小泉純一郎

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小泉 純一郎
(こいずみ じゅんいちろう)

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日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 2001年4月26日
 - 2006年9月26日

生年月日 1942年1月8日(67歳)
出生地 神奈川県横須賀市
出身校 慶應義塾大学経済学部卒業
ロンドン大学(聴講生)
学位・資格・称号 経済学士(慶應義塾大学)
前職 衆議院議員秘書
会社員
世襲の有無 3世
祖父・小泉又次郎
父・小泉純也
選挙区 衆院神奈川県第11区
当選回数 衆12回
党派 自由民主党(無派閥)
没年月日

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本政治家

衆議院議員内閣総理大臣(第87代第88代第89代(在任期間2001年4月26日 - 2006年9月26日))。 内閣総理大臣の在任期間は1,980日と、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂に次ぐ第3位。また、中曽根康弘以来の、辞任せずに自由民主党総裁としての任期を全うした内閣総理大臣でもある。

他に国務大臣として第132代外務大臣、第74代・第86代厚生大臣、第56代郵政大臣、第38代農林水産大臣を務める。

祖父、父に続く3世の世襲政治家でもある。

目次

経歴

出生から初当選まで

小泉と家族

1942年神奈川県横須賀市小泉純也・芳江夫妻の長男として出生。母方の祖父小泉又次郎第2次若槻内閣逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”の異名で知られる大衆政治家だった[1]。父・純也は戦後に一時公職追放となるが、政界復帰して防衛庁長官をつとめた。

神奈川県立横須賀高等学校慶應義塾大学経済学部を卒業して、ロンドン大学に遊学(公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし)。1969年8月に父が急死したため帰国。

同年12月、亡父の跡を継ぎ、第32回衆議院議員総選挙自由民主党公認で立候補し10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

1970年より福田赳夫書生を務め、福田から政治家としての薫陶を受けた。

1972年12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲秘書となった。 また、同期の山崎拓加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。

衆議院議員

1979年第2次大平内閣大蔵政務次官に就任し、この在任中に政治家としてのライフワークとなる郵政三事業郵便簡易生命保険郵便貯金)の民営化を持論としたといわれる[要出典]

大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分をつくらない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の創始者泰道照山の孫と結婚し、その間に3人の子どもをもうけたが1982年に離婚。「離婚するのは、結婚の十倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している(家族構成を参照)。

1988年竹下内閣改造内閣厚生大臣として初入閣し、就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げた。

1989年リクルート事件竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの中選挙区制から小選挙区を軸とした制度への選挙制度改革が叫ばれ、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の羽田孜と対立した。

1991年、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束し、海部を総裁選不出馬に追い込んだ。

1992年宮澤内閣改造内閣郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。また郵政大臣在任中にもかかわらず郵政民営化論を主張する小泉に対し、政務次官が「大臣にはついていけない」と辞表を提出したこともあった。

国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」[2]、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」[3]等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。

また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている[4]。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした[5]

1993年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。

総裁選への挑戦

1994年、社会党委員長の村山富市を首班とする自社さ連立政権で自民党は政権に復帰し、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。

1995年参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北、河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。

郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、安倍晋三ら若手議員のグループが小泉を推した。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年に橋本内閣が成立すると、第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。

1998年参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持も取り付けられず、自身の清和会すらも固められず最下位に終わった。

加藤の乱

加藤の乱」も参照

2000年青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、その上に失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。2000年11月には遂に18.4%を記録する。これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一山崎拓は、公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を触れ回った。

加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)は分裂、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は大きな打撃を受け、小泉は党内での評価を上げた。

小泉旋風

詳細は「小泉旋風」を参照

森が退陣した後を受けた2001年4月の自民党総裁選で、橋本龍太郎麻生太郎亀井静香と共に、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。また、主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子の協力を受けた。

橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。小泉は予備選で地滑り的大勝をし、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日の首班指名で第87代内閣総理大臣に就任した。

内閣総理大臣

2006年6月29日、小泉純一郎とアメリカ合衆国大統領ブッシュ

小泉は組閣にあたって、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」「総理支配」と呼ばれる流れをつくった。山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会からは誰も党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃行政改革担当大臣に、民間から経済学者竹中平蔵経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団住宅金融公庫など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時の小泉内閣の支持率は、87.1%(読売新聞社調べ)と空前の高い率を記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日8月15日靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。以後も毎年、日や形式を変えつつも参拝を行った。中国・韓国はこれに強く反発し、首脳の相互訪問が途絶えるなど、中韓との関係は冷え切った。

9月11日米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。宮沢改造内閣の閣議での発言を翻すものであった。

