ネパール

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ネパール連邦民主共和国
संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल
ネパールの国旗 ネパールの国章
国旗 国章
国の標語:जननी जन्मभूमिष्च स्वर्गादपि गरियसि
ラテン文字転写:Janani Janmabhumishcha Swargadapi Gariyasi
(サンスクリット語:祖国は天国より素晴らしい)
国歌国歌(題名無し)
ネパールの位置
公用語 ネパール語
首都 カトマンズ
最大の都市 カトマンズ
政府
大統領 ラムバラン・ヤーダブ
首相 スシル・コイララ英語版
面積
総計 147,181km293位
水面積率 2.8
人口
総計(2008年 29,331,000人(???位
人口密度 209.65人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 1兆7,012億[1]ネパール・ルピー
GDP (MER)
合計(2013年 193億[1]ドル(107位
GDP (PPP)
合計(2013年 421億[1]ドル(99位
1人あたり 1,508[1]ドル
全土統一 1768年
通貨 ネパール・ルピー (NPR)
時間帯 UTC (+5:45)(DST:なし)
ISO 3166-1 NP / NPL
ccTLD .np
国際電話番号 977

ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称ネパールは、南アジア共和制国家2008年王制廃止。

東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。

多民族多言語国家(インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族)であり、民族カーストが複雑に関係し合っている。また、宗教ヒンドゥー教(元国教)、仏教アニミズム等とその習合が混在する。

経済的には後発開発途上国である。農業を主たる産業とする。ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。

国名[編集]

  • 日本語表記:ネパール連邦民主共和国[2]
  • 公式の英語表記:Federal Democratic Republic of Nepal、略称:Republic of Nepal[3]

正式名称はネパール語デバナガリ(デーヴァナーガリー)文字संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपालラテン文字転写表記はsaṅghīya loktāntrik gaṇatantra nepāl。略称गणतन्त्र नेपालラテン文字転写表記はgaṇatantra nepāl。通称नेपाल [neˈpal] ( 聞く)ラテン文字転写表記はNepāl

なお、国号では「連邦民主共和国」となっているが、現在のところ連邦制は採用されていない。連邦制の採用については制憲議会で議論が続いている。マオバディ(毛沢東主義者、Maoist)は2001年、ネパールの全土に9自治区を設置する構想を発表、実効支配領域内において、2004年初頭までに、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族のための「ネワ自治区」を除く8自治区の「人民政府」を発足させている。

歴史[編集]

「古代」「中世」「近代」「現代」を分ける区切りは佐伯和夫「ネパール全史」明石書店に依った。なお、「現代」のネパールである共和国時代は、2008年以後。

先史時代・伝説時代[編集]

  • ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている[4]
  • 伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという[5]
  • また「ネ」(ne) という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治」(pal) したので、「ネパール」(nepal)の名が付けられたという伝説もある[6]。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
  • ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝英語版」があったとされるが、信憑性は低い[7]

古代・中世[編集]

仏陀生誕の地と言われるルンビニ

近代[編集]

丘の上に建つ旧王宮

現代[編集]

政治[編集]

近況[編集]

カトマンズ、民主の壁

ネパールは2013年現在、暫定憲法のもとで暫定政府が設けられている状況である。2008年5月、制憲議会が設けられ、本格的な憲法の制定を目指している。

2006年民主化運動ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。

これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。

2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。

2009年5月4日、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップのルークマングド・カタワル陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。

5月23日、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立によりマダブ・クマル・ネパールが選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。しかしネパール首相は2010年6月に辞任を表明し、制憲議会は後継首相を選出することができない混乱状態に陥った。2011年1月にカナルが首相となったが辞任し、8月29日に毛派のバッタライが首相となった。しかし毛派の内紛も収まらず、憲法制定のための合意もできない状態が続いたままで制憲議会は任期満了を向かえた。2013年3月に最高裁長官のレグミを「議長」とする選挙管理内閣が発足し、新たな制憲議会選挙を11月29日に行うことが決定した。

大統領・首相[編集]

