ベトナム
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- ベトナム社会主義共和国
- Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam
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(国旗) (国章) - 国の標語:Độc lập, tự do, hạnh phúc
(漢字: 独立、自由、幸福) - 国歌:進軍歌

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公用語 ベトナム語 首都 ハノイ市 最大の都市 ホーチミン市 通貨 ドン(VND)(₫ / Đồng; 銅) 時間帯 UTC (+7)(DST:なし) ISO 3166-1 VN / VNM ccTLD .vn 国際電話番号 84
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称ベトナムは、東アジア・東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。国土は南北に長く、北に中華人民共和国と、西にラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。首都はハノイ市。
目次 |
国名 [編集]
正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam"。略称は "Việt Nam" である。フランス語では "République socialiste du Viêt Nam"。漢字(チュニョ)では「共和社會主義越南」となる。
1777年以後、シャムに亡命していた阮氏の生き残り阮福暎は、シャム王やフランス人宣教師などの支援を受け、粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。1802年に首都を中部北方の富春(現在のフエ)に定め、広南阮氏を再興(ただし、1802年以後は越南阮朝と称する)、年号を嘉隆と改めた(この年号は南の嘉定の「嘉」と北の昇隆の「隆」を統合した象徴とされる)。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」(号を求めたが、嘉慶帝は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」、通称は「ベトナム」。一部文献等では「ヴェトナム」の表記もみられる。漢字では「越南」(えつなん)であり、越国と書くこともある。
公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。近年、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国」に改める動きがある[1]。国名変更の是非は、2013年の国会で審議される[2]。
歴史 [編集]
詳細は「ベトナムの歴史」を参照
| ベトナム |
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主な出来事 ベトナム共産党 「国家」 人物 |
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石器文化 [編集]
今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類の歯がハノイの北方タムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器や剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[3]。
今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[4]。
最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器1だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製の鋤・鍬が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾し農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから犬や豚を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟・採取・場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[5]。
青銅器文化 [編集]
紀元前4世紀頃から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。また現在の中国、紹興一帯を支配した越の末裔が、民族のルーツとの説もある。
秦の始皇帝以後、1000年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。
紀元前207年に南越国成立し、同前111年漢の武帝の遠征により、南越国滅亡している。40年チュン姉妹の叛乱。
一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)がインド化されたチャンパ王国を形成していた。
2世紀頃から8世紀頃まで [編集]
- 北部 - 漢、隋、唐、6世紀の終わりごろ隋 (581-618) が中国を統一しベトナムに「交州総督府」を設けた。次代の唐 (618-907) に引き継がれ「安南都護府」となる(安南(アンナム)という呼称のはじまり)。
- 南部 - 不明
越人王朝の形成 [編集]
唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立(北属期終る)、996年に丁朝が成立し、1001年に李朝の成立。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。
以後越人の王朝「大越」(1054年国号を大越とする。中国の呼び名は安南)が続く。大越は南のチャンパと抗争を繰り返したが、チャンパ領は14世紀に越都昇龍(タンロン)を2度攻略した制逢峨(チェーボンガー)の死後内紛で割拠状態に陥り、1471年以降大越黎朝(1428年 - 1788年)及びその諸侯である広南阮氏がこれらを各個撃破して南進し、広南阮氏は更に17世紀にカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。
11世紀前後 [編集]
- 北部 - 李朝、11世紀初めにベトナム統一王朝(李朝)が成立し、中国は「安南国」を朝貢国として承認した。19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。しかし、国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。
- 南部 - チャンパ王国
13世紀頃 [編集]
フランス植民地支配 [編集]
- 1847年 - 4月、フランス軍艦、ダナンを砲撃(フランスの侵略始まる)
- 1858年 - 9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行
- 1862年 - 6月、第1次サイゴン条約(フランスに南部3省を割譲)
- 1867年 - 6月、フランス領コーチシナ成立
- 1874年 - 3月、第2次サイゴン条約(フランス、紅河通商権を割譲)
- 1882年 - 4月、フランス、ハノイ占領
