カンボジア

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カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
カンボジアの国旗 カンボジアの国章(画像無し)
国旗 (国章)
国の標語:CambodiaMotto.svg
(クメール語:国民、信仰、国王)
国歌素晴らしき王国
カンボジアの位置
公用語 クメール語
首都 プノンペン
最大の都市 プノンペン
政府
国王 ノロドム・シハモニ
首相 フン・セン
面積
総計 181,035km287位
水面積率 2.5%
人口
総計(2013年 15,135,000人(68位
人口密度 81.8人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 45兆3,035億[1]リエル
GDP(MER
合計(2008年 111億[1]ドル(131位
GDP(PPP
合計(2008年 282億[1]ドル(99位
1人あたり 2,066[1]ドル
独立
フランスより 1953年11月9日
通貨 リエルKHR
時間帯 UTC +7(DST:なし)
ISO 3166-1 KH / KHM
ccTLD .kh
国際電話番号 855

カンボジア王国(カンボジアおうこく)、通称カンボジアは、インドシナ半島に位置する東南アジア立憲君主制国家。東にベトナム、西にタイ、北にラオスと国境を接し、南は南シナ海に接する。首都はプノンペン。国民の90%以上がクメール語(カンボジア語)を話し、仏教上座部仏教)を奉ずるクメール人カンボジア人)である。

国名[編集]

正式名称は、クメール語ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは王、ナーチャックは国で、両方合わせたリアチアナーチャックは王国と言う意味。隣国のタイの正式名称とよく似ている。

公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・オブ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia

日本語表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢語表記は柬埔寨(広東語発音でGan-pou-chia[k],北京語発音でJien1-puu3-chai2)。カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者といわれるインドのバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。

カンボジア華人の間では、高棉(漢語発音でGāo-mián)と呼ぶ人もいる。

歴史[編集]

古代[編集]

クメール朝[編集]

アンコールワットアンコール遺跡の一つで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。

9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建造された。

カンボジアの暗黒時代[編集]

16世紀ごろに、ポルトガルの商人やカトリック教会宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられている。続いてスペイン人オランダ人17世紀半ばからフランス人が到来した[2]

保護国時代[編集]

1863年フランス帝国の保護国となり、1887年フランス領インドシナの一部となった。フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年シソワット英語版王が、1927年シソワット・モニヴォン王が即位した。シソワット・モニヴォン王の下で1940年から1941年にかけての間に、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県タイ語版(現在のチャンパーサック県プレアヴィヒア州)、ピブーンソンクラーム県英語版(現在のウドンメンチェイ州シェムリアップ州バンテイメンチェイ州)、プレアタボン県英語版(現在のバタンバン州)がタイ王国に割譲された。1941年に即位したノロドム・シハヌーク王の治下では、第二次世界大戦中に日本軍に占領されるも、明号作戦によってフランス領インドシナが解体された後、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言した。1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本連合国に敗北した後、フランス領に復帰するも、1949年フランス連合の枠組みの中で独立を認められ、1953年に完全独立を達成した。

独立と内戦[編集]

独立後、南北に分断された隣国ベトナムベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカ合衆国と南北ベトナムの介入によってカンボジア内戦が勃発した。1968年にはアメリカ軍空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、クメール共和国を樹立した。

1970年クメール共和国成立後、内戦は一層激化した。アメリカ軍による空爆がカンボジア全域に拡大され、数十万人が犠牲となると、反米を掲げるクメール・ルージュ勢力の伸張を招いた。更に、ロン・ノル将軍によるクーデター後、北京亡命していたシハヌーク元国王も亡命先でカンプチア王国民族連合政府を樹立し、かつて敵対していたクメール・ルージュと共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出していた。

1975年4月17日、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュポル・ポト書記長がクメール共和国を打倒し、民主カンプチアを樹立した。クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8カ月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策の下、旱魃飢餓疫病虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。この死者数は、1970年代前半の総人口は700~800万人だったとの推計の13~29%に当たり、思想改造の名の下で虐殺が行われた。教師医者公務員資本家芸術家宗教関係者、その他良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。それ故、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。なお、内戦前の最後の国勢調査1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。

1978年12月25日中ソ対立の文脈の中でソ連派のベトナム社会主義共和国正規軍カンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国派の民主カンプチアに侵攻し、翌1979年1月にポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。なお、このソ連派のベトナムによる中国派のカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。その後ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。

1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンボジア連合政府を樹立した。人民革命党と反ベトナム三派の対立が継続する[3]1989年ベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。

制憲議会発足[編集]

1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本の明石康である。6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言した。選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[4]。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則の一つとした。制憲議会は国民議会に移行した。

1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となった。

2009年12月18日カンボジア特別法廷[5]は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。[6]

