ソビエト連邦

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ソビエト社会主義共和国連邦
Союз Советских Социалистических Республик
ロシアSFSR
ザカフカースSFSR
ウクライナSSR
白ロシアSSR
1922年 - 1991年
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章
国旗 国章
国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!
国歌: インターナショナル(1922年 - 1944年)
ソビエト連邦国歌(1944年 - 1991年)
ソビエト連邦の位置
1945年以後のソビエト連邦領
公用語 なし[1]
首都 モスクワ
最高指導者
1922年 - 1924年 ウラジーミル・レーニン
1924年 - 1953年 ヨシフ・スターリン
1953年 - 1953年 ゲオルギー・マレンコフ
1953年 - 1964年 ニキータ・フルシチョフ
1964年 - 1982年 レオニード・ブレジネフ
1982年 - 1984年 ユーリ・アンドロポフ
1984年 - 1985年 コンスタンティン・チェルネンコ
1985年 - 1991年 ミハイル・ゴルバチョフ
首相
1990年 - 1991年 イワン・シラーエフ
面積
1933年 21,352,572[2]km²
第二次大戦後 22,402,200km²
人口
1933年 163,166,100[3]
1970年 242,768,000人
1991年 293,047,571人
変遷
ロシア革命 1917年11月7日
宣言 1922年12月30日
承認 1924年2月1日
解体 1991年12月26日
通貨 ロシア・ルーブル
時間帯 UTC +2 - +13(DST: なし)
ccTLD .su
先代 次代
ロシアSFSR ロシアSFSR
ザカフカースSFSR ザカフカースSFSR
ウクライナSSR ウクライナSSR
白ロシアSSR 白ロシアSSR
ロシア ロシア
ベラルーシ ベラルーシ
ウクライナ ウクライナ
モルドバ モルドバ
グルジア グルジア
アルメニア アルメニア
アゼルバイジャン アゼルバイジャン
カザフスタン カザフスタン
ウズベキスタン ウズベキスタン
トルクメニスタン トルクメニスタン
キルギスタン キルギスタン
タジキスタン タジキスタン
エストニア エストニア
ラトビア ラトビア
リトアニア リトアニア
  1. ^ ロシア語が既成標準。
  2. ^ ヨーロッパが4,236,843km²、アジアが17,115,729km²。
  3. ^ ヨーロッパが109,254,300人、アジアが37,759,300人。

ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語: Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик)は、1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体消滅した連邦国家である。略称はソビエト連邦ソ連[1]ソビエトソ連邦蘇維埃など。

目次

概要[編集]

世界初の社会主義国で、ソビエト連邦共産党一党独裁国家であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と双璧を成す超大国であった。1991年末に解体され、構成国は独立した。

首都モスクワ国旗のデザインは、革命を意味する赤地に、労働者と農民のシンボルである鎌と槌を交差させ、その上に五大陸の労働者の団結を意味する五芒星を配した。

名称[編集]

ロシア語表記では正式名称は「Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик[2]。通称は Сове́тский Сою́з[3]。略称は СССР[4]

英語表記では Union of Soviet Socialist Republics。通称は Soviet Union が広く使用された。略称はUSSR

日本語表記では、ソビエト社会主義共和国連邦。通称はソビエト連邦(「ソビエト」は「蘇維埃」、「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト」「ソヴエト」「ソヴェート」とも)。略称はソ連邦ソ連、または単にソビエト

ソビエト」(: Совет)は「評議会」の意味を持つ。第二次世界大戦前は、神聖同盟のように「同盟」と訳した「ソ同盟(蘇同盟)」も使用されたが、ソ連自体が「Союз とは Федерация(連邦)である」と説明したこと、また戦後に開かれた在日ソ連大使館が「連邦」の訳語を使用したことから、戦後は専ら「連邦」と訳されるようになった。

ソビエト連邦は、国名に固有名詞地名)を含まない希有な例であるが、連邦を構成する各共和国の国名には「ロシア連邦共和国」など地名が含まれている。

一部の西側諸国ではソビエト連邦全体を指して「ロシア」と呼び続ける例も多かった。日本では「労農ロシア」などとも呼ばれたが、「ソ連、ソビエト、ソビエト連邦」が一般化した。中国語を使用する漢字文化圏では「蘇聯」(ソ連)、東側諸国では「ソビエト連邦」に相当する名称で呼ぶことが一般的であった。

歴史[編集]

ロシアの歴史
Greater Coat of Arms of the Russian Empire 1700x1767 pix Igor Barbe 2006.jpg
この記事はシリーズの一部です。
ヴォルガ・ブルガール (7c–13c)
ハザール (7c–10c)
キエフ大公国 (9c–12c)
ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c)
ノヴゴロド公国 (12c–15c)
タタールの軛 (13c–15c)
モスクワ大公国 (1340–1547)
ロシア・ツァーリ国 (1547–1721)
ロシア帝国 (1721–1917)
ロシア臨時政府/ロシア共和国 (1917)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991)
ロシア連邦 (1992-現在)

ロシア ポータル
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ロシア革命[編集]

ペトログラードデモに端を発する1917年3月12日(旧暦2月)の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。

同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、同年11月7日(旧暦10月25日)に権力を奪取した(十月革命)。この11月7日が、ロシア革命記念日である。その後の列強による干渉戦争ロシア内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に「共産党」と改称した。また内戦中に戦時共産主義を導入したが、これは農業と工業の崩壊という結果に終わった。1921年よりネップ(新経済政策)が導入され、経済はようやく持ち直した。

ウラジーミル・レーニン
レーニン(中)、カリーニン(右)、スターリン(左)

建国宣言[編集]

ロシア内戦が終わった1922年、第1回全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。しかし、その僅か1年1ヶ月後の1924年1月、ウラジーミル・レーニンが死去した。

レーニンの死後、共産党政治局内での権力闘争の末、ヨシフ・スターリンが権力の座についた。彼は世界革命を唱えたレフ・トロツキー、レーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフレフ・カーメネフ、レーニンから「党の寵児」と呼ばれたニコライ・ブハーリンなどを次々排除し、独裁的権力を握った。

計画化と粛清[編集]