初代大統領となったラムバラン・ヤーダブ

大統領、首相等については2008年7月13日制憲議会で可決された暫定憲法第5回修正に定められている。

大統領・首相は制憲議会における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は制憲議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。過半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領はの最高指揮権は持つが象徴的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領にはラムバラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が当選している。今回の大統領は新憲法が定められて次の大統領が選出されるまでが任期であるが、一般には2年間である。現在は制憲議会が任期満了状態であるため、選挙管理内閣が置かれている。事実上の首相であるレグミは、「首相」ではなく内閣の「議長」という扱いである。

初の大統領選挙[編集]

大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。

毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。

一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、G.P.コイララを大統領に推してきた。統一共産党は前総書記マダブ・クマル・ネパールを大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した[17]結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンを支持、これをマデシ3党も支持したが、マデシ人権フォーラムは独自の副大統領候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派ラムバラン・ヤーダブ代表幹事[18](マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった。[19]

7月19日の制憲議会では副大統領マデシ人権フォーラムが推薦したパラマーナンダ・ジャー(305票)が当選したものの大統領選はラムバラン・ヤーダブ(283票)、ラム・ラジャ・プラサド・シン(270票)とも過半数を得られず、7月21日、再選挙することになった[20]決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けたラムバラン・ヤーダブが、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。ラム・ラジャ・プラサド・シンは282票にとどまった。(欠席4)[21]

また7月19日閣議で決定された官職の序列は以下の通り。第1位-大統領元首)、第2位-首相、第3位-最高裁長官、第4位-制憲議会議長、第5位-副大統領[22]

首相選挙[編集]

なお、首相にはネパール共産党毛沢東主義派プラチャンダ議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。7月22日毛派の中央委員会で野党の立場をとることを議決[23]。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派のプラチャンダ議長を首相に推すこととなった。

8月15日投票が行われた結果、有効投票数551票の内、プラチャンダプスパ・カマル・ダハル)が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推したシェル・バハドゥール・デウバ元首相は113票に留まった[24]。プラチャンダ首相は連立与党毛沢東派統一共産党マデシ人権フォーラム他)と組閣交渉に入ったが、最終的に8月31日、全閣僚が就任し、プラチャンダ内閣が成立した[25]制憲議会選挙から4か月でようやく新政権が発足した。

2009年5月3日、プラチャンダが毛派民兵組織(ネパール人民解放軍)の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌5月4日、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。

2009年5月23日、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、統一共産党総書記マダブ・クマル・ネパールが統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票で当選した[26]

制憲議会[編集]

本格憲法制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。2008年4月10日に選挙が行われた。通常の立法機関としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。議長は暫定的にクル・バハドゥール・グルン(ネパール会議派)が務めていたが、7月22日正式の議長としてスバス・ネムワン(統一共産党出身)が満場一致で選出された。

政党

主要政党の詳細は各記事を、小政党の詳細はネパールの政党を参照。

演説を行うプラチャンダ議長

行政機構[編集]

ネパールの政府機構は非常に複雑である。官僚機構は内閣の各大臣(Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChif Secretary(直訳すれば官房長官、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば事務次官のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。

マオバディによる連邦構想[編集]

マオバディ(毛沢東主義者、Maoist)は2006年の段階でネパールの国土の八割を掌握したと自称し、実効支配領域において順次、民族別の特別区や自治区を設置している[27]

