ポール・マッカートニー

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ポール・マッカートニー
Sir Paul McCartney
MBE, Hon RAM, FRCM
イングランドにおけるマッカートニーパフォーマンス、2010。}
イングランドにおけるマッカートニーパフォーマンス、2010。
基本情報
出生名 James Paul McCartney
出生 1942年6月18日(72歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド マージーサイド州リヴァプール
学歴 Liverpool Institute
ジャンル ロック
ポップミュージック
ロックンロール
エレクトロニカ
クラシック音楽
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
映画プロデューサー
実業家
担当楽器 ボーカル
ベース
ギター
シンセサイザー
ピアノ
キーボード
ドラムス
活動期間 1957年 -
レーベル ヒア・ミュージック(2007年 - )
アップル・レコード(1968年 - 1975年、以降単発リリース有)
パーロフォン(1962年 - 1968年、1975年 - 2007年・イギリス)
キャピトル・レコード(1964年 - 1968年、1975年 - 1978年、1985年 - 2007年・アメリカ)
CBS/コロムビア・レコード(1979年 - 1984年・アメリカ)
ユニバーサルミュージック(2007年 - ・日本)
東芝音楽工業→東芝EMI (1964年 - 2007年・日本)
※上記はビートルズ、ウイングス時代も含む
共同作業者 クオリーメンザ・ビートルズ
ウイングス
公式サイト www.paulmccartney.com
著名使用楽器
ヘフナー・500/1
リッケンバッカー・4001S
エピフォン・テキサン
ギブソン・レスポール
エピフォン・カジノ
マーティン・D-28
ウォル・5ストリングベース
エルヴィス・プレスリー
バディ・ホリー
リトル・リチャード
ジェームス・ジェマーソンなど

ジェームズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, MBE, Hon RAM, FRCM1942年6月18日 - )は、イギリスミュージシャンシンガーソングライターであり、世界屈指のマルチプレイヤーでもある。 ファーストネームはジェームズだが、父親も同じ名前のためミドルネーム(ポール)を通常の名前として用いている[1]。 『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている[2]左利き1960年代ロックバンドザ・ビートルズのメンバーとして、ジョン・レノンとともに数多くの楽曲を作詞作曲し、メインボーカルを務めた(レノン=マッカートニーを参照)。解散後は、ソロ歌手およびウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)などのメンバーとして活躍。デビューから半世紀以上経過した2014年現在でも、現役ミュージシャンとして第一線で活躍している。


人物[編集]

世界で最も有名なポピュラーミュージシャンシンガーソングライターの一人である。軽快で親しみやすく美しいメロディ、あるいは深く切ない、哀愁漂うメロディーの作風に特色があり、ザ・ビートルズ時代においては「イエスタデイ」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表曲と言われる楽曲の多くを作詞作曲した。解散後の1970年代には、ウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上を送り込んでいる。2000年以降も作品をリリースし続けており、近年ではクラシック音楽も手がけている。

ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでは主にベースを演奏している。彼のメロディアスなベースラインは評価が高く、後のロックバンドにも多大な影響を与えたと言われる。他にもギターシンセサイザーキーボードドラムスウクレレフラットマンドリン、また管楽器をも扱うマルチプレイヤーである[3]。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ソロ・アルバム『マッカートニー』や『裏庭の混沌と創造』ではすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。

ボーカリストとしての才能も高く、楽器を演奏しながら「リトル・リチャード」などの難易度の高いロック・ナンバーを歌いこなすほか、バラードにおける甘い歌声や、エルヴィス・プレスリーを思わせる唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。

1997年に、英国のナイト爵位を授与、1999年にロックの殿堂入り。 また近年では、2010年に、アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。 国を代表する一人として2012年ロンドンオリンピックの開会式のトリに、"ヘイ・ジュード"を演奏・歌唱をした。この年に、フランスのレジオンドヌール勲章オフィシエを受章。 2013年には、グラミー賞開設40周年を迎えるにあたって、1973年リリースの『バンド・オン・ザ・ラン』が、名誉の殿堂賞を獲得した。

来歴[編集]

幼少期〜青年期[編集]

1942年6月18日、リヴァプールに生まれる。父はセールスマンでアマチュア・ジャズ・ミュージシャン。

1956年母・メアリーが乳癌で死去。この年、処女作「A Lost My Girl」を作曲。のちに公式海賊盤に収録される。

1957年7月6日、ジョンと初めて出会い、クオリーメンに加入。名門リヴァプール・インスティチュート在学中。

ザ・ビートルズ時代[編集]

スチュアート・サトクリフピート・ベストの脱退などいくつかのメンバー変遷を経た後、ジョン、ジョージ・ハリスンリンゴ・スターとの4人で1962年、「ザ・ビートルズ」としてパーロフォンよりレコードデビューを果たす。

