ソビエト連邦最高会議

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ソビエト連邦最高会議(ソビエトれんぽうさいこうかいぎ、ロシア語: Верховный Совет Союза Советских Социалистических Республик (Верховный Совет СССР))は、ソビエト連邦の最高国家権力機関。広範な権限を持ち、立法権のみならず、各国家機関の統制、処分の権限、さらに憲法修正権限を唯一有する行政機関でもあった。

概説[編集]

権限・定数[編集]

最高会議は常設機関として最高会議幹部会を選出し、ソ連最高裁判所、ソ連検事総長の任命権を持つ。最高会議幹部会議長はソ連の国家元首である。ソビエト社会主義共和国連邦正式発足以前は、全ロシア中央執行委員会(全露中央執行委員会、: Всероссийский Центральный Исполнительный Комитет, ВЦИК, VTsIK: All-Russian Central Executive Committee)といい、労働者・農民・赤軍及びコサック代議員全ロシア中央執行委員会(: Всероссийский Центральный Исполнительный Комитет Советов рабочих, крестьянских, красноармейских и казачьих депутатов)とも称した時期がある。

最高会議は連邦会議(連邦院)と民族会議(民族院)の二院制で、両院は同等の立法権を有する。両院の議員の任期は5年(1977年の憲法改正までは4年)である。

連邦会議は、ソ連を30万人ごとに設定した地域選挙区(小選挙区)で一人の代議員を選出する。民族会議は、民族の人口を反映するために設置され、代議員は、ソ連邦を構成する15の各共和国、11の各自治共和国、5つの自治区及び民族管区から選出された[1]。両院とも定数は750名。2年に1度召集される。この期間に臨時に召集が可能である。閉会中は、最高会議幹部会が日常的な運営を行った。

なお、最高会議は1989年に大幅な改革が行われ、以下のように改組された。

  • 新たな最高会議は春と秋に3-4ヶ月の会期があり、最高会議幹部会が召集する。
  • 定数は542名。2250名の人民代議員から選出される。
  • 人民代議員選挙の実施、ソ連閣僚会議議長(首相)の任命、国防会議の形成、ソビエト連邦軍総司令官の任免権、立法権、法の解釈の権限、国家計画や予算の審議及び予算の人民代議員大会への提出などの広汎な権限を有する。
  • 最高会議は、人民代議員大会の決定に対して反対することは出来ない
  • 最高会議議長はソ連の国家元首で人民代議員大会により選出される。その任期は5年で連続2期まで。

また、ソ連に加盟する各共和国も、それ自身一院制の最高会議を国家機関として設置していた。

歴史[編集]

ペレストロイカ以前[編集]

1936年12月5日に改定された「ソビエト社会主義共和国連邦憲法(通称:スターリン憲法)」により国家の最高意思決定機関として位置付けられ、1937年12月12日の選挙によって第1回最高会議代議員が選出されて[2]、1938年からの任期を務めた。なお、1941年開始の独ソ戦により、本来5年の任期は戦後の1947年まで延期された。

1945年に独ソ戦(第二次世界大戦)が勝利で終わると、1946年2月10日に第2回最高会議代議員選挙が行われ、以後は4年ごとの5月か6月に選挙が行われた。当時の最高指導者(ソビエト連邦共産党書記長)を含むソ連共産党の幹部はこの代議員選挙により選ばれ、国家統治の正統性を得ていた[3]。しかし、ソ連国家の決定権はソ連共産党及び党政治局が掌握しており、最高会議はその追認機関と化し、実態のある討議は行われなかった。代議員選挙も共産党以外からの立候補はできず、国民の自由意志は反映されない「官製選挙」だった[4]レオニード・ブレジネフ[5]時代の1977年にソ連憲法が41年ぶりに改正されて最高会議の任期が4年から5年へ延長され、これ以後は共産党書記長が最高会議幹部会議長を兼ねる慣例ができて[6]ソ連最高指導者の名実が一致するようになったが、一党独裁制ソ連型社会主義体制には何の変化もなかった。

改革から消滅へ[編集]

1985年ミハイル・ゴルバチョフ[7]が最高指導者となり、ペレストロイカとしてソ連社会の改革を開始すると、最高会議もその対象となった。1988年には憲法改正により、新たに人民代議員大会が最高権力機関として創設され、最高会議はその常設機関に位置づけられた。連邦会議と民族会議は、各々271名の代議員が選出され、ソ連の国政選挙では初めて[8]の自由選挙が実施され、ブレジネフ時代には反体制派(異論派)として国内流刑を受けていたアンドレイ・サハロフなどの急進改革派も代議員に選出された[9]。ゴルバチョフは最高会議議長(国家元首)に選出された[10]

