ポール・マッカートニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・マッカートニー
ポール・マッカートニー(2004年6月6日)
ポール・マッカートニー(2004年6月6日)
基本情報
出生名 James Paul McCartney
出生日・地 1942年6月18日(66歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド リヴァプール
ジャンル ロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ベースギター
ギター
ピアノ
ドラムスなど
活動期間 1957年 - 現在
レーベル ヒア・ミュージック(2007年~)
アップル・レコード(1968年~1975年、以降単発リリース有)
パーロフォン(1962年~1968年、1975年~2007年(イギリス)
キャピトル・レコード(1964年~1968年、1975年~1978年、1985年~2007年(アメリカ)
CBS/コロムビア・レコード(1979年~1984年・アメリカ)
ユニバーサルミュージック(2007年~・日本)
東芝EMI(1964年~2007年・日本)
※上記はビートルズ、ウイングス時代も含む
事務所 MPL コミュニケーションズ
共同作業者 ビートルズ
ウイングス
影響 エルヴィス・プレスリー
バディ・ホリー
リトル・リチャードなど
公式サイト www.paulmccartney.com
  

ジェームズ・ポール・マッカートニー MBE (Sir James Paul McCartney, MBE, 1942年6月18日 - )は、イギリスリヴァプールに生まれたロックミュージシャンである。 身長178cm 左利き

1960年代に世界を席巻したザ・ビートルズの中心メンバーで、ジョン・レノンとの作曲家コンビで代表作の多くを手がけた。ビートルズ解散後は、ソロ・アーティストとして、あるいはウイングスのメンバーとして活躍し、現在もなお音楽活動を精力的に行っている。ギネス・ワールド・レコーズには「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」「ゴールドディスクの最多保持者」「最多レコード売り上げミュージシャン」として認定されている。

1997年ナイトに叙勲されSir/サーの称号を贈られる。

ファースト・ネームはジェームズなのでジェームズ・マッカートニーとしても良いのだが、父親も同じジェームズという名前の為(父親と同じなのは労働者は皆長男に自分の名前をそのままつけることが多かったためである)、ミドル・ネームのポールを通常の名前として用いている。[1]尚、ポールの長男もファーストネームは祖父、父のポール同様ジェームズであるが、彼は一般的には父ポールのようにミドルネームではなくファーストネームのジェームズで呼ばれることが多い。

目次

[編集] 概要

世界で最も有名なシンガーソングライターの一人である。親しみやすく美しいメロディの作風に特色があり、ビートルズ時代においては「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」「ミッシェル」「オブラディ・オブラダ」など、ビートルズの代表曲とされる楽曲の多くを手がけた。

ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでの演奏では主にベースを担当している。ベーシストとしての評価は非常に高く、彼の弾くメロディアスなベースラインは、後のロックバンドのベーシストに多大な影響を与えたと言われる。また、他にもアコースティック・ギターエレクトリックギターピアノキーボードドラム、また管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。特にビートルズのデビュー前、スチュワート・サトクリフ在籍時はギタリストであり、また時折ドラマーを務めたこともあったため、「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。

ビートルズ解散後、初のソロアルバム「マッカートニー」ではすべての楽器を自らがマルチレコーディングしたのをはじめ、ウイングス以降のバンド活動においても、名盤「バンド・オン・ザ・ラン」で本来の担当楽器であるベースに加えギターやドラムスを演奏するなど、そのマルチプレイには特筆すべきものがある。

趣味は「作詞、作曲」で、ギターを始めたのも曲を作るためだったというほどの根っからのミュージシャンであり、ビートルズのほかのメンバー3人が映画出演など他分野への進出を行っているのに比べ、彼は21世紀になっても自作映画やミュージカルを除いて音楽以外のジャンルには殆ど手を出していない。

解散後の1970年代には、ウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロ・アーティストとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上を送り込んでいる。現在もコンスタントに作品をリリースしており、近年ではポピュラー音楽にとどまらず、クラシック音楽をも手がけている。

