スリランカ

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スリランカ民主社会主義共和国
ශ්‍රී ලංකා ප්‍රජාතාන්ත්‍රික සමාජවාදී ජනරජය (シンハラ語)
இலங்கை சனநாயக சோஷலிசக் குடியரசு (タミル語)
スリランカの国旗 スリランカの国章
国旗 (国章)
国の標語: なし
国歌: Sri Lanka Matha
スリランカの位置
公用語 シンハラ語タミル語 [1]
首都 スリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ[2]
最大の都市 コロンボ
政府
大統領 マヒンダ・ラジャパクサ
首相 D・M・ジャヤラトナ
面積
総計 65,610km2119位
水面積率 1.3%
人口
総計(2008年 20,238,000人(53位
人口密度 303人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 4兆4,105億[3]スリランカ・ルピー
GDPMER
合計(2008年 396億[3]ドル(77位
GDPPPP
合計(2008年 920億[3]ドル(58位
1人あたり 4,581[3]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1948年2月4日
通貨 スリランカ・ルピーLKR
時間帯 UTC (+5:30)(DST: なし)
ISO 3166-1 LK / LKA
ccTLD .lk
国際電話番号 94
  1. ^ 憲法上、「連結語」(link language)として英語が指定されている。
  2. ^ 旧首都はコロンボ
  3. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧

スリランカ民主社会主義共和国(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称スリランカは、南アジアインド亜大陸(インド半島)の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家首都スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(シュリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ)。

1948年2月4日イギリスから自治領英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。人口は約2022万(2006年)である。島国で、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。国名をスリランカに改称したシリマヴォ・バンダラナイケ(正式名:バンダーラナーヤカ)は世界初の女性首相である。また、国民の7割が仏教徒上座部仏教)である[1]

目次

[編集] 国名

正式名称はシンハラ語Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajayaタミル語Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu

公式の英語表記は Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。通称 Sri Lanka。

日本語の表記はスリランカ民主社会主義共和国。通称はスリランカ。漢語ではセイロン島を錫蘭とも書き、略語は「錫」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名をシンハ・ドヴィーパ(ライオンの島。獅子の島)といったことから、「師子国」とも記されている。『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ(羅刹)の王のラーヴァナ(Ravana)が住まいするランカー島は、現在のスリランカを意味するという説が有力とされてきたが、定説ではない。

スリランカはシンハラ語で、正確にはシュリー・ランカー。シュリーは「聖なる」という意味の接頭辞であり「光り輝く」「高貴な」といった意味合いを含む。ランカーは古くよりこの島を示す固有名詞であり、正確な語源は判明していない。一説には「美しいこと」を意味する単語アランカーワと同根とも言われる。