1965年にはMBE勲章・受勲する。1966年に初来日を果たし、熱狂的に迎えられた。そして日本武道館でコンサートを行い、これがきっかけで日本武道館は日本のミュージシャンにとっての聖地として扱われるようになった。

1969年写真家リンダ・イーストマンと結婚。のちにリンダは1983年のミュージックビデオSay Say Sayに出演している。

ビートルズ解散前後[編集]

1970年4月10日、ポールはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、当時のマスコミからは酷評する声も少なくなかったが、アメリカの「ビルボード」誌で、最高位第1位を獲得し、「キャッシュボックス」誌でも、最高位第1位を獲得した。ポールならではの美しいメロディは随所に散りばめられており、彼のパーソナルな部分を垣間見ることの出来る作品として、また、宅録が定着した現在では、その先駆的作品としても再評価されている。

1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は、受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様に売れ、イギリスでは、第1位、「ビルボード」誌では、最高第2位を獲得、トップ10内に24週間もランクされるロング・セラーとなり、商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

ウイングス時代[編集]

1976年ウイングスを結成。

Coloured image of a long-haired McCartney in the 1970s playing a guitar.
ウイングスのコンサートで演奏するマッカートニー(1976年

1980年代[編集]

1980年1月16日、コンサート・ツアーの日本公演のためウイングスを随えて成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「Coming Up」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。

1980年12月8日(23時頃)、レノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンススティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソンエリック・スチュワートオービー・トライスエルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。

1982年マイケル・ジャクソンとアルバム『Thriller』に収録される『The Girl Is Mine』でデュエット。結果的にアルバムは世界で最も売れたとしてギネスに認定された。またポールのアルバム『Pipes Of Peace』でも「Say Say Say』、「The Man」でデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。

1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。

1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。 「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大の「チャリティー・コンサートライヴエイド(LIVE AID)に参加し、イギリス・ステージの、トリを飾った。 1980年代中盤にはヒュー・パジャムフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年ソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。

1989年から翌年にかけてワールド・ツアーを行う。のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏された。

1990年3月、24年ぶりの来日公演が実現。ツアー終盤、1990年4月21日ブラジルリオデジャネイロマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

1990年代[編集]

1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

1993年にアルバム『Off The Ground』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行われている。

1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。

2000年代[編集]

ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』直筆サイン入りドラムヘッド.

2001年ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。  9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による、世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼&チャリティを目的に、ポールの提唱によって、10月20日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、『 ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』を開かれ、ポールの呼びかけに、 デヴィッド・ボウイミック・ジャガーキース・リチャーズエルトン・ジョンボン・ジョヴィ)等々、多数のミュージシャンが参加した。 2002年、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2003年にはロシアモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。

2004年第56回のエミー賞で、10万人を集めたロシア公演の2時間のドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、「マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)」を受賞した。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州アナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。

LIVE 8でのポール・マッカートニー

また、2005年7月に世界中で同時に行われた、チャリティー・コンサートであるLIVE 8(ライブ エイト)にも参加した。 2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『裏庭の混沌と創造』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。

ポール・マッカートニー(2009年)

2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

2008年ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から、名誉音楽博士号を授与。12月、iTunes Storeセレブリティ・プレイリストを発表し、ジーン・ヴィンセントビーチ・ボーイズレディオヘッドセックス・ピストルズレイ・チャールズフレッド・アステアキラーズジョン・レノンImagine)、リトル・リチャードエルヴィス・プレスリーを選んだ。

2010年代[編集]

2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手HPは、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。

バラク・オバマ大統領から賞を贈られたポール

アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、バラク・オバマ大統領から直々に賞を贈られた。Mccartney_gershwin.png 2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作したスタンダード・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した[4]。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得[5]。 6月4日、英エリザベス2世女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。 7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱。
'12月には、ハリケーン・サンディ被害支援121212コンサートでニルヴァーナのデイヴ・グロールとクリス・ノヴォゼリックらと、共演した。

2013年10月、オリジナル作品としては5年ぶりとなる最新作『ニュー』を発表。全英・全米では3位、日本では2位とヒットした。

2014年5月17日、来日公演が東京で予定されていたがウイルス感染による体調不良で離日。7月5日、ニューヨーク・オールバニ公演よりツアーを再開。約三時間40曲を熱唱した。初の韓国公演も中止[6]

日本公演[編集]

ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして4度訪日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の日本公演を行うはずだった。しかし訪日直前になって法務省によりマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴でビザが取り消され、公演は中止となる。それから5年後の1980年1月16日にウイングスとして訪日したものの、今度は成田空港にて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され、ツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与え、彼自身は、出発前から書いていた曲に、「フローズン・ジャップ」という日本人をタイトルを付けた(日本では「フローズン・ジャパニーズ」に改題)。

