日本共産党
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| 幹部会委員長 | 志位和夫 |
|---|---|
| 書記局長 | 市田忠義 |
| 成立年月日 | 1922年7月15日 (合法化は1945年) |
| 本部所在地 | 東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26番7号 |
| 衆議院議員 | 9 /480 (2006年1月20日現在) |
| 参議院議員 | 7 /242 (2007年7月30日現在) |
| 党員・党友数 | 党員約40万4,000 (内、党費納入者推定26万1,900[1]) (2006年1月現在) |
| 政党交付金 | (制度に反対し受給拒否、2008年現在) |
| 政治的思想・立場 | 革新、共産主義 |
| ウェブサイト | 日本共産党中央委員会 |
| シンボル | 歯車を通した稲穂を乗せた4枚の赤旗 |
| 国際組織 | なし |
日本共産党本部 |
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| 共産主義 |
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共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
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日本共産党(にほんきょうさんとう、英:Japanese Communist Party,JCP)は、日本の共産主義政党である。
目次 |
[編集] 党名
公式の文書及び機関紙『しんぶん赤旗』紙面や公式サイトでの表記は「日本共産党」とし、基本的に略称は使用しない。日本マスメディアでは「共産党」との略称がほとんどである。英称のJapanese Communist Partyの頭文字によるJCPという表記もある。「日共」あるいは党本部ビルの最寄駅に因んで「代々木」などの俗称もあるが、党及び支持者、マスコミでは用られない。
また、日本国内に数多く存在する他の「共産党」と特に区別するため「日本共産党(不破派)」「日本共産党(志位派)」などの表記もあるが、特殊な事例に限られる(分派の一覧はCategory:日本共産党諸派参照)。
[編集] 概要
「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。
2008年現在の国会に議席をもつ党派では日本で最も歴史が長い。「合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂と歯車」がシンボルマークである。
[編集] 党勢
日本共産党の2007年7月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員7名である。地方議員数は2006年5月3日時点で3,403人と、第一党の地方議会勢力となっている。(自民党所属の地方議員は無所属で会派を組んでいることも多い。)※後述。また、十数人の党員首長を抱えている。※後述
党員約40万人、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置く、などのように、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
ただし、「綱領を読了した党員が34.2%」(日本共産党第24回党大会決議、2006年1月)「選挙戦への活動参加は、多くの党組織で6割から7割台にとどまった」(同大会第4回中央委員会総会での幹部会報告、2005年10月)という実態もある。
既に死亡した党員について遺族が届け出忘れ・事務処理の遅れなどで党員として集計していたりする場合もある。さらには、本人からの離党の届け・未結集の党員などについて、支部からの要請にもかかわらず、所轄する地区委員会が離党としての処理を行なわず、数年間に渡り引き続き党員として集計され続けている例も多く確認されている。
また、党費納入の率を上げるように促す文書がしばしば出されたり、選挙のときに全党員の決起を呼びかける文書(行動への参加、全党員の日刊紙購読の訴え)が出されるなどの事例が見られることから、「40万人」とされる党員のうち、全てが積極的に党員としての政治活動・選挙活動を行っているわけではない[2]。
[編集] 財政
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。日本の議員は一般に政治資金面で党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤とするが、日本共産党の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。企業・団体献金を受け取らず、政党交付金(政党助成金)を憲法違反の制度であるとして受け取りを唯一拒否している。その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。
機関紙『しんぶん赤旗』は、独自の編集方針で定評があり、非党員の支持者・中立者の読者も多く抱えるが読者数の後退に苦しんでおり、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に286万人だったのが、現在、199万人余になっている。」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
[編集] 綱領
日本共産党は、2004年1月13日から1月17日にかけて第23回党大会を開催し、綱領の全面的な改定を決定した。
[編集] 現状認識と政治的目標
日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止を財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。
[編集] 自衛隊の取扱い
1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条(非軍備・非戦)を将来にわたっての保持を主張することを明示した。その後、現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。
22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば「活用」する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても自衛隊容認から転じて「非武装の日本を目指す」(2006年)との政策に戻った社会民主党とは逆である。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重であり、いわゆる災害派遣を含めて自衛隊を積極的に容認する姿勢は見せていない。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられた[3]。