国際情勢が緊迫するなか、外交機密費問題などで世論の批判を受けていた外務省は、田中外相が外務官僚や外交族の鈴木宗男と衝突し、スキャンダルの暴露が応酬されるなど機能不全に陥っていた。当初は、混乱を他人事のように語っていた小泉も、2002年2月には遂に田中真紀子を外相から更迭した。人気のあった田中の更迭により小泉内閣の支持率は急落した。なお、田中は8月に秘書給与疑惑が浮上して議員辞職した。

「政治とカネ」のスキャンダルの連発で支持率を落としたが、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、5人の拉致被害者を帰国させた。ところが、8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮の回答が不十分なものであり、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなどで、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。国交正常化交渉は頓挫し、北朝鮮との外交問題は小泉政権を通しての懸案となったが、拉致被害者が帰国したことで一定の成果は上げたとして内閣支持率は再び上昇に転じた。

2002年9月30日小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫金融大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。

2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦前からアメリカ支持を表明したことで、アメリカ追従外交として野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。

9月に行われた自民党総裁選平成研究会藤井孝男運輸大臣を擁立して小泉降ろしを図ったが、自民党参議院幹事長であった青木幹雄がこれに与せず、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。以後、清和政策研究会が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選されると小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。

2004年1月、陸上自衛隊イラク南部のサマーワへ派遣したが、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを拒否。人質3人は後に解放された(但し小泉の強硬姿勢が功を奏したわけではなく、地元部族長の仲介によるもの)。さらに2人が拉致され後に解放される。

2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌で金正日総書記と会談した。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。これに伴い、5人の拉致被害者の子供の帰国を実現した。その後の北朝鮮の対応はおよそ日本の世論を納得させるものではなく、火に油を注ぐ格好になり、日朝国交正常化交渉は再び暗礁に乗り上げ、その後、北朝鮮は日本を無視。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年7月、第20回参議院議員通常選挙自民党が改選議席数割れになり、安倍が幹事長を辞任、後任には武部勤が就任した。

破綻しかけている年金制度改革が国民の重大な関心事となっており、6月に年金改革法を成立させるが、抜本的な改革には程遠いものだった。小泉の最大の関心は長年の持論の郵政民営化にあった。参院選を終えたことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、郵政民営化を最優先事項とした。

2005年6月、国民保護法が成立し、地方自治体の武力攻撃に対する対処法が定められた。

小泉劇場

詳細は「小泉劇場」を参照

2005年、小泉が「改革の本丸」と位置付けた郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。これに反対派は猛反発する。ここにおいて、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そんな無茶はできまいと高をくくっていた。

2005年8月8日参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を郵政解散と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。9月11日の投票の結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327の議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれることになる。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願はようやく実現された。

ポスト小泉

詳細は「麻垣康三」を参照

2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。麻生太郎外務大臣に、谷垣禎一財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。

8月15日終戦記念日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。

2006年9月20日自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日 に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、戦後3位の長期政権となった。

総理退任後

総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。

小泉に院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。岸信介田中角栄中曽根康弘竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会は森喜朗の派閥)。

国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍首相(当時)より目立ってしまうことを避けるためとされた。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定してきた。2007年9月12日に、安倍晋三首相自民党総裁)が辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)[6][7]

2007年2008年8月15日終戦記念日)の朝、2006年と同様に靖国神社を参拝した[8]

2007年9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区(衆議院東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った[9]

議員引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補しない意向を明らかにした。総理経験者が総理退任後の衆院選に立候補せずに引退するのは池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めて。

ただ、国会の外での政治活動は継続すると表明している。自分の選挙区の神奈川11区には自らの私設秘書である次男の小泉進次郎を後継として立候補させる見通しである[10]

政治手法

小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。

政権公約となった政策

靖國神社への8月15日(終戦の日)参拝

靖国神社問題」も参照

2001年自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。

郵政民営化

2005年政府国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。

タウンミーティング

詳細は「タウンミーティング 小泉内閣の国民対話」を参照

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。

国債30兆円枠

小泉内閣は各年度予編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げたが、達成できたのは2001年度と2006年度予算の2回のみだった。その際、「(守れないことは)大したことじゃない」との発言を行った。

ペイオフの解禁

2001年自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。

その他の主な政策

年金改革

年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金等控除の縮小をした。

医療制度改革

医療制度改革関連法案を国会で可決させ、サラリーマン医療費負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70-74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。 また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減したほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。

女系天皇容認

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置し女性天皇女系天皇を認めさせようとしたが、改正審議の際、秋篠宮家における懐妊ニュースを聞いて断念した。