- 1884年 - 6月、第2次フエ条約(パトノートル条約、ベトナム、清への服従関係を絶つ)
- 1887年 - 10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)の成立(フランスによる植民地化)
- 1883年 - 8月、第1次フエ条約(アルマン条約、ベトナムがフランスの保護国に)
- 1905年 ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が反仏独立の支援を求めて来日。
- 1940年 - フランス本国のドイツによる占領、ヴィシー政権樹立に伴う日本軍の北部仏印進駐
- 1941年 - タイ王国とフランス(ヴィシー政権)が交戦。日本政府による仲裁。直後に南部仏印進駐から日英米開戦、太平洋戦争勃発。
- 1944年 - 凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり北部(トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(1945年ベトナム飢饉)。
- 1945年3月11日 - 保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助(明号作戦)下でベトナム帝国の独立を宣言
南北分断時代 [編集]
- 1945年8月15日 - 大日本帝国、ポツダム宣言を受諾した旨声明し、軍に戦闘停止を命令。
- 1945年8月17日 - ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠(ベトナム八月革命)。
- 1945年9月2日 - ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代国家主席に就任。同日、日本が降伏文書に調印した。
- 1946年11月 - ハイフォン(海防)でフランス軍と衝突
- 1946年 - 1954年 - フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争)
- 1949年 - フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。中国、ソ連は、ベトナム民主共和国を承認
- 1954年7月 - ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする
- 1960年12月 - 南ベトナム解放民族戦線結成。
- 1962年2月 - アメリカはサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。
- 1964年 - トンキン湾事件。以降、1973年まで米軍が戦争に直接介入。
- 1965年2月 - アメリカは北ベトナム爆撃を開始、本格的な戦争に突入。
- 1968年1月 - 南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢、アメリカは大打撃を受ける
- 1969年1月 - 南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる
- 6月 - 南ベトナムで、解放戦線は南ベトナム共和国革命臨時政府建設。ベトナム共和国と対峙。
- 1972年4月 - アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開
- 1973年1月 - 南北ベトナム政府、臨時革命政府、アメリカの4者は、パリ和平協定に調印
- 1975年4月30日 - 北ベトナムと解放戦線は春の大攻勢を行い、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏、サイゴンは陥落、ベトナム共和国崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握。ベトナム戦争終結[1][2]。
南北統一以後 [編集]
- 1976年4月 - 南ベトナム消滅による南北統一。初の南北統一選挙を行う。
- 1976年7月2日 - ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。
- 1976年12月 - ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイ市で開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。
- 1978年12月 - カンボジア侵攻を開始(カンボジア・ベトナム戦争、第三次インドシナ戦争の始まり)。
- 1979年 - カンボジア侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止し、ベトナムは孤立
- 1986年12月 - 第6回全国代表者大会以降、社会主義型市場経済を目指す、ドイモイ(刷新)政策を開始し、改革・開放路線に踏み出す
- 1988年3月14日、赤瓜礁が中華人民共和国に占領される(赤瓜礁海戦)
- 1989年9月 - 国内経済が疲弊したベトナムは、カンボジアから完全撤兵
- 1992年 - 越中関係正常化
- 1993年2月 - ベトナムとフランスが和解。当時のフランス大統領はフランソワ・ミッテラン。
- 1995年7月 - クリントン・アメリカ大統領がベトナムとの外交関係樹立を発表。1995年8月5日、ベトナムとアメリカが和解。
- 7月 - 東南アジア諸国連合 (ASEAN) はベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認める
- 10月 - 所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる
- 1996年1月 - ASEAN自由貿易地域 (AFTA) に参加する
- 1998年 - アジア太平洋経済協力 (APEC) 参加
- 2003年 - 日越投資協定締結、7月5日 フォンニャーケーバン国立公園世界遺産に登録
- 2006年6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)をベトナムの国会は選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸相は同省傘下の疑獄事件で指導責任を問われ、事実上更迭された。
- 2007年1月11日 -世界貿易機関 (WTO) に正式加盟した。150番目の加盟国となった。
- 2007年10月16日 -国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
政治 [編集]
統治体制 [編集]
ベトナムの統治体制は、ベトナム共産党による一党独裁制度である。ベトナム共産党の最高職である党中央委員会書記長、国家元首である国家主席、首相の3人を中心とした集団指導体制であり、現在の党書記長はグエン・フー・チョン、国家主席はグエン・ミン・チェットであり、首相はグエン・タン・ズンが務める。政府の運営は、極めて官僚的であり、ソビエト連邦や、国民党独裁下の中華民国に類似している。
現在のベトナム社会主義共和国憲法(1992年制定、2001年改正)でも、ベトナム共産党による国家への領導(指導)と独裁が明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、ホー・チ・ミン(初代ベトナム民主共和国主席兼ベトナム労働党主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。1980年代までは、民主党、社会党などの衛星政党も存在するヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な複数政党制から、純粋な一党制に移行した。現在、ベトナム共産党とその衛星政党以外の政党の結成は一切禁止されている。
