ソロヴェツキー諸島

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世界遺産 ソロヴェツキー諸島の
文化的・歴史的遺産群
ロシア
白海から望むソロヴェツキー修道院
白海から望むソロヴェツキー修道院
英名 Cultural and Historic Ensemble of the Solovetsky Islands
仏名 Ensemble historique, culturel et naturel des îles Solovetsky
登録区分 文化遺産
登録基準 (4)
登録年 1992年
公式サイト ユネスコ本部(英語)
使用方法表示

ソロヴェツキー諸島: Солове́цкие острова́)は、白海オネガ湾に浮かぶ6つの島で構成される諸島である。ソロフキという略称で呼ばれる。行政上はロシアアルハンゲリスク州に属すソロヴェツキー区である。ソロフキ空港英語版が所在する。面積347km2、人口968人(2002年の調査)。

地理[編集]

ソロヴェツキー諸島は6つの島から構成されている。

  • Bolshoy Solovetsky Island - 246 km2
  • Anzersky Island (Anzer) - 47 km2
  • Bolshaya Muksalma - 17 km2
  • Malaya Muksalma - 0.57 km2
  • Bolshoy Zayatsky - 1.25 km2
  • Maly Zayatsky - 1.02 km2

諸島の海岸線はとても入り組んでいる。島は花崗岩片麻岩から成っている。地形は丘が多く、最高地点は107mである。諸島の大半はヨーロッパアカマツオウシュウトウヒからなる森林で覆われ、一部は沼地となっている。多くの湖があり、修道士たちにより運河のネットワークを構成するように互いに連結されている。

修道院[編集]

ソロヴェツキー修道院
クリミア戦争中のイギリス海軍によるソロヴェツキー修道院への砲撃。1868年のルボーク画。

歴史的に諸島は有名なロシア正教ソロヴェツキー修道院で知られている。キリロ=ベロゼルスキー修道院英語版からやってきた2人の修道士により、15世紀後半に設立された。16世紀後半までに修道院はもっとも裕福な地主となり、またロシアにおけるもっとも影響力のある聖地となった。 現在の拠点とその主要な教会はイヴァン4世統治期初期に、モスクワ府主教フィリップ2世の依頼で石で建造された。ニーコンの改革とそれに続く古儀式派への迫害はこの修道院にも及んだ。修道士たちは断固として従来の信仰を守り、皇帝の代理人を追放したため、皇帝アレクセイの軍隊による8年に及ぶソロヴェツキー修道院包囲攻撃英語版を招き、最終的に多数の修道士が殺害された。

ロシアの帝政期を通じて、修道院は強固な要塞として知られ、リヴォニア戦争(16世紀)、大動乱期(17世紀)、クリミア戦争(19世紀)、ロシア内戦(20世紀)と外敵を退け続けた。

強制収容所[編集]

ロシア十月革命後、諸島はソビエト連邦最初の強制収容所となり、他のソビエトのグラグ(強制労働収容所・矯正収容所)のモデルとなった。レーニンがまだソビエトを統治していた1921年、収容所として開設された。収容所の規模はヨシフ・スターリンの時代に一気に拡大され、1923年の頃には4000人収容していたのが、1927年頃には2万人、1930年代はじめには65万人(大陸にある複数の支所収容所含む)もの人々がここへ連れてこられ、奴隷労働を強いられるようになった。飢餓と伝染病と看守の暴行などにより何万という囚人がここで死亡した。特に1929年にはチフスの伝染で一気に2万人が死亡している。

強制収容所閉鎖後[編集]

第二次世界大戦前夜の1939年に閉鎖された。ソビエト政府は諸島の戦略的な価値に気付き、戦争の開始とともに北方艦隊の基地が置かれたためである。

1974年、ソロヴェツキー諸島は歴史・建築博物館と自然保護区として指定された。1992年に「中世の宗教コミュニティの信仰・不屈・進取性を表す、北部ヨーロッパの荒涼たる環境における修道施設の傑出した例」として、ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群世界遺産に登録された。現在ではロシア北部における代表的な観光地となっている。ケミからの船またはアルハンゲリスクからの飛行機で行くことができる。

世界遺産[編集]

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]