  • 2001年9月 マオバディの「中央人民政府」、「統一革命評議会ネパール」を樹立、自治区構想を発表。
    • セティ・マハカリ自治区(民族による自治区ではない)
    • ベリ・カルナリ自治区(民族による自治区ではない)
    • マガラート自治区(マガール族の自治区)
    • タルワン自治区(タルー族の自治区)
    • ネワ自治区(ネワール族の自治区)
    • タマン自治区(タマン族の自治区)
    • マデシ自治区(民族による自治区ではない)
    • キラート自治区(ライ族・リンブー族の自治区)
  • 2003年2月 マオバディの勢力圏の中枢部において、ルクム郡の7ヶ村とロルパ郡の6ヶ村にマガル族の特別郡を設置、同年3月、郡人民政府を樹立。
  • 2003年末、ラプティ県のロルパ・ルクム・サリヤンの3郡(全域)とビュータン郡・ダン郡の北部、ダウラギリ県のバルグン・ミャグディの2郡(全域)、ルンビ二県のグルミ・パルバ・アルガカンチの3郡(全域)とナワルパラシ群の北部、ガンダキ県のシンジャ群を領域としてマガラート自治区発足。
  • 2004年1月7、8日 ルクム郡マハト村において上記地域の代表130人による第一回自治区議会が開催。人民政府の首脳部を選出。1月9日、マガラート自治区人民政府の樹立宣言。
  • 2004年1月-2月 マオバディ、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族の自治区「ネワ自治区」をのぞく8自治区の人民政府を発足させる。

国際関係[編集]

ネパールの外交の基本方針は非同盟中立である。また、隣国のインド中国と深い関係を持っている。条約により、インドとネパールの国民はビザなし、パスポートなしで両国を行き来できる。また、ネパール国民はインドで自由に働くことができる。このようにネパールとインドが密接な関係を持っているにもかかわらず、ネパールはしばしば、問題の多い中印関係に翻弄されてきた。

最近中国は、中国のチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようネパールに要請した。2008年4月17日、ネパール警察は、中国との良好な関係を維持するため500人以上のチベット人の活動家を逮捕した。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、中国からの要請により、ネパールのチベット人は、政治的活動、文化活動、宗教活動を厳しく制限され、ネパール治安部隊から日常的に人権侵害を受けているとしている。また、ネパールは一部のチベット人を中国へ強制送還しているともされ、これはネパール政府と国連難民高等弁務官事務所との紳士協定や、ネパールにチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している[28]

8月15日選出されたプラチャンダ首相は、最初の外遊として北京オリンピックの閉会式への参加という形で訪中し、胡錦濤国家主席温家宝首相と会談している[29]。慣例ではネパール首相が最初に訪れる外国はインドであり、異例の外交といえる。

アメリカは長年、毛派をテロ集団と位置づけ、国王を援助してきたが、民主的な選挙で第一党となったことで、友好的な態度に変わった。

2008年8月22日プラチャンダ内閣外務大臣としてマデシ人権フォーラム党首ウペンドラ・ヤーダブが就任した。

2009年6月4日マダブ・クマル・ネパール内閣外務大臣として、ネパール会議派所属のスジャータ・コイララ英語版(女性)が就任した。 [30]

ネパールと日本の関係[編集]

日本とネパールの関係は現在[いつ?]良好である。要点は次の通りである。

  1. 経済援助額はイギリスについで世界第二位である。
  2. 国連の停戦監視団に6名の自衛官を派遣している。
  3. 制憲議会選挙に選挙監視団を派遣している。

2007年10月10日には来日したサハナ・プラダン外相と日本の高村正彦外相が公式に会談した。プラダン外相は日本による投票箱の供与や国連監視団の協力に感謝し、日本の国連常任理事国入りを支持した。(プラダンは国連総会でも日本の常任理事国入りを支持する演説を行っている。)[31]

また、毛沢東派のプラチャンダ議長は政権就任前、日本にガジュレル政治局員を非公式に派遣した。ガジュレルは、日本・ネパール友好議員連盟会長の二階俊博衆議院議員や当時の木村仁外務副大臣と会談し、また、共同通信のインタビューも受けている[32]

2008年7月16日には日本から宇野治外務大臣政務官がネパールを訪問、当時のギリジャ・プラサド・コイララ首相のほか、毛派のプラチャンダ議長ら、各党の幹部と個別に会談した。制憲議会発足後初めての要人訪問である[33]

また、8月中旬、ネパール統一共産党前総書記のマダブ・クマル・ネパール副首相(現・首相)が来日している。

2009年2月6日、プラチャンダ内閣の閣僚として初めてバブラム・バッタライ財務大臣が来日した。[34]

2009年6月4日現在の日本の在ネパール特命全権大使は水野達夫、ネパールの在日本特命全権大使はガネシュ・ヨンザン・タマンである。

社団法人日本ネパール協会が交流の中心になっている。[要出典]