スターリンはネップを終わらせ、計画経済への転換によるソ連の工業化をはかった。 1928年から第一次五カ年計画が始まり、鉄鋼生産の増強、農業の集団化、電化や機械化に重点を置いた工業化が達成された。同時期に欧米諸国が世界恐慌によって多数の失業者を出し、経済を縮小させたのと比較して、ソ連の経済成長率は世界最高を記録した。 しかし一方でコルホーズに代表される強引な農業集団化は農民層の強烈な抵抗に遭い、最終的にはソ連の農民層は大部分が工業労働者となったり集団農場に組織されたものの、弾圧や飢餓で多くの犠牲者がでた。また、白海・バルト海運河計画などの大規模インフラの建設には、集団化に抵抗した農民や弾圧された共産党員たちの、いわゆる囚人労働者が動員されていた。

スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には、多くの党員や軍人、国民が死刑もしくは流罪などにより粛清された。この頃には、流罪の受け入れ先として大規模な強制収容所シベリアコルィマ鉱山など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる。

第二次世界大戦[編集]

独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)

スターリンは一国社会主義を唱え、マルクスやレーニンがロシアの社会主義化の必須の条件としていたヨーロッパの革命がなくとも、ロシアは単独で社会主義経済を建設できると主張した。こうしたイデオロギーから、コミンテルン(共産主義インターナショナル)を中心とした革命外交は、ナルコミンデル(外務人民委員部)を中心とした国益外交に転換した。ソ連共産党が指導する各国共産党の戦略は、ソ連の国益に従属するものとなった。

とくにドイツ共産党は、ヨーロッパ最強の党員と得票率、労働組合の組織率を誇るヨーロッパ革命の心臓だった。 1920年代後半から1930年代はじめにかけて、ドイツでは共産党とナチス党が失業者や低所得労働者の支持を得て勢力をのばしていたが、スターリンはナチス党よりも(共産党と支持基盤が重複する)ドイツ社会民主党を主要な敵と認定した。ナチス党はその間、選挙のたびに勢力を拡大し、1933年には政権を獲得した。アドルフ・ヒトラーは大ドイツを主張し、東方生存権思想を唱え、オーストリアを併合し、チェコスロヴァキアを分割、ポーランドの侵略を企図した。

他方、スターリンはこの時期のソ連は経済建設期にあり、深刻な戦争には耐えられないと考えていた。そこで彼は西方の安全保障を確保するために1939年、それまで敵対していたドイツ独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツ軍ポーランド侵攻の際にはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、これを併合した。同時にソ連はルーマニアベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランド冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。

スターリンはドイツによるヨーロッパ新秩序に対応して西部国境で権益を増大させることに傾注した。また、スターリンはドイツと英仏との戦争を「帝国主義者間の戦争」と規定し、資本主義没落の第二幕と見た。しかしドイツ軍が西部国境で攻勢を成功させると、スターリンはドイツに対して警戒するようになった。ドイツ軍が(ソ連の利害が介在していたバルカンの)ユーゴスラヴィアを侵略すると、ソ連はドイツへの批判を強めるようになる。

1941年6月に独ソ戦が勃発した。ドイツ軍の猛攻で開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られ、レニングラード攻防戦クルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出した。スターリンは戦争を「大祖国戦争」と位置づけて国民の愛国心に訴え、ドイツの占領地で民衆を中心としたパルチザンを組織し敵の補給線を撹乱した。また、味方が撤退する際には焦土作戦と呼ばれる住民を強制疎開させた上で家屋、畑などを破壊して焼却する作戦を行い、ドイツ軍の手には何も渡らないようにさせた。連合国側であるアメリカの支援(レンドリース法)もあり、気候や補給難に苦しむドイツ軍を押し返していった。1942年のスターリングラードの戦いに勝利すると、これを契機にしてソ連は戦局を有利にすすめるようになる。

やがて、ドイツ軍の後退と共にソ連軍は東欧各国を解放した。東欧各国の民衆は、ドイツ軍の占領に対して抵抗の最前線に立った共産主義者たちを支持した。東欧各国の共産党は、赤軍の圧力と民衆の支持を背景に、ソ連型社会主義をモデルにした社会主義政権を各地で樹立した。1945年5月、ソ連軍はドイツの首都であるベルリンを陥落させ、ドイツ軍を降伏に追い込んだ。

1945年8月8日に、日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告した。これは連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づくものであった。ソ連軍は日本の千島列島南樺太朝鮮半島北部、そして日本の同盟国の満州国に対し侵攻した。この際のソ連軍の行動は、中立条約の破棄、捕虜のシベリア抑留など、戦後の日ソ関係に大きなしこりを生む原因となった。

ソ連は第二次世界大戦の期間中に2000万以上のソ連人が死亡するなど大きな犠牲を出した。一方でその勝利に大きく貢献したことで国家の威信を高め、世界における超大国の地位を確立した。国際連合創設にも大きく関与し、安全保障理事会常任理事国となっている。さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニアラトビアリトアニアバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。

また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州旅順大連の両港の租借権や旧東清鉄道南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。

冷戦の開始とフルシチョフ時代[編集]

フルシチョフとスターリン
ベルリンのチェックポイント・チャーリーで対峙するソ連軍とアメリカ軍の戦車

戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義西側諸国)陣営に対抗した。スターリン政権下ではベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。

1953年、スターリンが死去し、新たな指導者となったニキータ・フルシチョフスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。これはスターリン主義を取っていた中華人民共和国の反発を招き、中ソ対立が進行することになった。スターリン批判は東欧諸国にも強い衝撃を与え、各国では政治改革の動きや反体制運動(ポズナン暴動など)が発生したが、ソ連は1956年のハンガリー動乱には武力介入してこれを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した。また各国政権には、有形無形の圧力をかけ収拾させた。

フルシチョフ時代にも軍拡は推し進められており、核兵器とミサイル兵器の配備が進んでいた。1962年キューバ危機は核戦争の危機を世界に知らしめることになり、その後はアメリカとの関係は改善が進んだ(雪どけ (冷戦期の国際関係)英語版)。しかしベトナム戦争やアフリカ・南アメリカでの、代理戦争と呼ばれる紛争は継続していた。

フルシチョフは食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結果、ソ連は食料を海外から輸入しなければならない事態に追い込まれた。

停滞の時代[編集]

1979年6月18日、第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)の調印を行うブレジネフ(右)とアメリカのジミー・カーター大統領