国会 [編集]
詳細は「国会 (ベトナム)」を参照
憲法では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし一党独裁制のため、国会は重要な役割を果たしてはいない[注 1]。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線」の審査で絞り込まれる[7]。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験は無い国民も多い[8]。議員は9割以上が党員で、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導は絶対的である[8]。
民主化 [編集]
現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。
反政府組織 [編集]
反政府組織は今なおベトナム共和国時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた諸民族の抵抗組織フルロ (FULRO) 関係者はこれらの組織とは対立関係にあり、各組織の力を一つに集めることができるリーダーシップを有した指導者が存在しない。また、1975年のベトナム共和国消滅から30年以上経ち、世代ごとの反共主義に対する考え方の違いが鮮明になりつつあることから、最近では必ずしも亡命ベトナム人の間で反政府組織が支持されるとは限らなくなっている。
国際関係 [編集]
中国との関係 [編集]
ベトナムは長い歴史の中、中国歴代王朝から繰り返しの侵略を受けた。紀元前111年から約1000年のも間、中国歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、938年にゴ・クェン(呉権)が南漢軍を破って独立を果たした。この間、1世紀にベトナムで初めて中華王朝の圧政に立ち上がったハイ・バー・チュン(チュン姉妹)は英雄視され、その名はベトナムの都市の街路名等に使われている。また、明王朝の際にも、1418年にレ・ロイ(黎利)の蜂起により、明軍を撃破している。その功績は、ベトナムの大小都市の街路名として、至る所で見かける事ができる。13世紀-19世紀に中国の漢字をベースとしたチュノムがエリート層を中心に浸透したが、一般庶民までは浸透しなかった。
南北ベトナム統一後も、1979年に中華人民共和国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、1989年までたびたび交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。
また、最近では南シナ海にある南沙諸島(ベトナム語名チュオンサ諸島)・西沙諸島(ベトナム語名ホアンサ諸島)の領有権問題も抱えている(1988年には人民解放軍によるスプラトリー海戦によって、駐留していたベトナム軍水兵を虐殺され、ジョンソン南礁を占拠されている)。その為、中華人民共和国に対する関係も悪く、南沙諸島の領有権問題で、普段は禁止されているデモも2007年12月に公安(警察)の取り締まりもなく、半ば公然と行われた。
また、中華人民共和国が南沙諸島と西沙諸島を含む南シナ海の島嶼部を『三沙市』(通称:牛の舌)の成立を勝手に宣言した事に対して、ベトナム外務省は猛烈に抗議をし[9]、ベトナム社会主義共和国は、領有するに十分な歴史的証拠と法的根拠を持っているという見解を示し、中国の三沙市設置はベトナムの主権を侵害することであり、両国間合意に違反するともに、中越両国が海洋領有問題解決を目指し開始した交渉を妨害するものである、と抗議した[10]。2012年6月21日、ベトナムの国会は、南シナ海の南沙諸島・西沙諸島の領有権を定めた「ベトナム海洋法」を可決、これに対し中華人民共和国政府は強い抗議声明を発表[11][12]、ベトナム社会主義共和国もまた中華人民共和国の抗議に対して「中華人民共和国の道理に反した批判は強く拒絶する」と非難する声明を発表した[13]。
- 更に、2012年5月から中華人民共和国で新規発行されたパスポートの査証ページ上に南シナ海の三沙市の行政区画が印刷されており、ベトナム社会主義共和国の領土主権を主張し実効支配している西沙諸島・南沙諸島を否定する図となっている事が発覚[14]、ベトナム外務省は中華人民共和国に対して猛烈に抗議をし、新パスポート所持者に対しては、入国審査官が入国・出国スタンプの捺印を拒否、ベトナム政府が用意した別紙にて入国・出国スタンプを捺印する事で、新しい中華人民共和国のパスポート上に捺印する事を拒否している[注 2][15][16][17]。
しかし、北京オリンピックの聖火リレーでは、表立って非難はされなかった。
対中関係は首脳レベルでの会議は行われるものの、領土・領海紛争問題で対立を続けている。
陸続きの為、中国製品も多く浸透しているが、ベトナムでは華人が急増し不法滞在・不法就労も多発している事から、過去の侵略された歴史を含めて、反中感情を抱く者は非常に多い。
台湾との関係 [編集]
詳細は「在台ベトナム人」を参照
台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2005年時点で在台外国人約51万人のうち、在台ベトナム人は約15万人と30%を占める[注 3]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
アメリカとの関係 [編集]
第二次世界大戦中は、アメリカと現政権のルーツにあたるベトミンとの関係は盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したアメリカ空軍の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている[注 4]。また、アメリカ軍がベトナムに潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている[19]。ベトナム独立時作られた憲法は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ憲法をも参考に作られており、アメリカでレッド・パージが起こった頃には、一時、ベトナムでは自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
第一次インドシナ戦争でベトナムがフランスに勝利した後、アメリカがベトナムに介入した。詳しくはベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。アメリカ軍はベトナム戦争当時の1968年(昭和43年)3月16日に、クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、ソンミ村虐殺事件を起こしている。
詳細は「ソンミ村虐殺事件」を参照
また、捕らえられた米兵は、別名『ハノイ・ヒルトン』(正式名称:ホアロー捕虜収容所)に収容され、現アメリカ合衆国上院議員のジョン・マケインも収容され捕虜となったのち、北ベトナム兵より拷問を受けた。勿論、ハノイ・ヒルトンとは蔑称であり、本家『ヒルトンホテル』の事ではない。1999年に、本物のヒルトンホテルである『ヒルトン・ハノイ・オペラ』が、首都ハノイで開業している。
