赤の広場

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モスクワのクレムリンと赤の広場
ロシア

モスクワのクレムリンと赤の広場
モスクワのクレムリンと赤の広場
(英名) Kremlin and Red Square, Moscow
(仏名) Le Kremlin et la place Rouge, Moscou
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(1),(2),(4),(6)
登録年 1990年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
世界遺産テンプレートを使用しています

赤の広場(あかのひろば、ロシア語:Красная площадьクラースナヤ・プローシシャチ)は、ロシアの首都モスクワの都心部にある広場である。

」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々は古いロシア語で「美しい」という意味であり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであった。広場は東西に長く、南にはスターリン片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北には国立百貨店・ГУМ(グーム)、西には国立歴史博物館、東には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある。


[編集] 概要

1493年モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源とされる。以後、商業地域のキタイゴロドと区別され、モスクワ大公国やロシア帝国ロマノフ朝)の重要な国家行事がここで行われるようになった。

ロシア革命後に成立したソ連の首都がモスクワに定められると、クレムリンには最高指導者が居住したため、赤の広場の重要性は更に増した。ソ連時代には、革命記念日である毎年11月7日にここで閲兵式(軍事パレード)が行われた。西側諸国のジャーナリスト達は、閲兵式のためにクレムリンの城壁の上に並ぶソ連共産党指導者たちの並び順を見て、公式には明らかにされない共産党内の序列を確認し、権力闘争のゆくえを観測する「クレムリノロジー」の手法を採用していた。また、独ソ戦によるナチス・ドイツの侵攻でモスクワが危機にさらされた1941年のパレードでは、参加した軍隊がそのまま郊外の防衛最前線に直行する事態になった。そして1945年には対独戦勝記念の記念パレードが盛大に行われた。

1987年5月28日西ドイツの青年マチアス・ルスト(当時19歳)の操縦するセスナ機がヘルシンキから飛び立ち、赤の広場に強行着陸する事件が起きた。ルストは自由剥奪4年の実刑判決を受けるが翌年国外退去処分となる。小型機の侵入を防げなかったことでソ連軍は防空体制の甘さを糾弾され、セルゲイ・ソコロフ国防相はじめ防空軍総司令官らが更迭された。この事件は、当時のゴルバチョフ政権にとっては改革に反対する軍部の保守強硬派幹部を更迭する理由として、むしろプラスに働いた。ソ連末期の1990年には、クレムリンと共にユネスコから世界遺産に文化遺産として指定され、1991年に登録された。

かつてはレーニン廟とともに社会主義体制の聖地とされたが、ソ連からロシアに政治体制が変わった現在では商業的利用もなされる。1988年公開のアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画「レッドブル」では、アメリカ映画として初の撮影許可が下りた。

1993年5月に、山本寛斎が12万人を集めるファッションスペクタクルを開催。2003年にはイギリス人のロック音楽家で元ビートルズポール・マッカートニーがコンサートを開いた。2004年には日本の食品会社、日清食品カップヌードルのCM(NO BORDER シリーズ)で赤の広場が撮影場所となった。外国人の観光客も多く、モスクワで結婚式を挙げたロシア人カップルが挙式後に訪れる定番地としても知られている。

[編集] 世界遺産

[編集] 登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) 特に、不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
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