1964年に、フルシチョフは農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策をとったことを理由に失脚させられた。代わってレオニード・ブレジネフが指導者となった。しかし中華人民共和国とは、中ソ対立が激化したことによって、両国の関係はほぼ断絶状態に近くなり、1970年代には米中国交正常化による中華人民共和国の西側への接近を許すことになった。ソ連は東欧諸国を勢力圏下に置き続けるため、1968年には「制限主権論」の名の下にチェコスロバキアの民主的改革(プラハの春)に対して介入し、ソ連は強い国際社会の批判を浴びるようになった。この状況でソ連はアメリカとの協調を図るようになり、戦略兵器制限交渉などのデタントと呼ばれるアメリカとの接近政策がとられるようになった。

1979年12月、ソ連はアフガニスタンの共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしていると見て、アフガニスタンへの侵攻を行った。これはパキスタンサウジアラビアイラン等といった一部のイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招き、デタントの流れは終焉した。アフガニスタンでの戦闘は泥沼化して1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、多大な人命と戦費の損失を招いた。さらにソ連を「悪の帝国」と名指しで批判するロナルド・レーガン大統領政権下のアメリカとの軍拡競争がさらに激化するようになった。1983年9月には大韓航空機撃墜事件が発生したことで西側諸国との緊張はさらに増した。

ブレジネフ政権は、18年にわたった長期政権だった。停滞しつつも安定し、はじめて飢餓も騒擾事件も粛清もなくなった。その代り、改革はまるで行われず官僚主義による党官僚の特権階級化(ノーメンクラトゥーラ)、ブレジネフ一族の縁故主義など体制の腐敗が進んだ。経済面でも、1960年代頃まで10%を誇った成長率は次第に鈍化していった。そのツケは国民生活に回り、食料や燃料、生活必需品の配給や販売が滞るようになった。改革開放を始めた中華人民共和国を除き、東側諸国全体の経済1970年代後半から停滞していく。1980年代に入り西側諸国の豊かな生活の情報がソ連国内で入手できるようになると、国民は体制への不満と自由な西側への憧れを強めていくことになる。農業は慢性的な不振となり、小麦をアメリカから輸入することが恒常的になった。しかしデタントの終焉後は穀物輸入も逼迫し、さらに経済の悪化を招いた。技術競争でもアメリカや日本に大きな遅れをとるようになり、ソ連崩壊の直前はGNPも人口、国面積のはるかに小さい日本に抜かれて3位となる。

ペレストロイカ[編集]

ミハイル・ゴルバチョフとアメリカロナルド・レーガン大統領

1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフ、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコと老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せなかった。

その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に誕生したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)を推し進めた。

これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進められた。1988年にはそれまでのソ連最高会議に代わり人民代議員大会創設が決定され、翌年3月26日にはソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。ゴルバチョフは人民代議員を国民の直接選挙で選ばせることによって、改革の支障となっていた保守官僚を一掃しようと試みた。また1986年4月チェルノブイリ原子力発電所事故によってソ連の深刻な官僚主義体質が露呈すると、ゴルバチョフはグラスノスチを本格化させ、情報統制の緩和を進めた。これを受けて、ソ連国民の間では歴史の見直しや、活発な政治討論などが行われるようになった。

グラスノスチの進展に伴い国民の間では民主化要求が拡大、それを受けてソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、そして複数政党制大統領制の導入が決定された。同年3月15日、人民代議員による間接選挙によって、ゴルバチョフが初代ソ連大統領に選出された。また同時期に当局の検閲を廃止した新聞法が制定された。

しかしこれらの一連の政治経済改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードを巡ってソ連共産党内の内部抗争を激化させた。特に保守派は、改革の進展により自らの既得権益が失われることに強く反発した。そして、共産党はエリツィンら急進改革派とゴルバチョフら穏健改革派、そして保守派のグループに分裂した。党内の分裂もあって国内の経済改革は遅々としたものとなり、経済危機を一層深刻化させた。こうした状況の中でエリツィンは保守派が幅を利かせる共産党に見切りをつけ、1990年7月のソ連共産党第28回大会を機に離党し、ポポフサプチャークアファナーシェフサハロフらと共に非共産党系の政治組織である地域間代議員グループを結成、共産党に対抗した。一方、穏健改革派のゴルバチョフは保守派と急進改革派の板挟みになり、抜本的な改革を推進できなかった。

また従来の中央集権型の指令経済を破棄し、市場メカニズムを導入することが図られたが保守派の抵抗などで経済改革は遅れ、国内ではインフレと物不足が深刻化した。市民の間では、事態を打開できないゴルバチョフらソ連共産党に対する批判が高まった。こうした国民の不満を吸収したのがエリツィンら急進改革派である。1991年6月12日にはロシア共和国大統領選挙が実施されてエリツィン・ロシア共和国最高会議ロシア語版議長が当選し、7月10日に就任した。またロシア共和国大統領選挙と同日にモスクワ市長選挙、レニングラード市長選挙がそれぞれ実施され、ポポフがモスクワ市長に、サプチャークがレニングラード市長に当選した。こうした急進改革派の躍進は保守派を焦らせ、後の8月クーデターへと駆り立てる要因の1つとなった。

連邦制の動揺[編集]

ペレストロイカは東西の緊張緩和や東欧民主化、そしてソ連国内の政治改革において大きな成果を上げたものの、改革が進むにつれて共産党権力の弱体化と、連邦政府の各共和国に対する統制力の低下という事態を招いた。こうした中で、国内では封印されていた民族問題の先鋭化と各共和国の主権拡大を要求する動きが生まれた。1986年12月にはペレストロイカ開始後初めての民族暴動であるアルマアタ事件カザフ共和国で発生した。1988年からはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡ってアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間に大規模な紛争が発生、グルジア共和国やモルドバ共和国内でも民族間の衝突が起きた。また1990年3月11日には反ソ連の急先鋒と見られていたバルト3国リトアニア共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し宣言を撤回させたものの同年3月30日にはエストニア共和国が、5月4日にはラトビア共和国が独立を宣言した。1990年5月29日にはロシア共和国最高会議議長に急進改革派のエリツィンが当選、同年6月12日にはロシア共和国が、7月16日にはウクライナ共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという主権宣言を行い各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きはゴルバチョフ自身が推進したペレストロイカグラスノスチによって引き起こされたと言える半面、連邦議会で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国議会に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派ボリス・エリツィンが就任したことは大きな意味を持っていた。