2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反戦の市民団体や著名人のリストを入手し、公表した(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。
[編集] 「民主連合政府」構想
複数政党と諸団体による「民主連合政府」を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない。党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来に渡って堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由、自由権、人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を謳っている。
[編集] 天皇制の取扱い
天皇制に関しては戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文どおりの象徴天皇制を容認している。ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、政権政党となった場合、国民の合意に基づき天皇制を廃止するのが最終目標としている。
国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。このため国会議員団は国会開会式に参加しない。
[編集] 組織
[編集] 党員
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と上級機関の確認を経て、党員になることができる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。入党に際し掛かる費用は「入党費」(300円)である。
反社会的活動に従事する者や、また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党は認めない。関係の切れた元職員の党員は存在する。規約により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することは出来ない。他党の元党員が入党することは可能ではあるが、通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり「都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける」とされている。
党員は基本的には「支部」に所属して活動する。義務である党費は「実収入の一パーセント」(規約第46条)である。生活に困窮している党員に対し、党費の減免制度がある。また規約上の規定は無いが、しんぶん赤旗の日刊紙を読むことにもなっている。
「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)の表彰制度がある。
日本の国会に議席を持つ政党の中では、利権に関わり無く個人が自発的に希望して入党する割合が最も高いと見られている。党の主要な役職に就いたり、公職の選挙に立候補しない限り、党員であることを積極的に公表する人は極めて少ない。
[編集] 地方組織
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とし、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
- 「支部」は、企業・団体内につくられるもの(職場支部、労組グループ、婦人運動グループなど)から、市町村などの区域内をいくつかにわけた各地単位(地域支部、居住支部)、大学などに通う学生単位(学園支部)、更には階層ごとに組織されるもの(青年支部[4]、複数の学校にまたがる学生支部など)など、様々な形態で存在する。居住地域の「支部」は、他の政党には見られないきめ細かさで、都市部では比較的身近に存在し、議員主体の政党でない同党の特徴と言える。
- 「地区」は、東京都23区では特別区単位で存在し、人口と党員の少ない地域では、県を2~3つにわけた程度の広範囲の名称を冠する「地区」も存在する。
- トヨタ自動車や東京大学など多くの党員を抱える職場・学園、一つの市町村区域内に2つ以上の支部がある場合、地方議員を抱える場合などに補助機関として「委員会」が組織されている(党規約[5][6]など)。
現在の日本共産党規約[5]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあったため、近年ではその反省からか「指導」はかなり控えめになっている。
[編集] 「査問」問題
日本共産党はいわゆる「査問」の存在を否定しているが、かつて「査問」に付され党を除名されたり、後年離党した査問経験者が、その経験談を著作やウェブサイト上で公開し、告発している。[7][8]。また、2002年に日本共産党を除名された人物に対する査問の様子とされる録音資料がブログ上で公開されている[9]。最も著名な例である1972年の「新日和見主義事件」では、査問の対象者は長期間一室に監禁され、家族への連絡も許されなかったなどの証言もあり、「重大な人権侵害」との指摘がある。
[編集] 機関紙誌
[編集] 中央
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの『学生新聞』も発行されていた。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。
かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号を以って廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号を以って廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号を以って「休刊」している。
[編集] 地方
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
[編集] 普及協力
同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。
かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。
[編集] 歴史
[編集] 戦前非合法時代