「愛と平和」のオフィシャルイメージでステータスを持ち、且つ衝撃的な死を遂げた元パートナー・ジョン・レノンと比較される事が多いが、ポールの音楽性は非常に幅広く、また様々な新要素を取り入れ続ける貪欲さが彼の音楽の大きな魅力を形成している。

[編集] 経歴

(注;1957年 - 1959年の間は、クオリーメンの項も参照のこと) (注;1960年 - 1970年の間は、ビートルズの項も参照のこと) (注;1971年 - 1981年の間は、ウイングスの項も参照のこと)

[編集] ソロ・キャリア

[編集] ビートルズ解散直後

1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、評論家からは作品の極めて簡素で素朴な内容を批判された。

『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』及びアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。当時マネージャーにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

[編集] ウイングス

ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻・リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。詳しくは以下の項目を参照。

[編集] 1980年代

1980年1月16日、コンサート・ツアーの一環で行う予定だった来日公演のためにウイングスを随えて成田空港に入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。この事件をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。

当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、このカミング・アップを聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。しかし同年・80年12月8日(23時頃)、そのレノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数ヶ月間、自宅に引き篭もって過ごした。

レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンススティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行なった。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソンエリック・スチュワートオービー・トライスエルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。マイケル・ジャクソンとは彼の世界的な大ヒットアルバムの「スリラー」でガール・イズ・マインをデュエットし、またお返しと言う事でマイケルがポールのアルバムでセイ・セイ・セイをデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。また、1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、サントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1980年代中盤にはヒュー・パジャムフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。

ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、1980年代中盤は現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年ソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。1989年から翌年にかけて行われ、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏され、大きな好評を博した。ツアーの一環で、1990年3月には24年ぶりの来日公演も実現している。ツアー終盤、1990年4月21日ブラジルリオ・デ・ジャネイロマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

[編集] 1990年代

1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行ない、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行なわれている。

1994年からは、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

1995年からはリンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。

[編集] 近年

2001年ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。

2002年にはアメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行なう。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2004年にはロシアモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても始めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州アナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。

2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。

2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。 このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

2008年ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。

[編集] 日本公演

ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして3度来日し、ツアーを行なっている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の来日公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の来日公演を行なうはずだった。しかし来日直前になって法務省がマッカートニー夫妻の過去の薬物による犯歴を理由にビザが取り消したので公演は中止となってしまう。それから5年後の1980年に彼は再度ウイングスとして来日したものの、大麻不法所持の容疑で逮捕され、またもツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与えた。

1980年の事件後にマッカートニーは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、10万枚を超えるファンの嘆願書や、彼の世界的な文化貢献の認知により、日本入国の特別許可が認められることとなった。(同時期のローリング・ストーンズの来日も含め、自民党支持率の低下で若い世代の浮動票を狙う目的が大きかったとも言われている)日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来実に24年ぶりの来日公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行ない成功させた。また、彼はこのツアーにスーパーマリオの生みの親である任天堂宮本茂を招待してサインを貰っている(これは、マッカートニーの長男・ジェイムズの影響でポール自身がスーパーマリオにはまっていたためである。同時期に作製した「ウ・エ・ル・ソレイユ」のプロモーションビデオはマリオ風に仕上がっている。)

1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び来日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を成功させた。福岡滞在中に大相撲(九州場所)観戦もしている。

2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行ない、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行なった。日本滞在中は、歌舞伎高尾山への散策や、(東京から京都への)移動に新幹線を利用し、京都金閣寺や日本料亭なども楽しんだという。