従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる新連邦条約を締結するため各共和国との調整を進めた。1991年3月17日には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった[5]。この国民投票の結果を受け4月23日、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9つの共和国の元首が集まり、その後各共和国との間に新連邦条約を締結し、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでの「ソビエト社会主義共和国連邦」から社会主義の文字を廃止し、「ソビエト主権共和国連邦」に変更することも決定された。

冷戦終結[編集]

マルタで会談するブッシュ大統領(手前右)とゴルバチョフ(手前左)

ゴルバチョフは1988年3月新ベオグラード宣言の中でブレジネフ・ドクトリンの否定、東欧諸国へのソ連の内政不干渉を表明していたがこれを受け1989年から1990年にかけて東ドイツハンガリーポーランドチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱プラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。

また、1987年12月にはアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約が締結され、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始した。同時に東欧に駐留していたソ連軍の一部も、本国への引き上げを行った。このような流れの中で、ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海マルタでゴルバチョフとアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。

崩壊[編集]

「8月クーデター」でモスクワ市内に展開する戦車

国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフウラジーミル・クリュチコフら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日クーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁し条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった(ソ連8月クーデター)。

クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕された。クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフの直属の部下だったこともあり、ソ連共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し同時にソ連共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止し同党は事実上の解体に追い込まれた。連邦政府の中核を担い、そして連邦を一つにまとめ上げてきたソ連共産党が解体されたことにより、各共和国を統制することが出来る政府組織は存在しなくなり、各共和国の元首が独自に権力を持つようになった。そして、これ以後実権は各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。

9月6日、国家評議会はバルト三国独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの5つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意、また連邦への加盟を拒んでいる残りの共和国への説得を続けた。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア共和国大統領も、5000万の人口を擁しソ連第2位の工業国であるウクライナが加盟しない主権国家連邦に、ロシア共和国が加入することは利益にならないとして、12月3日にウクライナ独立を承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。同年12月8日ベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナベラルーシ共和国が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、残る諸国もそれに倣ってCISに加入した。12月17日、ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日には最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した

地理[編集]

ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接している国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、アメリカ大陸など幅が広い。陸続きで隣接する国は西はノルウェーフィンランドポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニア、南はトルコイランアフガニスタンモンゴル中華民国1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮1948年以降)、海を挟んで南は日本(1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮半島で国境を接していた)、東はアメリカ合衆国である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、囚人を酷使した強制労働で多くの命が失われた。

自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、シベリア鉄道は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニンからの方針により電化が進んでおり軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。

長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシア連邦になった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。

またソ連はヨーロッパとアジアを跨ぐ国であったことからユーラシア北アジアと呼ばれていることが多い。なお、サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパだとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアも加盟しており、全くこれは論拠にならない。なお、ソ連時代に所謂公用語も存在しなかった。すなわちロシア語はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。

構成国[編集]

ソビエト連邦構成共和国も参照)

加盟年 国名 ソ連解体後 誕生
1922年 ウクライナ社会主義ソビエト共和国 ウクライナ
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 ベラルーシ
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 1936年連邦解散
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア
1924年 ウズベク・ソビエト社会主義共和国 ウズベキスタン
トルクメン・ソビエト社会主義共和国 トルクメニスタン
1929年 タジク・ソビエト社会主義共和国 タジキスタン ウズベクから分割
1936年 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 アゼルバイジャン ザカフカースを解散
アルメニア・ソビエト社会主義共和国 アルメニア
グルジア・ソビエト社会主義共和国 グルジア
カザフ・ソビエト社会主義共和国 カザフスタン ロシアから分割
キルギス・ソビエト社会主義共和国 キルギスタン
1940年 カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 1956年ロシアの自治共和国に降格 ロシアの一部とフィンランドの一部を合併
エストニア・ソビエト社会主義共和国 エストニア
モルダビア・ソビエト社会主義共和国 モルドバ
ラトビア・ソビエト社会主義共和国 ラトビア
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 リトアニア

なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することとなる。

また、国際連合にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟していた。

代表的な都市[編集]

ウラジオストク
モスクワ
レニングラード(当時)

汚染地域[編集]

ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、ジェルジンスクノリリスク、スムガイト(現在はアゼルバイジャン)、チェルノブイリ(同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。 特にチェルノブイリ原発事故では広島型原爆の約500発分の放射性降下物がまき散らされ、多くの被災者が出た。 また核実験場のあったセミパラチンスク(現在はカザフスタンセメイ)では120万人が死の灰を受け30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。

政治[編集]

一党独裁制[編集]

間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。

但し、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。

この細胞 (政党)を張り巡らせる民主集中制計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ器官の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上存在しなかった。また、指導者選出のためのノーメンクラトゥーラ制度は縁故主義の温床となり、新たな階級を生み出した。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。

なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった(ブレジネフ以降は共産党書記長が最高会議幹部会議長を兼務するようになったが、最高会議幹部会議長の権限は儀礼的・名誉的なもので、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の書記長職であった)。

司法裁判[編集]

建国者のレーニンは秘密警察のチェーカーを設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実質レーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェーカーの無差別な処刑は、反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げて処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」という理由で一家共々処刑を行うなど法に対する姿勢が杜撰であったために、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキが法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。

スターリン時代には、モスクワ裁判など形式的な裁判により多くの人々が有罪の判決を言い渡され、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェーカーを改名したGPU(ゲーペーウー)を用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。GPUはKGBに引き継がれた。

スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕または亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。

歴代指導者[編集]

外交関係[編集]

赤が社会主義国、薄い赤がその影響下にある国
ソビエト外務省ビル

外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。

成立当初は日本イギリスアメリカドイツなど大国の承認を得られず孤立したが、その後各国と国交を結び、さらに1930年代後半から1940年代にかけては日本やドイツと協定を結ぶ。

独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツチェコスロバキアブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国化させた。さらにユーゴスラビアが主導する非同盟諸国と呼ばれる中華人民共和国インドキューバエチオピアエジプトイラクシリアといった第三世界と友好協力条約を結び、関係を持つ。

コメコンではメキシコモザンビークフィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジアベトナムラオス北朝鮮など)、中南米チリニカラグアなど)、アフリカアンゴラリビアコンゴなど)などでも「民族解放」、「反帝国主義」、「植民地独立」を唱える共産主義政権(専制政治が行われた政権もある)の成立に協力し、アメリカや西ドイツイギリスフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。

対社会主義陣営[編集]

中華人民共和国との関係[編集]

ソビエト連邦の軍事支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に設立された中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。

1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこのような対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である「文化大革命」が終結する1970年代後半まで続くことになる。

そのような中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結ぶと同時に中華民国との国交を断絶し、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだ。また中華人民共和国は、モスクワオリンピックロサンゼルスオリンピックでは東側陣営であるのに関わらずアメリカ側についていた。独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、そしてゴルバチョフの訪中でソ連と中華人民共和国の関係も改善された。

キューバとの関係[編集]

1959年1月に、アメリカの支援を受けていた独裁者のフルヘンシオ・バティスタを政権の座から引きずり下ろしたフィデル・カストロは、当初米ソ両国との間で比較的中立な立場をとっていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は革命後に産業の国営化を進めたカストロを「社会主義者的」と警戒し距離を置いた。同時にソ連が「アメリカの裏庭」にあるキューバの指導者となったカストロに援助を申し出たことから両国は急接近し、南北アメリカ大陸における唯一のソ連の友好国となる。

その後ジョン・F・ケネディ政権下でアメリカはキューバ侵攻を画策し、1961年に「ピッグス湾事件」を起こしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、ソ連武器のキューバ軍への提供の代わりに軍事顧問団を置く他、ソ連の核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、1962年にソ連製核ミサイルをキューバに配備した。しかしこのことを察知したアメリカは、海軍艦艇によりキューバ海域を海上封鎖し、キューバに近づくソ連船舶に対する臨検を行うなど、キューバを舞台にしたアメリカとの軍事的緊張を引き起こした(キューバ危機)。

その後もソ連はその崩壊まで、キューバに対する軍事的支援のみならず経済的支援も活発に行い、キューバの主要産業であるサトウキビを破格の価格で買い取るバーターとして、キューバがその供給を完全に輸入に頼っている石油を与えるなど様々な支援を行い続けた。

対資本主義陣営[編集]

日本との関係[編集]

帝政ロシア時代、行っていた南下政策により日本や英国と衝突し、英国の支援を受けた日本との間に日露戦争が起きて敗北した。第一次世界大戦時、ボリシェヴィキ政権成立後、他の連合国(三国協商)を無視して対独単独講和を行ったため、ドイツ兵の通過を許可するのではないかとして、日本及び中華民国北京政府から警戒されることとなった(日支共同防敵軍事協定)。また、ドイツへ資源供与するのではないかとして、イギリス及びフランスからも警戒され、両国によってシベリア出兵を打診され出兵した日米と直接衝突することとなった。その後、連合国の擁護する臨時全ロシア政府を打ち負かしたものの、その時に日本へと亡命した白系ロシア人らによって反ソ宣伝を広められてしまった(反共主義#歴史)。

ソビエト連邦成立後、コミンテルン支部の中国共産党によって漢口事件を起こしたが、その後に反日運動を停止する方向で動いていた。しかし、中ソ紛争勝利後、中国共産党によって朝鮮共産党に対し満州にある日本領事館などへの襲撃を行わせた(間島共産党暴動)ほか、中国共産党によって満州のソビエト化を計画していたが、関東州の日本警察によって計画を暴かれてしまう[6][7]。その後、日本によって満州事変を起こされ、満州国が建国されてしまい、満州国との国境などで度々日本と軍事的衝突を起こしていた(日ソ国境紛争)。また、中国共産党が朝鮮地方の普天堡を襲撃したり(普天堡の戦い)と、日本に対し赤色テロ活動を続けていた。第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に宣戦布告し、千島列島なども占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、全収容者の一割以上が病気・事故により死亡している(シベリア抑留)。

このような経緯による日本の反ソ感情に加え、吉田茂首相が米国との同盟関係を主軸とした外交を採用したことから日ソ関係はしばらく進展がなかった。その後アメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代したことで国交正常化の機運が生まれ、1956年日ソ共同宣言を出して国交を回復、日本の国連加盟が実現した。しかし日本がアメリカの同盟国で独立回復後も米軍駐留が続いたことや、北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移した。その一方で、与党の自由民主党所属の一部の議員は自主的にソ連とのパイプを持ち日ソ関係が完全に冷却することはなかった。北洋漁業、北洋材の輸入、機械や鉄鋼製品の輸出など両国の経済関係はソ連の崩壊に至るまで続いた。[要出典]なお、冷戦終結・ソ連崩壊を経た現在でも、日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。

東三省・満州国との関係[編集]

亡命した白系ロシア人が満州のハルピンを中心に住んでいた。崩壊した臨時全ロシア政府(オムスク政府)や白軍と関わりのある者によって、ザリヤグンバオ等のソ連に批判的な白系露字新聞が執筆されており、また、白系ロシア人が中国や日本と共に反革命を計画していたため、ソ連は満州に住む白系ロシア人に手を焼いていた (例えば、中ソ紛争におけるハバロフスク議定書には、白系ロシア人に対する条項が含まれている)。

1945年、ソ連は満州国に攻め込み(ソ連対日参戦)、満州国を崩壊させ、満州を共産化させて白系ロシア人を満州の表舞台から追い出した。

イギリスとの関係[編集]

1924年、ジノヴィエフ書簡事件により、イギリスから警戒される。1927年、アルコス事件によって、秘密文書がイギリスに漏れてしまう。

1960年、イギリスに暗号文解読のためのアメリカのベノナ計画へと参加されてしまう。

アメリカとの関係[編集]

米ソ国境付近においてソ連空軍Tu-95爆撃機を追うアメリカ海軍F-14戦闘機

アメリカ合衆国とは、第二次世界大戦においては連合国軍における同盟国として協力関係にあり、武器の提供を受けるなど親密な関係にあった。しかし、第二次世界大戦後は共産主義国陣営の盟主として、対する資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国と「冷戦」という形で対立することになった。

この様な関係の変化を受けて、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。しかしベルリン封鎖キューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。

また、このような対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件ソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみに出て、一方の外交官ペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。

外国渡航禁止[編集]