アメリカが支援していた南ベトナムからは多くの難民が流出し、カナダ、オーストラリア、フランス、アメリカへと移民した。サイゴン陥落後からソ連崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、ベトナムとアメリカは和解し、アメリカとの国交が復活し、通商禁止も解除された。
2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードやジェネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出し、2003年にベトナムの国防大臣はペンタゴンの歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から戦争中の枯葉剤などについても、あえて『民間団体』に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っており、一般のベトナム人も経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にするべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[20]。2010年8月には国交復活15周年を記念し空母ジョージ・ワシントンがダナンを訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却し未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは南ベトナムからは82万ものベトナムの難民を受け入れており、ベトナム系アメリカ人は故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
フランスとの関係 [編集]
詳細は「フランス領インドシナ」を参照
ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
「:en:Vietnam during World War II」も参照
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナに日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、日本とドイツが同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて[要出典]仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後のベトナムは、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏」の主張を遂行し、明号作戦の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけてベトナム一帯を凶作が襲い、この時に日本軍とフランス総督府が食糧を奪った為に200万人に及ぶ人々が餓死した[要出典]。8月14日に日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
現在のベトナムの食卓で見かける「ベトナムコーヒー」「フランスパン・バインミー」「ワイン」は、仏領インドシナの名残りであり、「昼寝(シエスタ)」の習慣、ダラットで見かける高級ホテルや別荘、カトリック教会の聖堂である、ハノイ大教会・サイゴン大教会・ホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在世界遺産であるミーソン聖域の修復を施したのも、フランスのフランス極東学院であるが、ベトナム戦争時にアメリカ空軍の爆撃機によって破壊された。
日本との関係 [編集]
詳細は「日越関係」を参照
西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南のヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。
14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国はチャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。ベトナムの通貨の名称・ドンは、ベトナムの主要通貨であった銅銭を意味するベトナム語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東南アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。
1940年に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までインドシナ植民地政府と共存していた。その後、日本軍は1945年3月にクーデターによりフランスの植民地政府を解体し、ベトナムを独立させた(ベトナム帝国)。
戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことは、結局のところ日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないという印象を与えることになった[要出典]。
第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。餓死者は推計200万人に近いとされる。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている[要出典]。いずれにしろこの件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。戦後の日本は賠償として、アメリカの後押しでできた南ベトナム政府に3900ドルの無償援助をした。しかし、餓死したのは北部のベトナム人だった。
戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。
1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係が樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。
日本共産党と全教は1993年よりフエ市でストリートチルドレンの保育・教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫[注 5] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系[注 6]の活動家・政治家と親しく、1994年6月30日から1997年11月7日の自社さ連立政権下においてはフエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中国一極集中のリスクの回避などが挙げられる。
日越両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。グエン・タン・ズン首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもあるが、2007年(平成19年)11月にはグエン・ミン・チェット国家主席が国賓として初めて日本に招かれ、今上天皇・皇后との懇談[22]や、日本経団連との会合をおこなった。
皇太子徳仁親王は2008年(平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[23]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ・ダナン・ホイアン・ホーチミンとベトナム各地を縦断して訪問し、今上天皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[24]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[25]。