2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・セン首相の続投が決まった。

政治[編集]

カンボジア国民議会議事堂。

政体[編集]

国家体制国王元首とする立憲君主制である。現在の国王は2004年10月に即位したノロドム・シハモニ国王。

行政[編集]

立法[編集]

立法府たる議会両院制を採用しており、定数123議席から成る国民議会下院)議員は直接選挙で選出され、定数61議席から成る元老院上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出される。

1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。人民党が第1党になったが、フンシンベック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあって、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立した。

2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンベック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立を巡り紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した[7]

政党[編集]

憲法[編集]

1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2%)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行した。

カンボジア王国憲法には、内政不干渉紛争の平和的解決、永世中立が明記されている。

法律[編集]

カンボジアでは、クメール・ルージュ[8]時代にほとんどの法律家裁判官検察官弁護士)が殺害され、法律及びその資料も廃棄された。カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っている[9]

民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され[10]、2011年12月21日から適用が開始された[11]

軍事[編集]

カンボジア王国軍陸軍海軍空軍の三軍から構成される。

国際関係[編集]

カンボジアは、韓国と繋がりが深く、韓国はカンボジアにとって最大の投資国である。韓国の元大統領がフン・セン首相の経済顧問を務めたこともあるなど、幅広い分野で協力関係にある。カンボジアで、最低賃金の引き上げを求めるデモが起こった際には、カンボジアに進出している韓国企業にとって不利益になることから、韓国大使館がカンボジアに、を動員してデモを鎮圧するようロビー活動を行った事もある。この鎮圧は実現され、死者も発生した[12]

地理[編集]

カンボジアの地図

カンボジアの中心には国際河川たる大河メコン川が流れ、水運を担っている。このメコンデルタと支流のサップ川英語版トンレサップ湖を取り巻く平野部に人口の三分の一が居住している。トンレサップ湖の北方にはクメール王朝の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワットアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在する。

国土の大部分は海抜100m以下であるが、東北部にアンナン山脈(ラオス・ベトナム国境となる)につながるモンドルキリ高原モンドルキリ州)があり、北部には切り立ったダンレク山地(タイ東北部との国境付近)、プノンペン西方にカルダモン山脈英語版(クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高峰アオラル山(1813メートル)がある。

気温と降雨量[編集]

北緯11度から15度にまたがり、熱帯気候、モンスーン気候帯に属し、5月から10月が雨季(暖かく湿った南西の季節風)、11月から4月が乾季(乾いた浦東風が吹く)である。降雨のピークは9月(海岸地域は8月)。雨季にはタイ湾からの風で気温は22度Cまで下がり、乾季には北東風で40度Cまで上がる。プノンペンでは、年間平均気温が27度、乾季と雨季の境目の4月が最高気温(35~25度)で、乾季の11月に最低気温(30~23度)である。 雨季のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大する。

降雨量は地域によって差が大きい。その地域区分は、中南部の平野地域、トレンサップ湖地域、南西部の海岸地域、北東部の高原山岳地域の4地域である。海岸地域が最も年間降水量が多い。次いで高原地域がやや多い。これらの降雨量が農業生産を左右する最大の要因である。しかし、年間降雨量は年によって変わる。そして、雨季が始まってからの7月から8月にかけて1~2週間雨が降らないことを小乾季といい、この田植えの時期に小乾季が続くと作付や成育に大きな影響をもたらす。[13]

地雷[編集]

カンボジア国内にはかつての内戦の影響で多くの地雷不発弾が埋まっており、危険地域の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供達は母語であるクメール語の文字が読めないために誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのため日本地雷処理を支援する会(JMAS)などの日本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしている。

現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になった。しかしながら、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。

地方行政区分[編集]