外国への個人的理由での渡航は、亡命とそれに伴う国家機密の流出、外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側資本主義陣営から批判された。さらに、外国から帰国した旅行者は必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思がなくても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。他にも、アエロフロートのような航空会社や乗客が実際にスパイとしての役割を兼ねている場合もあった[8]

また、西側諸国人との交際や結婚は多くの障害があり、幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも結婚は可能であったが(石井紘基のナターシャ夫人や故川村カオリの母親のエレーナさんのように)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えた上、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側資本主義国に限らず、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人・集団を問わず絶えなかった。運良く移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれることが多く、決して安住の地とは言えなかった。

例外として、1950年代までのユダヤ人イスラエル出国がある。ソ連政府はパレスチナでのイスラエル建国(1948年)を支持し、戦争からの復興途上にある自国からユダヤ人を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、イスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。1967年第三次中東戦争で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。

もう一つ、ソ連政府の意に沿わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展に害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これによりレフ・トロツキーアレクサンドル・ソルジェニーツィンはソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。しかし政府の意に沿わない人間であっても、物理学者のアンドレイ・サハロフのような、軍事機密や技術の流出につながる人物は国外追放されずに、国内で軟禁、または流刑させる形を取った。

軍事[編集]

強力な軍事力[編集]

ソビエト連邦軍のMiG-25PD迎撃戦闘機
ソ連から第三世界に最も多く輸出され、「人類史上最も人を殺した兵器」とも称されるAK-47

アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。

1960年代に入り、核開発競争が過激化する中ソ連は超大型水素爆弾、AN602を製造する。通称「ツァーリ・ボンバ」と呼ばれるこの爆弾は広島型原爆の約3300倍、第二次世界大戦中に全世界で使われた総爆薬量の約10倍という単一兵器としては人類史上最大の威力を有していた。この時期にソ連が運用を開始した自動報復システムは、ひとつの些細な判断ミスでも世界規模の核戦争を引き起こしかねないことから「滅亡装置(Doomsday device)」と呼ばれた。その危険性を示す実例として、1983年に監視システムのコンピュータが核ミサイル発射を誤報した事件がある。

こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらして国家予算を圧迫し、その分インフラや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させソ連崩壊を早めたとされる。

また、大韓航空機撃墜事件のような人道を無視した民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが多くの西側諸国の反発を買った。

軍事支援[編集]

また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地を置き、ハンガリー動乱プラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバ北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。

それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。

なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。

また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカアジアアフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会的勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。

科学技術[編集]

ソユーズの打ち上げ風景

航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーションミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、世界初の原子力発電所オブニンスクを建設するなど、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎は、ソ連のコンスタンチン・ツィオルコフスキーが築いたものである。

また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構が開発された。 これらの宇宙研究や原子力研究は、関係者以外の立ち入りを許さず、地図にも記載されない閉鎖都市で行われることがあった。

一方で、工業以外の研究では遅れが目立った。特にスターリン時代では、科学的見地よりイデオロギーが優先されることがしばしばであり、特にルイセンコの提唱したルイセンコ理論等により、ソ連の農業は壊滅的な被害を受け、輸入国に転落した。 また、計画経済による工場の建設や開発は、時として実情を無視したものとなり、利益面や環境面で失敗することも度々であった。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な環境破壊が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。さらにチェルノブイリ原発事故に代表されるような官僚的な隠蔽体質はこれらの被害を表面上は覆い隠し、被害を拡大させた。特にアラル海の開発計画は20世紀最大の環境破壊と呼ばれる事態を引き起こした。また、時には土木工事等に「国家経済のための核爆発」が使用されることすらあった。

また官僚体制の硬直は後期のブレジネフ時代以降特に顕著となり、進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカに対して10年単位の後れを取るようになった。軍用の製品や技術を東芝日立などの日本のメーカーから導入することもあった(東芝機械ココム違反事件)。資源依存の構造から重厚長大産業を重視したために「軽薄短小産業」にも対応できず、半導体集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにコンピュータの急速な進歩と普及を実現することは出来ず、ハイテク分野で決定的に立ち後れることとなった。

経済[編集]

ソ連を成り立たせた経済モデルは、共産党が計画したノルマを労働者に課し、それを果たすというものだった。詳しくはソ連型社会主義を参照。

計画経済[編集]

経済面では計画経済体制が敷かれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。医療費等が無料で税が全く無いことでも知られた。1930年代世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして完全雇用社会保障をやってのけた」としながらも、1970年代には崩壊し始めたと総括している(しかし、1930年代当時のソ連経済の躍進の裏には、数百万人と言われる規模の強制労働従事者のほぼ無償の労働による貢献があった点を、ガルブレイスは見落としているか故意に無視していることに注意が必要である)。実際、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。

また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。そのために闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、そのような中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。

消費財の流通[編集]

フィアットとの技術提携を受けて開発された大衆車のラーダ1200

東西対立の世界構造の中で、重厚長大産業に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、冷蔵庫洗濯機乾電池電子レンジなどの国民生活に必要な電化製品や、石鹸洗剤シャンプートイレットペーパーなどの一般消費財の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない低レベルの電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。

ほとんどの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたもの、もしくは西側製品の無断コピーや第二次世界大戦時に接収したオペルの生産工場施設からの技術の流用であった。

なお、自動車の個人所有は共産党幹部などの限られた階級の人間に限られ、それ以外の階級のものが手にするためには、電化製品同様数年待たなければいけない状態であった。まして労働者階級がジルヴォルガなどの高級車や西側諸国からの輸入車を所有することは事実上不可能であった。

貿易[編集]

上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物魚介類などの第一次産品や、原油天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨ルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。

モスクワの高級デパート「グム」

それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。1975年の国別工作機械生産額でもソ連は世界3位である。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。

輸入消費財[編集]

なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロタバコリーバイスジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。

アメリカ合衆国との比較[編集]

1989年時点における米ソの比較
1990年のザ・ワールド・ファクトブックに基づくデータ[9]
ソビエト連邦 アメリカ合衆国
GDP (PPP,1989年 – million $) 2兆6595億ドル 5兆2333億ドル
人口 (1990年7月) 約2億9093万人 約2億5041万人
1人当たりのGDP (PPP,$) 9,211ドル 21,082ドル
労働力 (1989年) 約1億5230万人 約1億2555万人

ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、1989年までは世界2位の経済大国であり、アメリカ以上に巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。またアメリカと対等レベルの核兵器を保有しているとみられていたために、直接対決だと共倒れを招くために自国の軍事行動にアメリカを介入させる事は出来なかった。国内総生産また一人当たりのGDPもアメリカの1/2〜1/3ほどであった。

国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。 1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。

ソ連は1950年代〜1960年代初頭まで目覚しいペースでアメリカを追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服したものの、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達した。しかしその後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大していった。

ソ連崩壊後、ロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは一人当たりのGDPと軍事費において大きく差をつけられた。さらに、経済混乱の影響で、国民は最低限の生活も保障されず貧しさで苦しんだため、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを、「アメリカに魂を売った売国奴」や「裏切り者」と酷評する声も多い[10]

農業[編集]

1918年、穀物の強制徴発などを含む「戦時共産主義」によって、農村は荒廃し特にウクライナなどの農村部で数百万人とも言われる餓死者を出した。

そのため1921年に穀物の強制徴発を廃止した新経済政策「ネップ」により、農業は復興したが富農のクラークを産み出し、都市と農村の交易条件が悪化することにより鋏状価格差危機が生じ、その維持が困難となって行った。そこで1928年、スターリンは、農業集団化を実施し農村はコルホーズとソフホーズに編成されクラークは撲滅対象になった。そこでは、非科学的なルイセンコ理論が、実施されていたこともあって農民層の強烈な抵抗に遭い、弾圧や飢餓で数百万人もの犠牲者がでた後、最終的には農民たちは大部分が工業労働者となったり集団農場に組織された。

1941年に独ソ戦が始まると農村は壊滅的な打撃を受け、戦後も戦前と同様の経済体制を維持しながら戦後復興に着手しため1946年から1947年かけて100万人以上が餓死し多くが離農した。1953年、スターリンの死後、フルシチョフは、カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられた。1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、ルイセンコ理論や農地の砂漠化で処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏し国外から輸入するようになった。フルシチョフ失脚後も集団農場の生産性は上がらず、コルホーズ内のわずかな自留地では支えきれない大量の食料を世界最大の農産物輸出国のアメリカから輸入していた。

交通[編集]

国民は自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったため、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路レンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。

外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。

航空[編集]

アエロフロート[編集]

アエロフロートのツポレフTu-104B
アエロフロートのイリューシンIL-62

広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。国内の航空路線網は、唯一にして最大の航空会社で、ナショナル・フラッグ・キャリアである国営アエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線から国内幹線、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、超音速旅客機を含む大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機や大型貨物機まで様々な機材を運行していた。

なお、使用機材の殆どは、イリューシンツポレフヤコブレフなどの国産機材であったが、一部はチェコスロバキアやポーランドなど東側友好国の機材も導入されていた。

国際線[編集]

同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動には大幅な制限があった。一方で、国力と友好関係を誇示することを目的に、日本イギリス、アメリカなどの西側の主要国や東ドイツやポーランド、ブルガリアなどの東欧の衛星国、キューバやアンゴラ北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。

しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していたこともあり格安な航空料金で提供していたものの、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。

また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、イギリスや西ドイツなどの西側諸国からも、日本航空パンアメリカン航空英国海外航空ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、西側諸国に乗り入れた際には、航路から外れて軍事基地や港湾施設の近くを飛ぶことも多々あったと報告されている。

日本との間は日本航空とアエロフロートが東京羽田空港成田空港)、新潟新潟空港)とモスクワ、ハバロフスクイルクーツクとの間に定期便を運行しており、一部路線においては日本航空とのコードシェア運航も行われていた。

鉄道[編集]

シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラード(現:サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、スターリン時代に建設された一部の駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。

自動車[編集]

個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の自由な移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはトロリーバスを含むバス路線網が張り巡らされていた。

言論・報道[編集]

国内向け報道管制[編集]

上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビラジオ新聞などのマスコミによる報道は共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は、1980年代にグラスノスチが始まるまで流れることはなかった。

このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものはほとんど報道されることがなかったか、仮に報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。

ロシア革命以前の支配者のニコライ2世やその家族を裁判なしに銃殺した真実は、1979年に地質調査隊が皇帝一家の遺骨の発掘を行い、KGBに逮捕された事例がある。しかしソ連崩壊後にロシアでは70年以上も隠蔽されたこの事実が明らかになり、ロシア革命から80年を経た1998年に葬儀が行われた。

外国向け報道管制[編集]

なお、西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、このようなお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。

また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。

「クレムリノロジー」[編集]

国内における報道管制の一環として、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。

また、党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。

プロパガンダ[編集]

ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、エイゼンシュテインモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や、後にナチス党政権下のドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。

特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアドイツ日本などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て丹下健三が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であったオスタンキノ・タワーも完成させた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼にするため、スターリン様式の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だったと評するものもいる。他にもボリス・ロージングブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案するなど、テレビの研究も活発だった。

宗教[編集]

正教弾圧[編集]

ロシア革命によって無神論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシア帝国の国教であった正教(組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会グルジア正教会などを含む)は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めたことのあるアンドロニク・ニコリスキイ大主教は生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホンであったが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく抑圧された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが[11]、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された[12]1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された[13]

政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。亡命者達の中からはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリア(メリアはグルジア人)など世界的に著名な神学者が輩出され、20世紀初頭まであまり知られていなかった正教の伝統が海外に知られるきっかけとなった。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。

1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた(1943年)。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

ただし、1940年代半ばにはソ芬戦争以後、ヴァラーム修道院のある地域がソ連領となったため、ヴァラーム修道院の修道士達はフィンランドに亡命し、この結果フィンランド正教会新ヴァラーム修道院が設立されるなど、ソ連における正教弾圧は亡命者が出る事がないほどにまで緩和された訳ではない。

スターリンの死後、フルシチョフは再度、正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することは無かった。

イスラム弾圧[編集]

広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともに正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。

なお信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラントルコエジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。

またイスラムが多数派の地域以外のロシア連邦等の諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインド中国とも共通していた。

ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人等と文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでテュルク系イラン系コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。また全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。

その他の宗教弾圧[編集]

正教のみならず、カトリック教会東方典礼カトリック教会を含む)、聖公会プロテスタントも弾圧を受けた。

文化[編集]