《公演日程》

  • Get Back Tour In Japan 1990年3月3日,5日,7日,9日,11日,13日 東京ドーム (計6公演)
尚、この公演は当初、3月2日,3日,5日,6日,8日,9日,11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行なったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を、1日置き(公演を行なった次の日を休み、休みの次の日に公演を行なう)にして欲しい。」と要求し、急遽7公演より6公演に変更した。尚、3月8日公演に延期公演は設定されず、また他の6公演も全席完売となっていた為他の公演日に振り返ることも出来ず、結局中止となりチケットの払い戻しを行なった。8日の公演のチケットを購入したファンは非常にがっくりしたそうである。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんで欲しい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを、各地方都市の会場に衛星生中継を行ない、映像にて楽しんでもらう企画)を行なったりもした。
  • THE NEW WORLD TOUR 1993年11月11日,14日,15日 東京ドーム、11月18日,19日 福岡ドーム (計5公演)
  • driving japan tour 2002年11月11日,13日,14日 東京ドーム、11月17日,18日 大阪ドーム (計5公演)
この来日公演では、公演中ペンライトを振るファンが続出し、今までのコンサートでは見られなかったペンライトで飾られた客席の風景を見ることが出来た。(尚、アリーナ席5000人分のペンライトは、ザ・ビートルズ・クラブがに無料提供した物である。)

[編集] ディスコグラフィ

[編集] オリジナルアルバム

※ウイングス名義のアルバムについてはこちらを参照 (チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)

エヴリナイト - Every Night - 」、
ジャンク - Junk - 」、
テディ・ボーイ - Teddy Boy - 」、
恋することのもどかしさ - Maybe I'm Amazed - 」収録
  • ラム - RAM(1971)(厳密には「ポール&リンダ」名義)(英2週1/米2)
アナザー・デイ - Another Day-」 収録
タッグ・オブ・ウォー - Tug Of War - 」、
ヒア・トゥデイ - Here Today - 」、
ザ・パウンド・イズ・シンキング - The Pound Is Sinking - 」、
ワンダーラスト - Wanderlust - 」、
エボニー・アンド・アイボリー - Ebony And Ivory - 」収録
セイ・セイ・セイ - Say Say Say - 」、収録
ひとりぼっちのロンリー・ナイト - No More Lonely Nights - 」収録
オンリー・ラヴ・リメインズ - Only Love Remains」 収録
ディス・ワン - This One - 」、
太陽はどこへ? - Ou Est Le Soleil - 」(CD盤のみ)収録

[編集] ライヴ盤および編集盤

[編集] クラシック作品

[編集] その他

(RAM のインスト・バージョンともいうべき作品)

Twin Freaks(ザ・フリーランス・ヘルレイザーと組んだリミックス・プロジェクト)

  • Twin Freaks(2005)(LP、及びダウンロード販売のみのリリース

[編集] ビデオグラフィ

  • Give My Regard To Broad Street (198?) : VHS & LD & DVD
  • Put It There (1989) : VHS & LD & DVD
  • Get Back (1990) : VHS & LD & DVD
  • Going Home (199?) : VHS & LD
  • Rockshow (199?) : VHS & LD(「ウイングス」)
  • Paul Is Live (1994) : VHS & LD & DVD
  • In The World Tonight (1997) : VHS & LD
  • Live at the Cavern Club (2000) : DVD
  • Wingspan (2002) : DVD(「ウイングス」&「ポールのソロ」)
  • Back In The U.S. (2002) : DVD
  • In Red Square (2005) : DVD
  • Space Within Us (2006) : DVD
  • The McCartney Years (2007) : DVD