[編集] 歴史

[編集] 独立後

  • 1948年:2月4日にイギリス連邦内の自治領英連邦王国)として独立した。国名はセイロン。統一国民党(United National Party,UNP)のD.S.セーナーナーヤカが首相に就任した。
  • 1949年:タミル人の選挙権を剥奪。
  • 1951年:サンフランシスコ講和会議において、セイロン代表として会議に出席していたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ蔵相(後、スリランカ第2代大統領)は「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい。憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、対日賠償請求を放棄する演説を行った。
  • 1956年:総選挙で人民統一戦線が勝利し、スリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party, SLFP)のS.W.R.D.バンダーラナーヤカが首相に就任し、シンハラ語公用語法案を制定した。さらに、タミル人は公務員から排除された。このシンハラ・オンリーの政策によってタミル人との対立が高まり、後の大規模な民族対立の原因となる。仏陀入滅2500年祭(Bhuddha Jayanti)が開催され、シンハラ仏教ナショナリズムが高揚する。東部とコロンボでタミル人の民族暴動が起こる。
  • 1959年:S.W.R.D.バンダーラナーヤカが仏教僧によって暗殺される。
  • 1972年:SLFPが選挙に勝利して、S.バンダーラナーヤカが首相に就任し、仏教を準国教扱いにする新憲法を発布した。共和制に移行し、国名をスリランカ共和国に改称。「タミルの新しい虎」(Tamil New Tiger。「タミル・イーラム解放の虎」Liberation Tigers of Tamil Eelam、LTTEの前身)が成立し、「タミルの国」、イーラム(Eelam)樹立の要求を掲げて、分離独立運動を開始した。
  • 1977年:UNPが選挙に勝利し、ジャヤワルダナが首相に就任して、資本主義の導入、経済の自由化が始まる。
  • 1978年議院内閣制から大統領が執行権を行使する大統領制に移行し、現国名に改称。
  • 1983年:シンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こって、全土にわたって暴動が繰り返された。これ以後、2009年に至るまで長期にわたる事実上の内戦状態が継続した。シンハラ人とマラッカラ(ムーア人)の対立、シンハラ人内部の対立も激化する。
  • 1984年コロンボからその南東に位置するスリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテへ遷都したが、行政庁舎は旧首都に留め置かれる。
  • 1987年:反政府組織LTTEタミル・イーラム解放のトラ)が独立宣言し、内戦が続いた(スリランカ内戦)。インドの介入があったが、成功せず、散発的なテロが続き再び戦いが起こった。
  • 1988年:プレマダーサが大統領に就任し、内戦の終結を画策したが失敗する(1993年に暗殺)。
  • 1989年:シンハラ人の急進派であった「人民解放戦線」(Janata Vimukuti Peramuna, JVP。1967年成立)の指導者、ローハナ・ウィジェウィーラが殺害され、南部の治安が改善された。
  • 1991年:インドのラジーヴ・ガンディー元首相が暗殺。LTTEの犯行声明が出される。
  • 1994年:SLFPを主体とするPA(Peple's Alliance)が選挙に勝利し、チャンドリカ・クマーラトゥンガが首相となり、後に大統領に選出される。
  • 2002年:ノルウェーの仲介によって、政府はLTTEとの停戦に合意した。その後、日本も仲介に乗り出した。
  • 2008年 LTTEとの停戦合意を正式に破棄すると発表。
  • 2009年:5月17日にLTTEが敗北宣言を出して、シンハラ人とタミル人の長期にわたる内戦は、一応はシンハラ人の勝利に終わった。

[編集] 政府軍と反政府ゲリラとの戦い再燃

北東部で断続している政府軍と反政府ゲリラとの戦闘は、2006年7月、再燃した。ロイター通信は、政府軍による空と陸からの攻撃で民間人が少なくとも50人が死亡、200人以上が負傷したと、LTTEの幹部からの話として伝えた。北東部では港湾都市トリンコマリー南方にある農業用水路の水門の支配権を争って政府軍とLTTEが7月下旬から交戦している。死者は既に300人を超えているという。

トリンコマリー県北部のムトゥールでも激しい戦闘が行われ、総攻撃の結果、8月5日に市内全域を政府軍が掌握したという。国防省の発表によると、この戦闘でLTTE側は152人が死亡、124人が負傷したとされる。この戦闘の最中、LTTEは避難民100人以上を銃で殺害したという。また、同市内では犯行勢力は不明だが、NGOスタッフ17名が殺害される事件も発生している[2]

