岩國哲人

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日本の旗 日本の政治家
岩國 哲人
いわくに てつんど
生年月日 1936年7月11日(75歳)
出生地 大阪府大阪市
出身校 東京大学
前職 日興證券社員
メリルリンチ証券代表取締役社長
(現三菱UFJメリルリンチPB証券
メリルリンチ日本証券
メリルリンチ上席副社長
エイボン・プロダクツ取締役
所属政党 (無所属→)
新進党→)
太陽党→)
民政党→)
民主党→)
自由民主党
公式サイト 岩國哲人ホームページ

選挙区 東京6区→)
比例東京ブロック→)
神奈川8区→)
比例南関東ブロック
当選回数 4回
任期 1996年10月21日 - 2009年7月21日

当選回数 1回
任期 1989年 - 1993年
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岩國 哲人(いわくに てつんど、1936年7月11日 - )は、日本政治家自由民主党政務調査会顧問。

衆議院議員(4期)、島根県出雲市長(1期)、民主党副代表、メリル・リンチニューヨーク本社上席副社長を歴任。米国・バージニア大学経営大学院客員教授[1]。中国・南開大学周恩来政府管理学院客員教授[1]。中国・国立 山西大学外事処(国際交流部)客員教授[1]。韓国・東西大学校経営学部碩座教授[1]

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち~学生時代

大阪府大阪市生まれ。曽根崎小学校1年生の時父が亡くなり、母の故郷である島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現出雲市)に転居[2]。小学校、中学校の頃は野球部に入った[2]

長男だった岩國は母を助けて、高校3年の春まで畑仕事に従事した[2]1959年東京大学法学部卒業[1]

[編集] 金融界へ

日興證券(現日興コーディアル証券)入社[1]ロンドンパリ支店長(73~77年ベイルート駐在員事務所長を兼務、中近東およびアフリカを担当)と海外勤務が続き、1977年、同社を退社[1]。同年、米国のモルガン・スタンレー投資銀行勤務[1]

1984年、世界最大の投資銀行メリル・リンチ社日本法人の社長・会長[1]

1987年、メリル・リンチ・キャピタルマーケット米国本社上席副社長に就任[1][3]

[編集] 政界入り

出雲市長として

1989年出雲市長選挙に出馬し、初当選を果たした。市長在任中、「行政は最大のサービス産業」「小さな役所、大きなサービス」という持論をもとに、ショッピングセンター内の行政の土・日サービスコーナーや樹医制度の創設、総合福祉カードの導入、日本最大の木造ドームの建設など次々と新施策を実現し注目される[1]。出雲市はわずか2年で、トヨタソニーなどと並び日本で最も優れた企業として、JMA(日本能率協会)マーケティング最優秀賞を受賞[1]。また、豊かな国際経験に独自の視点が評価を受け、国の経済審議会及び、行政改革推進審議会専門委員、等を歴任[1]

神西駅を出雲大社口駅へと改称した件では、駅名の改称のみでそれ以外の対応を一切行わず、観光客に混乱を与えただけに終わる(その後、再び出雲神西駅に改称。詳細は当該項を参照)など、問題も残した。

都知事選出馬

市長退任後、1995年東京都知事選挙無所属で出馬するが、青島幸男石原信雄に次ぐ3位で落選した。なお、都知事選出馬の際、選挙公報に職業を「大学教授」と記載し、同じく都知事選に立候補していた大前研一から「岩國はバージニア大学の教授ではなく、給与の支払われない客員教授(Visiting Professor)であり、「大学教授」を名乗るのは経歴詐称である」と批判されている。また「メリルリンチニューヨーク本社上席副社長」の肩書きについても、大前は「岩國が上席副社長を務めていたのは、メリルリンチのニューヨーク本社ではなく、メリルリンチの子会社であるメリルリンチ・ニューヨーク。岩國の実際の肩書きはメリルリンチ・ニューヨークという子会社のシニアー・バイス・プレジデント(上席副社長)であり、メリルリンチのニューヨーク本社の上席副社長ではない」と指摘している。

衆議院議員として

1996年第41回衆議院議員総選挙新進党公認で東京都第6区から出馬し、初当選を果たした。国会議員の傍ら、日本海新聞及びその姉妹紙である大阪日日新聞に毎週月曜日、コラム「一月三舟」を13年にわたり連載した。月刊の経済誌『実業界』でも1996年10月から2009年12月まで論説を執筆した。新進党解党前に羽田孜元首相に従って離党し、太陽党結党に参加。民政党を経て、民主党に入党した。