軍事[編集]

国連軍として活動するネパール兵

ネパール軍は、陸軍航空隊を含むネパール陸軍から構成される。王制時代は「王立ネパール陸軍」(Royal Nepal Army)と呼ばれていた。95,000人の兵員、各地方に置かれる6個師団および、航空旅団、空挺旅団、治安旅団の独立の3旅団からなる。

志願兵制であり、軍への登録は18歳から可能である。2004年の統計で、ネパールの軍事予算は9920万ドルで、GDP比は1.5%である。武器、装備の多くはインドから輸入されている。1990年の憲法では軍の最高指揮権は国王にあるとされたが、現在は大統領が最高指揮権を持っている。

また、今まで国軍と敵味方として戦ってきた毛沢東派のゲリラ組織、ネパール人民解放軍と合同するのか、しないのかも困難な課題として、制憲議会で議論されている。

現在、政府軍と人民解放軍の停戦国連UNMIN)が監視しており、この国際連合ネパール支援団には日本の自衛隊からも6名が、現地時間2011年1月15日の国連の活動終了まで派遣されていた。

国防大臣は統一共産党のビディヤ・バンダリ(女性)。国軍制服組のトップはルークマングド・カトワル陸軍参謀総長。カトワルはギャネンドラ前国王の側近[35]で国軍と人民解放軍の統合に公然と反対している。コイララ前首相の時にも傍若無人の振る舞いがあったとされるが、クーデタを恐れて更迭しなかったという[36]2009年5月3日プラチャンダ元首相は彼を解任したが、毛派以外の連立与党各党の反発を招き、政権は崩壊した。結果として、カトワルは留任している。

民間軍事会社[編集]

ネパールはグルカ兵を世界中に派遣する世界有数の民間軍事会社のコントラクター派遣国でもあり、中世スイスのように実質的な傭兵も大きな産業となっている。 グルカ・セキュリティー・ガーズ (GSG) を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる民間軍事会社が形成されている。 一人当たりのGDPが1200ドルほどしかなく農村の平均年収が300ドル以下のネパールでは月収1000ドル以上のコントラクターの給与は大変な高給であり、傭兵で一攫千金を夢見る人間が多く出ている。

なお、ネパール政府は民間軍事会社の法規ともいえるモントルー文書を批准していない。

地理[編集]

ネパール地図
サガルマタ(エベレスト)

北を中華人民共和国チベット自治区に、西をインドウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州ビハール州に、東をシッキム州西ベンガル州に接する。内陸国である。

国境の長さは合計2926km、うち中国国境1236km、インド国境1690km。

中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8850メートル。最低所は標高70メートルである。

面積は140,800km²。本州を除いた日本(北海道+九州+四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalより

ヒマラヤ山脈[編集]

中国国境に接するネパール北部は世界の屋根とも称される8000メートル級の山々が林立する高山地帯であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には氷河が多く形成されている。近年は地球温暖化の影響で高山の雪がとけ、氷河湖の決壊が問題となっている。氷河湖が決壊すると大量の土砂による土石流が発生し、大きな被害が発生する。特にエベレストのふもとにあるイムジャ湖は大変危険な状態にあるといわれている。 以下、ネパール国内の主な高山を挙げておく。

行政区画[編集]

国号の項でも書いたが、現在のところ連邦制は現実には採用されておらず、そのあり方については制憲議会で議論されている。

マオバディは2001年、全国に9自治区を設置する構想を発表、実効支配領域において、2004年初頭までに、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族のための「ネワ自治区」を除く8自治区を発足させたが、いまのところネパール国家における正式な制度にはなっていない。

5つの開発地域(विकास क्षेत्र、英語ではdevelopment region 開発地区と訳す場合あり)の下に、14の(अञ्चल、英語ではzone)、さらにその下に75の(जिल्ला、英語ではdistrict)がおかれている。郡は単なる行政区画ではなく地方行政組織であり、中心都市には郡庁がおかれている。