ポール自身は上記の曲を、「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ」 とコメントしている。

この事件は本国イギリスでも大きく報道され1月17日付のタイムズ紙では1面に手錠姿で警察へ連行されるポールの写真が大きく掲載された。彼は9日間拘留された。

1980年の事件後にポールは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、彼の世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなった。日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来24年ぶりに日本公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行った。

1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び訪日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を行った。

2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。

2013年11月に11年ぶりに来日し、京セラドーム大阪で2公演、福岡ヤフオクドームで1公演(同所での公演は20年ぶり)、東京ドームで3公演を行った[7]。MCでは、意欲的に日本語を使う姿勢を示し、大阪弁、九州弁によるトークも披露した。アンコールでは、「福島被災者に捧げたい」と前置きしイエスタデイを披露した[8]。また、2002年の来日時と同様に、日本およびイギリスの国旗を振るパフォーマンスを行った。これは、海外のツアーでも必ず行っているパフォーマンスである。なお、これによりポールが東京ドーム公演における史上最年長アーティストとなった。

2014年5月に再来日を果たし、東京国立競技場・日本武道館と大阪ヤンマースタジアム長居で開催予定だったが、後述の急病により全公演が開催中止となった。産経新聞の報道によれば、腸捻転により緊急手術を受けていたとも言われる。また、日本ツアー直後に行われる予定であった初の韓国ソウルソウルオリンピック主競技場公演も中止となった。

公演日程[編集]

  • (中止)1975年11月19 - 21日 日本武道館
  • (中止)Wings Japan Tour 1980 1980年1月21 - 24日・31日 - 2月2日 日本武道館、1月25日・26日 愛知県体育館、1月28日 フェスティバルホール 29日大阪府立体育館
    • ポール・マッカートニー本人が逮捕されたため全て中止となった。
  • Get Back Tour In Japan 1990年3月3日、5日、7日、9日、11日、13日 東京ドーム
    • 尚、この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を、1日置きにして欲しい。」と要求し、7公演より6公演に急遽変更した。なお、3月8日公演に延期公演は設定されず、また他の6公演も全席完売となっていた為他の公演日に振り替えることも出来ず、結局中止となりチケットの払い戻しを行った。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんで欲しい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを、各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像にて楽しんでもらう企画)を行った。
  • THE NEW WORLD TOUR 1993年11月12日、14日、15日 東京ドーム、11月18日、19日 福岡ドーム
  • driving japan tour 2002年11月11日、13日、14日 東京ドーム、11月17日、18日 大阪ドーム
  • Out There! japan tour 2013 2013年11月11日(追加公演)、12日 京セラドーム大阪、11月15日 福岡 ヤフオク!ドーム、11月18日、19日、21日 東京ドーム、
  • (中止) Out There! japan tour 2014 2014年5月17日・18日 国立競技場、5月21日 日本武道館(追加公演)、5月24日 ヤンマースタジアム長居
    • 当初は5月17日に国立競技場で行うとしていた公演でステージも設営され本番直前まで準備が整っていたが、主催者であるキョードー東京によると、ポール・マッカートニー本人が急病のため開催不可能となり、開場直前に中止となった。17日の公演の中止が発表された当時は、振替公演を19日に行い、残りの日本公演は予定通り行うとしていたが、18日も開演直前になって振替公演を含めた国立競技場での公演中止が発表された。(発表当初、キョードー東京は「延期」と表記していたが、数時間後に「中止」と訂正。ただし、この時点でチケットの払い戻しは一度停止されていたことから、事実上の日程未定の延期であった)
    • 日本武道館、ヤンマースタジアム長居での公演は開催する方向だったが、5月20日に全公演中止が発表された。希望者には5月22日から6月9日までチケットの払い戻しに応じる[9]。主催者は本人も希望している再来日公演実現へ向けた日程・会場の調整を行っているという。
    • キョードー東京は、ポールの病名を「ウイルス性炎症」と発表。詳細については公表されなかったため、週刊誌や海外のタブロイド紙では様々な憶測が飛び交った。5月23日、ポール側は、都内の病院で治療を受け順調に回復していることを明らかにするが[10]、その後も報道は過熱。日刊ゲンダイは、ポールが腸閉塞を発症し、緊急手術を受けていたと報道[11]。また産経新聞は、腸捻転により緊急手術を受けていたと報じた[12]。招聘元関係者の一人である湯川れい子は、自身のTwitterで、これらの報道は公式発表ではなく、本人は回復して次のツアーに備えていることを強調。詳細については守秘義務のために公表できない状況であることを認めた[13]
    • キョードー東京の発表によると、5月26日にホテルをチェックアウトし、空港へ直行、チャーター機で離日した[14]。尚、出国は極秘に行われ、飛行目的地も公表されなかったが、翌27日に、ロンドンでナンシー夫人と散歩している姿がパパラッチによって撮影され、ロンドンに帰国していたことが判明した。[15]