[編集] 主な使用楽器

[編集] ベース

最初に入手した左利き用500-1。デビュー前よりキャバーン・クラブなどで使用していたため、通称キャバーンベースとして知られる。ヘッドのロゴが縦書きになっているタイプ。リア・ピックアップがフロント・ピックアップのすぐ隣についており、二つのピックアップの間隔が狭いことが2本目との最大の違いである。それまでビートルズのベーシストだったスチュアート・サトクリフが脱退しポールがベーシストに転向するにあたり、ハンブルクの楽器店で購入。ヘフナーを選んだ理由としてフェンダーベースより格段に安価であったこと、左利き用のベースがこのヘフナーしかなかったこと、シェイプが左右対称で左利きのポールが持っても違和感がなかったこと、ボディシェイプが「ビートルズ」の由来であるカブトムシ(Beetle)に似ていることなどが挙げられている。またショートスケールで弾きやすい上に、ベースとしては非常に軽く、肩がこらないため気に入っていると言われている。1963年に2本目のカール・ヘフナーを購入後は、コンサート時にスペアとしてバックステージに待機させていた。1965年頃には赤みの強いサンバーストの再塗装を施し、破損していたピックアップのエスカッションを作り直す。1968年にはシングル「レボリューション」のレコーディングで久しぶりに使用し、同曲のプロモーションビデオでも使用。さらに1969年の「ゲット・バック・セッション」でも使用していた。「ゲット・バック・セッション」終了後に盗難にあったと言われており、現在ポールはこのベースを所有していない。
  • カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(2本目 1962年仕様の1963年製)
2本目に入手した左利き用500-1。1963年10月頃入手。ヘッドのロゴが横書きの筆記体になっているタイプ。二つのピックアップの間隔は1本目より広めになっている。ポールのトレードマークとして有名になったのはこの2本目である。1964年まではレコーディング・ステージ双方においてポールのメインベースとして使用された。1965年リッケンバッカー4001Sを手に入れてからはレコーディングに使用される頻度が減ったが、ステージに於いては1966年にコンサート活動を停止するまでメインベースとして使用された。1966年8月のビートルズ最後のアメリカツアーではジョージのエピフォンカジノとともにピックガードが取り外された(ポールによるとその後ピックガードは紛失した)。1967年、シングル「ペニー・レイン」のプロモーションフィルムに登場して以降はレコーディングに使用されることもなく表舞台にも一切出なかったが、1969年の「ゲット・バック・セッション」で1本目とともにメインベースとして再登場し、アップル屋上でのライブでも使用された。ビートルズ解散後およびウイングス結成後は、レコーディング・ステージともにリッケンバッカー4001Sをメインにしていたため表舞台に出ることはなかった。1974年頃のウイングスのリハーサル風景を撮影した写真の中でアンプに立てかけてあったり、ギタリストのジミー・マッカロックが逆さにして弾いているショットが残されているが、ウイングス時代を通してレコーディングに使用されたことは一度もないと思われる。
1980年、ソロ名義で発売されたヒットシングル「カミング・アップ」のプロモーションビデオの中でポールがビートルズ時代の自身に扮し、このヘフナーを抱えて登場。続いて1982年の「テイク・イット・アウェイ」のプロモーションビデオでもこのヘフナーを演奏したが、レコーディングには使用されていないと思われる。
1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッションにおいて、共作者のエルビス・コステロの勧めで再びヘフナー使用を決意。この際に本格的なリペアを施し、「マイ・ブレイブ・フェイス」「ディス・ワン」などの主要曲のレコーディングに使用。続いておこなわれたワールドツアーでは、1969年のアップル屋上ライブ以来20年ぶりにライブ演奏に使用し、ビートルズ時代のヒット曲も多数演奏した。1993年の2度目のワールドツアーからはメインベースとして、ウイングス時代の曲もヘフナーで演奏するようになり、以降コンサート・レコーディング双方に於いて再びメインベースとして使用され続けている。
なお、1993年の2度目のワールドツアーまで、ボディーサイドに1966年のビートルズ最後のコンサートツアーのセットリストが貼ってあったが、現在は剥がされている。この他にも、最近のポールのツアーでは新しいヘフナー(ピックガード付き)がスペアとして常備されているが、実際にポールが使用している写真などは確認されていない。
また近年、1964年頃にカール・ヘフナー社からポールに贈られたと言われるゴールド・パーツ付きのヘフナーがオークションに出品され高額で競り落とされたが、ポール自身はこのヘフナーを「所有したことがない」と明言。実際にポールに贈られたことは事実のようであるが、このヘフナーを手にしている写真などが一切存在せず、また本人はまったく覚えていないらしい。本人が使用することなく他人に譲ったのか、ポール自身の手に渡る前に第三者の手に渡ったのかなど真相は一切明らかになっていない。
リッケンバッカー社より贈呈された左利き用ベース。(当時イギリスではリッケンバッカーは独自のモデルを展開しておりドット・ポジションマーク、ノンバウンドボディの形状であるこのベースは#1999と呼ばれていた。通常の4001はバウンドボディにトライアングル・ポジションマークであったがクリス・スクワイアジョン・エントウィッスル、ピート・クウェイフといった有名ベーシストがこぞって#1999を使用していたことから4001Sとしてアメリカでも販売されることとなったもの。)トラスロッドカバーは通常の右利き用タイプなので肩に吊すと、先が上あがりになっている(通常は下さがり)。同社製ホースシュー・ピックアップが取り付けられ、ブリッジユニットはミュートが出来るようになっている。500-1と比べ硬く引き締まったサウンドが特徴。1965年の「ラバー・ソウル」レコーディングセッションからは、レコーディングにおいてのみメインベースとして使用されはじめ、1966年にはコンサートに於いてもスペアとしてバックステージに待機。1966年6月の来日公演にも持ってきていた。当初はファイア・グローと呼ばれる赤をぼかした色であったが、1967年にはジョンのギブソン・J-160E、ジョージのフェンダー・ストラトキャスターとともにサイケデリックな塗装が施され、1969年の「ゲット・バック・セッション」中に塗装を剥がされ、木の地肌を露出したナチュラル仕上げを施される。ビートルズ解散後、1971年にはボディーシェイプが削られ、全体がより丸みを帯びた姿になった。その直後に結成されたウイングス時代を通して、カール・ヘフナーに代わるポールのメインベースとして有名になった。1974年には、ビートルズ時代の1965年に損傷して一部が欠けていたピックガードを新品に交換し、ピッキングの邪魔になっていたリアのホースシュー・ピックアップをハイゲイン・タイプに交換している。
ウイングス解散以降もレコーディングやプロモーションビデオで使用され、1984年の映画「ヤァ!ブロードストリート」にも登場したが、1989年のアルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッション以降はほとんど使用されていない。ただし、2002年からのワールド・ツアーではサブとしてスタンバイされており、同年の日本公演にも1966年同様持ち込まれていた。なお、現在の写真を見るとリアピックアップが再びホースシュー・タイプに交換されているようである。