カンボジアの地方行政区画
カンボジアの地図

カンボジアは、23の州(クメール語: ខេត្ត : khett)と1つの特別市(クメール語: រាជធានី : reach theany)に分かれる。

州(カエト、20州)-群(スロック)-(クム)
バンテイメンチェイ州 (クメール語: បន្ទាយមានជ័យ: Banteay Meanchey)
バタンバン州 (クメール語: បាត់ដំបង: BattamBang)
コンポンチャム州 (クメール語: កំពង់ចាម: Kampong Cham)
コンポンチュナン州 (クメール語: កំពង់ឆ្នាំង: Kampong Chhnang)
コンポンスプー州 (クメール語: កំពង់ស្ពឺ: Kampong Speu)
コンポントム州 (クメール語: កំពង់ធំ: Kampong Thom)
カンポット州 (クメール語: កំពត: Kampot)
カンダール州 (クメール語: កណ្ដាល: Kandal)
ココン州 (クメール語: កេាះកុង: Koh Kong)
クラチエ州 (クメール語: ក្រចេះ: Kratie)
モンドルキリ州 (クメール語: មណ្ដលគិរី: Mondol Kiri)
ウドンメンチェイ州 (クメール語: ឧត្តមានជ័យ: Otdar Meanchey)
プレアヴィヒア州 (クメール語: ព្រះវិហារ: Preah Vihear)
プレイベン州 (クメール語: ព្រៃវែង: Prey Veng)
ポーサット州 (クメール語: ពោធិសាត់: Pursat)
ラタナキリ州 (クメール語: រតនគិរី: Ratana Kiri)
シェムリアップ州 (クメール語: សៀមរាប: Siem Reap) ・・・ アンコール遺跡
ストゥントレン州 (クメール語: ស្ទឹងត្រែង: Stung Treng)
スヴァイリエン州 (クメール語: ស្វាយរៀង: Svay Rieng)
タケオ州 (クメール語: តាកែវ: Takeo)
特別市(クロン、4市)-区(カン)-サンカット
プノンペン特別市 (クメール語: ក្រុងភ្នំពេញ: Phnom Penh)
ケップ特別市 (クメール語: កែប: Kep)
パイリン特別市 (クメール語: បៃ៉លិន: Pailin)
シアヌークビル特別市 (クメール語: ព្រះសីហនុ: Preah Sihanouk.)
非行政単位
サンカット内に村(プーム)
  • 州知事や市長は、首相から任命される。
  • 州や市、郡や区の職員は、内務省からの国家公務員。
  • 2001年、クムやサンカット評議会選挙法、クムやサンカット行政運営法(クム行政法)を制定。18歳以上のカンボジア国籍者が投票権を有する。
  • 2002年2月の選挙で全国に1621のクムおよびサンカット評議会が設置された。

経済[編集]

カンボジアの農村では高床式住居が主流である。

国際通貨基金(IMF)によると、2011年のカンボジアのGDPは128億ドルであり[14]鳥取県のおよそ2分の1の経済規模である[15]。一人当たりのGDPは851ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。2011年アジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている[16]国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられている[17]

主要産業は農業漁業林業などの第一次産業である。近年は観光産業縫製産業が成長し、最貧国ではあるものの外国からの投資も大きな伸びを示している。主な鉱物資源として(未開発)、マンガン(未開発)、宝石がある。を4万トン生産する。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年には10.4%に達した(カンボジア政府の統計)。

農業[編集]

国土の約3割が農地として利用されており、その8~9割は水田である。次に多いのは「チャムカー(畑)」と呼ばれる畑地で、およそ農地の10~15%程度とみられている。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」と呼ばれる畑があり、農地の10~15%程度を占めているとみられている。これら3種の農地のほかに、焼畑、ゴム・プランテーションがある。

食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見るとが圧倒的に多い。トウモロコシキャッサバ甘薯野菜類、緑豆などの食料作物、落花生大豆胡麻サトウキビタバコジュートなどの工芸作物の作付面積は非常に狭い[18]

カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事している。生産年齢人口が人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業である(以上、2002年時点)。しかしながら、労働生産性が低いため、農産物は国内需要を満たすに過ぎない。主要穀物では米(417万トン)の生産に特化している。商品作物の生産では葉タバコ天然ゴム(4.6万トン)が目立つ。

外国貿易[編集]

主要輸入品目は、石油製品(8.2%)、タバコ、オートバイ。主要輸出品目は衣類(77.8%)、天然ゴム、木材である。主要輸出先はアメリカ合衆国(36.8%)、シンガポールタイ王国。主要輸入先はタイ(15.6%)、香港、シンガポールである。

カンボジア製の衣類は日本にも2000年代以降多く輸出され始めている。例えば、ユニクロの子会社であるジーユーが販売している一本990円という低価格のジーンズなどがカンボジア製である。人件費の安さなどを武器とし、経済成長の緒に就いている。

隣国とのGDP比較
GDP(単位:100万ドル)
タイ王国の旗 タイ
ベトナムの旗 ベトナム
カンボジアの旗 カンボジア
ラオスの旗 ラオス
出典:IMF[19] 2011年の名目GDP

現在[いつ?]中国が経済進出し、カンボジア首相府のビル建築や南部シアヌークビルのインフラ整備にも多額の資金援助を行っている。

法環境[編集]

一方、ソフト面でのインフラストラクチュアというべき法律分野における法整備支援では、民法及び民事訴訟法の起草や裁判官、弁護士の人材育成を支援する日本のプレゼンスが大きい[20][21]

通貨[編集]