ディスコグラフィ[編集]

オリジナルアルバム[編集]

※ウイングス名義のアルバムについてはこちらを参照 (チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)

ライヴ盤および編集盤[編集]

ザ・ファイアーマン(The Fireman)名義[編集]

※ザ・ファイアーマンは、ポール・マッカートニーとユース(キリング・ジョークオーブ)によるプロジェクト。 結成当初は、覆面ユニットのインストゥルメンタル・アンビエント・ミュージックのプロジェクトであったが、3作目エレクトリック・アーギュメンツでは、ポール自らがボーカルと作詞作曲を務め、ロック色の強いバンドに生まれ変わっている。 また、前2作は、EMIからのリリースであったが、3作目では、世界各国のインディペンデント・レーベルと契約。日本では、Traffic Inc.からのリリースとなっている。(イギリスはONE LITTLE INDIAN、アメリカはATO RECORDSからのリリース)

クラシック作品[編集]

その他[編集]

(RAM に収録された楽曲をオーケストラ演奏でアレンジした作品)

Twin Freaks(ザ・フリーランス・ヘルレイザーと組んだリミックス・プロジェクト)

  • Twin Freaks(2005年) (LP、およびダウンロード販売のみのリリース)

ビデオグラフィ[編集]

  • Rock Show(1982年) : VHS & LD
  • Give My Regard to Broad Street(1984年) : VHS & LD & DVD
  • Rupert and the Frog Song(1985年) : VHS & LD
  • Paul McCartney Special(1986年) : VHS & LD
  • Put It There(1989年) : VHS & LD & DVD
  • Get Back(1990年) : VHS & LD & DVD
  • Going Home(1993年) : VHS & LD
  • Movin' on(1993年): VHS & LD
  • Paul is Live(1994年) : VHS & LD & DVD
  • In the World Tonight(1997年) : VHS & LD & DVD
  • Live at the Cavern Club(2000年) : DVD
  • Wingspan(2002年) : DVD(「ウイングス」&「ポールのソロ」)
  • Back in the U.S.(2002年) : DVD
  • The Animation Collection(2004年): DVD
  • In Red Square(2005年) : DVD
  • Space Within Us(2006年) : DVD
  • The McCartney Years(2007年) : DVD
  • Good Evening New York City(2009年) : DVD

主な使用楽器[編集]

ベース[編集]