ODAは日本が最大の支援国であり、日本のODAによってタンソンニャット国際空港やカントー橋、ハイヴァントンネルなどベトナムの基幹インフラを建設・支援をしている。 また、ソフト面でのインフラともいうべき法律分野でも、日本の法整備支援が大きな役割を果たしている。ベトナムは、1986年のドイモイ以後、市場経済システムへの移行のため、市場経済に適合した法制度の整備が重要な課題の1つとなったが、ここに1994年以来日本の法整備支援が関与している。その結果ベトナムは、改正民法、民事訴訟法、民事判決執行法といった法律を次々と成立させるなど、法制度の整備に大きな前進を見せてきた[26][27]。この分野でのベトナムの日本に対する評価は高く、2007年3月28日には、ベトナムに約3年常駐したJICA長期専門家が、ベトナム司法大臣から、「司法事業記念賞」を授与されている[28]。
- 高速鉄道計画
2007年(平成19年)2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構 (JICA)、国際協力銀行 (JBIC)、日本貿易振興機構 (JETRO) が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した(ベトナム高速鉄道計画を参照)。2010年(平成22年)5月には、前原誠司国土交通大臣がベトナム政府へ「日本の新幹線方式」の売り込みをした。ベトナム政府は承認したものの、ベトナムの国会では総投資額540億ドルという「巨額」がネックとなり、6月19日のベトナム国会にてこれらの政府案は否決された。ベトナム政府は議会の説得の為、もう一度国会に諮る方針である。
- 原子力発電所計画
2000年代に入り原子力発電所の建設計画が具体化。各国が売り込みを行う中、ニントゥアン第一原子力発電所がロシアにより、ニントゥアン第二原子力発電所が日本により建設される見通しとなった。2010年10月31日に菅首相(当時)とグエン・タン・ズン ベトナム首相との首脳会談がハノイで行われ日本をパートナーとすることを表明、[29]2011年10月31日には野田首相がズン首相と官邸で会談し、計画通り実施することを再確認した。[30] 同日にベトナムでは日本原子力発電により原子力発電導入可能性調査(FS)が開始されたと報道された。[31]
- ベトナムと「ホンダ」
かつてベトナム国内では本田技研工業のスーパーカブやドリームをよく見かけた。これは1970年代以降のベトナムにおいて、この種のビジネスバイクを普及させる端緒ともなった存在で、扱いやすさや燃費、修理のしやすさや経済性のみならず、本田技研工業の想定範囲や先進国の安全常識では到底考えられない異常な酷使、過積載(「100kg 単位」での重貨物搭載や、子供まで含めての3人乗り、4人乗りといった曲乗り状態も珍しくない)にも耐える高い信頼性によって、オートバイを生活の道具として重要視するベトナムのユーザーから強い支持を得たからである。現在でもホンダの二輪車は多くの消費者の支持を得ている。ベトナムでのホンダの知名度・ブランド力は90年代中頃まで圧倒的であり、オートバイが(一般名詞として)「ホンダ」と呼ばれていたこともあった。その後はヤマハやスズキなどもベトナム国内に類似デザイン・類似設計の後発競合車種(ヤマハ発動機のメイト、スズキのバーディーなど)を投入し、90年代末以降は中国製の廉価なバイクが一時期市場でシェアを大きく伸ばした。
- 教育・文化交流事業
日本の広報拠点として2002年にJICAプロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター (VJCC) が開設され、2008年に国際交流基金のベトナム日本文化交流センターが開設された。
日本語教育については1943年にサイゴンで日本語が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2006年時点でベトナム全土の日本語学習者数は29,982人(2003年比1.7倍[注 7])。2007年 ハノイ日本語教師会が発足[注 8]。2009年5月時点で、ベトナムから日本への留学生数は3,199人で、前年比11.3%増、国別では第4位。2009年12月の日本語能力試験受験者数は15,455人で前年比12%増。
軍事 [編集]
詳細は「ベトナム人民軍」を参照
ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam) は1944年12月22日に建軍された。徴兵制を採用しており、18-27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を努める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会である。党中央軍事委員会書記は、ベトナム共産党書記長が兼任する。中越戦争時には正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、48万4000人まで削減された。陸軍41万2000人、海軍4万2000人、防空・空軍3万人である。このほか、予備役と民兵が300-400万人。予備役将校の職業はさまざまで、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。また、日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。インド海軍はベトナム海軍将兵の訓練に協力しており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請している[32]。
地方行政区画 [編集]
詳細は「ベトナムの地方行政区画」を参照
2011年4月の改正により、58省と、5の中央直轄市となった。中央直轄市はハノイ(河内)、ホーチミン(胡志明市)、ダナン(沱灢)、ハイフォン(海防)、カントー(芹苴)。国土最北に位置する省はハーザン省(Hà Giang, 河江)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau) である。
主要都市 [編集]
「ベトナムの都市の一覧」を参照
- ハノイ市(河内)
- ホーチミン市(城舗胡志明)
- ホーチミン市1区: 旧サイゴン(柴棍、西貢)
- ホーチミン市5区: 旧チョロン(堤岸)
- ホーチミン市クチ県: クチ(蘇志、古芝)
- ダナン市(沱灢)
- ハイフォン市(海防)
- ヴィン(栄)
- フエ(化、順化)
- カントー市(芹𡮲、芹苴)
- ホイアン(會安)
- ニャチャン(芽莊)
- ファンティエット(潘切)
- ミトー(美萩)
- タイニン(西寧)
- ヴィンロン(永隆)
- ダラット(多洛、大叻)
地理 [編集]
ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
沿岸には北部を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土としてホーチミンから約600kmの東、南シナ海に浮かぶチュオンサ群島(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東のホアンサ群島(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となるシャム湾に浮かぶフークォック島である。