1990年3月にゴルバチョフは大統領職を新設して自ら就任し、国家元首でなくなった最高会議議長にはゴルバチョフの代わりにアナトリー・ルキヤノフが選出された。しかし、ルキヤノフは1991年に発生したソ連8月クーデターでゴルバチョフの失脚を狙った国家非常事態委員会の黒幕となり指導的役割を演じたとして逮捕された。これにより人民代議員大会及び最高会議の権威は急速に失墜し、ソビエト連邦そのものの解体が急速に進行した。

ソ連最高会議は、公式には1991年12月26日ソ連崩壊とともに消滅した(1991年9月の第5回人民代議員大会は、混沌の内に議事が進行し、大会の廃止を決議しており、これにともない最高会議は消滅したとも言える)。

ソ連崩壊後、独立した15の共和国で最高会議は立法府として存続したが、多くの国では「最高会議」を改名、あるいはそれに代わる新たな国会を組織した[11]。ロシア連邦人民代議員大会及び最高会議は、1993年モスクワ騒乱事件ボリス・エリツィン大統領に武力で廃止されるまで存続した。現在でも現地語での「最高会議」名称を維持しているのは、ウクライナヴェルホーヴナ・ラーダ)とキルギスen:Supreme Council of Kyrgyzstan)の2ヶ国のみである。

脚注[編集]

  1. ^ 代議員数の割り当てはそれぞれ、共和国に32人、自治共和国に11人、自治区に5人、民族管区に1人。
  2. ^ その中にはスターリン自身の他、ラーザリ・カガノーヴィチアンドレイ・ジダーノフラヴレンチー・ベリヤアナスタス・ミコヤンヴャチェスラフ・モロトフなどのスターリンの側近達、ウラジーミル・レーニン夫人のナデジダ・クルプスカヤ(注:ソビエト政権は革命直後に女性参政権を認めたため、クルプスカヤ以外にも女性代議員が選出された)、赤軍(後のソ連軍)の職業軍人であるゲオルギー・ジューコフグリゴリー・シュテルンセミョーン・チモシェンコ、さらにソ連科学アカデミー会員では小説家のアレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイや農学者のトロフィム・ルイセンコなどが選ばれ、労働者ではスタハノフ運動で有名になったアレクセイ・スタハノフも選出された。ソ連領外の出身者では、コミンテルン書記長で後のブルガリア人民共和国首相のゲオルギ・ディミトロフ、フィンランド共産党の指導者で後にカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国最高会議議長となったオットー・クーシネンなどが選ばれていた。
  3. ^ スターリンは生前最後となった1950年選出の第3回選挙まで当選した。1936年の第1回選挙で当選していたニキータ・フルシチョフは1962年の第6回選挙まで選ばれ、1964年の共産党第一書記辞任後も任期切れの1966年まで最高会議代議員を務めた。
  4. ^ 秘密投票#秘密投票の形骸化 参照
  5. ^ ブレジネフは前出の1950年の第3回選挙で初当選し、1979年選出の第10回最高会議の期間中に死去した。
  6. ^ スターリンは、ソ連邦成立前の1919年に「全ロシア中央執行委員会」議長に就任してそのままソ連最高会議幹部会議長に横滑りしていたミハイル・カリーニンをその地位にとどめ、1946年のカリーニン死後もニコライ・シュヴェルニクを後任にして、自らは最高会議幹部会議長には就かなかった。
  7. ^ ゴルバチョフは1970年の第8回最高会議から代議員を務めていた。
  8. ^ ソビエト政権としては、革命直後の1917年11月に実施された憲法制定議会選挙以来。この人民代議員選挙では共産党以外の政党結成はまだ認められていなかったが、特に大都市部で共産党の保守派幹部が多く落選し、急進改革派や各共和国の民族主義派が当選した。
  9. ^ ソ連科学アカデミー枠での選出。サハロフはペレストロイカを強く支持していた。
  10. ^ それまでは自らの書記長選出を推薦したアンドレイ・グロムイコを最高会議議長にしていた。
  11. ^ ソ連崩壊より早く連邦を離脱したバルト三国では、エストニアリーギコグラトビアサエイマリトアニアセイマスなど、いずれも1940年のソ連による占領・編入前の独立共和国時代に存在していた一院制国会が、最高会議の改名という形で復活した。

関連事項[編集]