カール・ヘフナー500-1(Karl Höfner 500-1)(1本目 1961年製)
ヘフナー社で最も有名なエレキベースの500/1
最初に入手した左利き用500-1。デビュー前よりキャバーン・クラブなどで使用していたため、通称キャバーンベースとして知られる。ヘッドのロゴが縦書きになっているタイプ。リア・ピックアップがフロント・ピックアップのすぐ隣についており、二つのピックアップの間隔が狭いことが2本目との最大の違いである。それまでビートルズのベーシストだったスチュアート・サトクリフが脱退しポールがベーシストに転向するにあたり、ハンブルクの楽器店で購入。ヘフナーを選んだ理由としてフェンダーベースより格段に安価であったこと、左利き用のベースがこのヘフナーしかなかったこと、シェイプが左右対称で左利きのポールが持っても違和感がなかったこと、ボディシェイプが「ビートルズ」の由来であるカブトムシ(beetle)に似ていることなどが挙げられている。またショートスケールで弾きやすい上に、ベースとしては非常に軽く、肩がこらないためポール本人はとても気に入っているそうである。1963年に2本目のカール・ヘフナーを購入後は、コンサート時にスペアとしてバックステージに待機させていた。1965年頃には赤みの強い3トーン・サンバーストの再塗装を施し、破損していたピックアップのエスカッションを一体型に作り直す。1968年にはシングル「レボリューション」のプロモーションビデオで使用。さらに1969年の「ゲット・バック・セッション」でも使用していた。「ゲット・バック・セッション」終了後に盗難にあったらしく現在ポールはこのベースを所有していない。
カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(2本目 1962年仕様の1963年製)
2本目に入手した左利き用500-1。1963年10月頃入手。ヘッドのロゴが横書きの筆記体になっているタイプ。二つのピックアップの間隔は1本目より広めになっている。ポールのトレードマークとして有名になったのはこの2本目である。1964年まではレコーディング・ステージ双方においてポールのメインベースとして使用された。ビートルズ時代は、ストラップはネックエンドとボディの隙間に巻き付ける専用の物が用いられていた。1965年リッケンバッカー4001Sを手に入れてからはレコーディングに使用される頻度が減ったが、ステージに於いては1966年にコンサート活動を停止するまでメインベースとして使用された。1966年8月のビートルズ最後のアメリカツアーではジョージのエピフォンカジノとともにピックガードが取り外された(ポールによるとその後ピックガードは紛失した)。1967年、シングル「ペニー・レイン」のプロモーションフィルムに登場して以降はレコーディングに使用されることもなく表舞台にも一切出なかったが、1969年の「ゲット・バック・セッション」で1本目とともにメインベースとして再登場し、アップル屋上でのライブでも使用された。ビートルズ解散後およびウイングス結成後は、レコーディング・ステージともにリッケンバッカー4001Sをメインにしていたため表舞台に出ることはなかった。1974年頃のウイングスのリハーサル風景を撮影した写真の中でアンプに立てかけてあったり、ギタリストのジミー・マッカロックが逆さにして弾いているショットが残されているが、ウイングス時代を通してレコーディングに使用されたことは一度もないと思われる。
1980年、ソロ名義で発売されたヒットシングル「カミング・アップ」のプロモーションビデオの中でポールがビートルズ時代の自身に扮し、このヘフナーを抱えて登場。続いて1982年の「テイク・イット・アウェイ」のプロモーションビデオでもこのヘフナーを演奏したが、レコーディングには使用されていないと思われる。この時期にはストラップが交換され、ヘッドのナット付近に結び付けるタイプのものが用いられていた。
1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッションにおいて、共作者のエルヴィス・コステロの勧めで再びヘフナー使用を決意。この際に本格的なリペアを施し、「マイ・ブレイブ・フェイス」「ディス・ワン」などの主要曲のレコーディングに使用。続いておこなわれたワールドツアーでは、1969年のアップル屋上ライブ以来20年ぶりにライブ演奏に使用し、ビートルズ時代のヒット曲も多数演奏した。1993年の2度目のワールドツアーからはメインベースとして、ウイングス時代の曲もヘフナーで演奏するようになり、以降コンサート・レコーディング双方に於いて再びメインベースとして使用され続けている。また1989年のワールド・ツアー前に、ボディ裏のネック付け根にロック式のストラップピンが取り付けられる改造が行われている。
なお、1993年の2度目のワールドツアーまで、ボディーサイドに1966年のビートルズ最後のコンサートツアーのセットリストが貼ってあったが、現在は剥がされている。2005年頃に、それまで40年以上酷使してきたオリジナルの2連ペグ(長方形の形状でペグボタンの色は飴色で形も薄く小さい物)は破損したのか、当時流通していたHofner純正リイシューパーツ2連ペグ(長方形のペグボタンはパール模様で厚く大きさもオリジナルのより2周り程大きい物)に交換され、現在(2010年4月)もこの状態で使用されている。1990年代のツアー時には2本目(1962年仕様の1963年製)のヘフナーをメインベースとして使用しており、そのバックアップ用として2本目の仕様に近いオールドのレフティ・ベース(3本目 1963年製)をスタンバイさせていた。この3本目はPV『OFF THE GROUND』で空飛ぶHofnerとして目にする事が出来るが、コントロール・パネルの位置が2本目に比べて上部に付いているので容易に見分ける事が可能。 その後、2008年頃のツアーではキャバーン・タイプの新しいヘフナー(50周年記念ピックガード付き,2006年製)がスペアとして常備されていたが、最近(2010年)のライブでは1962年リイシューモデル20/40の最初期ロットと同等品(ピックガード無し,1995年製)に変わっている。2012年に入ってユニオンジャックがペイントされた最新モデルを寄贈され、同年6月4日のエリザベス女王戴冠60周年コンサートで使用された。その後この英国旗柄ベースがファンの目の前で披露されたのは2013年11月21日東京ドームで行われたOUT THERE日本公演最終日のみだった。 また近年、1964年頃にカール・ヘフナー社からポールに贈られたと言われるゴールド・パーツ付きのヘフナーがオークションに出品された(落札はされなかった)が、ポール自身はこのヘフナーを「所有したことがない」と明言。実際にポールに贈られたことは事実のようであるが、このヘフナーを手にしている写真などが一切存在せず、また本人はまったく覚えていないらしい。本人が使用することなく他人に譲ったのか、ポール自身の手に渡る前に第三者の手に渡ったのかなど真相は一切明らかになっていない。
リッケンバッカー4001S(Rickenbacker 4001S)(1964年製)
リッケンバッカー社より贈呈された左利き用ベース。当時イギリスではリッケンバッカーは独自のモデルを展開しており、ドット・ポジションマーク、ノンバウンドボディの形状であるこのベースは#1999と呼ばれていた。通常の4001はバウンドボディにトライアングル・ポジションマークであったがクリス・スクワイアジョン・エントウィッスル、ピート・クウェイフといった有名ベーシストがこぞって#1999を使用していたことから、4001Sとしてアメリカでも販売されることとなったものである。トラスロッドカバーは通常の右利き用タイプなので、肩に吊すと先が上あがりになっている(通常は下さがり)。同社製ホースシュー・ピックアップが取り付けられ、ブリッジユニットはミュートが出来るようになっている。500/1と比べ硬く引き締まったサウンドが特徴。1965年の「ラバー・ソウル」レコーディングセッションからは、レコーディングにおいてのみメインベースとして使用されはじめ、1966年にはコンサートに於いてもスペアとしてバックステージに待機。1966年6月の来日公演にも持ってきていた。当初はファイア・グローと呼ばれる赤をぼかした色であったが、1967年にはジョンのギブソン・J-160E、ジョージのフェンダー・ストラトキャスターとともにサイケデリックな塗装が施され、1969年の「ゲット・バック・セッション」中に塗装を剥がされ、木の地肌を露出したナチュラル仕上げを施される。ビートルズ解散後、1971年にはボディーシェイプが削られ、全体がより丸みを帯びた姿になった。その直後に結成されたウイングス時代を通して、カール・ヘフナーに代わるポールのメインベースとして有名になった。1974年には、ビートルズ時代の1965年に損傷して一部が欠けていたピックガードを新品に交換し、ピッキングの邪魔になっていたリアのホースシュー・ピックアップをハイゲイン・タイプに交換している。
ウイングス解散以降もレコーディングやプロモーションビデオで使用され、1984年の映画「ヤァ!ブロードストリート」にも登場したが、1989年のアルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッション以降はほとんど使用されていない。ただし、2002年からのワールド・ツアーではサブとしてスタンバイされており、同年の日本公演にも1966年同様持ち込まれていた。なお、現在の写真を見るとリアピックアップが再びホースシュー・タイプに交換されているようである。
リッケンバッカー4001S(Rickenbacker 4001S)(1970年代製)
1970年代製でスリーピースネックの4001S。1964年製と違いヘッドのウォルナットの羽部分はナチュラルカラー。あまり詳細は知られていないが1970年代前半にレコーディングで使用した説がある。そして1964年製のリアピックアップをハイゲインに交換した際のパーツ取りという説もある。
ヤマハ・BB-1200L
1980年の来日公演決定の際にヤマハ社よりプレゼントされたもの。1979年の英国ツアーや「テイク・イット・アウェイ」PVなどで使用。
フェンダー・ジャズベース
ビートルズ後期より2本使用。どちらも1967-1968年製。1本は右利き用のもの(ジョージ・ハリスンの使用モデルを譲り受けた説がある)を弦を左用に張り替えて使用、もう1本は左用。
ウォル・マッハII(Wal Mach II)
ポールのために特注制作された5弦ベース。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』録音と1989-1990年のツアーで使用。
ケイ ジャズ(Kay Jazz)
1960年代に製造されたフル・アコースティック構造のエレクトリック・ベース。ウィングス初期のライヴと「エボニー・アンド・アイボリー」PVで使用。
Wベース(コントラバス)
1974年にリンダがナッシュヴィルで購入してポールにプレゼントしたもの。エルヴィス・プレスリーのベーシスト、ビル・ブラックが「ハートブレイク・ホテル」の録音で使用したといわれる金色のモデル。