  • 2006年8月11日から12日にかけてジャフナ半島トリンコマリーで激戦し、LTTE側は少なくとも109人が死亡したと国防省が発表。AFP通信は双方の死者127人と伝えた。
  • 2006年8月17日、スリランカの情報メディア相は、北部のジャフナ半島で政府軍が反政府武装勢力(LTTE)に大規模な反撃を加え、少なくともLTTE98人が死亡、約100人が負傷したと語った。
  • 2006年8月26日、スリランカ軍筋によると、北部のジャフナ半島のムハマライにある同軍の防衛線で、LTTEが仕掛けた手製爆弾が爆発し、政府軍兵士6人が死亡、11人が負傷した。同半島では11日間にわたって激戦が続き、双方に計約650人の死者が出た。
  • 2007年11月2日、LTTE本拠地であるスリランカ北部キリノッチでの政府軍による空爆で、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口であったスッパヤ・パラム・タミルセルバンを含む6人が死亡。
  • 2008年1月3日、北部アヌラーダプラで、軍用トラックを狙った爆弾テロが起き、2人が死亡した。政府の停戦破棄発表に対して、LTTEのテロ攻撃強化が予想されるとして、警察と治安部隊はスリランカ全土で厳戒態勢に入った。
  • 2009年1月、政府軍はLTTEの本拠地キリノッチを2日に、最後の都市拠点ムライティブを25日に制圧。
  • 2009年5月17日、ムライティブの海岸部を残して、LTTEの実効支配地域のほぼ全てが政府軍に制圧される。LTTEは事実上壊滅状態に陥り、LTTE側もセルバラサ広報委員長が事実上の敗北宣言である戦闘放棄声明を発表した。5月19日には、LTTEの最高指導者ヴェルピライ・プラブハカラン議長の遺体が発見され、政府はLTTEの完全制圧と内戦終結を宣言。政府軍には中国から資金・武器の援助があった。中国が資金を出して港湾を整備することによってインド洋に軍事的拠点を構築する、として懸念の声も出ている。[3]

[編集] 政治

共和制。大統領制と議院内閣制が混合した体制となっている。国会(スリランカ)は総議席数225の一院制で、ラジャパクサ大統領が率い、農村部や労働者階級を基盤とするスリランカ自由党を中核とする与党連合が144議席、知識人や上流階級を基盤とする統一国民党が60議席、タミル人の民族主義政党、タミル国民連合は14議席、共産主義政党で、かつては武装闘争も展開した人民解放戦線(JVP)が7議席。

外交面では、非同盟の立場を維持しつつ、歴史的、文化的にも関係が深い隣国インドと、政治や経済、安全保障上、極めて重要な国として良好な関係維持に努めている。また経済社会開発の観点から日本を含む先進諸国との関係強化を重視して援助を受けているほか、近年は中国との関係を強化。中国の援助で南部ハンバントタに大規模な港湾を建設し、インドの警戒心を惹起している。また、南アジア地域協力連合(SAARC)の原加盟国であり、2006年、東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)にも加盟するなど、最近は南アジアや東南アジア諸国との協力関係強化にも力を入れている[4]

現職ラジャパクサ大統領が反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ (LTTE)」の制圧と内戦の終結を宣言し、四半世紀におよぶ内戦が2009年5月に終了した。彼は2011年までの任期を大幅に前倒しして、選挙の実施を決め、2010年1月26日大統領選挙が行われた。多数派シンハラ人の指導者現職のラジャパクサと内戦の司令官だったフォンセカ前陸軍参謀長との一騎打ちとなっている。シンハラ人の票を二分する情勢との見方が出ている。[5]

1月27日スリランカ選挙管理当局は、大統領選挙の開票結果、現職のラジャパクサ大統領が約57.9%を得票し、再選されたと発表した。任期は6年。2位の主要野党統一候補フォンセカ前陸軍司令官は約40.2%であり、1位との差が大きく開いた。投票率は74%。フォンセカ候補は記者会見で、選挙で同大統領に不正があったと主張、裁判所に異議を申し立てる方針を明らかにした。[6]

2月8日、同国軍は大統領選挙で敗退した主要野党統一候補だったフォンセカ元陸軍参謀総長を逮捕した。同国国防省は、フォンセカが軍に在職中に、政府転覆計画に関与していたなどの疑いがあるとしている。2月9日ラジャパクサ大統領は議会を解散した。議員の任期は4月までであった。2月10日、政府は総選挙を4月8日に実施すると発表した。政権が対立候補の拘束とほぼ同時に総選挙の実施を宣言したことに疑念が持たれている。国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長は9日、事態の推移に「懸念」を表明し、大統領と会談したいとの意向を示した。[7]

4月8日には議会選挙が行われた。一部地域では投票用紙が入れ替えられていたとして20日に再投票が行われた。225議席中、ラジャパクサ大統領のスリランカ自由党の与党連合が144議席を獲得し、圧勝した。統一国民党が60議席、タミル国民連合は14議席と議席を減らした。大統領の暗殺を企てたとして逮捕されたフォンセカ前軍参謀長は獄中から野党候補として出馬し、当選した。