ネパールの主な都市[編集]

順位 都市名 1991年国勢調査 2001年国勢調査 2005年推計
1 カトマンズ 421.258 671.846 790.612 カトマンズ
2 ポカラ 95.288 156.312 186.410 カスキ
3 ラリトプル(パタン) 115.865 162.991 183.316 ラリトプル
4 ビラートナガル 129.388 166.674 168.331 モラン
5 ビルガンジ 69.005 112.484 133.244 パルサ
6 ダーラン 66.457 95.332 128.605 スンサリ
7 バラトプル 54.670 89.323 117.162 チトワン
8 マヘンドラナガール 62.050 80.839 99.124 カンチャンプール
9 ブトワル 44.272 75.384 91.737 ルパンデヒ
10 ヘトウラ 53.836 68.482 84.800 マクワンプール

マデシ問題[編集]

マデシとは、タライ、またはテライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネラル・ストライキ)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。

2008年の初代大統領副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。

副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。

今後、マデシ問題は不安定な政局と絡んで複雑化しそうな情勢である。

経済[編集]

首都カトマンズのストリート

IMFの統計によると、2013年のネパールのGDPは193億ドル。一人当たりのGDPは693ドルであり、非常に低い水準である。[1] 2011年アジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は2200万人と推定されており、国民の70%を超えている[37]国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている[38]

主な産業は農業であり就業人口の約7割、GDPの約4割を占める。米や小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、ジュートなどが主たる農産物である。それ以外の産業では、繊維産業観光業が主たる産業となっている。しかし耕地面積は小さく、後発開発途上国の1つに数えられている。また、国王派とマオイストとの闘争の影響で観光客は減少している。

ヒマラヤ山脈を利用して水力発電が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、計画停電が行われている。

隣国であるインドとの結びつきが強く、輸出・輸入共にインドが最大の相手国である。

移住者の人権問題[編集]

2000年から2013までの間に、7,500人ネパール人が中東マレーシアでの出稼ぎ中に死亡した。その内訳はサウジアラビアだけで3,500人を占める。出稼ぎの多くは若者だが、公式の報告書ではその死因のほとんどを自然死と分類しており詳しい調査がされていない。 外国雇用省(DoFE)が、主要な出稼ぎ先でのネパール大使館など他の関係者と協力して行った調査では、厳しい気候条件、仕事関連のストレス、労働者の厳しい処遇、孤独な状況、労働者の無知、不健康な食習慣など様々な要因が示されている。 「臓器採取のための殺人、厳しい拷問、あるいは警察の怠慢で自然死に分類されているだけではないとも、誰も分からない状況だ」と、調査を行っている海外雇用の専門家は話している。[39]

データ[編集]

産業比率[編集]

  • GDP - 部門別割合:
    • 農業: 38%
    • 鉱工業: 20%
    • サービス業: 42% (2005年会計年度)

労働力[編集]

  • 労働力人口:1111万人(2006年推計)
    • 特記:熟練労働力は著しく不足している。
  • 産業別労働力人口の割合:
    • 農業: 76%
    • 鉱工業: 6%
    • サービス業: 18% (2004年推計)
  • 失業率:42% (2004年推計)
  • 貧困線以下の人口の割合:30.9% (2004年)

貧困問題[編集]

山村の子供たち
  • 干ばつや洪水で農作物が阻害を受けている。
  • 土地保有者の割合は少なく、国の衛生状態は極めて悪い。
  • 人口増加の影響により、食糧危機の状態にある。

家計[編集]

  • 家計収入の分配(ジニ係数):47.2 (2004年)
  • 消費者物価指数インフレ率:6.4% (2007年推計)

国家予算[編集]

  • 歳入: $11.53億
  • 歳出: $19.27億 (2006財政年度)

鉱工業[編集]

  • 鉱工業生産成長率:2.2% (2005財政年度)

エネルギー[編集]

