ホー・チ・ミン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張A・B、ラテン文字拡張)が含まれています詳細
ホー・チ・ミン
Hồ Chí Minh
Ho Chi Minh 1946.jpg

任期 1945年9月2日1969年9月2日

任期 1945年9月2日1955年9月20日

ベトナム労働党
中央委員会主席
任期 1951年2月19日1969年9月2日

ベトナム労働党
第2代中央委員会第一書記
任期 1956年11月1日1960年9月10日

出生 1890年5月19日
Flag of Colonial Annam.svg フランス領インドシナゲアン省ナムダン県アンチュ村(現在のキムリエン村)
死去 1969年9月2日(満79歳没)
ベトナムの旗 ベトナムハノイ市
(廟:ホー・チ・ミン廟
政党 インドシナ共産党
ベトナム労働党
署名 Ho Chi Minh Signature.svg

ホー・チ・ミンベトナム語: Hồ Chí Minh, 漢字: 胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)は、ベトナム革命家政治家植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した。初代ベトナム民主共和国主席ベトナム労働党中央委員会主席。

幼名はグエン・シン・クンNguyễn Sinh Cung, 阮 生恭)、成年後はグエン・タト・タインNguyễn Tất Thành, 阮 必成)。第二次世界大戦までに使用していた変名のグエン・アイ・クォックNguyễn Ái Quốc, 阮 愛國)でも広く知られる。ベトナム人民からは、親しみを込めて『ホーおじさん(バック・ホー、Bác Hồ, 伯胡)』の愛称で呼ばれている。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ホー・チ・ミンは、フランスの植民地フランス領インドシナ)であったベトナム中部のゲアン省の、貧しい儒学者グエン・シン・サックの子として生まれた。父の影響を受けたホー・チ・ミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると、ホー・チ・ミンも父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学フランス語も学ぶようになった[1]。しかし、在学中に農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に携わったため、フランス当局に目を付けられて退学処分となった。

訪欧[編集]

その後、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号という船の見習いコックとして採用されたホー・チ・ミンは、1911年6月5日サイゴンを出帆してフランスへと向かった。同年7月6日マルセイユに到着し、初めての外国暮らしを体験する。マルセイユのカフェでコーヒーを注文した際に従業員から人生で初めて「ムッシュ」とフランス人から敬語で呼びかけられて感激するなど、このときの生活はホーにとって全てが物珍しかった。またフランス本国にも、植民地の原住民として虐げられているベトナム人と同様に貧しいフランス人が存在し、フランス人も一様ではないことも発見した[2]。この体験は、後のホーの新国家建設にも影響することとなる。

9月15日に植民地学校の入学願書を提出した後、ホーはラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号でいったんサイゴンへ戻った。役人を罷免されてコーチシナに移り、カンボジア国境近くのゴムプランテーションの労働者や薬の行商人として生活していた父を探すためである。ホーはコーチシナに数週間滞在し、再び同じ船会社の船でマルセイユへ向かった。

マルセイユに戻ったホーは、植民地学校の入学願書が不受理となっていたことを知り、入学を断念した。その後、ホーは「世界を見てみたい」と思い、船員として働くことを希望した。以後、ホーは船員としてアルジェリアチュニジアなどのフランスの植民地アメリカ合衆国ラテンアメリカヨーロッパ諸国を回った。

1913年、アメリカ合衆国を離れたホーは、英語を本格的に学ぶためにイギリス移住した。ロンドンカールトン・ホテルの厨房に勤務した際には、ペーストリー・シェフの見習いとして、世界的に著名な名シェフであるオーギュスト・エスコフィエの薫陶を受けている。 1917年12月にパリに戻ったが、この年に起こったロシア革命は、彼の思想に大きな影響を与えた。

共産党入党[編集]

フランス時代のグエン・アイ・クオック(ホー・チ・ミン)

パリに戻ったホー・チ・ミンは政治活動を本格化し始めていった。1919年初頭、ホーはフランス社会党に入党。同年、安南愛国者協会Association des Patriotes Annamites)を組織して事務局長となった[3]。この年、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が開催されたが、ホーは安南愛国者協会を代表して会議に出席し、8項目からなる「安南人民の要求ベトナム語版」という請願書を提出した。これは、全ての政治犯の釈放、報道と言論の自由の保障、結社と集会の自由の保障など、植民地のベトナム人も本国のフランス人と同等の権利を保障することを要求するもので、植民地独立を要求するものではなかった[4]。ホーはこの請願書を提出する時、本名の「グエン・タト・タイン(阮必成)」ではなく、「グエン・アイ・クオック(阮愛國)」として署名した。以後、ホーは本名を名乗らずにグエン・アイ・クオックとして政治活動を行うことになる。そして、パリ講和会議で「安南人民の要求」は採択されなかったものの、グエン・アイ・クオックの名は穏健なナショナリスト(民族主義者)として世界に知られることとなった。

1920年7月、フランス社会党の機関紙『リュマニテ』に、フランス語に翻訳されたウラジーミル・レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』が掲載された。これに感銘を受けたホーは、同年12月、フランス共産党の結成に参加した。1923年ソビエト連邦に渡り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。こうして、ホーは共産主義者となった。しかし、ホーにとっての主要な課題は共産社会の実現よりも、民族解放すなわちベトナムの独立であった。

中華民国第一次国共合作が成立し北伐が開始されると、彼も広東に赴き、ベトナム青年革命同志会を創立した。1930年イギリス香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一してベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立した。

だが、ホーの民族解放を重視する姿勢は、民族問題をあくまで副次的なものと捉えるコミンテルンからは異端視され、1930年代のコミンテルン内部のベトナム人の共産主義者のグループでは、ホーは権力の中枢から疎外されていた。そのため、日常の「実践」活動から外され、レーニン国際学校民族植民地問題研究所での「学習」生活を強いられた。

その後、コミンテルンが1935年の第7回大会で反ファシズム統一戦線に路線転換して民族問題を重視するようになり、ホーの姿勢はコミンテルンの主流となった。そして、ホーのライバルとなるベトナム人共産主義者の指導者たちがフランスによって弾圧され、コミンテルンを代表するベトナム人共産主義者がホーただ一人となったことにより、ホーは政治活動の第一線に復帰したのである[5]

第二次世界大戦[編集]

1939年第二次世界大戦が勃発し、1940年6月にはナチス・ドイツがフランスを占領したため、フランスの植民地であるフランス領インドシナ(仏印)には新局面が訪れた。ドイツ政府と手を結んだ大日本帝国政府は、南方進出の一環として1940年には仏印北部に、1941年には仏印南部に進駐した(仏印進駐)が、親独的なヴィシー政権との関係を維持するため、在来のフランス・インドシナ政庁との共同統治体制を布いた。

ホー・チ・ミンは、香港、モスクワ、中華民国の延安中国共産党の中央根拠地)や雲南省などで活動を展開していたが、インドシナ情勢の急展開で、1941年、雲南省から国境を越えて祖国ベトナムに30年ぶりに帰国し、カオバン省に入った。彼はここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任し、日本軍に対する武装闘争の準備に着手した。しかし、ベトミンは軍事的にあまりにも弱体であったため、ホーは1942年8月、中華民国に赴いて協力を求めようとした。このときよりホーは従来の「グエン・アイ・クオック」ではなく、「ホー・チ・ミン」の名を使うようになった。だが、中華民国との協力関係を結ぼうとしたホーは、共産党の勢力拡大を嫌う中国国民党の地方軍閥政権によって逮捕されてしまう。13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回しされたあと釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。

ベトナム民主共和国の成立[編集]

大日本帝国軍の敗北が決定的になった1945年8月、ホー・チ・ミンは政権奪取にむけて行動を開始した。8月13日から8月15日にかけて、ホーはタンチャオでインドシナ共産党全国大会を開き、全国的な総蜂起を決議する。8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受諾してベトナムが事実上無政府状態となると、ホーは8月16日、国民大会[6]を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名を以て全国総蜂起のアピールを発した。こうして、ベトミンの指導下に全国的な民衆蜂起すなわちベトナム八月革命が始まった。8月19日、フランス領インドシナの中心都市であるハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握した。南部の中心都市であるサイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ホー率いるベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホーは首相兼外相に選出された[7][8]8月30日バオ・ダイ帝が退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝ベトナム帝国が滅亡。かくして、大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して国家主席兼首相に就任した[9]

だが、旧宗主国フランスは、ベトナム民主共和国を正統政府とは承認せず、アメリカ合衆国イギリス中華民国ソビエト社会主義共和国連邦を始めとする、連合国側諸国も承認しなかった。つまり、ベトナム民主共和国はどこの国からも国際的承認を得られなかった。また、ポツダム協定に基づき、北緯17度線を境に、北部には中華民国軍(国民党軍)が、南部にはイギリス軍が日本軍の武装解除を名目に駐留した。さらに、1945年9月末にはフランス軍がサイゴンの支配権を奪取して、南部はフランスの支配下に入った。ホーは国民党軍の進駐が長引くことを恐れ、フランスが宗主国として再進出してくることを受け入れたが、一方でベトナムの独立を主張し、フランスと交渉を重ねた。だが、フランスはホーの要求を拒否し、交渉は難航した。

この間、ホーはベトナム民主共和国の国家建設を進めていく。国家主席兼首相に就任[10]したホーは、社会主義を国家運営の原則とした。しかし、建国の際に発表された閣僚名簿では、閣僚15名のうち共産党員は6名で残りの9名は非共産党員であった。また1945年11月には、民族統一を優先して共産党が前面に出ることを避け、諸勢力を糾合するためにインドシナ共産党の解散とベトミンへの合流を宣言した。当然、共産党解散は「偽装工作」であり、ベトミン内に共産党組織は温存されたものの、1951年2月に共産党が再建されてベトナム労働党が結成されるまで、公然と共産党は活動できなかった[11]1946年にホーが中心となって制定された憲法には社会主義国家にみられる共産党組織による国家の指導規定は見られず[12]、人権規定や私有財産権についてはフランスやアメリカの憲法を参照したと見られる[13]。つまり、ホーはベトナム民主共和国の社会主義化を漸進的に行おうとしたのである。

インドシナ戦争[編集]

ヴォー・グエン・ザップ(左)とホー・チ・ミン

独立を主張するベトナム側とフランス領インドシナの主権を主張するフランス側の交渉は難航を極めた。この間にもフランス軍がベトナム南部へ増派されていった。ホー・チ・ミンは粘り強くフランス政府と交渉を続け、1946年3月にハノイ暫定協定を成立させてベトナムの独立を認めさせた。本協定調印のために渡仏したが、ここでフランス政府がコーチシナを分離してそこに親仏政権(コーチシナ共和国)を樹立したことを知らされ、交渉は妥結直前で決裂した。

同年12月17日、フランス軍はハイフォンでベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー・チ・ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して徹底抗戦に入った。これが7年間にわたる第一次インドシナ戦争の始まりである。民主共和国軍は平野部から撤兵して北部山岳地帯にこもり抵抗を続けながら、装備に勝るフランス軍をやがてヴォー・グエン・ザップ率いるゲリラ戦で圧倒し、1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な打撃を与えた。その結果、ジュネーヴ協定が締結されて、フランス軍は70年に及ぶ植民地支配の末に、インドシナから駆逐された[14]

ジュネーヴ協定調印後[編集]

東ドイツを訪問したホー・チ・ミン(中央)

第一次インドシナ戦争中の1951年2月、第2回党大会において共産党組織が復興し、ベトナム労働党が結成された。ホーは労働党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国を統治した。しかし、日常的な党務は第一書記のチュオン・チンに委ね、戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドンに譲った。チュオン・チンが急進的に行った土地改革が失敗し、1956年に党第一書記を解任されると、ホーは第一書記を兼任したが、1957年にはレ・ズアンを第一書記代理として再び党務を委ねた。だが、ベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーヴ協定の完全実施という平和的な方法をとろうとするホーと、武力による統一をめざすズアンは対立し、ズアンが党指導部を掌握すると、ホーの影響力は外交の面に限定されていった。ホーは国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったが、集団指導の原則に従って党政治局の決定を裁可するだけで、党内人事・国内問題などの決定にはほとんど関与せず、ズアン指導部の決定を容認していた。国内の統治を党と政府に委ねたホーは、国家主席としてソ連・中国などの友好国との交渉やフランス・アメリカなどの交戦国との駆け引きといった外交問題を担当し、集会やラジオ演説で国民を励ます役割を果たすことに専念した[15]

ベトナム戦争[編集]

支那(第一)フランス共和国(第二)、大日本帝国(第三)に代わって、ベトナム進出を企図していた、第四の国家・アメリカ合衆国は、ジュネーヴ協定に調印せず、南部に親米的なベトナム共和国が成立すると積極的な経済的、軍事的支援を開始した。ベトナム共和国政府がジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えたため、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)が結成された。解放戦線はベトナム労働党の支援の下、介入を始めたアメリカ軍と激しく戦った。

1965年2月7日、アメリカ軍がベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を行い、50万もの大軍を投入したことで、ベトナム戦争が本格的に始まった。しかし、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路を除く農村地帯をほぼ完全にその勢力下に置き、1968年テト攻勢で国際世論もアメリカに批判的となると、リンドン・ジョンソン大統領は再選不出馬に追い込まれ、翌1969年に就任したリチャード・ニクソン大統領は撤収を模索し始めた。

死去[編集]

第一次インドシナ戦争の時とは違い、ホー・チ・ミンはベトナム戦争で強力なリーダーシップを発揮することはなかったが、1966年7月17日にラジオ演説で『抗米救国檄文』を発表して「独立自由ほど尊いものはない」と呼びかけるなど、国家元首としてベトナム人民を鼓舞し続けた。戦争終結に向けた動きが始まった1969年9月2日、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作によって死去し、79年の生涯を閉じた。

ベトナム戦争は1975年4月30日サイゴン陥落によって終結(現在では「解放記念日」として祝われている)。ベトナム民主共和国が主導して南北統一が実現し、1976年7月2日ベトナム社会主義共和国が成立した。南ベトナムの首都だったサイゴンは、戦争終結直後の1975年5月1日、ホー・チ・ミンに因んでホーチミン市に改称された。

死後の評価[編集]

ホー・チ・ミン像

ホー・チ・ミンの遺書には、遺骸を火葬して北部中部南部に分骨して埋葬すること、戦争勝利後は農業合作社の税金を1年間免除することなどが記されていた。しかし、ベトナム労働党政治局はこの部分を削除して遺書を公開した。ホーは個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったが、その意向は無視されたのである。政治局の決定により、遺骸はウラジーミル・レーニンにならって、永久保存(エンバーミング)され、南北統一後、ハノイ市のバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。

死後20年に当たる1989年ベトナム共産党(南北統一後の1976年12月、ベトナム労働党から改称)政治局は遺書の全文を公開、削除部分は死去当時実行できないため公表しなかったこと、全人民、特に生前に直接会うことが出来なかった南部の人民のために遺骸の保存を決定したこと、実際の命日(9月2日)が独立記念日(国慶節)と重なったために1日遅らせて発表したことを説明し、農業税の減免について政府に提議すると発表した。

ホー・チ・ミンはその一生を通じて、ベトナムの民族解放と独立を最大の政治目標としており、その姿勢はときに国際共産主義運動の中で、階級闘争を軽視する「右派」的態度と批判されることがあった。インドシナ共産党時代から、党が綱領・規約においてマルクス・レーニン主義以外の基本指針を掲げることはなかった。しかし、1989年東欧革命1991年末のソ連崩壊によって、社会主義が没落し、アメリカナイゼーション反共主義が世界を席巻すると(一極体制)、ベトナム共産党はマルクス・レーニン主義と並ぶ党の指針として「ホー・チ・ミン思想」を掲げるようになり、ホー・チ・ミン個人への依存を強めるようになった。

政治思想や手法には賛否両論あるが、特筆すべきは、ソ連のヨシフ・スターリン中華人民共和国毛沢東など、革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になって反対派を粛清する例が多いのに対し、ホー・チ・ミンは、腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたことである。ホー・チ・ミンの指導下において、政策議事は徹底的な討議を前提とした非公開の全会一致制とされた。またホー・チ・ミンは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層や軍人達の間でも「ホー・チ・ミンが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績についてほとんど語らないという伝統が生まれた。

ホーの慈愛に満ちた飄々たる風貌、また腐敗汚職、粛清に手を染めなかった高潔な人柄は、民衆から尊崇を集め、そして愛された。晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじさん」(Bác Hồ、伯胡)と呼ばれ親しまれた。一方、反共の南ベトナムからの難民が大多数を占めるベトナム系アメリカ人や他国のベトナム系移民からは憎悪の対象と見られている。例えば現ベトナム政府の要人が訪米する際には「ホー・チ・ミンは殺人者」などというプラカードを掲げられたりする。死後40年以上経過するが、ホーの評価は二極に分裂してまだ定まっていないのが現状である[16]

共産政権の犯罪を検証した『共産主義黒書英語版[17]に、統一後現在までのベトナムでの粛清などによる死者は100万人に上るという記載があるため、この記述のみを根拠に、ネット上などで、ホー・チ・ミンが大量粛清をしていたとする記述も見られるが、実際には、これはベトナム戦争の死者数であるうえ、この他にも、同書の上げている数値については裏付けのないものが多く、数多くの疑問や批判の声が上がっている(前出の英語版記事を参照)。

エピソード[編集]

  • 1950年の時、極秘にソビエト社会主義共和国連邦を訪問したホー・チ・ミンは、ヨシフ・スターリンに会った。感激したホー・チ・ミンは、フランスでは誰もがそうするように、スターリンにサインを求めた。スターリンは差し出された『ソ連邦の建設』という雑誌にしぶしぶサインをしたものの、人間不信からただちにこれを後悔し、秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させた。後にスターリンはよく笑いながら、「ヤツはまだあの雑誌を探しているか。見つけることはできんぞ」と嘲笑のネタにしていたという。ニキータ・フルシチョフは、自伝記の中で、「純粹で共産主義的な人物に酷い接し方をしたものだ」と、スターリンの行為を批判している。
  • ホー・チ・ミンの人柄を示す以下の逸話がある。ベトナム初の民間警備会社の創業者であるファン・ヴァン・ソアンが、ホーのボディガードを務めていた頃の話である。1960年のテト(旧正月)の際にホーは、人々のありのままの生活を見たいとのことで、「ハノイで一番貧しい家庭を訪問したい」と言った。ソアンが案内した4人の母子家庭は、テトにも拘らず、母親があくせくと働いており、亡父の仏壇の供え物もない状態だった。ホーが驚いて理由を尋ねると母親は、食べ物がないので、テトも働かなければならないと言った。ホーは母親を抱きしめて一緒に泣き、近所の人に彼女を助けてあげてほしい旨を伝え、仕事や子供の就学のサポートをしたという。その他にも「人民の生活を知るために市場を見たい」といって、ばれないように、護衛とともに変装して市場にいき、衣服や食品の値段を確認して回ったとの話もあるという[18]
  • 作家の開高健はエッセーの中で「フランスで政治活動 をしていた"阮愛國"と独立後の政治指導者"ホー・チ・ミン"は別人である」との見解を示している。
  • 現代のベトナム政府は、「ホー・チ・ミンはその生涯において誰かと恋愛関係にあったことはなく、結婚もしていない」(=生涯の全てを革命に捧げた)としているが、革命の同志であるグエン・チ・ミンカイや中国人の曾雪明英語版などとの恋愛・結婚があったとの研究もある。また、これらの研究を報道したメディアが処分を受ける[19] など、1990年代に入っても本人の意志に反した個人崇拝が政府によって強要されている。

脚注[編集]

  1. ^ 坪井(2002年)、71ページ。
  2. ^ 坪井(2002年)、89ページ。
  3. ^ 坪井(2002年)、98ページ。
  4. ^ 坪井(2002年)、98 - 99ページ。
  5. ^ 坪井(2002年)、100ページ。
  6. ^ ベトミンに結集する諸党派・団体の代表者の会合で、臨時の国会に相当する。白石(1993年)、37ページ
  7. ^ 白石(1993年)、38ページ。
  8. ^ 「8月29日に成立した臨時政府」との記述あり。木村(1996年)15ページ。
  9. ^ 坪井(2002年)、72ページ。坪井(2008年)、157ページ。
  10. ^ 1946年1月6日に第1回総選挙が実施され、同年3月2日の第1期第1回国会において国家主席兼首相として正式に承認された。白石(1993年)、38ページ。
  11. ^ 坪井(2002年)、119ページ。
  12. ^ 坪井(2002年)、103ページ。
  13. ^ 坪井(2008年)、188ページ。
  14. ^ 厳密には、第二次世界大戦末期の1945年3月11日に、フランス(連合国)はベトナムの支配権を日本(枢軸国)に奪われていた。その半年後の9月2日に、日本(枢軸国)は降伏文書に調印したことでベトナムの支配権を剥奪され、ベトナムは再びフランス(連合国)の植民地となった。
  15. ^ 坪井(2002年)、102ページ。
  16. ^ 坪井(2002年)、82ページ。
  17. ^ ステファヌ・クルトワ、ジャン=ルイ・マルゴラン、ジャン=ルイ・パネ、ピエール・リグロ『共産主義黒書 ― 犯罪・テロル・抑圧(コミンテルン・アジア篇)』(恵雅堂出版、2006年、ISBN 9784874300275)。
  18. ^ 千葉(2004年)、197 - 198ページ。
  19. ^ Human Rights Watch (1992年1月1日). “Human Rights Watch World Report 1992 - Vietnam”. 2009年8月3日閲覧。

参考文献[編集]

  • 木村哲三郎『ベトナム ― 党官僚国家の新たな挑戦』(アジア経済研究所、1996年)
  • 白石昌也『ベトナム ― 革命と建設のはざま』(東京大学出版会、1993年)
  • 千葉文人『リアル・ベトナム ― 改革・開放の新世紀』(明石書店、2004年)
  • 坪井善明『ヴェトナム現代政治』(東京大学出版会、2002年)
  • 坪井善明『ヴェトナム新時代 ― 「豊かさ」への模索』(岩波書店〈岩波新書〉、2008年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
設置
ベトナム民主共和国主席
1945年 - 1969年
次代:
トン・ドゥック・タン
先代:
設置
ベトナム民主共和国首相
1945年 - 1955年
次代:
ファム・ヴァン・ドン
先代:
チュオン・チン
ベトナム労働党第一書記
1956年 - 1960年
次代:
レ・ズアン