1922年の同党創設当時、治安警察法、治安維持法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。これは、ほかの資本主義国では、既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、そのために最初は合法性を有していたことと比較すると、日本の独自の事情があった、と言うことができる。日本の場合は、逆に共産党から離脱したものが、社会民主主義政党をつくっていった(堺利彦・山川均・荒畑寒村など労農派が中心)。同党は1922年7月15日に日本共産党として設立され(9月創立説もある)、11月にコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった(最初の「綱領草案」は日本で論議して審議未了)。
「綱領草案」(1923年)、「27年テーゼ」(1927年)、「32年テーゼ」(1932年)という3つの綱領的文書(後の二者はソビエト連邦(ソ連)に本部をおいていたコミンテルンで片山潜などの意見を取り入れながら決定されたもの)によって、日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。「32年テーゼ」では、民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制として、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命を中心スローガンとした(同テーゼ)。この思考はソ連成立以前のツァーリによるロシア帝国の絶対支配と日本の皇室制度に対して、経済的側面からの共通点を過大評価しており、一部のインテリや学生には支持を得たが広範な大衆にはなかなか浸透していかなかった経緯がある。逆に、その日本の皇室がもっていた独自の精神的な立場を、「天皇制」という用語はみごとに表現していたため、戦後「天皇制」の用語は、共産党関係に局限されることなく、広く学問的にも、社会的にも使用されるようになった。
党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。戦前の同党幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では党推薦で労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選し、事実上初めての「日本共産党の国会議員」が誕生した。1929年山本は右翼に刺殺され、党は山本を正式に日本共産党員に加えた。
他方で27年テーゼ時代には、コミンテルンの方針の影響を受け、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用し、労働組合運動などに影響が生まれた。社会民主主義の労農派とは1927年から1937年まで10年間、論争を繰り広げた(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。「東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件」や「川崎メーデー武装蜂起事件」を敢行。コミンテルンからの資金が枯渇すると、資金強奪計画を練り、「赤色ギャング団」を結成。「中国銀行岡山本店襲撃計画」など、不法事案を引き起こした。しかしこの中には、警察が潜入させた人物によって引き起こされたものもあった。それが下記のスパイ査問事件(公式には治安維持法等被告事件。スパイ査問などという表現は存在しない)へとつながることになる。
同党は繰り返し政府から弾圧を受け、堺利彦らは解党を唱え1924年にいったん解党を申し合わせ、翌年再建。さらに1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受けた。
この頃の党の活動としては、いわゆる満州事変に際して「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出し、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。また、日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。日本共産党は軍隊の中にも浸透を図り、1932年には「兵士の友」などの陸海軍兵士にむけた雑誌を刊行。軍港の呉では「聳ゆるマスト」という水兵むけ新聞を出し、海軍にも組織化をすすめた(数ヶ月後に弾圧され壊滅)。当時の指導部は革命近しとして、1930年には労働者に竹槍をもたせ「武装メーデー」と称する行進をおこなわせる事件も起きた。
特別高等警察(特高警察)と政府は、治安維持法に違反する共産党を壊滅させるために、共産党内部に協力者をつくり出すこと、あるいは工作をする人員を送り込むことを戦略的方針とし、協力者や工作員のなかには主要幹部にまでなる者もいた。特高警察は、検挙の手引きとともに、検挙だけでは共産党の後継が依然再生産されることを重く見て、1930年代からは共産党の社会的信用の失墜を企図した事件をおこさせることで根源的な壊滅を図った。特に後年松本清張は『昭和史発掘』のなかで、「スパイM」(松村昇、本名・飯塚盈延)として、1932年の熱海での全国代表者会議での大量逮捕(熱海事件)、川崎第百銀行大森支店襲撃事件を主導したとされる人物について論じている。翌年には中心幹部であった佐野学・鍋山貞親が転向声明を出す事態となった。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられたのもこの頃である。
1932年5月、全教の活動家である松原(本名・宮上則武)が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名された。しかし松原は、そもそも党員ではなかった。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。手を下したのは村上多喜雄だが、スパイと断定して殺させたのは、本物のスパイである松村であったという。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。「スパイ・挑発者の党からの追放」は党内の疑心暗鬼を煽る結果にもなり、特高警察にとっては全てが好都合にことが進んだ。
1933年、中央委員(当時)宮本顕治らが「スパイ」容疑のある人物2人を取り調べていた際に、1人が死亡する事件が発生した。[10]。
このように党内の動揺は愈々激しくなり、ついに1935年3月、活動していた中央委員が検挙され中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
この間に、1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンが方針転換した。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。