一内閣一閣僚

小泉は閣僚が交代するのに批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していた。しかし、田中真紀子外相の更迭で原則を崩し、 2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。

他の政策

内政

外交

2005年パースシャーサミット日本の首相として参加(後部列右から2番目の人物)

主な所属議員連盟

人物像

信念・容姿

  • 身長は169cmと前任の森喜朗(175cm)よりも低いが、肥満型の森と比較して痩せ型のためか森よりも高身長に思われていた様である(長男の小泉孝太郎は177cm)。ちなみに後任の安倍晋三麻生太郎は共に175cm、福田康夫は171cmと21世紀に総理大臣を務めた人物では一番背が低い。
  • 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
  • 郵政民営化道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼んだ。
  • 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
  • 愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)。
  • 尊敬している人物は吉田松陰である。
  • 国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯戦争犯罪人と認識している」と答弁している。
  • 2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉総理自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
  • 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターがつくられた。なお、2005年冬に米国俳優のトム・ハンクスと米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。
  • 人からの贈り物は、ほとんど受け取らない。バレンタインのチョコレートも送り返している。
  • 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、その席上で仲人の新郎新婦紹介で、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と、列席者すべての度肝を抜いた発言をしたこともある。
  • 米国俳優のリチャード・ギアと面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。

対人関係

  • 福田赳夫に師事した。
  • 第43回衆議院議員総選挙で一度は落選した盟友、山崎拓を首相特別補佐官として登用し、2005年4月24日の衆議院議員補欠選挙では山崎は再び議員に返り咲いている。その後は靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠化したとも言われている。
  • 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前神奈川県議会議長)は、暴力団稲川会の元組員であり、石井会長と非常に親しい関係にあった[12]

対外関係

2006年6月29日ホワイトハウスにて、盟友ブッシュ大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉首相。
  • 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線にのっとっている。アメリカ同時多発テロの際は被災地のニューヨークを訪問し、イラク戦争においては諸外国の中でいち早く自衛隊の海外派遣を決定したが、派遣した国の元首の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
  • アメリカブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプデービッドの別荘に招かれた。この親密ぶりを渡辺宜嗣は、「『ロンヤス関係』を超えた」と評した。
  • 2002年カナダで開催されたカナナスキスサミットの際、冗談めかして「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言い両手両足をついてブッシュ米大統領の足元にひれ伏すという日米関係を象徴するかのようなパフォーマンスを演じた。
  • 2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、当時関係が冷却化し日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名した。両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。
  • 北朝鮮に対しては対話と圧力を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
  • 靖国神社への参拝をめぐり反発する中国・韓国との関係は悪化。反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。

音楽・芸術関係

スポーツ・芸能関係

  • 大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
    • 首相就任直後の2001年5月の夏場所では、たいていは内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動したっ!」は流行語ともなった。ただし、この負傷が原因となって、貴乃花はこの優勝を最後に現役を引退した。
    • 郵政解散で大勝した年の2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に対して、「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京両国国技館であったが、この時は福岡国際センターである。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
  • プロ野球での支持球団は神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズ。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また堤義明とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった西武ライオンズのホームゲームを観戦に西武ドームに何度も足を運んだ。横浜高校出身の松坂大輔が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事も有った。
  • サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦がドイツブラジルになったのを受け、カナダカナナスキスサミット第28回主要国首脳会議)で同席したドイツのシュレーダー首相を日本国政府専用機に乗せ、横浜国際総合競技場に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される(治外法権)など特別な事情があり、外国の元首や要人が同乗するのは異例)。
  • スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行う。これは小泉のスポーツ好きを示す例であり、小泉が世間の話題に敏感であるという例の一つでもある。
  • 1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。
  • 1999年に放送されたドラマTEAMフジテレビ系)に文部大臣として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作のSMAP×SMAPのビストロスマップのコーナーにも出演している。番組中に中居正広は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。日本テレビ製作のモー。たいへんでした にも出演した。
  • 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から東京帝拳入門したバンタム級プロボクサー大和心を応援していた。
  • 2002年5月26日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬(タニノギムレット)の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の岸信介首相以来の44年ぶり2回目。
  • みのもんたとも親交が深いらしい。そのためか、2008年9月25日に政界引退の情報に対してもみのは驚いた様子を全く見せず、それどころか「小泉さんはずっと前から言われてたんですよ!『65歳位で引退しようかな、もうその頃が引き際だ』って。何故知ってるのかって?僕と小泉さんはお友達なんですよ」と発言していた[13]

