ベトナム

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ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称ベトナムは、東アジア東南アジアインドシナ半島東岸にある南北に長い国家。北を中華人民共和国と、西をラオスカンボジア国境を接する。東は、南シナ海に面し、フィリピンと対する。

ベトナム社会主義共和国
Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam
ベトナムの国旗 ベトナムの国章
国旗 (国章)
国の標語 : Độc lập, tự do, hạnh phúc
漢字: 独立、自由、幸福)
国歌 : 進軍歌
ベトナムの位置
公用語 ベトナム語
首都 ハノイ
最大の都市 ホーチミン市
政府
国家主席 グエン・ミン・チェット
首相 グエン・タン・ズン
面積
総計 329,560km²65位
水面積率 1.3%
人口
総計(2005年 84,238,000人(12位
人口密度 253人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 861兆1,655億ドン
GDPMER
合計(2008年 898億ドル(13位
GDPPPP
合計(2008年 2,403億ドル(38位
1人当り 2,783ドル
独立
フランス日本より 1945年9月2日
承認 1954年
通貨 ドンVND)(₫ / Đồng; 銅)
時間帯 UTC (+7)(DST: なし)
ccTLD VN
国際電話番号 84
フエ:ベトナム中部の都市で、19世紀に越南阮朝の都がおかれた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。

目次

[編集] 国名

正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam"。略称は "Việt Nam" である。フランス語では "République socialiste du Viêt Nam"。 正式名称は「共和社会主義越南」という漢字に対応する。

公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。

日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」。通称は「ベトナム」、漢字は「越南」(えつなん)である。「ヴェトナム」や「ヴィエトナム」という表記も使われる。

[編集] 歴史

詳細は「ベトナムの歴史」を参照

紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。また中国・紹興一帯を支配したの末裔が、民族のルーツとの説もある。 始皇帝以後、千年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)がインド化されたチャンパ王国を形成していた。唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立、以後越人の王朝「大越」が続く。大越は南のチャンパと抗争を繰り返したが、チャンパ領は14世紀に越都昇龍(タンロン)を2度攻略した制逢峨(チェーボンガー)の死後内紛で割拠状態に陥り、1471年以降大越黎朝(1428年-1788年)及びその諸侯である広南阮氏がこれらを各個撃破して南進し、広南阮氏は更に17世紀にカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。

[編集] 2世紀頃から8世紀頃まで

[編集] 11世紀前後

[編集] 13世紀頃

[編集] フランス領インドシナ

[編集] 南北分断時代

[編集] 南北統一以後

[編集] 日本との関係

ホイアンの日本橋。この橋は鎖国前の交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ[1]、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のこの町の呼称である。世界遺産

西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南ヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。

14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国チャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府北ベトナムの大越黎朝南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。

ベトナムの通貨の名称はドンだが、これはベトナムの主要通貨であった銅銭を意味する越語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。1940年日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。これは、フランスヴィシー政権との外交協議によるものであり、太平洋戦争中も、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していた。他方でこの日本軍によるベトナム進駐は有色人種が数百年続いてきた白人至上秩序にはじめて亀裂をいれる出来事となり結果的に有色人世界に影響を与える転機となった。その後、日本軍は1945年3月にクーデターでフランスの植民地政府・軍を取り潰し、ベトナムを名目的に独立(ベトナム帝国)させたが、間もなく敗戦となった。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことは、結局のところ日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないという印象を与えることになった。

第二次世界大戦末期の1945年に、ベトナム北部で大量の餓死者が発生した。しかし、推計200万人に近いとされる餓死者数については正確な人口統計がないこと及び、原因についても研究の蓄積が少ないため正確に把握できていない。ただし、ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス/日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている。いずれにしろ、この件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。

戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、1954年ジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。

1951年に日本政府はベトナム国南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係が樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。

近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中国一極集中のリスクの回避などが挙げられる。

現在、両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。一方、グエン・タン・ズン新首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもある。