通貨リエルが存在するが、カンボジア経済の実情と比較してリエルの為替レートが高く、特に輸出に不利なので、一部を除いては通常米ドルが使用される。カンボジアではポル・ポト政権下の1978年に、原始共産主義的政策の一環として全ての通貨が廃止された。同政権崩壊後の1980年にリエルは復活した。地方、シェムリアップ西部のクララン周辺以西、以北、アンロンベンやプレア・ヴィヘアなどのタイ国境に近い地域ではリエルよりもタイバーツが使用される場合もあるが、1B=100Rで使用できる。

交通[編集]

鉄道[編集]

国民[編集]

民族[編集]

カンボジアの民族分布(1972年

クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族 である。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名なものとして猫ひろしが挙げられるが、その多くは起業家や投資家である。

言語[編集]

カンボジア国内で最も話されている言語クメール語(カンボジア語)である。公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間で最もポピュラーな外国語は英語となっている。

宗教[編集]

上座部仏教が憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒カンボジアのイスラム教)である。

クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶還俗させられ、或いは虐殺された。

教育[編集]

若年層の識字率は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響もあってか21.0%とかなり低い水準である。2004年の15歳以上で読み書きできる者は男性84.7%、女性64.1%。2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998-2002年)(ユニセフ『世界子供白書2005年』ほか)。

文化[編集]

新年を祝うクメール人女性

食文化[編集]

文学[編集]

  • 民話 - 民話は、カンボジアでも人から人へと語り継がれてきた民話が多く残っており、19世紀ごろにはヤシの葉に書かれたという。20世紀になるとフランス人研究者が同地研究者らとともに「クメール風俗習慣委員会」を設立し、民話の採取と編集を始めた。その事業を仏教研究所が引き継ぎ、同研究所の『カンプチア・ソリヤー』に1932年から連載した。その後、『クメール民話集』(全249話、全9巻、1959~1971年)が刊行された。何度も復刻版が出され、誰もが手にする民話集になっている[22]

音楽[編集]

祭礼[編集]

  • 水祭り - 2010年11月に300人以上が死亡する事故がおきた。100メートル、幅6メートルの橋の上に見物客約7、8千人で、橋が揺れたのが原因と見ている。24日の政府発表では、死者数は347人だった[27]

世界遺産[編集]

カンボジア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。

無形文化遺産[編集]

カンボジアには、ユネスコ無形文化遺産リストに登録された文化が2件存在する。

スポーツ[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 岡田知子「インドシナの枠組みの中で」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 173ページ
  3. ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 205ページ
  4. ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 207ページ
  5. ^ 大虐殺の審理始まる2009年2月18日 しんぶん赤旗
  6. ^ キュー・サムファン大虐殺罪で訴追 「しんぶん 赤旗」2009年12月19日(土曜日)版
  7. ^ ここまで上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 217ページ
  8. ^ Khmer Rouge、KRと略、フランス語、元来はシアヌークが左派を一まとめにして呼んだ言葉、近年は国際社会でポル・ポト派を指す用語となっている。天川直子「誰をどう裁くのか」/上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 210-213ページ
  9. ^ 宮崎朋紀「各国法整備支援の状況-カンボジア」
  10. ^ カンボジアが新しい民法を公布 | プレスリリース(2007年) | ニュースとお知らせ - JICA
  11. ^ カンボジアで民法の適用開始 | トピックス(2011年度) | ニュースとお知らせ - JICA
  12. ^ ジェフリー・ケイン (2014年1月8日). “カンボジア「死の弾圧」は韓国の要請か”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/01/post-3146.php 2014年7月31日閲覧。 
  13. ^ 高橋美和「季節のリズム」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 78-80ページ
  14. ^ IMFによるカンボジアのGDP
  15. ^ 内閣府による県民経済計算
  16. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  17. ^ 外務省 後発開発途上国
  18. ^ 天川直子「米をつくる」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 344ページ
  19. ^ IMFの2011年の各国のGDPデータ
  20. ^ 「特集 法整備支援の課題」法律時報時報2010年1月号(日本評論社)
  21. ^ 特集 日本の法整備支援
  22. ^ 岡田知子「ウサギの裁判官」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 52ペー
  23. ^ インドの『ラーマーヤナ』のカンボジア版で「リアム」(ラーマ)王子の栄光という意味。
  24. ^ 最終話第547話「布施太子物語(モハーウェサンドー)」、釈迦前世の物語
  25. ^ カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマーにのみ残る
  26. ^ 岡田知子「天界の喜びから農民の苦しみまで」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 58ペー
  27. ^ 転倒現場で追悼式=死者347人に修正―カンボジア 朝日新聞 2010年11月25日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府[編集]

名誉領事館[編集]

カンボジアの法律[編集]

日本政府関係[編集]

観光[編集]

民間公共団体[編集]