ギター[編集]

ビートルズ時代までは左利き用のギターは入手困難であったため、右利き用のギターを多く使用している。ポールは普通の右利き用の弦の張り方のまま、ギターを左に構えて演奏することも可能であるが、左利き用の弦の張り方の方がしっくり来るようで、右利き用はすべてナットとブリッジを左利き用のものに交換して使用している。

アコースティック・ギター[編集]

エピフォン・テキサン(2005年製)直筆サイン入り Aged Texan
1964年製。ビートルズ時代の1965年より使用開始。右利き用。
1967年より使用開始。ビートルズ時代からウィングス時代までは右利き用、ウィングス解散後には左利き用に切り替える。
  • マーティン・OOO-18 (Martin OOO-18)
  • マーティン・J-18 (Martin J-18)
1993年のワールド・ツアーで使用。左用。サウンドホール内に後付式のピックアップがガムテープで固定されている。J-18は、マーチンのMサイズボディと同じながら厚みはDサイズの深いもの、ボディ下部の広がりでooo-18と見分けが可能。
  • マーティン12弦ギター (モデル名不明)
  • ギブソン・J-180 (Gibson J-180)
通称エヴァリー・ブラザーズモデル。ムスターシュ (髭形) ・ピックガードがサウンドホールの左右に貼られ、外見上は利き腕による区別がない。ウィングス時代からレコーディングやライヴで使用されている。
  • タカミネ・NPT-010 (Takamine NPT-010)
  • アルヴァレズ・YD-88BK(Alvarez YD-88BK)
日本のK・ヤイリの米国輸出モデル。左用。1989-1990年のツアーで使用。
ウィングス時代に6弦のモデルと12弦のモデルを複数使用。いずれも右用。

