トロフィム・ルイセンコ

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トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ
Трофим Денисович Лысенко
人物情報
生誕 1898年9月29日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ポルタヴァ地方カルロフカ・コンスタンチノグラート(現在はウクライナの旗 ウクライナ Карлівка, Костянтиноградського повіту, Полтавська губернія
死没 1976年11月20日(満78歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
出身校 キエフ農業研究所
学問
研究分野 生物学
農学
研究機関 ソ連科学アカデミー (1939)、ウクライナ国立アカデミー (1934)、全ソ連農業アカデミー (1935)
主な業績 ルイセンコ論争
交配
メンデル遺伝の否定
影響を
与えた人物
イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリン
主な受賞歴 社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章(1935年、1945年に2度、1948年、1949年、1958年)
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トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコウクライナ語: Трохи́м Дени́сович Ли́сенко: Трофим Денисович Лысенко1898年9月29日 - 1976年11月20日[1]は、ウクライナ出身のソビエト連邦生物学者農学者[1]ロシア園芸家で生物学者であったミチューリン交配理論を支持し、メンデル遺伝を排斥した。またそれらを疑似科学運動に適応し、ルイセンコ学説と名付けた。 ミチューリン主義農法の創立および主要な指導者で[2]ソ連科学アカデミー1939年)、ウクライナ国立アカデミー1934年)、全ソ連農業アカデミー1935年)を歴任、社会主義労働者英雄勲章、レーニン勲章を8回受賞(1935年、1945年に2度、1948年、1949年、1958年)[3]、スターリン賞を3度受賞(1941年、1943年、1949年)した。共産党員であった。

概要[編集]

農学者としてルイセンコは、幾つかの農法ヤロビ農法綿の芽掻き、夏にジャガイモを植える)[1]を提唱および奨励した。ルイセンコのほとんどの農法は、ソ連で広く導入されている最中でさえ、コンスタンティノフロシア語版リュビシェフロシア語版リシツィンロシア語版、その他に批判された。

ヤロビザーツィヤ(春化)処理自体は、一定の品種について有効な場合があることが認められ、「バーナリゼーション」として一般化され、園芸用語のひとつとなっている[4]。 また、ミチューリンの育種法のなかで推進された、混合花粉受粉法、栄養接木雑種法は、積極的な意味をもつものとしてとらえられ、現在でも無視出来ない農業技術として知られている。

ルイセンコに異を唱える科学者たちは、農学技術上の理論的欠点を指摘し、彼が科学の一般的な手法に従っていないと批判した[5]。幾つかの手法(たとえばハンガリー昆虫学者ヤブロノフスキーによって提案されたゾウムシを克服する方法[6])は、ルイセンコよりずっと前に知られていたが、期待した成果を挙げられずに廃れたものだった[6]

植物相の発展の理論[1]では、ルイセンコの名前は遺伝学の学者やミチューリン遺伝学を認めない者達に対する迫害と関係付けられた[7]

オリガ・レペシンスカヤ(1871年-1963年)の、新しい細胞は細胞の構造を持たない「生きる物質」(«живого вещества»)からも形成されるという理論を支持したが[1][8]、それは後に生物学的に非科学的であると見なされるようになった[9][10][11]

影響[編集]

言語学においても、ニコライ・マルヤフェト理論が大きな影響を与えるようなスターリン時代のソビエトの風潮の中で、メンデル遺伝を否定し、ネオ・ラマルキズム論の立場をとるミチューリンの理論を発展させ、独自の進化論を述べたルイセンコに真っ向から反対したニコライ・ヴァヴィロフは、1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として解職、逮捕され、1943年栄養失調のため獄死した。

ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)は、スターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコ一派は巻き返しを図り、フルシチョフを取り込むことに成功する。しかし、DNAの構造や機能が解明されていくにつれ、ルイセンコ学説の支持者はいなくなっていった。

1964年、物理学者アンドレイ・サハロフは科学アカデミーの総会でルイセンコを声高に非難した。

彼には、ソビエト連邦の生物学、中でも特に遺伝学の恥ずべき後進性、疑似科学的な見解の普及、冒険主義、多くの純粋な科学者たちに対する中傷、解雇、拘束、さらにはその死までについての責任がある。[12]

フルシチョフの解任後、1965年にルイセンコは科学アカデミーの遺伝学研究所所長のポストを失う。 にも関わらず、遺伝学研究所で研究室を率いることを許されており、彼の言葉と手法、アイデアを理解していたソ連の集団農場において、彼の人気は不動のものだった[13]

ルイセンコは1976年、モスクワで死去し、クンツェボ墓地に埋葬された。[14]

ソルジェニーツィンは、『収容所群島』でこのように告発している。

一九三四年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった。

『収容所群島 1』ソルジェニーツィン著、木村浩訳、東京ブッキング、2006年、p. 89-90

他にジョレス・メドヴェージェフロイ・メドヴェージェフの双子の弟)は Rise & Fall Of Trofim D. Lysenko を著し、1969年に Columbia University Press から出版され、邦訳は『ルイセンコ学説の興亡』金光 不二夫訳、河出書房新社 (1971) として出版されている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e Лысенко Трофим Денисович
  2. ^ Yongsheng Liu ≪Lysenko’s Contributions to Biology and His Tragedies≫ //Rivista di Biologia / Biology Forum 97 (2004), pp. 483-498.
  3. ^ Лысенко Трофим Денисович на сайте ≪Герои страны≫
  4. ^ 園芸用語集 | は- タキイ種苗
  5. ^ К 50-летию ≪Письма трёхсот≫ (PDF)
  6. ^ a b Любищев А. А. О Монополии Лысенко в Биологии - М.: Памятник Исторической Мысли, 2006.
  7. ^ Василий Леонов ≪Долгое прощание с лысенковщиной≫
  8. ^ Т. Д. Лысенко О работах действительного члена Академии Медицинских Наук СССР О. Б. Лепешинской
  9. ^ А. Е. Гайсинович, Е. Б. Музрукова ≪„Учение“ О. Б. Лепешинской о „живом веществе“≫
  10. ^ В. Я. Александров ≪Трудные годы советской биологии≫
  11. ^ Яков Рапопорт. ≪Живое вещество≫ и его конец. Открытие О. Б. Лепешинской и его судьба
  12. ^ Biography of Andrei Sakharov, dissent period, Norman L., Qing Ni Li, Yuan Jian Li, The Seevak Website Competition
  13. ^ Trofim Denisovich Lysenko Facts Facts”. yourdictionary.com. LoveToKnow, Corp. 2014年7月9日閲覧。
  14. ^ Trofim Denisovich Lysenko”. Find A Grave. 2014年4月20日閲覧。

関連項目[編集]