人物評

  • 首相就任以来毎日通常2回、官邸で総理番記者の質問(ぶら下がり)に立ち止まって答えた(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった)。
  • YKKでは、人徳の山崎、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。
  • 1998年の自民党総裁選に出馬した際田中真紀子は小泉を変人と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。
  • 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「ナチズム」「ブーランジスム」と揶揄される程の驚異的支持率であった。
  • 2001年9月の臨時国会における所信表明演説ではチャールズ・ダーウィンの進化論を経済社会にも取り込むよう発言した(欧米では、かつてヒトラーが進化論を演説に取り込んだことから、演説に細心の注意が払われる傾向にある)。
  • 田中真紀子(当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40%以上の支持率を保ち続けた。
  • 聖域なき構造改革」として、国民に対して痛みを伴う改革を主張した(野党には「痛みしか伴わない」と批判された)。
  • 衆議院選挙における小選挙区比例代表並立制に一貫して反対し、選挙の際は重複立候補していない(2005年の郵政選挙では一時期自身の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。ただし、2005年の選挙では比例代表並立制を活用して新人議員を多数当選させている。
  • 靖国神社に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と押し通した。他方で政教分離原則に反すると議論を呼んだ。ただし、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は日本遺族会からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。
  • 2001年の総裁選においては田中真紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。

主な発言一覧

  • 橋本首相だったらたいして変わらない。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月)
    自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。
  • 「変人の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式)
    次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した田中真紀子の応援に応えての発言。
  • 「私が、小泉が、自民党をぶっ潰します!」(2001年4月)
  • 「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日に靖国神社を、いかなる批判があろうと必ず参拝します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会)
  • 「構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日)
  • 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」
    2001年5月の大相撲夏場所で横綱貴乃花が幕内で優勝し、その表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年 - 2002年)
  • 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆院予算委員会)
    赤字国債の発行枠が公約である30兆円を上回ることをうけての発言。後にこの発言を撤回。
  • 「今イラクのどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、党首討論)
    民主党菅直人代表の「非戦闘地域というのはフィクションではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。
  • 集団的自衛権を認めるなら、憲法を改正したほうがいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会)
  • 「おだやかで快活な冗談を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議)で変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会)
    金正日総書記の印象をこう語った
  • 「野球界にも権力闘争があるんだね」
    原辰徳の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。
  • 「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの会社だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論)
    民主党岡田克也代表が厚生年金加入時の会社の勤務実態を追及するとこう答えた。
  • 自衛隊の活動しているところは非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
    岡田民主党代表に「戦闘地域と非戦闘地域とについて具体的にどういう状態をさすのか」と聞かれての発言
  • 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で森喜朗前首相に)
    参議院で参院郵政民営化法案の否決が濃厚になり衆議院解散を思いとどまらせようと会談した森前首相にこう答えたという。
  • 「今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
  • 「その時ガリレオは、『それでも地球は動いている』と言ったそうであります」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
  • 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」
    2005年11月の大相撲九州場所で年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に、内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 格差が出ることが悪いとは思わない」 (2006年2月1日、参院予算委員会)
  • 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、靖国神社参拝後の記者質問に対して)
  • 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演)
  • 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の中川秀直幹事長から、年金支給漏れ問題で歴代厚生大臣の責任により給与返納に言及されたときの返事)
  • 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』という坂であります。まさかあのような形でね、安倍さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日)
  • 「政界では、権力闘争は当たり前だ。敵をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、土下座するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」
    総理辞任後、小泉チルドレンに向けて言い放った。
  • 「5人の候補者の全員が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)北島選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、ポスト福田について)
  • 「わたしは最近の麻生太郎首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただあきれているところだ」「わたしについても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、わたしは自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日)
ウィキクォート
ウィキクォート小泉純一郎に関する引用句集があります。

家族 親族

実家
自家
他家
  • いとこ・井料克己(いりょう かつみ、元神奈川県横須賀市議会議長)

