民の命が失われているのに、どういうつもりか」と怒りの声が上がった。「熟睡したわけではない。座った時にうとうとした」と眠っていたことを認めた上で、「あってはならないが、地震発生後から睡眠をとっていないという事情もある」と釈明した[8]

不祥事 [編集]

政治資金 [編集]

  • 2010年11月19日に東京都選挙管理委員会が公表した政治資金収支報告書により、税金を原資とする党本部からの交付金が半分近くを占める政治資金を、自身の趣味の葉巻の購入費に充てていたことや銀座のクラブ等の遊興費の支払いに充てていたことが明らかになった[9]
  • 2011年11月24日に東京都選挙管理委員会が公表した政治資金収支報告書により、東が代表を務める民主党東京都第15区総支部が2010年、「渉外費」としてゴルフ場やゴルフ会に少なくとも9回28万円以上を支出し、更に2010年7月27日には「事務所費」の名目でゴルフ用品約5万円分を購入していたことが明らかになった。同支部は2010年、民主党本部から税金を原資とする政党交付金計1千万円を受けている。東事務所は「支持者らによる『東祥三ゴルフ会』があるなど、ゴルフを通じた政治活動もある」等と主張。活動の詳細についての説明はなかったものの、東本人の費用は「ポケットマネーで払っている」という。また「事務所費」の名目で購入したゴルフ用品もこのようなゴルフコンペにおいて秘書らが使うゴルフクラブやボールなどであると釈明、それらの用品は事務所で管理しているという。更に約3万円を千葉県のゴルフ場に払った記録がある2010年11月28日は、北朝鮮による韓国延坪島砲撃の直後、米韓合同軍事演習の初日にあたる。東は当時、拉致問題・防災担当の内閣府副大臣であったが、2010年11月28日は菅直人首相が全閣僚に都内待機や緊急時の1時間以内の登庁を求めている状況であった。それにもかかわらず東は千葉県のゴルフ場に出掛けていたのではないかとの疑いも持たれたものの、東事務所は「公設第2秘書と私設秘書が支持者とのゴルフコンペに出掛けた費用であり、東本人は参加していない」と釈明している[10]

脚注 [編集]

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関連人物 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

議会
先代:
平野博文
日本の旗 衆議院安全保障委員長
2011年 - 2012年
次代:
笹木竜三
先代:
東順治
日本の旗 衆議院経済産業委員長
2009年 - 2010年
次代:
田中慶秋
官職
先代:
大島敦平岡秀夫大塚耕平
日本の旗 内閣府副大臣
2010年‐2011年
末松義規平野達男と共同
次代:
石田勝之後藤斎中塚一宏
党職
先代:
(結成)
国民の生活が第一幹事長
初代 : 2012年
次代:
(解党)