ソビエト連邦
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- ソビエト社会主義共和国連邦
- Союз Советских Социалистических Республик
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1922年 - 1991年 ↓ 

国旗 国章 - 国の標語 : Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!) - 国歌 : ソビエト連邦国歌 (1944-1991)[1]

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公用語 なし[2] 首都 モスクワ 通貨 ソビエト・ルーブル 時間帯 UTC +2~+13 (DST: 無し) ccTLD .SU7 -
先代 次代
ロシアSFSR
ザカフカースSFSR
ウクライナSRR
白ロシアSSRロシア 
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン
ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、略称:ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)、ソ連(ソれん))は、1922年に設立された世界最初の社会主義国である。
アメリカ合衆国と並ぶ人造国家(非自然発生的国家)の1つで、超大国の一つだった。1991年に連邦は解消され構成国は独立した。
首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌と鎌はそれぞれ労働者のシンボルと農民のシンボルであり労働者と農民の団結を意味し、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味している。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、ロシア語で Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик(Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik; サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク)。略称 СССР(SSSR; エス・エス・エス・エール)。通称、Сове́тский Сою́з(Sovétskij Sojúz; サヴィェーツキー・サユース)。
英語表記は Union of Soviet Socialist Republics。通称USSR。英語圏では非公式には単に Russia と呼ぶことが多かった。
日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、または単にソヴィエト。第二次世界大戦前は「ソ同盟」と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。略称として「ソ連邦」という場合もある。
英語圏以外の非共産圏においても一般的には旧国名のロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では俗に「労農ロシヤ」などども呼ばれた)。また、中国語を使用する漢字文化圏においても「蘇聯」と呼ばれる。
[編集] 歴史
| 共産主義 |
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共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
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[編集] ロシア革命
詳細はロシア革命を参照。
ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。
同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。
[編集] 国家成立
1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかしその僅か2年後の1924年1月にレーニンは死去する。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵であるトロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に粛清して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。
1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」絶滅や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。
無理な農業集団化の強行により、1932年~1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1,000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧の為に意図してなされたものであると言う説も有力である。
1930年代に大恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分された。
スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ない処刑や強制収容所での過酷な労働等によって、一説には1,200万人以上の人が粛清されたとされる。なお、大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するであろう)。
[編集] 第二次世界大戦
政権を掌握したヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた[要出典]。
しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権に就き、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。
しかし1939年、それまで敵対していたドイツと独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分(ガリツィアなど)を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。
1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連は連合国側として第二次世界大戦に参戦した。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のお陰もあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。
その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約[要出典]を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカ軍に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することが出来、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。
なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本(大日本帝国)に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、日本に宣戦を布告をし千島列島や南樺太、満州国(現在の中華人民共和国東北部)、朝鮮半島北部に侵攻した。
この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使した為、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 又、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。 また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
[編集] 冷戦の開始
戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。
1952年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。
なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入し、これを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。
また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖を殆ど知らずに日常の日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。
1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。
[編集] 国力の衰退
その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせるように東側諸国全体の経済が次第に沈滞していった。
1979年にブレジネフは、隣国のアフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為にアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的にイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きに渡り浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ沈滞していた経済をますます圧迫する結果になった。
また、アメリカのロナルド・レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と名指しで批判して軍拡競争を行い、傾きかけていたソ連経済は完全に破綻し国内では深刻なインフレや闇経済が蔓延する結果となった。
[編集] ペレストロイカ
1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフと、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコは、相次いで指導者の座に就いたものの、共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策を殆ど実行に移せなかった。
しかしその後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。
これにより、長きに渡った一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。しかし、情報公開や報道規制の緩和は長年抑えられていた民族感情を刺激し、ソ連邦を構成していた各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。
[編集] 冷戦終結
また、これらのゴルバチョフが推進するソビエト連邦における改革と衛星国に対する支配の緩和を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。その殆どは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスクが改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。
なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しなかったばかりか、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。
ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月に地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。
[編集] 崩壊
そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。
しかし、それらの改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフらの保守派によって8月にクーデター(ソ連8月クーデター)が発生し、ゴルバチョフを軟禁し改革路線を元に戻そうとしたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わる。
クーデターの失敗によってクーデターに賛同した保守派が失脚したことにより国家組織が崩壊、ゴルバチョフはクーデター後にソ連共産党書記長を引責辞任し、議会はバルト三国独立を承認した。さらに同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入し、この年の12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。
[編集] 地理
| ソビエト連邦 |
|---|
|
思想 最高指導者 場所 組織 |
ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア。南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)、日本と接していた。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、とてつもなく厳寒である。
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
[編集] 構成国
| 加盟年 | 国名 | ソ連解体後 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1922年 | ウクライナ社会主義ソビエト共和国 | ウクライナ | |
| 白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ベラルーシ | ||
| ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 | 1936年連邦解散 | ||
| ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | ロシア | ||
| 1924年 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | ウズベキスタン | |
| トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | トルクメニスタン | ||
| 1929年 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | タジキスタン | ウズベクから分割 |
| 1936年 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | アゼルバイジャン | ザカフカースを解散 |
| アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | アルメニア | ||
| グルジア・ソビエト社会主義共和国 | グルジア | ||
| カザフ・ソビエト社会主義共和国 | カザフスタン | ロシアから分割 | |
| キルギス・ソビエト社会主義共和国 | キルギスタン | ||
| 1940年 | カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 | ロシアの一部とフィンランドの一部を合併。1956年ロシアの自治共和国に降格。 | |
| エストニア・ソビエト社会主義共和国 | エストニア | ||
| モルダビア・ソビエト社会主義共和国 | モルドバ | ||
| ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | ラトビア | ||
| リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | リトアニア |
なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。
また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟したこともあった。
[編集] 代表的な都市
- アンガルスク
- スターリングラード(現ヴォルゴグラード)
- イルクーツク
- ウファ
- ウラジオストク
- スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)
- オムスク
- カザン
- キーロフ
- クラスノヤルスク
- フルンゼ(現ビシュケク)
- クイビシェフ(現サマーラ)
- モスクワ
- レニングラード(現サンクトペテルブルグ)
- タイシェト
- タシュケント
- チェリャビンスク
- チタ
- チュメニ
- トビリシ
- ブラゴヴェシチェンスク
- ナホトカ
- ゴーリキイ(現ニジニ・ノヴゴロド)
- ノヴォシビルスク
- ハバロフスク
- ペルミ
- ロストフ
[編集] 政治
[編集] 一党独裁制
間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。
但し、ソビエト制度が有効に機能した期間は殆ど無いに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
この民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。
特に、スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。
なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。
[編集] 歴代指導者
詳細はソビエト連邦の指導者の一覧を参照。
- ウラジーミル・レーニン (1917-1924)
- ヨシフ・スターリン (1924-1953)
- ゲオルギー・マレンコフ (1953)
- ニキータ・フルシチョフ (1953-1964)
- レオニード・ブレジネフ (1964-1982)
- ユーリ・アンドロポフ (1982-1984)
- コンスタンティン・チェルネンコ (1984-1985)
- ミハイル・ゴルバチョフ (1985-1991)
[編集] 外交関係
詳細はソビエト連邦の外交関係を参照。
外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。
成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア(中華人民共和国や