  • 電力生産量:25.11億 kWh (2006年)
  • 電力消費:19.6 億 kWh (2006年)
  • 電力輸出:1.01億 kWh (2006年)
  • 電力輸入:2億6600万 kWh (2006年)
  • 石油生産高:0 bbl/1日 (2005年推計)
  • 石油消費量:11,550 bbl/1日 (2006年推計)
  • 石油輸出量:0 bbl/1日 (2004年)
  • 石油輸入量:11,530 bbl/1日 (2006年推計)
  • 石油備蓄量:0 bbl (2006年1月1日推計)
  • 天然ガス生産量:0 cu m (2005年推計)
  • 天然ガス消費量:0 cu m (2005年推計)
  • 天然ガス備蓄量:0 cu m (2006年1月1日推計)

輸出入[編集]

色と面積で示したネパールの輸出品目
  • 輸出: $8億3000万 f.o.b.;注意 - 記録されていないインドへの輸出は含まず。(2006年)
  • 輸出商品: じゅうたん, 衣料, 革製品, ジュート製品, 穀物
  • 輸出相手国
  1. インド67.9%,
  2. アメリカ11.7%,
  3. ドイツ 4.7% (2006年)
  • 輸入:$23. 98 億 f.o.b. (2006年)
  • 輸入商品: 金, 機械・装備, 石油製品, 肥料
  • 輸入相手国
  1. インド 61.8%,
  2. 中国 3.8%,
  3. インドネシア 3.3% (2006年)
  • 経済援助 受給額:$42億7900万 (2005年)
  • 対外債務: $30億7000万(2006年3月)

通貨[編集]

  • 通貨(コード): ネパール・ルピー (NPR)
  • 為替レート: ネパール・ルピー /米ドル - 不明(2007年), 72.446(2006年), 72.16(2005年)

データはすべてCIA World Factbook-Nepal

交通[編集]

フラッグ・キャリアネパール航空が近隣諸国と路線を結んでいる。近年は、大韓航空韓国ソウル/仁川線、タイ国際航空タイバンコク線、カタール航空カタールドーハ線をそれぞれ運航している。複数の航空会社が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。なお、鉄道はジャナクプル鉄道しかない。

国民[編集]

ダンスを踊るネパール女性
Nepalpop.svg

ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。

人口関連[編集]

人口
29,519,114人(2008年推計)
人口密度
209.65人/km²
年齢別人口構成
0-14歳: 38%
15-64歳: 58.2%
65歳以上: 3.8%(2008年推計)
平均年齢
全体: 20.7歳
男性: 20.5歳
女性: 20.8歳(2008年推計)
人口増加率
2.095% (2008年推計)
出生率
人口千人あたり29.92人(2008年推計)
死亡率
人口千人あたり8.97人(2008年推計)
乳児死亡率
新生児千人あたり62人
誕生時の平均余命
60.94年

民族[編集]

少数民族のタルー族の村
民族構成
チェトリ 15.5%[40], 丘陵ブラーマン 12.5%[41], マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%[42], ヤーダブ[43] 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査)

言語[編集]

言語
公用語ネパール語
ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)
ただし、政府や企業、教育機関では英語が多用されている。

宗教[編集]

ネパールの宗教
宗教 パーセント
ヒンドゥー教
  
80.6%
仏教
  
10.7%
イスラム教
  
4.2%
キラント教
  
3.6%
その他
  
0.9%
宗教
ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) なお、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。

難民[編集]

難民(出身国)
10万7803人(ブータン); 2万0153人(チベット中国
国内で家を失った人々
5万0000人-7万0000人(毛沢東派の「人民戦争」による。2006年終結)(2007年)

教育[編集]

キルティプルには国内最古・最大のトリブバン大学カトマンズには2番目に古いカトマンズ大学などの高等教育機関がある。

識字率[編集]

15歳以上で読み書きできる人の割合は48.6%。

  • うち男性 62.7%
  • うち女性 34.9%(2001年国勢調査)

文化[編集]

食文化[編集]

ダルバート(代表的な家庭料理で、ダル(daal=豆スープ)とバート(bhaat=米飯)の合成語)