芸術[編集]

言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。

革命直後のソ連では革命的な前衛芸術が流行し、抽象芸術構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルスゾーンオーギュスト・ペレハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。また、フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」の提唱などを次々と行い1920年代におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期にはスタニスラフスキー・システムがあった)。

スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。

一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが演奏を残している。

ソ連を描いたもしくは題材にした映画[編集]

戦艦ポチョムキンのポスター

ソ連を描いたもしくは題材にしたゲーム[編集]

ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ[編集]

  • ウサビッチ(日本)
  • Axis powers ヘタリア(作中では時代がまちまちなため「ロシア」として扱われ、ソ連は「皆で住んでいた家」となっている。)

ソ連の社会主義体制が描かれている作品[編集]

  • 007シリーズゴルゴ13等、40年代から90年代までの世界情勢を背景とするフィクション作品において、ソビエト連邦は頻繁に描かれている。特に諜報機関KGBの暗躍や、政府高官や科学者の亡命事件等がよく題材となる。作成された国が西側諸国であるためと、ソビエト連邦の内部が不明であったために、ソビエト連邦の関係者は悪役として描かれることも多い。
  • ウォッカ・タイム片山まさゆき

外来文化[編集]

西側諸国で人気のあったロックンロールヘヴィメタルジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として規制され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。

スポーツ[編集]

ステート・アマチュア[編集]

運動競技では国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマ(ステート・アマチュア)と呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーバレーボールバスケットボールホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数が殆ど首位であった(オリンピック初参加後のメルボルンオリンピックから)。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。

なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。

モスクワオリンピック[編集]

モスクワオリンピックのエンブレム

1980年に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックであるモスクワオリンピックが行われた。冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や中華人民共和国、西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。

しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏季、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった(ソ連崩壊後の2014年にはロシアのソチで冬季オリンピックが開催されることになった)。

そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、ソ連の衛星国である東側諸国の多くがボイコットした。

頭脳スポーツ[編集]

ソ連代表のミハイル・タリとアメリカ代表のボビー・フィッシャーの対局(1960年、ライプツィヒ

識字率が30%であった革命直後から数十年で87%に改善させ、戦後にほぼ100%を達成させるなど基礎教育は充実していた。さらに国威発揚のため専門のトレーニングへの公的な補助が行われた結果、数学オリンピックなどの頭脳系スポーツでは強豪国となった。

特にチェスは伝統的に盛んで、国民にとっても公認されている数少ない娯楽であったが、ソ連時代には国が管理するチェス学校が各地に建設され、体制が崩壊するまでは世界最高の水準を保っていた。また国内選手権の開催や書籍の出版なども盛んだった。ちなみにコンピュータチェスの研究も盛んで、第1回世界コンピュータチェス選手権でもソ連のプログラムが優勝し、アラン・コトック率いるMITとモスクワ理論実験物理研究所によって行われた世界初のコンピュータ同士のチェス対戦でも勝っている。

チェス界ではプロとアマの区別がないため、ミハイル・タリミハイル・ボトヴィニクガルリ・カスパロフなど、ソ連出身の選手が世界王者を長期にわたって[14]独占していた。また一時期は国際大会に出られなかったグランドマスター級の国内選手に対し、ソ連のチェス協会が「ソ連邦グランドマスター」という独自のタイトルを創設したこともあったが、次第にトップ選手ならば試合渡航も許可されるようになった。しかし有力選手がこれを利用して亡命することもあった。特にヴィクトール・コルチノイは亡命後「西側の選手」としてアナトリー・カルポフらソ連代表と国際大会で対戦したことがあり、ソ連側から非難を受けることとなった。

ソ連代表と西側の選手がチームで対戦することもあったが、特にボリス・スパスキーとアメリカ人のボビー・フィッシャーが対戦した1972年の世界王者決定戦は試合の進行を巡り、クレムリンやホワイトハウスが介入するなど、政治的な問題にまで発展することがあった。また敗れたスパスキーはその後の待遇悪化などで、1975年にはフランスへ亡命した。

体制崩壊後は西側へ拠点を移す選手もいたが、ウラジーミル・クラムニクなど、ソ連時代のチェス学校で教育を受けた選手が多数活躍している。また旧東ドイツや近隣の東欧諸国でもソ連と似た状況にあった。

脚注[編集]

  1. ^ 蘇連(それん)とも表記された。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。
  2. ^ ラテン文字表記の例: Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik[sɐˈjus sɐˈvʲetskʲɪx sətsɨəlʲɪˈstʲitɕɪskʲɪx rʲɪsˈpublʲɪk]Ru-CCCP.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]
  3. ^ Sovétskij Sojúz サヴィェーツキイ・サユース
  4. ^ ラテン文字転記:SSSR
  5. ^ 共和国別ではロシア共和国で71%、ウクライナ共和国で70%、白ロシア共和国で83%、カザフ共和国で94%、ウズベク共和国で90%、キルギス共和国で95%、タジク共和国で96%、トルクメン共和国で98%、アゼルバイジャン共和国で93%が連邦制維持に賛成票を投じた。ただし独立志向を強めていたバルト三国グルジア共和国、アルメニア共和国、モルドバ共和国の6つの共和国では投票はボイコットされた
  6. ^ 満洲の主要都市を暴動化の大陰謀 撫順を中心とする中国共産党二十四名検挙さる 京城日報 1931年3月21日
  7. ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013014300、各国共産党関係雑件/中国ノ部 /附属物 第一巻 (I-4-5-2-011)(外務省外交史料館)」 1.撫順ニ於ケル中国人共産運動者逮捕ニ関スル件 分割1
  8. ^ 西側で同様の役割を与えられていた航空会社として中華民国民航空運公司がある。
  9. ^ THE WORLD FACTBOOK 1990 ELECTRONIC VERSION” (英語). アメリカ中央情報局 (1990年). 2010年9月5日閲覧。
  10. ^ 米ソの興亡1947~1991” (日本語). 2010年9月5日閲覧。
  11. ^ 高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』83頁、教文館、1996年 ISBN 4764263254
  12. ^ 前掲『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』125頁
  13. ^ 前掲『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』126頁
  14. ^ 1927年~1935年、1948年~1972年、1975年~1999年、2000年~2007年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]