主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダーツ川)、ダンホアに河口を持つカー川、中部のバー川、南部のドンナイ川、メコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。
デルタ地帯 [編集]
5月から11月にかけてインド洋を渡ってやってくるモンスーン(季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川のいたるところで堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[33]。
気候 [編集]
ベトナム全土は北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温暖冬季少雨気候 (Cw) に分類されている。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候〈Aw〉)。[注 9]。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である[34]。
経済 [編集]
IMFの統計によると、2011年のベトナムのGDPは1227億ドルであり[35]、広島県とほぼ同じ経済規模である[36]。一人当たりのGDPは1374ドルであり、世界平均の15%に満たない水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は3333万人と推定されており、国民のおよそ40%を占めている[37]。
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策が採択、中国の改革開放と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。
政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。世界金融危機で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2007年8.5%、2008年6.3%、2009年5.3%、2010年6.8%と安定成長が続いている。一方インフレ率も11.8%(2010年)と高い。中国では人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として近年、注目されている。こうしたことからも、WTO加盟が政府にとって重要な目標となっていたが、2007年1月、ようやくWTOに加盟した。
NEXT11やVISTAの一角にも数えられており今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
労働人口の66%が第一次産業に従事しているが、近年は第二、第三次産業が急成長。観光業の伸びが特に著しく、重要な外貨獲得源となっている。
主な輸出品目は原油、衣料品、農水産物。特にコメについては、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在は輸出制限措置をとっている。カシューナッツと黒こしょうの生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー、茶、ゴム、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
人件費は中国のおよそ6割であり、政府も自国の売り込みを積極的に行っているが、輸送網が良いとは言えず(1988年の中国と同程度。但し、中国も2010年現在、沿岸部では賃金が高騰している為、輸送網の悪い内陸部に工場を移さざるを得なくなっている)、また、法律もアバウトである。こうした点から、衣料品など、低付加価値製品の生産が2010年現在に至るまで主になっているベトナムであるが、サムスンとキヤノンは、莫大な資金を投じてベトナムで電子機器の生産・サービス拠点の建設を進めており、ベトナムが中国に次ぐ「世界の工場」の座を射止めることが出来るかが世界の企業家から注目されている[38]。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン)を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。
農業 [編集]
コーヒーは、現在ではブラジルに次ぎ、世界第2の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用途で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地支配を受けたフランスの手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒーが飲まれる。
水田水稲作地帯は北部の紅河デルタと南部のメコンデルタとであり、生産性も高く、国家の重要な穀倉地帯を形成している。 メコンデルタでできる野菜類は、ナス、キュウリ、トマトなどのほかに、ミント類がある。
鉱業 [編集]
ベトナムは石炭・石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。2003年時点の採掘量は1670万トン。ベトナムは産油国でもあり、1660万トンの原油を産出する。輸出品目の第一位は石油であり、2002年時点では全輸出額の19.6%を占めた。天然ガスの採取量は126千兆ジュール。
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。もっとも重要なのが世界第4位のスズ(4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛、金、クロム、鉄、鉛のほか、リン鉱石を産出する。
国民 [編集]
憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給される。それには民族籍を記入する欄が設けられている。[39]。
民族構成 [編集]
ベトナム人はベト人(越人、京人、キン族[注 10])が85%から90%、その他に華族(華人)3%、タイ人(ターイ族、タイー族)、クメール人(クメール族)、ムオン族、メア族、モン族(ミャオ族)、ザオ族、チャム族などの53の少数民族がいる。
- 平地民 - 多数民族のキン族
- 山地民 - 少数民族の大半
言語 [編集]
言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他にも華語(主に広東語、台湾語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や老人の間ではフランス語が理解出来る人もいる。また、ソビエト社会主義共和国連邦との共産主義国との繋がりがあった為、ロシア語を理解できる人も居る。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語が出来無いと生活が成り立たない為)に英語が目立つのが、現在の状況である。
文字 [編集]
詳細については、各項目を参照のこと。
- クオック・グー(國語)
- 声調をもつベトナム語を表記するために発明された声調入りアルファベット(ラテン文字)であり、現在唯一の公用文字。17世紀にフランス人宣教師が発明した。19世紀末以降のフランス植民地時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、ベトナム語は専らこの文字により表記される。
- 漢字(𡨸儒)