食文化はインド料理中華料理チベット料理が融合されたものである。これは、国の位置がインドと中国・チベットに近いために生じた現象である。 味としては、インド料理に似ているものが多い。日本にも多数のネパール料理店があるが、純粋なネパール式のダル・バート・タルカリ(ご飯とおかずのセット)を出す店は少ない。 また、限りなくインド・中華・チベット料理に近い料理が存在していても、 日本のラーメンが(中華風の)日本の料理と見なされているのと同じように、現地では外国料理ではなくネパール国内の料理と見なされている。

なお、ネパールでは昼食を食べる習慣があまり無く、日中は菓子チャパティなどの軽いものを口にする程度で、食事は朝食夕食の2回が多い[44]

主食
バートインディカ種が多く食べられている)など
ディロ(ソバトウモロコシなどの粉を粥状に煮た食べ物)
チャパティ(日常ではナンよりもチャパティが多く食べられている)
インド料理に近い食べ物
タルカリカレー
ダール(主にひき割りにした豆類のかけ汁)
アチャール(ネパール式のピクルスなどの添え物)
プラオ(インド風の炊き込みご飯)
ビリヤニ(インド風の焼き飯
ライタ(ヨーグルトサラダ
ティッカ(肉や魚を香辛料に漬けた物。辛い物が多い。チキンティッカが有名)
サモサ(インド風の揚げギョウザ)
パパド(豆のせんべい)
ハルワ(にんじんなどを原料にしたお菓子)
ラッシーヨーグルトドリンク)
チヤ(ネパールチャイ)
中華料理に近い食べ物
チョウメン(ネパール風焼きそば)
鶏チリソース(中華料理よりも激辛に味付けされている)
チベット料理に近い食べ物
モモ(ネパール式蒸しギョウザ、中華料理の餃子に似ている)
茶:(チベッタンティー バター茶
アルコール
ラクシ(蒸留酒)
チャン(どぶろく)
ククリラム(ラム酒)

暦法[編集]

ネパールの公式の暦として現在太陽暦ビクラム暦(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている[45]。略号はवि. सं.(B.S.)。 それまで使用されていた太陰暦に代えて、宰相チャンドラ・シャムセールがB.S.1961年の新年(西暦1904年4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる[46]。 歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまなが使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて太陰暦だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、シャカ暦ネパール暦(ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。

西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。 なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広くいきわたっている暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、ネパール暦(नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で、新年が秋に来る太陰暦太陽太陰暦)である。この暦は主にネワール族の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。

ビクラム暦は、インドのウッジャイニー(現ウッジャイン)を統治していたビクラマーディテャ(ヴィクラマ・アーディテャ)という王が、シャカ族との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている[47]。この暦の起年は紀元前57年で、西暦2008年4月13日はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期カス・マッラ王朝時代頃からビクラム暦の使用が銘文等に認められる[48]

なお太陰暦(厳密には太陽太陰暦)のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦ではガテといい、太陰暦ではティティという。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度閏月をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している(太陽太陰暦)。祭り(ビスケット・ジャトラを除く)や宗教行事等は基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。

近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月頃に売り出される市販のカレンダーには太陽暦のビクラム暦をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム暦を併記しているものが多い。

世界遺産[編集]