エレクトリック・ギター[編集]

1962年製のサンバースト。右利き用。右利き用のビグスビー・ビブラート・ユニット付き。後年作られたジョン・レノンやジョージ・ハリスン所有のモデルとは、ヘッドの形状(オールド・スタイルのニューヨーク・ヘッド)、トラスロッドカバーにeマークがない、コントロールノブが黒い、ホーンの丸みが大きめ、といった点が異なる。アルバム『ヘルプ』のレコーディング・セッション以来、現在までのレコーディングにおけるメイン・ギターである。「涙の乗車券」や「タックスマン」などのリード・ギターは、このカジノによって演奏されている。ピックガードは1970年以後外されている。ストラップピンがネックヒールではなく、右のカッタウェイに付いている。2005年のアビー・ロード・スタジオでの『ケイオス・アンド・クリエイション・・・』の公開セッション時にもこのギターを使用。通常とは違い、ボディ裏までサンバーストがかかっている事から、一度ネック折れしたという説もある。ステージでは1973年のウィングスのヨーロッパ・ツアーで使用したのが最初。2005年の『Live 8』にて「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をU2と演奏したときもこのギターを使用。近年のツアーでもスタンバイしており、2010年のマイアミ公演や2013年の日本公演で「ペイパーバック・ライター」の演奏時など、極稀にステージ上でも使用される。
少なくとも3本所有。すべて左利き用。(1)1989年にチープ・トリックのリック・ニールセンより購入した1960年製サンバースト。1989~90年のツアーに登場、以後ステージにおけるメイン・ギターとなる。ネックジョイント部分のサンバーストがかなり濃くなっている点が特徴である。同年代のレフティ仕様は確認されている個体が非常に少なく、かなり貴重な一本である事は確かである。(2)そのサブ、あるいはメンテナンス時に使用される現行品サンバースト。2009年時点ではペインティングが施されているのが『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ』DVDで確認できる。(3)妻リンダよりプレゼントされた1957年製ゴールドトップ。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のPVや『夜のヒットスタジオDX』出演で使用後、1989-1990年のツアーで使用。
1966-1969年に製造されたノン・リバース・ボディ。左利き用。ビグスビー・ビブラート付き。アルバム『ラム』セッション以降で使用。
  • ダン・アームストロング/アンペグ・アクリル・ボディ・ギター
右利き用。『バンド・オン・ザ・ラン』セッションで使用。また、『タッグ・オブ・ウォー』期のフォト・セッションでもその姿が見られる。
1960年製2トーン・サンバースト。左利き用。ローズ指板。
左利き用も所有しているが、リアピックアップを交換し、ボディの一部を削って弾きやすくした右利き用を使用していたことがある。
右利き用のサンバースト。ビートルズ時代の1967-1968年に使用。ローズ指板。
よく言われる360/12V64ではない。24フレット仕様の左利き用。『オール・ザ・ベスト』TVCMや『フラワーズ・イン・ザ・ダート』レコーディング・セッションなどで使用。

メインのレスポールとストラトキャスターは1960年製にこだわっており、おそらく1960年8月にザ・ビートルズとはじめてバンド名が出来たからと思われる。

私生活[編集]

1967年にイギリスの女優・ジェーン・アッシャーと婚約したが、翌1968年に婚約破棄されている。

直後1969年に結婚した最初の妻リンダ・マッカートニーとの間に、現在は写真家として活動している娘メアリーファッションデザイナーとして世界的に有名になったステラと長男ジェームズを儲けた。リンダが前夫との間に儲けたヘザーも、自分の娘として育て上げた。

2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルヘザー・ミルズと婚約を発表。前妻リンダの死後に出会った彼女とはその後正式に再婚し、2003年にはベアトリス・ミリーという名前の娘も生まれた。しかし、家庭を重視するマッカートニーと、世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。2006年にミルズとは別居した。ロンドンの裁判所は2008年3月17日における判決で、総額2430万ポンド(約47億円)をミルズさんに支払うよう命じた」と発表した。「ミルズは慰謝料・5450万ドル(約50億円)で不動産の購入・豪勢な海外旅行・寄付活動を行ない、2年足らずで全て遣い切った」と報道される[16]