[編集] ギター

[編集] アコースティック・ギター

エピフォン・テキサン(2005年製)直筆サイン入り Aged Texan
エピフォン・テキサン(2005年製)直筆サイン入り Aged Texan
  • エピフォン・テキサン (Epiphone Texan)
  • マーティン・D-28 (Martin D-28)
  • マーティン・OOO-18 (Martin OOO-18)
  • マーティン・J-18 (Martin J-18)
  • マーティン12弦ギター (モデル名不明)
  • ギブソン・J-180 (Gibson J-180) - 通称エヴァリー・ブラザーズモデル。
  • タカミネ・NPT-010 (Takamine NPT-010)
  • アルヴァレズ・YD-88BK(Alvarez YD-88BK) - 日本のK・ヤイリの米国輸出モデル。

[編集] エレクトリック・ギター

メインのレスポールとストラトキャスターは1960年製にこだわっており、おそらく1960年8月にザ・ビートルズとはじめてバンド名が出来たからと思われる。

[編集] 私生活

私生活では、最初の妻・リンダ・マッカートニーとの間に現在は写真家として活動している娘・メアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になったステラと、長男・ジェイムズをもうけた。リンダが前夫との間にもうけたヘザーも、自分の娘として育て上げた。

2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表。前妻リンダの死後に出会った彼女とはその後正式に再婚し、2003年にはベアトリス・ミリーという名前の娘も生まれた。しかし、家庭を重視するマッカートニーと、世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。2006年にミルズとは別居した。ロンドンの裁判所は「2008年3月17日」における判決で、総額2430万ポンド(約47億円)をミルズさんに支払うよう命じた」と発表した。