ダルバール広場(カトマンズの渓谷

ネパール国内にはユネスコ世界遺産リストに4件が登録されている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, April 2014” (英語). IMF (2014年4月). 2014年10月4日閲覧。
  2. ^ 外務省:ネパール
  3. ^ http://news.xinhuanet.com/english/2008-07/24/content_8761078.htm
  4. ^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店21p
  5. ^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店28p
  6. ^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店42p
  7. ^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店39-55p
  8. ^ 王制復活へ期待の矢先、ネパール元皇太子が発砲
  9. ^ http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/nepal/8864647/Nepal-Maoists-hail-historic-deal-as-path-to-peace.html
  10. ^ http://www.dnaindia.com/india/report_nepal-peace-process-in-for-trouble-as-maoists-ask-for-more_1620429
  11. ^ http://www.nepalnews.com/home/index.php/news/1/14893-ca-set-to-get-final-extension-of-six-months-taskforce-decides-to-go-with-govt-proposal.html
  12. ^ a b 「5月29日までに制憲議会選 ネパール主要政党が合意」 -MSN産経ニュース2013.2.12 00:01配信
  13. ^ ネパール選挙管理内閣議長に最高裁長官 -MSN産経ニュース2013.3.14 19:51配信
  14. ^ レグミ最高裁長官,暫定選挙管理内閣「議長」就任- ネパール評論 2013年03月14日記事
  15. ^ 制憲議会選挙11月19日へ、ボイコットの表明も - 日本ネパール協会 2013年7月6日 記事
  16. ^ 制憲議会招集へ=政党対立が収束-ネパール
  17. ^ カトマンズ・ジャーナル
  18. ^ 英:General Secretary.ネパール会議派では党首ではなく、また複数いる場合があるので、「総書記」「幹事長」と訳すのは不適と考え、「代表幹事」の訳を充てた。
  19. ^ カトマンズ・ジャーナル2008年7月19日
  20. ^ eKantipur.com
  21. ^ eKantipur.com
  22. ^ eKantipur.com
  23. ^ カトマンズ・ジャーナル
  24. ^ Himalayan Times 15 Aug 2008
  25. ^ Nepalnews.com Aug.31 2008
  26. ^ 2009年5月23日"Nepalnews.com"
  27. ^ 以下、本節の記述は小倉清子『ネパール王制解体:国王と民衆の確執が生んだマオイスト』日本放送出版協会, 2007, ISBN 978-4-14-091075-7による(pp.135-138)。
  28. ^ ネパール:中国の圧力強化で脅かされるチベット人”. ヒューマン・ライツ・ウォッチ (2014年4月1日). 2014年8月11日閲覧。
  29. ^ Reuters Aug.19 2008
  30. ^ Nepalnews.com 2009年6月4日付け
  31. ^ 外務省:高村外務大臣とプラダン・ネパール外務大臣の会談について
  32. ^ 共同通信2008年6月18日 16:20
  33. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/seimu/uno/nepal_08/gaiyo.html
  34. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/21/2/1187504_1092.html
  35. ^ http://blog.livedoor.jp/upreti/archives/51545666.html
  36. ^ http://www.asiapress.org/free-db/archives/2007/11/20123216.html
  37. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  38. ^ 外務省 後発開発途上国
  39. ^ http://www.ekantipur.com/2014/01/07/top-story/natural-deaths-raise-doubts/383506.html
  40. ^ カースト
  41. ^ カースト
  42. ^ カースト
  43. ^ カースト
  44. ^ 竹村真紀子 (2014年9月3日). “ネパール人をランチに誘ってはいけません?”. 東洋経済オンライン. http://toyokeizai.net/articles/-/46662 2014年9月6日閲覧。 
  45. ^ 現代ネパール語でのविक्रमの発音はビクラムだが、学術的にはサンスクリット語読みでヴィクラマと書かれることもある。ネパールに関する項では原音主義に基づきビクラム暦とする。
  46. ^ नेपालमा प्रचलित संवत् र व्यावहरिक प्रयोग।मेरो नेपाल अनलाईन なお英語版では1903年としている。
  47. ^ グルプラサッド・マイナリ『ナソ・忘れ形見』 野津治仁訳、穂高書店、1992年、210頁下段。
  48. ^ 佐伯和彦『ネパール全史』明石書店、212〜213頁

参考文献[編集]

  • ETV特集1998年放送「20世紀最強の軍隊 グルカ」 - グルカ兵に関するドキュメンタリー。訓練中の様子以外にも、イギリス軍の部隊縮小によって職を失ったグルカ兵が民間軍事会社へ転職を余儀なくされたり、国の家族へ送金する額が最盛期の半分に落ち込んだため、国の財政にも影響が出ていると報告している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
ネパール国政府 (ネパール語)(英語)
在日ネパール大使館
在日ネパール大使館
日本政府
日本外務省 - ネパール (日本語)
在ネパール日本国大使館 (日本語)
観光
ネパール政府観光局 (英語)(日本語)
ネパール生活情報
ネパール生活情報 (日本語)