系譜

小泉家
祖父小泉又次郎武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人の二男として生まれた。又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠大工左官、人夫、等を送り込む人入れ業を始める[16]。又次郎は明治40年(1907年)横須賀市議会議員、明治41年(1908年)衆議院議員となり浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。父小泉純也鹿児島県川辺郡東加世田村小湊字小松原(現・南さつま市)の漁業鮫島家に生まれ、32歳の若さで代議士となり、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。神一行の著書『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』236-237頁に「さてその小泉の閨閥であるが名門といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代つづく政治家家系の血筋とみてよい。」とある。
  藤田丈吉━━━━泰道正年  
          ┣━━━━━┳━泰道一正
  泰道照山━━┳━芙蓉子   ┗━泰道真也 
        ┣━泰道三八
        ┗━志計子
          ┣━━━━━━━佳代子
          宮本輝久    ┣━━━━━┳━小泉孝太郎
                ┏━小泉純一郎 ┣━小泉進次郎
  鮫島彌三左衛門━小泉純也  ┃       ┗━宮本佳長
          ┣━━━━━┫           
  小泉又次郎━━━芳江    ┗━小泉正也 
                  ┃
┏━石田重蔵━━━━石田吉之輔━━━美枝子              
┗━石田光治━━━━典子
          ┣━━━━━┳━石原伸晃
        ┏━石原慎太郎 ┣━石原良純
        ┗━石原裕次郎 ┣━石原宏高
                ┗━石原延啓

年譜

政歴

語録

  • 「首相の権力の最大の源泉は解散権と人事権」

著書

関連項目


参考文献

テレビ番組

  • 独占取材! 今明かす 小泉純一郎の「正体」[1](フジテレビの特別番組)
  • ザ・決断!世紀の決戦[2]

脚注

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  1. ^ 又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』140頁)
  2. ^ 1993年5月7日、閣議での発言
  3. ^ 『朝日新聞』1993年5月7日
  4. ^ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策をとったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
  5. ^ 『朝日新聞』1993年5月14日夕刊
  6. ^ [飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]
  7. ^ 空回り小泉チルドレン…小池擁立も失敗、福田支持へ(2007年9月14日 産経新聞)[リンク切れ]
  8. ^ 2007年8月15日夕刊各紙報道
  9. ^ 週刊FLASH2008年6月10日号
  10. ^ 小泉元首相:次男を後継に 「やはり人の子」「がっかり」[リンク切れ] - 毎日新聞9月26日(同日閲覧)
  11. ^ 「三方一両損」という言葉で自らの改革を自画自賛したが、国会で故山本孝史議員から「三方一両損」の意味を知っているのかと質され返答できなかった。三方一両損は大岡裁きで知られる大岡忠相(大岡越前)のいわゆる大岡政談に出てくる話で、三両を落とした大工とそれを拾った左官が互いに譲り合って受け取ろうとしなかったので、大岡が自分の一両を足して二両ずつ分け合わせたという話。小泉の改革では保険機構はまったく損をしていないばかりか、被保険者は日頃の保険料も、窓口負担もともに増えているので三方一両損の比喩は全く当たらない。
  12. ^ 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 24-53頁 -政治経済の真実
  13. ^ 2008年9月26日放送の『おもいッきりイイ!!テレビ』より
  14. ^ 道子とその夫竹本との間に生まれた娘は、両親の離婚に際して、純也の養女となっている。竹本は窃盗の常習犯である(「小泉首相の元義兄『懲役4年判決』」 【週刊現代 2005/9/24日号】)
  15. ^ 石原慎太郎は「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、親戚筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど(笑)」と述べている(系図でみる近現代 第27回 小泉純一郎・純也・又次郎 小泉進次郎 石原慎太郎
  16. ^ 当時の横須賀では沖仲仕手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという(『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。宮崎学の著書『ヤクザと日本―近代の無頼』54-55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一台組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。」とある
  17. ^ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎は【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」の中で「彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」と述べている。栗本の証言が正しければ、1963年に留学したことになる。同級生たちはみな1963年渡欧と思っているという。また栗本は「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。」と述べている
  18. ^ 小泉談話

外部リンク

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ウィキメディア・コモンズ
官職
先代:
森喜朗
日本の旗 内閣総理大臣
第87・88・89代:2001年 - 2006年
次代:
安倍晋三
先代:
渡辺秀央
日本の旗 郵政大臣
第55代:1992年 - 1993年
次代:
宮沢喜一
先代:
藤本孝雄
菅直人
日本の旗 厚生大臣
第74代:1988年 - 1989年
第86代:1996年 - 1998年
次代:
戸井田三郎
宮下創平
先代:
田中眞紀子
日本の旗 外務大臣
第132代:2002年(兼任)
次代:
川口順子
先代:
島村宜伸
日本の旗 農林水産大臣
第38代:2005年(兼任)
次代:
岩永峯一
党職
先代:
森喜朗
自由民主党総裁
第20代 : 2001年 - 2006年
次代:
安倍晋三
先代:
森喜朗
清和政策研究会会長
第5代:2000年 - 2001年
次代:
森喜朗
歴代内閣総理大臣
8586
森喜朗
878889
2001年 - 2006年
90
安倍晋三

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

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池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
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宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