[編集] 地方行政区分

スリランカの州

スリランカの国土は9つの州に分かれる。カッコ内は、州都。内戦中、LTTEが一時は北部や東部の広い範囲を実効支配し、政府の支配が及んでいなかったが、現在は回復。

[編集] 地理

スリランカの地図
アダム橋

セイロン島はインド洋にあり、ベンガル湾の南西、アラビア海の南東に位置する。インド亜大陸とはマンナール湾とポーク海峡が隔てる。ヒンドゥー教の神話ではインドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。アダム橋と呼ばれる所々海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年の嵐で壊れたとのことである。海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望める。大型船舶には浅すぎるため島を迂回せざるを得ず、最初1860年に英政府が検討して以来、何度も運河の建設が検討されてきた。島の北部は平坦地が続き、南部に向かうにつれて山地が多くなる。大きく分けると三分される。第一は中央部から南部にかけての山岳・高原地帯で、最高峰はピドゥルタラーガラ山(2,524m)で、アダムズ・ピークも含めて、2000メートル級の山々が連なり、山麓に1000m前後の高原が広がる。第二は標高300から900mの高原ベルト地帯で、山岳地帯の周辺部である。第三は海岸沿いの平地で、南西部では狭く、北部から東部にかけては平坦な土地が広がる。雨量の多い南部の中央高地から河川が放射状に流れ出し、最長の川はマハウェリ・ガンガ(Mahavalli Ganga,全長335㎞)で、北東に流れてベンガル湾に注ぎ、海岸部に広い沖積平野を形成する。北部のジャフナ半島は平坦地が続き、井戸水を利用して、地下水灌漑による農耕を行なっている。

[編集] 気候

気候は熱帯性であり高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27~28 °Cであるが、高地の気候は冷涼である。ヌワラエリア(標高約1890m)では年平均気温22 °Cと一年中常春のような気候である。気候の特色はモンスーンの影響が強いことで、年二回の季節風である南西モンスーンと北東モンスーンに伴い、季節に応じて降雨量が変化する。5月~9月にかけての南西モンスーンの時期はヤラ期 (yala) と呼ばれ、風が山岳地帯に遮られて島の南西部に多量の雨をもたらす。特に5~6月は大雨で、7~9月はやや減少する。ヤラ期には、北部から北東部は風下になり乾燥する。10月から12月は無風状態となって気団の影響で天候は不安定になり、全島で雨の多い日々が続く。11月~3月にかけての北東モンスーンの時期は、北東部を中心に1月までは雨が多い。この頃、南西部は1年で最も雨の少ない時期になる。3~4月は無風状態に入り、やや雨が増加する。国土の全体は、年間降雨量75インチ(1875ミリ)を基準として、乾燥地帯 (dry zone) と湿潤地帯 (wet zone) に大別され、乾燥地帯は北部から中部にかけてで国土の7割を占める。南部の湿潤地帯には総人口の3~4割が居住し、人口密度も高い。湿潤地帯では2回の雨季を利用して二期作が可能であるのに対して、乾燥地帯は1年に1回の雨季であるマハ期を主体に農業が営まれる。北部では大規模な溜池灌漑が展開し、用水と排水を分離せずに、灌漑水の反復利用率を高めることを目標とした「貯水システム」が確立していた。アヌラダープラやポロンナルワを中心に展開した古代の王国の基盤には権力による水系の管理体制があり、王都は水系の結節点にあり、仏教を精神の支柱とし、寺院が水利施設を統御することで高度の安定を保ちえた。しかし、13世紀末以降、王国は北部を放棄して南部に王都を移す。その原因は、侵入者による灌漑設備の破壊、気候の変化、土壌の劣化、病虫害、マラリヤの蔓延、過剰開発など様々の理由が挙げられている。