日本共産党全教1993年よりフエ市でストリートチルドレン保育教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫日教組分裂 1991.3.6 以前の都教組委員長 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系(現 民主党及び社民党)の活動家政治家と親しく、1994年6月30日から1997年11月7日自社さ連立政権下においてはフエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行っている。

2007年2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構(JICA)、国際協力銀行(JBIC)、日本貿易振興機構(JETRO)が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した。

[編集] アメリカとの関係

2007年、ブッシュ大統領とグエン・チェット国家主席

かつてベトナム戦争で現政権の北ベトナムにとっては敵対関係だった。南ベトナムからは多くの難民が流出し、カナダ、オーストラリア、フランス、アメリカへと移民した。サイゴン陥落後からソ連崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、ベトナムとアメリカは和解し、アメリカとの国交が復活した。

2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードジェネラルモーターズコカ・コーラハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出し、2003年にベトナムの国防大臣はペンタゴンの歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から戦争中の枯葉剤などについても、あえて『民間団体』に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気をつかっており、一般のベトナム人も経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にするべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[2]。しかし 薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却し未解決でありアメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。

アメリカは南ベトナムからは82万ものベトナムの難民を受け入れており、ベトナム系アメリカ人は故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府の関係者の訪米には抗議する傾向がある。

[編集] 政治

政治はベトナム共産党(ベトナム戦争中は「ベトナム労働党」)による事実上の一党独裁政治が行なわれている。名目的に存在した民主党、社会党は80年代末に解散され、複数政党制から単独政党制に移行した。現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。党書記長(党総秘書)、国家主席、政府首相の3人を中心とした集団指導体制であり、現在の共産党中央執行班書記長はノン・ドゥク・マイン、国家元首はグエン・ミン・チェットであり、政府首相グエン・タン・ズン

建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行っており、故ホー・チ・ミン主席も独裁的な権力を有したことはなく、ベトナム戦争中の一時期には失脚に近い状態にあったとも言われている[誰?]。政府の運営は、極めて官僚的であり、同じく一党独裁国である中華人民共和国に類似している。

ベトナムの国会は、2006年6月27日チャン・ドゥク・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(党ホーチミン市委員会委員長、「城委秘書」)を選出した。また、国会は引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を選出した。国会は、28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸相は同省傘下の疑獄事件で指導責任を問われ、事実上更迭された。

反政府組織は今なおベトナム共和国時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた諸民族の抵抗組織フルロ(FULRO)関係者はこれらの組織とは対立関係にあり、各組織の力を一つに集めることができるリーダーシップを有した指導者が存在しない。また、1975年のベトナム共和国消滅から30年以上経ち、世代ごとの反共主義に対する考え方の違いが鮮明になりつつあることから、最近では必ずしも亡命ベトナム人の間で反政府組織が支持されるとは限らなくなっている。

[編集] 国会

国会 (ベトナム)」も参照

定員500名、任期5年

  • ベトナム共産党: 450名
  • 独立系(非共産党員かつ共産党の推薦を受けない者): 1名
  • 欠員: 7名

2007年5月29日現在。

  • 投票率: 99.64%(2007年)

[編集] 軍事

ベトナム人民軍(Quân đội Nhân dân Việt Nam)は1944年12月22日に建軍された。徴兵制を採用しており、18-27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国家国防安全委員会主席は国家主席が兼任し、首相が副主席である。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党の中央軍事党委員会である。中央軍事党委員会主席は、ベトナム共産党総書記が兼任する。中越戦争時には正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、48万4000人まで削減された。陸軍41万2000人、海軍4万2000人、防空・空軍3万人である。このほか、予備役民兵が300-400万人。予備役将校の職業はさまざまで、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。

  • 日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。

[編集] 地方行政区画

ベトナムの行政区画

詳細は「ベトナムの地方行政区画」を参照

2003年11月の改正により、59省と、5の中央直轄市となった。中央直轄市は、ハノイ(河内)、ホーチミン(胡志明市)、ダナン沱灢)、ハイフォン(海防)、カントー(芹苴)。もっとも北に位置する省は、ハーザン省Hà Giang, 河江)、もっとも南は、カマウ省Cà Mau)である。