- 上記のクォック・グーが公用文字となるまでベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としては専ら漢文(古中国語)が用いられた。クォック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナムでは1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナムでは1975年の崩壊まで中等教育での漢文科が存続していた。
- チュノム(𡨸喃)
- ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。(1)漢字の音と意味による形成、(2)訓読み、(3)当て字など複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学が生まれた。20世紀になると、クォック・グーの普及により急速に衰退の道を辿った。
宗教 [編集]
宗教は仏教(主に大乗仏教)が大半を占めている。その他にも道教、ローマ・カトリックなどがある。また南部にはホアハオ教や、混淆宗教としてのカオダイ教が教勢を保っている。公的に認められた宗教は、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム教、カオダイ教、ホアハオ教の六つである。このうち後ろの二つはベトナムで生まれたベトナム独自の宗教である。
国家は宗教の自由を人民に保障しているが、共産党員はホー・チ・ミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。ホー・チ・ミン信仰は宗教ではないが、それに匹敵する影響力を有する。(ホー・チ・ミン自身は自らが崇拝の対象になることを徹底的に嫌っていた。)
教育 [編集]
詳細は「ベトナムの教育」を参照
成人識字率は、93.4%で非常に高い(2000年、ユネスコ調べ)。[41]。
- 初等教育
- 6歳から始まり、小学校5年間、義務教育、学費は原則無料。
- 中等教育
- 基礎中学校(前期中等教育、日本の中学校)4年間、普通中学校(後期中等教育、日本の高等学校)3年間。
- 5-4-3制で、この期間を普通教育と呼ぶ。
- 高等教育
- ベトナムの大学には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省、厚生省、文科情報省、人民委員会等の所轄)、民立大学がある。
- 3年制の短期大学と4-6年制の大学がある。
教育行政 [編集]
教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル[注 11]に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は「教育管理幹部」と呼ばれ、教育権権者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている[43]。
文化 [編集]
食文化 [編集]
詳細は「ベトナム料理」を参照
世界遺産 [編集]
ベトナム国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件ある。詳細は、ベトナムの世界遺産を参照。
祝祭日 [編集]
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 正月 | Tết Tây | |
| 旧暦12月28日 - 1月3日 | テト | Tết Nguyên Đán | 2013年は2月10日 |
| 旧暦3月10日 | フンヴオン(雄王、紀元前にベトナム北部を初めて統一したとされる王家)を祭る日 | Giỗ tổ Hùng Vương | 2013年は4月19日 |
| 4月30日 | 南部解放記念日 | Ngày Giải Phóng | サイゴン陥落(1975年) |
| 5月1日 | 国際労働日(メーデー) | Ngày Quốc Tế Lao Động | |
| 9月2日 | 国慶節 | Quốc Khánh | ベトナム独立宣言(1945年) |
新聞・雑誌など [編集]
全国で発行されている新聞・雑誌は600種を超えているとされる。これらの新聞・雑誌は、すべて共産党や省庁、機関の発行物である。 日刊紙で最大の発行部数をもつ『サイゴン・ザイフォン(サイゴン解放)』(ホーチミン市党委機関紙)で13万部(実数)である。[44]。
1975年までの南部ではゴ・ディン・ジエム政権やグエン・ヴァン・ティエウ政権などの独裁政治を批判する知識グループ「第三勢力」の活動が続いた。しかし、1976年南北が統一されベトナム社会主義共和国が成立した後、レ・ズアン指導部は硬直化した官僚政治を推し進め、メディアの活動を抑制する路線をとった。1980年代後半にグエン・ヴァン・リン書記長がドイモイ路線を推し進め、新聞雑誌にも活況を与えた。1989年に中国で天安門事件が起き、東ドイツで「ベルリンの壁」が崩壊すると、メディアを抑制する路線に切り替えた。同年12月、「マス・メディア法」が制定され、報道禁止条項が明記された。[45]。
脚注 [編集]
注釈 [編集]
- ^ 「一党独裁支配の国であり、選挙は政治において重要な役割を果たしてはいない。国会議員選挙が5月に行われたが、候補者たちは、党の翼賛団体「ベトナム祖国戦線」の入念なチェックを受けている。当選した500人のうち共産党員でない議員はわずか42人だった」[6]
- ^ 新パスポートに入国審査官が捺印する事は、中華人民共和国の南シナ海における領土主張を、ベトナムが認めてしまう事であるから。但し、2012年5月以前に発行された中華人民共和国の旧パスポートに対しては入国・出国スタンプを捺印して『差別化』を図っている。
- ^ 民国94年の台湾の内政部統計処調べ
- ^ 1944年末頃、アメリカの航空将校ショウ中尉は飛行機事故のためカオバン付近の山地へパラシュートで降下したが、これを知ったフランス軍が数百名の部隊を派遣して、日本軍とともにその地域を包囲し、飛行機と操縦士の捜索を始めた。しかしその包囲が完成する寸前にショウ少尉はベトミンにより救出され、ベトミン三個小隊の護衛とともに国境のベトミン基地まで脱出、そこからホー・チミンに付き添われながら昆明のアメリカ空軍司令部にたどりついたという。[18]
- ^ 日教組分裂 1991.3.6 以前の都教組委員長
- ^ 現 民主党及び社民党
- ^ 国際交流基金日本語教育機関調査
- ^ 発起人は中野英之。
- ^ 熱帯の北限ラインはハティイン省あたりを通っている
- ^ オーストロ・アジア(モン・クメール)語族でムオン族・セダン族などと言語系列が同じである。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、キン語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。[40]
- ^ 地方行政は通常3段階に分かれている。60余りある省レベルの下に県レベル、その下に社レベルがある。[42]
出典 [編集]
- ^ “ベトナム 国名変更案も論議へ”. 産経新聞. (2013年4月14日) 2013年5月5日閲覧。
- ^ “ベトナムが国名変更案を審議へ、「社会主義」やめる可能性も”. ブルームバーグ. (2013年5月17日) 2013年5月18日閲覧。
- ^ リエン(2008) 39-40頁
- ^ リエン(2008) 40頁
- ^ リエン(2008) 40-41頁
- ^ エコノミスト・インテリジェンス・ユニットのカントリー・レポートの、朝日新聞 新日曜版 (GLOBE) による抄訳、2011年8月7日版、p5
- ^ 自薦、非共産党候補が焦点 ベトナム国会選挙始まる - 47 NEWS
- ^ a b ベトナム国会、変化の風 一党支配下でトップ信任投票制