[編集] 経済

主要な産業は、農業と繊維産業である。主要な農作物として、ココナッツ天然ゴムなどが生産されている。近年工業化の進展と共に繊維産業が発達し、衣料品が最大の輸出品目となっている。古くから「宝石の島」(ラトゥナ・ドヴィーパ)として知られ、ルビーサファイアなどの産出で名高い。

2004年12月のスマトラ島沖地震による津波では3万人以上が死亡するなど、海岸部に大きな被害があり、また民族紛争の再燃もあって観光業などが悪影響を受けている。

[編集] 農業

水田稲作中心で、南部では天水農業、北部では溜池灌漑、ジャフナ半島では井戸水灌漑で栽培する。農耕の生産暦では南部では雨に合わせてヤラ期は4月に播種、7~9月に刈り取る。マハ期は8月~10月にかけて播種し、2~3月に刈り取る。植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200メートル程度まではココナッツ、標高500メートルまではゴム、それ以上の標高ではの生産が盛んである。茶の生産量では世界第3位であり、セイロンティーと呼ばれ、名産品である。しかし、この茶栽培は、病気(コーヒーさび病)によって壊滅的打撃を受けたコーヒー栽培の代替であったことはあまり知られていない。現在では、ごく少量ではあるがコーヒーの栽培が復活している。

[編集] 軍事

スリランカ軍はスリランカ陸軍スリランカ海軍スリランカ空軍の3つの組織で構成されている。志願制を採用しており兵役適齢は18歳から49歳まで、総兵力は予備役も含めて150,900人(2008年時点)。LTTE設立以後同組織との戦闘を繰り返してきた。保有兵器は旧ソ連製、中国製のものが大半を占めており、69式戦車J-7等旧式のものが多く、軍艦も哨戒艦等の小型艦船が主流で潜水艦や対潜哨戒機は保有していない。また、防空システムの構築も遅れており、2007年3月にLTTEが改造民間機を用いた攻撃を行った際には、コロンボの北35kmの地点にあるカツナヤカ空軍基地への侵入を許し、爆撃を受け兵士3人が死亡し16人が負傷、軍用ヘリ数機が損傷し、整備棟の一部が損壊する被害を受けている。

[編集] 国民

シンハラ人には敬虔な仏教徒が多く、五戒を守り、ポヤと呼ばれる満月や新月の日には仏教寺院に参拝する。慎み深く教養が深い人々が多い。小学校、中学校は学費が無料で、識字率も高い。観光地化されて久しく、南西海岸は欧米からサーファーやヒッピーが集まるリゾート地になっている。しかし、1983年以来の民族対立の激化により、観光客は減少した。

西部ビーチリゾートなどでは、10年ほど前のバリ島などと酷似したジゴロによる被害が多発している。女性サーファーやバックパッカーなどが、現地のサーファーに麻薬を勧められたり物をねだられたり、ベッドを共にするようなことが頻繁に起こっているようである。開放的で長期滞在している欧米人の真似をして現地の人と必要以上に親しくなると、このような被害に遭うので注意が必要である。スリランカでは、麻薬の所持、使用は違法である。

[編集] 民族構成

1981年の統計(1983年以降は民族対立の激化で正確な統計はとられていない)では、総人口1484万人で、シンハラ人は1098万人(74%)、タミル人は270万人(18%)、マラッカラ(ムーア人)104万人(7%)、混血のバーガー人Burghers)とユーラシアンが39000人、その他に含められる先住民ヴェッダ人などとなっていた。タミル人の内部も、古代以来の移住で形成されたスリランカ・タミル(1887000人)と、19世紀半ばにイギリスが南インドからプランテーション経営のために労働者として連れてこられたインド・タミル(819000人)に分かれる。マラッカラ(ムーア)も9~10世紀頃に島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれる。統計上では、マレーシアから傭兵として連れてこられたマレー人(47000人)が計上されている。ヴェッダ人は1981年の統計では消えて、その他の28000人に含められた[8]

