コンスタンティン・チェルネンコ
| コンスタンティン・チェルネンコ Константин Устинович Черненко |
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| 任期: | 1984年2月13日 – 1985年3月10日 |
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| 任期: | 1984年4月11日 – 1985年3月10日 |
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| 任期: | 1984年2月13日 – 1985年3月10日 |
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| 出生: | 1911年9月24日 |
| 死去: | 1985年3月10日(満73歳没) |
| 政党: | ソビエト連邦共産党 |
| 配偶者: | アンナ・チェルネンコ |
| サイン: | |
| ソビエト連邦 |
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| 最高指導者 |
| レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
| 標章 |
| ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
| 政治 |
| ボリシェビキ · メンシェビキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · ゲーペーウー ソ連国家保安委員会 |
| 軍事 |
| 赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦陸軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
| 場所 |
| モスクワ · レニングラード クレムリン · 赤の広場 |
| イデオロギー |
| 共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
| 歴史 |
| ロシア革命 · ロシア内戦 · 大粛清 第二次世界大戦 · 独ソ戦 · バルト諸国占領 冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ マルタ会談 · 8月クーデター ソ連崩壊 |
コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ(ロシア語: Константин Устинович Черненко, ラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko, 1911年9月24日(グレゴリオ暦)/9月11日(ユリウス暦) - 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第7代最高指導者、第4代ソビエト連邦共産党中央委員会書記長。チェルネンコの時代は彼の死によってわずか1年余りで幕を閉じる。これにより、レオニード・ブレジネフ、ユーリ・アンドロポフと続く老人支配の時代の幕引き役を演じ、若いミハイル・ゴルバチョフに政権を委ねることになる。
目次 |
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
シベリア・クラスノヤルスクのノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村の貧農の出身。幼少時は富農(クラーク)に雇われて働いた。ロシア革命が始まるとコムソモールに入り、1929年、ノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長。翌1930年に軍に志願し国境警備隊に配属される。
共産党 [編集]
1931年にソ連共産党に入党。軍を除隊後、クラスノヤルスク地方党宣伝部副部長となる。第二次世界大戦中はクラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現モルドバ)・キシニョフ教育大学を卒業し、大戦終結後の1945年にペンザ州党書記を経て、1948年、モルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。このときのモルダビア共産党第一書記がブレジネフであった。
ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、1956年、ソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に登用される。以後、ブレジネフの側近として昇進を続ける。とりわけブレジネフが第一書記(書記長)に就任してからは、長らく「書記長官房」の異名を取るソ連共産党中央委員会総務部長を務め、党官僚に大きな人脈を築く。また、中央委員会に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。
1982年のブレジネフの死去後はアンドロポフが後任の書記長に就任したため、失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして党官僚の支持を背景に勢力を維持した。
書記長就任 [編集]
アンドロポフの死去後の1984年4月、チェルネンコはソ連共産党中央委員会書記長に就任し、国家元首である最高会議幹部会議長を兼務する。就任当初から病弱で目立った業績はないが、教育面で技術・専門教育を重視し、教育改革に着手した。
また、重要人事を断行する力はないと思われていたが、これに反して、1984年9月6日、ソ連軍の制服組トップで、とかく党に批判がましい言動を繰り返していた参謀総長でソ連邦元帥のニコライ・オガルコフを電撃的に解任し、後任の参謀総長にセルゲイ・アフロメーエフを任命した。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議、しかもグリゴリー・ロマノフの海外出張中に決定されたという状況から、ミハイル・ゴルバチョフなどの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。
「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」 [編集]
1984年、「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて発信させた。これは日米両政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして極東ソ連軍は動員体制に入っていないことが確認された。
日米両政府はこれを当初「誤報か演習だったと見られる」と判断したが、のちにゴルバチョフのグラスノスチによって、ロナルド・レーガンによるジョーク・アナウンスに対する“報復”だったことが判明した。
死去 [編集]
当時、在モスクワ日本大使館政務専門調査員だった秋野豊によると書記長就任直後からチェルネンコが何を話すかより、一分間に何回、呼吸をしているのかによって健康状態を知ろうとしていたという。また、病院へ入院しているチェルネンコの病室をあたかも執務室に見せかけ、テレビや新聞などで報道された。このとき、背広を着たチェルネンコの体を支える随行員の手が写真などに写っていた。
1985年3月10日、チェルネンコは死去した。医師団によれば、死因は、長年患っていた肺気腫が悪化した心肺機能不全による心拍動の停止であった。前任のアンドロポフの葬儀に参列したイギリスの社民党党首(医師でもある)デイヴィッド・オーウェンは、「チェルネンコ氏は肺気腫を患っていると思われる」との見方を示していたが、このオーウェンの「診断」が正しかったことが死後に証明されることとなった。
就任からわずか1年での死であり、国民には不人気な書記長であったが、一家の家長としてはかけがえのない人物であった。妻のアンナは葬儀の際、溢れ出る涙を流しながら、亡夫にキスをし続けた。
関連項目 [編集]
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