1998年第18回参議院議員通常選挙では、東京都選挙区から民主党公認で出馬した小川敏夫を支援。翌1999年、民主党を離党し衆議院議員を辞職した鳩山邦夫の後任の民主党東京都連会長に就任し、1999年東京都知事選挙に出馬した鳩山の選挙対策本部長を務めるが、鳩山は石原慎太郎に敗れ、次点で落選した(選対事務総長は吉田公一)。同年9月、中国南開大学客員教授に就任。
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、再選を果たした(東京6区からは石井紘基が出馬し、当選)。同年9月、民主党東京都連会長選挙に再選を目指して立候補したが、海江田万里に敗れ、退任。党副代表に就任した。

2003年第43回衆議院議員総選挙では神奈川県第8区に国替えして出馬し、無所属江田憲司(元橋本龍太郎首相秘書官)、自由民主党吉田たかよしらを破り、当選。2005年第44回衆議院議員総選挙では江田に敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活し、4選を果たした。2006年、民主党国際局長に就任。

2009年第45回衆議院議員総選挙には再度神奈川8区からの出馬を予定していたが、8区では公認が得られず、佐藤謙一郎の引退により空白区になっていた神奈川県第1区への国替えを党執行部から求められる。当初は神奈川1区で公認を受けたが、2009年1月に公認を返上し、次期総選挙への不出馬を表明した(神奈川1区からは中林美恵子が出馬し、当選)。2009年5月に韓国東西大学経営学部の「碩座教授」に就任[4]。7月の衆議院解散により衆議院議員を失職し、政界を引退した。

[編集] 政界引退後

2009年10月、日本の住友化学と世界最大のサウジ石油会社サウジアラムコ社が共同で出資した「ペトロ・ラービグ社」が整備・建設を進めてきた、総費用1兆円の石油化学プラントの完成記念式典に鳩山由紀夫首相の特使として派遣された。この式典はサウジアラビアの最高権力者である国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズの出席も予定されており、日本政府として原発メーカーを売り込む機会など、温室効果ガス排出量大幅削減を国際的に表明していた鳩山由紀夫内閣にとっても重要であった。しかし、国際的には無名でサウジアラビアに人脈もなく、政府の要職に就いているわけでもない岩國が政府特使として派遣されたため、サウジアラビア政府は外交プロトコル上、不相応であるとして国王の出席をキャンセルした。なお、経済産業省は当初、アラブ地域に人脈を持ち、かつて丸善石油(現コスモ石油)に勤務していた福田康夫元首相の派遣を政府に対して強く求めていた[5]

2010年自由民主党政務調査会顧問に就任。政敵である民主党の重役を務めた人物を起用するという異例の人事で、自民党政調会長である石破茂に請われての就任である。

[編集] 発言

  • 2008年5月 民主・国民新両党の議員連盟「朝鮮半島問題研究会」会長として挨拶し、「日本国民は拉致問題に拉致され、自縄自縛に陥っている」と語ったと産経新聞が報道したが、出席者は「そのような事実はない」とこの報道を否定している。

[編集] 所属議員連盟


[編集] 出演番組

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 岩國哲人(いわくに てつんど)profile
  2. ^ a b c 一月三舟 2008年8月17日の紙面より 岩國哲人ホームページ
  3. ^ 週刊新潮がこの「ニューヨーク本社上席副社長」の肩書きについて、実際は子会社の社長であると報道し、岩國が週刊新潮を提訴。東京地裁が新潮側に非を認め、こうした報道が繰り返されないよう求めた。ただし、大前研一もこの肩書きについては1995年東京都知事選挙の最中に「「ニューヨーク本社上席副社長」の肩書きに関して、メリルリンチの1987・1988・1989年の年次報告書の経営陣の紹介欄に岩國の名前が掲載されていないとして、岩國に説明を求める公開質問状を送付したが、岩國は返答しなかった(大前研一「大前研一敗戦記」(文藝春秋)68~77頁)
  4. ^ 日本衆議院の岩國哲人議員、釜山・東西大教授に 聯合ニュース 2009年4月22日
  5. ^ [1]  日経ビジネス オンライン

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

議会
先代:
伊藤忠治
日本の旗 衆議院懲罰委員長
2005年 - 2006年
次代:
横光克彦
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