[編集] 言語

シンハラ語タミル語は国語にして公用語であり、連結語として英語も憲法上認められている。日常的にはほとんどの国民がそれぞれの民族語(シンハラ人はシンハラ語、タミル人はタミル語)を使っている。この他にバーガー人やユーラシアンと呼ばれる英語を母語にする人が国民の一割いる。彼らはコロンボに集住していて、スリランカ社会における指導的役割を担っている。バーガー人はポルトガル人やオランダ人の男性と現地女性との混血、ユーラシアンはイギリス人の男性と現地女性との混血である。マラッカラ(ムーア)はタミル語を使用する。ヴェッダ人は独自の言語(en)を持っていたとされるが、シンハラ人との同化が進み、話者は現在、いるとしてもごく少数と見られる。

[編集] 宗教

仏教が70%、ヒンドゥー教が15%、キリスト教が8%、イスラム教が7%となっている。シンハラ人とタミル人の中にはキリスト教徒もいる。特にシンハラ人の漁民は、仏教の不殺生戒を守ることが出来ないので、キリスト教に帰依しているものが多い。マラッカラ(ムーア)やマレー人はイスラーム教である。バーガー人やユーラシアンはキリスト教徒である。独立後の民族紛争、1983年の大規模な民族対立以来、ヒンドゥー教徒のタミル人と仏教徒のシンハラ人の対立が深まっているとされるが、民族と宗教を結びつけて考える動きは近代になって生み出された言説である[9]

[編集] 文化

[編集] 世界遺産

スリランカ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。

  • 文化遺産

聖地アヌラーダプラ(1982年)、古代都市ポロンナルワ(1982年)、古代都市シギリヤ(1982年)、聖地キャンディ(1988年)、ゴール旧市街とその要塞群(1988年)、ダンブッラの黄金寺院 - (1991年)

  • 自然遺産

シンハラジャ森林保護区(1988年)、スリランカの中央高地(2010年)

[編集] 祝祭日

  • 1月15日 タイポンガル Thai Pongal
  • 1月満月 ドゥルトゥ・ペラヘラ(ケラニヤ)Duruthu Perahera
  • 2月4日  独立記念日
  • 3月満月 アダムスピーク巡礼
  • 4月13日・14日 シンハラ正月、タミル正月 Sankranti
  • 5月満月 ウェサック Vesak(仏陀の生誕・成道・涅槃の日)
  • 6月満月 ポソン Poson(仏教伝来の日。ミヒンタレー)
  • 7月~8月満月 キャンディ・エサラ・ペラヘラ祭 Kandy Esala Perahera
  • 7月~8月満月 カタラガマ・ペラヘラ祭 Kataragama Perahera
  • 10月満月 ディーパーワリ Deepavali
  • 10月中旬 カティナ・ピンカマ Kathina Pinkama(雨安居開け。仏衣奉納)
  • 毎月、新月と満月はポーヤ Poyaで寺院参詣(斎戒日)[10]
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考

[編集] 航路

日本との空路は、スリランカ航空が、マレ経由で、成田国際空港からコロンボへの便を運航している。

[編集] 脚注

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  1. ^ 杉本良男(編)『もっと知りたいスリランカ』(弘文堂、1987)。杉本良男(編)『アジア読本ースリランカー』(河出書房新社、1998)。澁谷利雄・高桑史子(編)『スリランカー人々の暮らしを訪ねてー』(段々社、2003)
  2. ^ http://www.msf.or.jp/news/news.php?id=2006081002&key=sriLanka
  3. ^ http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009052201074
  4. ^ 日本国外務省 スリランカの情報
  5. ^ スリランカ大統領選:「英雄」対決、あす投票 2010年1月25日 毎日新聞
  6. ^ スリランカ大統領選、現職勝利=「英雄」対決制す 2010年1月27日 時事通信
  7. ^ スリランカ軍が前参謀長を逮捕、1月大統領選の野党統一候補 2010年2月9日 ロイター
  8. ^ 川島耕司『スリランカと民族ーシンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団ー』(明石書店、2006)
  9. ^ 鈴木正崇『スリランカの宗教と社会ー文化人類学的考察ー』(春秋社、1996))
  10. ^ 岩田慶治井狩彌介鈴木正崇関根康正『スリランカの祭』(工作舎、1982))

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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