- ^ “中国设三沙市越南抗议侵犯主权” (北京語). BBC-China. (2007年12月4日) 2012年10月14日閲覧。
- ^ “Việt Nam phản đối việc Trung Quốc thành lập thành phố hành chính Tam Sa thuộc tỉnh Hải Nam” (ベトナム語) (プレスリリース), ベトナム外務省, (2007年12月3日) 2012年10月14日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “中国外交部就越南国会通过《越南海洋法》发表声明” (北京語). 新华网. (2012年6月21日)
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- ^ “「中国の新パスポートは無効」 “中国領”図示にベトナムが対抗 査証は発給” (日本語). 産経新聞. (2012年11月27日) 2013年1月2日閲覧。
- ^ “中国の新旅券に「入国印」押さず ベトナムが対抗措置” (日本語). 朝日新聞デジタル (朝日新聞). (2012年11月26日) 2012年12月16日閲覧。
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- ^ 小山内宏著「ヴェトナム戦争 このおそるべき真実」(ミリオンブックス)57頁
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- ^ 「特集 法整備支援の課題」法律時報時報2010年1月号(日本評論社)
- ^ 司法事業記念賞の受賞について 法務省。
- ^ 2010年11月1日 ベトナムの原子力発電所建設協力で合意 - サイエンスポータル編集ニュース サイエンスポータル、2010年11月1日。
- ^ 経団連東南アジア視察団 ベトナム原発計画推進 輸出再開の「試金石」 MSN産経ニュース、2012年3月5日21:02[リンク切れ]
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- ^ 柳沢雅之「山と平野、水と土」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004 年 74-76ページ
- ^ 柳沢雅之「山と平野、水と土」折れ線グラフから読み取とった値/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004 年 76ページ
- ^ IMF
- ^ 内閣府による県民経済計算
- ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
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- ^ 今村伸宣勝「多民族国家」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 53ページ
- ^ 西村昌也「ベトナム人の由来」 / 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 23ページ
- ^ 鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 188ページ
- ^ 坪井未来子「ベトナムの教育の現況」/ファン・ゴク・リエン監修、今井昭夫監訳他『ベトナムの歴史』〈世界の教科書シリーズ21〉明石書店 2008年 764頁
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- ^ 鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 188ページ
- ^ 鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 189-190ページ
参考文献 [編集]
- 白井洋子 『ベトナム戦争のアメリカ』 刀水書房、日本、東京、2006年。ISBN 4-88708-352-1。
- ファン・ゴク・リエン 『ベトナムの歴史──ベトナム中学校歴史教科書』 今井昭夫監訳、伊藤悦子・小川有子・坪井未来子訳、明石書店〈世界の教科書シリーズ21〉、日本、東京、2008年。ISBN 978-4-7503-2843-0。
- オルタ2007年4月号
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- ベトナム社会主義共和国政府
- ベトナム社会主義共和国(ベトナム語)(英語)(中国語)
- ベトナム共産党(ベトナム語)(フランス語)(英語)(中国語)
- ベトナム外務省(ベトナム語)(英語)
- ベトナム計画投資省(ベトナム語)(英語)
- ベトナム政府観光局(日本語)
- 在日ベトナム大使館(英語)(ベトナム語)
- ベトナムの法律
- 憲法(英訳)
- 民法(英訳) なお、"Vietnam amended Civil Code"に2006年改正の解説あり。
- 商法(和訳) ジェトロのウェブサイト内
- 共通投資法・統一企業法(和訳) 日本アセアンセンターのウェブサイト内
- 外国産業財産権制度情報 特許庁のウェブサイト。ベトナム知的財産法ほか、知的財産に関する下位法規の翻訳を掲載。簡単な制度概要説明へのリンクもある。また、「技術・工業および知的財産権供与に関わる制度」(ジェトロ)にも概要の解説あり。企業と法創造「特集・知的財産法制研究III」では、ベトナムほか、アジア各国の知財に関する研究セミナーの記録が閲覧できる。
- 民事訴訟法(和訳) 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 判決執行法(和訳) 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 破産法(和訳) 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内。
- 国家賠償法(和訳) 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 刑事訴訟法・刑事捜査組織令・刑法(和訳) 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 日越法整備支援プロジェクト長期専門家・塚原長秋「研究報告 ベトナムにおける担保権の実行」
- 井関正裕「ベトナム判決書マニュアル作成支援」 ベトナムにおける判決の実情と課題などが解説されている。
- 小口光「ベトナム法制度調査研究報告書」 - 法整備支援の一環として、西村あさひ法律事務所の小口光弁護士に委託して行われた調査。
なお、ベトナムの民商事法令の多くは、日本の法整備支援を受けて起草されている。
- 日本国政府
- 外務省 - ベトナム (日本語)
- 在ベトナム日本国大使館 (日本語)(ベトナム語)
- 外務省 海外安全情報 ベトナム(日本語)
- 国際交流基金 ベトナム日本文化交流センター(日本語)(ベトナム語)(英語)
- 独立行政法人 国際協力機構(JICA) - ベトナム(日本語)
- JETRO - ベトナム (日本語)
- 法務省法務総合研究所国際協力部-ベトナム法整備支援(日本語)
- 名古屋大学日本法教育研究センター(日本語)
- 現地日本語メディア
- VIETJOベトナムニュース (日本語)
- ベトナムスケッチ (日本語)
- ベッター (日本語)
- ビナブー (日本語)
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