その後も、同党の再建をめざす運動(関西における運動)や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった(『日本共産党の七十年』には、1936年1月に関西地方委員会の検挙、11月に名古屋での検挙、1937年12月にコミンテルンの指示で日本に入国して活動していた小林陽之助の検挙、1940年5月に山代吉宗(作家山代巴の夫)や戦後国会議員になった春日正一らの検挙が記録されている)。また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また、宮本顕治は、裁判闘争をつづけ、その中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと公判廷で主張した。
[編集] 終戦と合法化
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では35議席を獲得した。
[編集] 1950年問題(分裂、武装闘争方針)
米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。日本共産党は中央委員会を解体し、幹部だった徳田球一らは非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関がつくられた。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
この頃、中国共産党勝利により、武装闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。
党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
主流派は1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。6全協とその後の総括・宮本路線などのソフトイメージで武闘路線を放棄したと言われている現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察や公安調査庁により“調査活動”が現在も続けられている。特に警察は日本共産党幹部宅盗聴事件、アジトからの隠しカメラを用いた党本部監視、果ては菅生事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手段を用いてスパイ行為及び組織破壊工作をしており、党はその不当性を訴えているが、『警察白書』では、2006年現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡している。警察学校での「初任科教養」においても、党の綱領や決定について、きわめて批判的な講義がなされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党は破防法を成立時から強く批判し、法曹・法学界でも破防法そのものが憲法違反であるとの意見が多数ある。
1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、党の再統一と改革を模索せざるをえなくなった。後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して自主独立の路線を確立するに至ったとされている。さらに徳田に統率された主流派も書記長である徳田が亡命先の北京で客死したことや、その後の指導権争いなど一連の騒動で疲弊しており、国内にいた宮本らの国際派と合流せざるを得ない状態になったとしている。
その後開催された党の第6回全国協議会(6全協)および1958年の第7回党大会で党の団結と統一を果たすに至ったがそこに達するまでは相当の紆余曲折があった。後に選挙において得票率は徐徐に回復してきたが、インテリに対しての大きな威信と指導力を取り戻すことはなかなかできなかった。宮本顕治(のちに、幹部会委員長・議長にも)が書記長に就任後はいわゆる宮本体制を整えていったが、自主独立といわれる路線を構築する要因となったきっかけは、フルシチョフの修正主義を批判したことと、友党関係を築いていた当時の中国共産党とでの文化大革命による干渉がおき、以降はソ連共産党と中国共産党から離反し、外部の意向に拠らず独自に活動を展開することになる。これを契機に不破哲三や上田耕一郎といった改革派を次々と党の中央の要職に抜擢し「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)を打ち出したり、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義、プロレタリア独裁の放棄など名称の変更や改訂を行ったり当時ヨーロッパで提唱されていたユーロコミュニズムの主張と類似するような動きを開始した。これは国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴になった。
なお、大武礼一郎ら所感派の一部は合流せず、日本共産党 (行動派)(現・日本人民戦線)を結成した。
[編集] 「自主独立路線」
中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となったという。しかし、同党が「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)とのべているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調、ソ連のハンガリー侵攻への支持をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全学連などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では穏健路線を取り、強硬な運動を主張する全学連と激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキー」主義者であったわけではない)。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し共産主義労働者党を結成。1964年には中・ソ対立の中で党の中国共産党寄り路線に反対するとし、国会での部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、同じく同条約批准に賛成の意向を示した参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党 (日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時離反している。