[編集] 主な都市

[編集] 地理

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分でわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に例えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。

沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。

沿岸には北部を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土としてホーチミンから約600kmの東、南シナ海に浮かぶチュオンサ群島(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東のホアンサ群島(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となるシャム湾に浮かぶフークォック島である。

主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダーツ川)、ダンホアに河口をもつカー川、中部のバー川、南部のドンナイ川、メコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。

[編集] 気候

ベトナム全土は北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。

北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16度、7月が29度である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温暖冬季少雨気候 (Cw) に分類されている。

南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候=Aw)。平均気温は1月が18度、7月が33度だが、平均降水量は1,000mmと少ない。 北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。

[編集] 経済

1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策が採択、中国と同様に改革・開放路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。

政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。アジア通貨危機で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2001年は6.8%、02年7.0%、03年7.2%、04年7.7%と安定成長が続いている。中国では人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として近年、注目されている。こうしたことからも、WTO加盟が政府にとって重要な目標となっていたが、2007年1月、ようやくWTOに加盟した。

労働人口の66%が第一次産業に従事しているが、近年は第二第三次産業が急成長。観光業の伸びが特に著しく、重要な外貨獲得源となっている。

主な輸出品目は原油、衣料品、農水産物。特にコメについては、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在は輸出制限措置をとっている。

[編集] 農業

コーヒーは、現在ではブラジルに次ぎ、世界第2の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用抔で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。

[編集] 鉱業

ベトナムは石炭石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。2003年時点の採掘量は1670万トン。ベトナムは産油国でもあり、1660万トンの原油を産出する。輸出品目の第一位は石油であり、2002年時点では全輸出額の19.6%を占めた。天然ガスの採取量は126千兆ジュール。

金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。もっとも重要なのが世界第4位のスズ(4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛クロムのほか、リン鉱石を産出する。

[編集] 国民

[編集] 民族構成

住民はベト人(越人、京人)が85%から90%、その他にホア族(華人)3%、タイ人(ターイ族、タイー族)、クメール人(クメール族)、ムオン族、メア族、モン族(ミャオ族)、ザオ族、チャム族などの53の少数民族がいる。

[編集] 言語

言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他、華語クメール語ロシア語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層の間では、フランス語も話されている。

[編集] 宗教

宗教は仏教(主に大乗仏教)が大半を占めている。その他、道教ローマ・カトリックなどがある。また南部にはホアハオ教や、混淆宗教としてのカオダイ教が教勢を保っている。 ※国家は宗教の自由は人民に保障しているが、共産党員はホーチミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。 ホーチミン信仰は宗教ではないがそれに匹敵する影響力を有する。

[編集] 教育

初等教育
5年制の義務教育である
中等教育
前期4年制、後期3年制である
高等教育
ベトナムの大学には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省、厚生省、文科情報省、人民委員会等の所轄)、民立大学がある。

[編集] 南北問題

ベトナム戦争後、統一国家となったベトナム社会主義共和国であったが今尚南北間の対立意識は続いている。 現在、表立って問題視することはないが南北間の歴史感の溝を埋めるのは困難である。理由は南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配したことも一因であろう。

[編集] 文化

[編集] 世界遺産

ベトナム国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件ある。詳細は、ベトナムの世界遺産を参照。

[編集] 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 正月 Tết Tây
旧暦12月31日1月3日 旧正月 Tết Nguyên Đán
旧暦3月10日 フンヴオン(雄王、紀元前にベトナム北部を初めて統一したとされる王家)を祭る日 Giỗ tổ Hùng Vương 2007年は4月26日
4月30日 南部解放記念日 Ngày Giải Phóng サイゴン陥落1975年
5月1日 国際労働日 Ngày Quốc Tế Lao Động
9月2日 建国記念日 Quốc Khánh 独立宣言(1945年

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 参考・脚注

[編集] 外部リンク

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その他


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