2011年5月6日、4年前から交際のあったナンシー・シェベルとの婚約を発表。

2011年5月、ニューヨークポスト紙によると、婚約者であるナンシーにカルティエの5カラットダイヤモンドの指輪を贈ったことがわかった。この指輪は1925年のビンテージもので値段は65万ドル(日本円で約5,200万円)だという。婚約者であるナンシーはインタビューでポールからプロポーズの場所はカリフォルニア州だったことを明かし、「それは突然でした。そして彼が贈ってくれた5カラットの指輪にぞくぞくしました」と語った[17]

2011年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。

プレミアリーグではエヴァートンFCのファンであるが[18]2008年6月1日にはリヴァプールFCのホームスタジアムであるアンフィールドでライヴを行っている。

2013年4月、『サンデー・タイムズ』が「英音楽界での長者番付」を発表し、ポールと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾る。

2013年に日本公演ツアーの際には、福岡ドーム公演に合わせて大相撲11月場所を観戦した。[19]。観戦の際には周りのファンの写真などにも気さくに応え、一方で取り組み直前には自分ではなく相撲に集中するように促すシーンもあった。また、この際に懸賞制度に特に興味を持ち、12日目の日馬富士公平 - 栃煌山雄一郎の一番などに自らの名義で懸賞を掛けた[20]

環境保護活動[編集]

菜食主義者であり、熱心な環境保護活動家として精力的に活動している。最初の妻の娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETAの会員でもある。また最初の妻のリンダ・マッカートニーも菜食主義者であった。

  • 2000年3月29日、キツネ狩りの廃止が議論されているイギリスに対して『臭いの跡を追う猟』という代替案を提案した[21]
  • 2005年11月28日、PETAが作成した中華人民共和国での犬猫の屠殺を見た際、妻ヘザー・ミルズと共に「私はこんな中華人民共和国では演奏しない。2008年の北京オリンピックを無視する。中華人民共和国製品は不買しよう」と人々に共闘を求めた[22]
  • 2006年3月2日、カナダのアザラシ猟に対する反対活動の最中ポール・ヘザー夫妻はカメラの前でアザラシの子供を抱き抱えた[23]。この行為はカナダの海洋哺乳類侵害罪に抵触していたが、起訴は免れた[24]

ポール死亡説[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 父親と同じなのは、労働者階級は長男に自分のファースト・ネームをそのままつけることが多かったので。身内に同じ名前の人がいる場合など区別する為に、ミドル・ネームを通常の名前として用いる事はよくある事である。なお、ポールの長男であるジェームズ・ルイーズ・マッカートニーもファーストネームは祖父、父・ポール同様ジェームズであるが、長男は一般的には父・ポールのようにミドルネームではなくファーストネーム(ジェームズ)で呼ばれることが多い
  2. ^ 他に「ゴールドディスクの最多保持者」「最多レコード売り上げミュージシャン」としても認定されている
  3. ^ デビュー以前のビートルズ(スチュアート・サトクリフ在籍時)はギタリストであり、また時折ドラマーを務めたこともあった。ブルースハープ(ハーモニカ)やシタール(インドのギター)も扱える。
  4. ^ And The GRAMMY Went To… Paul McCartney | GRAMMY.com
  5. ^ Paul McCartney | Hollywood Walk of Fame
  6. ^ ポール・マッカートニー、「アウト・ゼアーツアー」を再開”. 2014年7月10日閲覧。
  7. ^ Out There! japan tour キョードー東京新聞
  8. ^ ポール 71歳東京ドーム公演最年長 福島に捧げる「YESTERDAY」、中日スポーツ - 2013年11月22日閲覧
  9. ^ コンサート公式サイト
  10. ^ Statement from Japan
  11. ^ 日刊ゲンダイ ポールは日本で"緊急手術"を受けていた
  12. ^ ポール"極秘離日"腸捻転の手術していた 再来日公演は実現に向け協議中
  13. ^ 湯川れい子twitter
  14. ^ コンサート公式サイト
  15. ^ Need a mac, Macca?
  16. ^ 50億円を2年足らずで使い切った豪傑美女 - livedoor ニュース
  17. ^ http://www.cinematoday.jp/page/N0032182
  18. ^ MACCA'S A BLUE! The Official Website of Everton Football Club 2008年2月20日
  19. ^ ポール・マッカートニーさん:相撲観戦 毎日新聞 2013年11月15日閲覧
  20. ^ ポール懸賞 九州場所きょう結び日馬取組 日刊スポーツ 2013年11月21日閲覧
  21. ^ ポール、キツネ狩りに代わる新たな方法を提案
  22. ^ イギリス:マッカートニー中国に激怒@BBC - 今日の覚書、集めてみました
  23. ^ カナダのアザラシ猟反対署名のページ
  24. ^ Paul McCartney マッカートニー夫妻、アザラシを抱いて侵害罪? - BARKS ニュース

関連項目[編集]

外部リンク[編集]