1964年にソ連のアメリカ評価、核兵器政策をめぐって日本共産党はソ連共産党と対立し、論争を公然化させた。このなかで、当時国会議員だった志賀義雄や鈴木市蔵が国会でソ連が推進する部分的核実験停止条約に賛成し、日本共産党は「党の決定にそむくもの」として除名した。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
また、1966年、「文化大革命」を契機として中国共産党(主に毛沢東)から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界の共産党でも同じような現象がおきたが中国に同調するグループが各地でつくられ、山口県委員会などが中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的新中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程でも中国派は党規約にそむいたかどで除名された。このように日中共産党の関係が悪化し、日本共産党の自主独立路線に反発するという名目で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が離脱、「日本労働党」、「日本共産党 (左派)」、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、「日本共産党 (マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党 (解放戦線)」などを結成した。合法闘争路線への転換以後のこれらの党内闘争は総じて、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを錦の御旗として掲げていたものの、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代後半ごろに「自主独立」路線を確立した。以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略(プラハの春)・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる日本人拉致事件・大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「社会主義国」一般に対しても同じ姿勢をとるようになった。
1968年の「プラハの春」に際して、党中央はソビエト連邦共産党を明確に批判したが、一部の党組織には、ソ連とワルシャワ条約機構軍を擁護する文書が密かに流された。ソ連派が党内に潜伏していたと見られる。野坂参三はずっと後になってから、「ソ連内通者」として「除名」される。
その後、1972年には日本民主青年同盟(民青同盟)幹部らについて、いわゆる「新日和見主義事件」が発生し、1970年代後半から1990年代前半に掛けて名古屋大学教授田口富久治などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。自党からの分派を含め、共産党は新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した。(党派闘争参照)
前述のように、高揚した学生運動の中で、民青同盟の学生対策のグループ、全学連グループ、「ジャパンプレスサービス」グループ、平和運動グループの中に、大衆運動主義とでも言いうる「新日和見主義」が発生したと党中央は非難した。しかし、それは、議会主義への傾斜を確実ならしめるための組織的な予防措置とみなしうるものであった。こうして、川上徹・高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引くことを余儀なくされた。「新日和見主義」なる分派は実際には組織だって結成されていたわけではなかった(新日和見主義事件)。
さらに、1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と言われた。
ただし、同党はソ連を覇権主義と批判しつつも、その解体にいたるまで「社会主義の生成期」がソ連社会であるとして、ソ連を社会主義の過渡期の社会として規定しつづけた。また、核兵器問題など外交問題での一致点に限定して、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。
スターリン支配のコミンテルンから戦後のコミンフォルム、そしてコミンフォルム解散後もソ連共産党が各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が、長く続いた。共産主義政党がそれぞれの国に根付いていく過程で、とりわけアジア諸国の共産党はソ連(あるいは中国)との対立から「自主独立」を掲げる傾向を強くした。日本共産党と大国の共産党の相克も、そうした中で生じたものであった。
こうして、集団的に排除された、あるいは分裂した「分派」グループは、今日独自の力学と理論で運動を展開し、日本共産党との思想的・運動的な一致点はもはや無く、公然と「日本共産党打倒」を呼びかけている党派もある。政党との行動ではむしろ日本社会党や新進党、民主党、社会民主党などと共同歩調をとるようになっている。集団的な「復党」の動きも見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改定反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
[編集] 「55年体制」下
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、1972年12月に田代文久が特別委員会の石炭対策委員会の委員長に選出され、共産議員として初の国会委員長が誕生した。その後、いったん落ち込んだものの1979年10月7日投開票の第35回総選挙では最高の39議席を得る。
1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。さらに、共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を感じた」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、世田谷区の大場啓二など日本共産党相乗り候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
[編集] 創共協定
公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日、松本清張の仲介で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。
詳細は日本共産党と創価学会との合意についての協定を参照。
[編集] 部落解放同盟との対立
部落問題も参照
ほかに目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで