ヨシフ・スターリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ヨシフ・スターリン Иосиф Сталин |
|
|
ソビエト連邦第2代最高指導者
|
|
| 任期: | 1922年4月3日 – 1953年3月5日 |
|---|---|
|
|
|
| 出生: | 1879年12月9日 グルジア、ゴリ (都市) |
| 死去: | 1953年3月5日 モスクワ |
| 政党: | ソビエト連邦共産党 |
| 配偶: | ナジェージダ・アリルーエワ(二度目の妻) |
ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ (Иосиф Виссарионович Джугашвили , グルジア語:იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることもある。党内反対派や「反革命分子」に対し、粛清と称して多数の人間を虐殺し、過酷な抑圧政策をとったことで知られる。しかしその一方で、旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)の侵略から祖国を守った英雄と認識している人も少なくなかった。ボリシェヴィキ(ソ連共産党)の書記局長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。ロシアでは総書記に当たる語で呼ばれる。ウラジーミル・レーニンの死後に、レフ・トロツキーやニコライ・ブハーリンをはじめとしたライバルや反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るうに至った。スターリンが存命の頃のソ連は、強力なプロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後はニキータ・フルシチョフのスターリン批判によって、彼による独裁の時代の政治体制や主張・理論は、スターリン主義として右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視されることとなった。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
ヨシフは現在のグルジアのゴリで、靴屋ヴィサリオン・「ベソ」ジュガシヴィリの息子として生まれた。彼の母親エカテリーナは農奴だった。他の3人の兄弟は幼くして死に、「ソソ」や「コバ」と呼ばれたヨシフはただ一人の子供だった。ヨシフは酒に酔った父親に、しばしば厳しく鞭で打たれた。当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。
ヨシフの家の近所に、ダヴィド・パピスメドフ(Давид Паписмедов/ David Papismedov)というユダヤ人がいた。パピスメドフはヨシフに金銭と本を与えて激励した。数十年後、パピスメドフは、ヨシフ少年がどうなったか知るためにクレムリンを訪れた。ヨシフは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで、同僚を驚かせた。
ヨシフの父親は、家族を残してトビリシに行ってしまった。ヨシフはゴリの教会学校に通ったが、14歳になるとコーカサス地方随一の名門校トビリシ神学校への奨学金を獲得した。また、神学校の聖歌隊で歌うことで、僅かな俸給も支払われた。エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になった後も望んでいた。
[編集] 社会主義運動
ヨシフの社会主義運動への参加は、神学校時代に始まった。ヴィクトル・ユーゴーを読んで、かねてから革命家になりたがっていたヨシフは非常に優秀な成績だったが体制への反発から学校の試験に出席せず、1896年にマルクス主義のサークルを組織、1898年にグルジア社会民主党に入党し、1899年に放校となる。その後はカフカース地方で政治的地下活動、活動資金調達のためのギャング行為などを行い、1902年から1917年までの間、逮捕とシベリアへの追放が繰り返された。1913年より、ヨシフは終生の筆名となる「スターリン」を名乗り始めた。
[編集] 権力の掌握
1917年の二月革命後、スターリンはいちはやくペトログラードに入り、4月にレーニンが帰国するまでの間ボリシェヴィキを指導した。彼は十月革命後のロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。ポーランド・ソビエト戦争においては、ミハイル・トハチェフスキー率いる南西正面軍の政治委員としてポーランドのリヴィウの占領に固執して対立し、赤軍敗北の一因を作っている。
スターリンの最初の政府役職は民族人民委員であった。続いてソ連共産党政治局員となり、1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任した。各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れ、後継問題が浮上するとトロツキーが有力視されたが、スターリンは政治局の中でレフ・カーメネフとグリゴリー・ジノヴィエフと組み、いわゆる「トロイカ体制」を作り、トロツキーの追い落としを図る。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを、レーニンの政治活動への参加をめぐり激しく叱責したことからレーニンの不信を買う。そしてスターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し、レーニンの死後に見つかった手紙などから、レーニンがスターリンを批判したのはクルプスカヤへの叱責事件が原因だということがはっきりしている。レーニンは遺言で、「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。しかし既にスターリンの地位は揺るぎないものになっていたため、レーニンの要求は中央委員会によって全会一致で拒否され、遺言は公表されないことになった。
1924年1月にレーニンが死ぬと、スターリンはトロツキー派に対する攻撃を本格化させた。従来のボリシェヴィキの世界革命路線を放棄し、一国でも社会主義は実現可能だとする「一国社会主義」論を提起。またトロツキー派の急進的工業化政策に反対して右派のブハーリンらとともにネップを維持した。しかしトロツキー派を党内から駆逐した1920年代末に政策を転換し、ネップを否定して農業集団化や急進的工業化に乗りだした。同時にブハーリン派に対する攻撃を開始し、党内で独裁的な権力を確立していった。
[編集] 大粛清・スターリン憲法
スターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放した。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺の後に法律を改定し、強制収容所への収監と処刑が行われた。
キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、スターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたと、多くの歴史家は指摘している。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。1934年12月1日、キーロフはレオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの側近ゲンリフ・ヤゴーダの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる「大粛清」の前兆であった。
主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、ピアタコフ、ソコルニコフ、ラデック、ブハーリン、ルイコフ、ボロージン、カラハン、コシオール、チュバール、ヤゴーダ、クレスチンスキー、ヤキール、ウボレヴィッチ、トゥハチェフスキーなどである。ヨッフェ、トムスキーは自殺した。十七回大会の中央委員140人のうち、生き残ったのは僅か15人であった。また外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、杉本良吉、留学中の医師の国崎定洞が行方不明となった(後に両名とも逮捕・処刑されていたことが判明している)。
大粛清の犠牲者数については諸説あるが、裁判により処刑された者は約100万人、強制収容所や農業集団化により死亡した人数は、一般的に約2000万人とされている。1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを、現ロシア政府が公式に認めた。しかし、これは一部分であり、全ての文書の公開はされておらず、公開されるのはさらに時が経つのを待たなければならない。とりわけこの時のシベリアへの農民移住は悲惨を極め、このことが同時期の大飢饉と無関係ではあり得ないが、正確な犠牲者数は未だに不明である。「大粛清」の犠牲者には、トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分も含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害された。
反対派を大量に処刑・追放(強制収容所への収容)に処し、権力を完全に掌握したスターリンは、1936年、「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」、いわゆる「スターリン憲法」を制定した。このスターリン憲法は、1924年に成立したソ連での最初の憲法に代わって新しく制定されたもので、「プロレタリアートによる独裁、全権力を労働者代表のソビエトに帰属させ、生産手段の私有を廃し、各人からその能力に応じて、各人へその労働に応じて」という社会主義の原則を成文化したもので、生産手段の公有・生存権の保障・民族の平等権・18歳以上による男女普通選挙といった事柄が規定されており、社会主義憲法としては世界初であった。だが、その実態は候補者推薦制やソ連共産党による一党独裁体制であったため、民族の平等や信教の自由は実際にはまるで守られなかった。スターリン憲法は、1977年にレオニード・ブレジネフによって「ブレジネフ憲法」に改正されるまで続いた。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でナチス・ドイツとの間に結ばれたモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。こうしてポーランドの東半分を得たスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。 また、バルト三国に対しソ連領に編入させることを認めさせる条約を押し付け併合。ソ連軍を進駐させ、ソ連の支配に反対する住民を逮捕して強制収容所に連行した。
その後次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導のもと一刻も早い防衛体制の確立をめざした。一方で時間を稼ぐため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けることでドイツの攻撃の開始を遅らせることを図った。
しかし1941年6月22日、アドルフ・ヒトラーは協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全く出来ていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。その為スターリンは部屋に閉じこもり、こともあろうに前線の兵士に反撃の許可を与えなかったのでソ連軍はろくに反撃もできないまま退却を余儀なくされた。
ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月にはスターリングラードにおいてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。
スターリンは開戦当初の敗北の責任を数人の将校に取らせて処刑する一方、彼はボルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持した。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、「命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕される」とされる。前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[1]。スターリングラード攻防戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が“自軍によって”射殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。
戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民を共に撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。
スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気付いていた。大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。同年8月、アメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本及び満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太・千島・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。
ソ連は第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性であった。そのため1931年、1932年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5パーセント以下で、全員に勲章が与えられた。現在のロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間に非常に鮮明に記憶され、ロシアにおける最も大きな祝日のうちの一つである。
[編集] 冷戦
第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア、ブルガリア、ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは形式上の独立を保持したが政治的に孤立し、かつソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。
これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはソ連との国交を断絶した。
一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦で蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党の双方を利用し、漁夫の利を得ようとしていた。当初は、中国に強大な統一政権が出来ることをスターリンは望まず毛沢東の忠誠心を疑っていたので、蒋介石に政権を取らせ腐敗した体制の下で中国を衰退させようと企んでいた。しかし国民党側の敗色が濃厚となると、今度は一転して共産党側に武器を援助し密かに蒋介石を裏切った。その勝利に貢献するとともに、朝鮮戦争の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。
「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。
[編集] プロパガンダ
国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利へ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によりソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見はソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明とされ、トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明、グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの、ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明とされた。
また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され(例として、このページに載っている「スターリンとレーニン」写真は実は集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然この「事実」は完全に無視され、隠蔽された。
また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗りつぶすよう求められた[2]。塗りつぶされていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。さらに、スターリンを軽蔑するような言動は一切禁止された。スターリン個人に対する悪口や冗談を迂闊に口にすれば、密告されて逮捕→粛清となる恐れもあった。
[編集] 個人崇拝
上記のようなプロパガンダを駆使して「聖者スターリン」のイメージを作り上げた結果、スターリンに対する個人崇拝も大変なものとなった。多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名のリスト)、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞やノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、現在はどちらも名称が異なる(平和賞に至っては、存在するかどうかすらもはっきりしていない)。
また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置された。当然これらもプロパガンダの一環であるため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学や音楽、それに詩集もスターリンを賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の多くでは、スターリンは神の如く崇められており、第2次世界大戦を1人で終結させたというような荒唐無稽な内容のものが多い。ただし、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、スターリンに心酔していたということではない。そのように心酔しているフリをしなければならないという、一種の強迫観念に囚われていた可能性が高い。一時期はソビエト国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。
ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの人気が上昇し始めているという。ソ連崩壊後の資本主義・市場経済の導入で、富を得たのはごく少数の者だけであり、かえって多くの市民はソ連時代以下の経済水準と、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強いリーダーシップで国家を支えた「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の1つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたそうである[3]。また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した[4]。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代の後半、グラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。
これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている[5]。
[編集] 死去
1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。
暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。
発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存され、その後クレムリンの壁に埋葬された。
スターリンの死はソ連本国を含めた社会主義陣営に大きな衝撃をもたらしたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。これは、スターリンの死去によって当時継続中だった朝鮮戦争の終結が早まり、それによって日本の経済を支えてきた朝鮮特需が終わるという懸念が広まったためである。スターリン重体の報道が流れた3月5日に日経平均株価が前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を示し、スターリン暴落と呼ばれた。
[編集] 死因にまつわる噂
スターリンの死に関して、彼が殺害されたという説は根強い。1993年に公表されたヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、スターリンを毒殺した事をモロトフに自慢したとの記述がある。
2003年にはロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。スターリンの娘であるスヴェトラーナ・アリルーエワは、スターリンが脳卒中で倒れた時、フルシチョフらがいたのにも関わらず医者を呼ばず、放置した事が死に繋がったと指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対を記している。
2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
なお、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは口封じの為に殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため[6]首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。
[編集] 人物
[編集] 人間不信
スターリンは、ロシア帝国時代において少数民族と認識されていた、グルジア人である。身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。他人を殺してもなんとも思わない冷酷な性格であり、裏切り者を絶対に許さない不寛容であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながらワインを飲んでいたという。スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。この結果、パラノイアに冒され、常に命を狙われていると思い込むようになった。
この性向は晩年に近づくほど酷くなった。さらに、晩年には痴呆も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。
権力の絶頂期には、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清。曖昧な返事でも粛清。スターリンは少年時代に鞭を手にした教師に、「目を逸らすことは何かを企んでいる証拠である」と叱られた経験を持っていてこれを忠実に覚えており、スターリンとの会話の際、目を逸らした者は粛清の対象となった。このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話する時は、必死に彼の目を見たという。しかし、逆に部下と話す時は、恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。
スターリンが信頼できたのは、共にヤルタ会談で協議したアメリカのフランクリン・ルーズベルトぐらいであろう。一方で、英国のウィンストン・チャーチルには強い不信感をもっていたようである。しかし、ルーズベルトは第2次世界大戦の終結を見ることなく他界している。
[編集] 結婚と家族
スターリンの最初の妻エカテリーナは、結婚から4年後の1907年に死亡した。葬儀に際してスターリンは、「彼女だけが自分の凍りついた心を溶かすことができた。人に対する暖かい感情は全て彼女と共に消え失せた」と語ったといわれている。二人の唯一の息子であったヤーコフとスターリンとの関係はうまくいかなかった。ヤーコフは一度拳銃自殺を試みたが失敗し、それを受けてスターリンは「銃もまっすぐに撃てない奴」とあざけった。第二次世界大戦でヤーコフがドイツ軍の捕虜となった時も、スターリングラードでの降伏後、ソ連軍の捕虜となっていたフリードリヒ・パウルス元帥とヤーコフの交換を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して返答しなかった。スターリンはこの時「中尉に将軍の価値などない」「敵に寝返った息子などいない」と語ったといわれる。結果としてヤーコフは1943年、脱走を試みて射殺された。
二人目の妻ナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリン、娘のスヴェトラーナ・アリルーエワが生まれた。ナジェージダは1932年、夫との口論の後に拳銃自殺を遂げたが、死因は公式には「病死」と発表された(ロシア人の間では、彼女はスターリンとの口論の後に殴り殺されたと信じる者もいる)。ナジェージダの死後のスターリンは、誰とも結婚しなかった。ワシーリーは、周囲が気遣って空軍中将まで昇進させたが、アルコール依存症で身を持ち崩し、1962年に病没。スヴェトラーナだけは可愛がられたようであったが、彼女にしても、最初の恋人を(父スターリンから)「イギリスのスパイ」と看做されてシベリアに追放されている。後に他の男性との間に子を儲けた際には父から祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨て、アメリカに亡命する事となった。
[編集] 反ユダヤ感情
スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪感を持っていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かず、商売にうつつを抜かしている人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にユダヤ人(ラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフ等)を重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾する等、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていた[7]が、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちと共にユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪を酒の肴にしては喜んでいた。しかし冷戦に入る頃には、ユダヤ人に対しヒトラーと同質の強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった。その典型例が、ユダヤ人が自分の命を狙っていると被害妄想をして、ユダヤ人の主治医を粛清しようとしたケースである。これは医師団陰謀事件として知られるが、スターリンの死とその後の再調査により、医師たちは死を免れた。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれている。
[編集] イヴァン4世への傾倒
スターリンは、帝政ロシア時代の最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝を自らの師と崇めていたが(スターリンが絶対権力の階段に登る過程は、規模が違うだけでイヴァン雷帝の手法を模倣したものである)、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じるも、第2部において、描写をめぐって対立。その際、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している。
[編集] ヒトラーへの共感
また、スターリンは宿敵とされるヒトラーに対し、親近感を抱いていたと言われている。大戦末期に当時イギリスの外務大臣であったアンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心が無いことを表明したという。なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者として政策などを賞賛しており、ベルリンにソ連軍が迫った1945年でもスターリンを賞賛していた(アルベルト・シュぺーア談)。
[編集] 容貌
一般的に知られているスターリンの容貌は、毅然とした美男子であるが、これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であって、実際には大きく異なる。
スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物はスターリンの影武者である。さらに、片方の足の指の一部がくっついていた。スターリンの身長は163cm程度で、自身の身長にコンプレックスを感じてシークレットブーツを履いていた。写真で写る時は遠近法で大きく見せるため、必ず前の椅子に座っていた。『レーニンをミイラにした男』という本によると、スターリンの防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きく掛け離れており、衝撃を受けたということである。ヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できるが、こうした会談に出てくるのは影武者であるという説もある。スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されている時はプロパガンダのため、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。
[編集] エピソード
| 共産主義 |
|
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
| この欄を編集 |
- 権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初にとるということは絶対にせず、部下に毒見をさせてから食べていた。
- 車で移動する時、装甲車並みの車を必ず自分で運転をして、先頭車両を必ず取り、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
- 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激で、スターリンにサインを求めたとき、不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様を聞いて喜んでいた。
- スターリンの趣味の一つに、映画鑑賞があった。アメリカの映画をよく取り寄せさせて側近たちと観ており、側近の一人に翻訳をさせていた。しかし英語が分からない側近ばかりで、実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
- スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1~3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、酒を浴びるほど飲むことがほとんど義務付けられるため、スターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。
- 政権を握ってからは、故郷のグルジアから多くのワイン・ブランデー・ジャム・チーズ・ヨーグルトなどの食材を取り寄せさせて、自分の母親の手料理にできるだけ近い味を再現させるよう料理人に要求した。
- 自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカスの宮殿に住んだが、粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のようにスターリンに送った。1935年、スターリンが、死が近付いた母に会いにカフカスを訪問した際、「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と言うと、エカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。国民はこの母親の言葉に大層喜んだというが、「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったの?」「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」という会話は伝えられていなかったという。
- スターリンは、少年時代に父親から受けた虐待を忘れる事は出来なかった。彼の変名「コーバ」は、グルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギ作による英雄物語の主人公の名で、その題名は「父殺し」といった。
- 1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。
- 1936年、大粛清の最中、軍司令官のイオナ・ヤキールが処刑される直前、スターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下達も彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。後に彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺された事を聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、後に処刑された。
- 独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめ残酷な目つきになった。特に瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいかわからなかった。
- スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。が、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行く事は二度となかった。
- 1941年の日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは松岡洋右外相にこう尋ねた。「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」。「コニシ」とは、京大教授である小西増太郎(1861~1940)のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣で、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。なお、野球解説者の小西得郎は増太郎の子息であり、その祖先は安土桃山時代の武将、小西行長であった。
- 1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官は騎乗する事になっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフのもとにスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と告白した。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した。
- 毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。
- モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝りだし、来客に次々とレモンを食べさせ「私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!」と自慢した。
- クレムリンのある会議で、スターリンはクリメント・ヴォロシーロフ元帥を激しく非難した。これは、即解任、失脚を意味していたために、ヴォロシーロフをはじめとする政治局員は凍り付いた。やがてスターリンは休憩を提案し「諸君、一緒に映画でも見よう」と政治局員とともに映写室でチャーリー・チャップリンの「モダンタイムス」を鑑賞した。スターリンは大いに笑い、映画終了後、にこやかに「思いやりが必要だ。見たまえ。ある同志はミスばかりしとる。ヴォロシーロフ君、休暇をあげるから気分転換をしろよ」と呼び掛けた。このとき、脂汗をかいて血の気の失せていたヴォロシーロフの顔に生気が戻った。
- 1939年の冬戦争でソ連軍は大した作戦も立てずに侵攻した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に惨敗する。スターリンは旧友であり元帥だったヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、夕食会の席上で彼を口汚く罵った。しかし、それまで一度も彼に刃向かったことが無いヴォロシーロフがこのときばかりは、「(敗戦の責任は)あなたの粛清で多くの優秀な軍人たちが殺されてしまったからではないですか!」と言い返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。なお、ヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。
- 死の直前、危篤に陥っていたスターリンの頭には治療用の蛭がついていたという俗説がある[要出典]。
- スターリンが毎晩のように行っていた宴会は、山海の珍味が並べられ、酒は飲み放題であった。だがスターリンはワインを飲むにとどまり、部下たちに強い酒を勧めていた。部下が酔って本音を吐いたり秘密を暴露することで、スターリンは粛清の標的を決めたり政策の戦略を練るのであった。部下の椅子にそっとトマトを置いて相手が知らないで坐って大騒ぎになるのを楽しむなど、時として悪ふざけをすることもあった。またスターリン自身の機嫌が良いと、グルジアの民謡を歌うこともあった。
- 大粛清が盛んなころの宴会で、スターリンの部下の一人マルセル・パウケルが、銃殺される前に命乞いをするジノヴィエフの物真似をした。スターリンは腹を抱えて笑い、最後に「おおイスラエルよ!」と叫ぶところでは、「笑い過ぎて苦しいからもうやめてくれ」と言った。パウケルは後に粛清された。
- 暗闇の中に身を置くことを極度に恐れ、就寝時も、部屋の照明を点けたままの状態にしておいた(娘スヴェトラーナの証言)。
- 女優では、太ったグラマラスな体型が好きだった。あるレセプションにてスターリンは、自分が贔屓にしている女優を痩せさせたら「あなたを容赦しませんよ」と映画関係者にジョークを飛ばした。
- ある日スターリンは「昨晩、ラジオでマリア・ユーディナによるモーツァルトのピアノ協奏曲第23番のレコードを聴いたのだが、気に入ったので、私の別荘に持ってきてくれないかね」と放送局に連絡した。本当はスタジオからの生放送だったのだが、関係者は「ありません」と答えられず、急きょ関係者が呼ばれレコーデイングされた。指揮者は恐怖と緊張のあまり演奏できず三人も変わる始末で、ようようにして録音が済まされ翌朝スターリンのもとに届けられた。このレコードは、スターリンの死の時にプレーヤーに載ったままにされていた。
- マリア・ユーディナは、スターリンからモーツァルトの協奏曲のレコード吹き込みにいくばくかの謝礼を受け取った。だが、ユーディナは「この金を圧政に苦しむ人たちのために使ってください」という内容の手紙とともに送り返した。ユーディナの破滅は明白であった。だが、手紙を読んだスターリンは、テーブルに手紙を置いたまま何も言わなかった。
- ヤルタ会談でルーズヴェルト米大統領が「うちの兵士は閣下のことをアンクル・ジョーと呼んでいますよ。」と話すと、スターリンは「悪趣味な。誠に無礼な呼び方ですね。」と腹を立てた。
[編集] 語録
- 「一人の人間の死は悲劇だ、数百万の人間の死は統計上の数字だ。」
- 「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
- 「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題も存在しない」
- 「社会主義が成功すればするほど、階級闘争はそれだけ激しくなる」
- 「ソ連経済の基本は強制労働にあり、囚人の大規模な搾取が必要不可欠だった」
- 「鉄橋建設には数千人が必要だが、その破壊には数人いれば足りる」
- 「君たちは戦車の上に百貨店を作るつもりかね」(軍が開発した新型多砲塔戦車を見て)
- 「無敗の軍隊が存在しないことを、歴史は示している」
- 「正直者の外交官など、乾いた水や木でできた鉄のようなものだ」
- 「投票する者は何も決定できない。投票を集計する者が全てを決定する」
- 「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らに焚きつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい」
- 「コルホーズ反対の反乱農民は富農であり、すべての富農を撲滅せよ」
- 「よく知っている。犬どもが罹る病気だ」(“感謝”の意味について聞かれた時の返答)
- 「ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際、ヒトラー自殺の報告を聞いて)
- 「あいつは銃をまっすぐに撃つ事もできんのか」(長男ヤーコフがピストルによる自殺未遂で失敗した時)
- 「チベット攻撃? けっこうな事だ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められた時の返事)
- 「人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
- 「我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日、日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の松岡外相に言った言葉)
- 「うちのヒムラーです」(ポツダム会談の折、米英首脳に腹心の内務人民委員部長官ベリヤを紹介したときの言葉)
- 「策略を十分に練って、敵を完膚なきまでに倒したその晩に、上質のグルジアワインを飲む時だな」(記者から、「一番幸せな時は?」と聞かれたときの言葉)
- 「バチカンは、何個師団の軍事力を有しているのか」(スターリンが、国家の実力を軍事力でしか判断できないことを示すエピソード)。
- 「では、我々が農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あの時だって200万人も死んだのですよ」(1937年、粛清の行き過ぎを仲間に指摘されて)
- 「よく刑務所なんかに入っている暇があったものだ。戦争が始まったよ」(独ソ戦開始後、粛清された仲間を釈放して呼び出したときの冗談)
- 「私はアジア人の事はよく知っているがね、あいつらとは時と場合によっては厳しく接しないといかんね」(1939年、ドイツのリッペントロップ外相との会話での発言)
- 「奴は人殺しだ。1938年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」(スターリンの指示で粛清を実施、自らも粛清されたニコライ・エジョフについての言葉)
- 「私はもうおしまいだ。誰も信用できない。自分さえも」(1951年にスターリンがフルシチョフとミコヤンにつぶやいた言葉)
- 「チャーチルという奴は、見張っておかないと君のポケットから1コペイカ失敬するような男です。そう、たった1コペイカのためにポケットに手を突っ込むんです。ローズヴェルトは違う。彼はもっと大きな銭を取ろうとしてポケットに手を突っ込む」(1944年、ユーゴスラビアのミロバン・ジラス(チトーの側近)に語った米英両首脳の比較)
- 「いつまでも復位させることはない。しばらく連れ戻しておいて、適当な時に背中にそっとナイフを突き立てればよいのさ」(1944年、ユーゴスラビアのチトーとの対話で、退位したユーゴスラビアのペタル王の処遇についての発言)
- 「ゾルゲは日本で小さな工場か売春宿でも経営している下衆な野郎だ!」(リヒャルト・ゾルゲからもたらされた、ドイツ軍のソ連進攻についての情報を読んだときの反応)
- 「兵士たちに少しぐらい、自主性を発揮させてやれ!」(1945年春、赤軍がドイツ人避難民に向けて砲撃をおこなったり、占領地でドイツ人女性を強姦していることについて報告を受けた時の返答)[8]
- 「やれやれ、ドイツ人と一緒なら、我々は無敵だったのに!」(娘スヴェトラーナの証言。冷戦が深刻化した晩年、ナチス・ドイツとの同盟を懐かしんで繰り返した言葉)
- 「そんなことはどうでもいい事だ。おまえの好き勝手にしなさい」(独ソ戦の最中、娘スヴェトラーナが結婚の相談を持ちかけた時の返事。その後スターリンは生涯を通じて彼女の夫に会うことは無かった)
- 「あいつらは満洲に亡命したよ。」(ポーランド侵攻後捕虜となった数千人のポーランド将校の行方を問われて。のちにカティンの森などでNKVDにより虐殺された事が判明)
- 「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは『反逆者』だけだ」(冬戦争後、政府当局が公式に示した戦時下で敵に捕らわれたソ連兵の捕虜に対する態度)
- 「赤軍においては前進よりむしろ後退の方が勇気がいる」
- 「わしはグルジア人じゃないぞ!グルジア生まれのロシア人だ!」(グルジア人でありながら上手