エヴァートンFCのファンである。しかし、2008年6月1日にはリヴァプールFCのホームスタジアムであるアンフィールドでライヴを行っている。

[編集] 環境保護活動

ベジタリアンであり、熱心な環境保護活動家として精力的に活動している。夫人・ミルズ、娘・ステラと共にPETAの会員でもある。

  • 捕鯨が国際的な問題になった時、「日本人は人間の友達を食べる!」と非難した。
  • 2000年3月29日、キツネ狩りを廃止しないイギリスに対して『においのあとを追う猟』という代替案を提案。
  • 2005年11月28日、PETAが作成した中華人民共和国での犬猫の虐殺動画を見た際「私はこんな野蛮な中華人民共和国では演奏しない、2008年の北京オリンピックを無視しよう、中華人民共和国製品の不買をしよう」とファンに共闘を求めた。[1]
  • 2006年3月2日、カナダのアザラシ猟に反対し、反対表明の際カメラの前でアザラシの子供を抱き抱えた。これは海洋哺乳類侵害罪に抵触していたが、起訴は免れた。[2]
  • ミルズ夫人の環境保護活動サイト(現在リンク切れ)

[編集] ポール死亡説

「ポール死亡説」(Paul is Dead)[3]とは1969年にアメリカ合衆国イリノイ州立大学の学生新聞「ノーザン・スター」(同年9月23日付)にある記事「ポールは1967年1月(1966年11月9日水曜日朝5時 という詳しい説もある)に自動車事故で死亡している」というものだ。(「今いるポールは替え玉だ。」というガセ記事を、Russ Gibb氏がWKNR-FMラジオで発表し広まった都市伝説のひとつ(替え玉が曲中に出てくるビリー・シアーズだと言うガセ情報も流れた)。)その年までに発売されたビートルズのアルバムや楽曲に「証拠」としてこじつけの出来る箇所が数多く見つかった結果、多くの人に信じられてしまった。

[編集] ストーリー

俗説があるが、最も一般的な"こじつけの話"を掲載する。

1966年11月9日(11月9日を英語にすると、"November 9"。レボリューション9に出てくる"Number 9"ともとれる)水曜日にビートルズのポール・マッカートニーが死んだ。ポールは、車に乗りかわいい女性をみていたため、信号が変わったのに気づかず-He didn't notice that the lights had changed(ア・デイ・イン・ザ・ライフラヴリー・リタ)信号を無視した。

ポールは、棒に衝突し(自動車事故の音は,「レボリューション9」で聞こえる)、水曜日の5時の朝に死亡を宣告された。そのニュースが報道されなかったので、誰もポールが死亡したことがわからなかった。(シーズ・リーヴィング・ホーム)ポールは亡くなりポールには新聞は配達されない。そして、そのことを報道していない(「水曜日に、朝刊は来なかった」(レディ・マドンナ))。葬列は、死後少し後に(アビイ・ロードアルバムカバー)行われた。

数日後ポールのそっくりさんコンテストの勝者・ウィリアム・シアーズ・キャンベル(ビリー・シアーズ)と、入れ替えられた(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド/ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル)。


[編集] ジャケットや楽曲からの「証拠」

代表的な例は以下の通り。

アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
  • 表ジャケットの花で形作られたギターは左利き用(ポールは左利き)で、弦を表す松葉が4本ある事から「ポールのベースギター」と推測され、このジャケット写真自体がポールの葬儀(花がある場所は)を暗示している。松葉が3本という説もあるが3本なら「3人のビートル(ズ)」を表しているとされる。
  • 上記のベースギターをよく見るとポールの存在を確認するような(大まかな字で)「PAUL?」「PaUL?」と表されている。
  • "BEATLES"と上記のポールのベースが花でかたどられているが、BEATLESの LESに上記のPaUL?、そしてLES Lの上にフィギュアがありそれをIと読めば、LIES PaUL?と読める。
  • 表ジャケットでポールの頭上に、Issy Bonn氏の手がかざされているが、これはインドで死のサインを表す(マフィアのサインという説もある)。
  • 表ジャケットの花で描かれた「THE BEATLES」の先に「○」が描かれており、これは"BE AT LESO"(LESOにいる)の意味で、LESOとはポールを埋葬した島の名前であるとされる。
  • 表ジャケットの下の赤い服を着た像があるが、これは死のシンボルと言われているらしく、その像の4本の指は蝋人形と実際のポールを指している。
  • 表ジャケット右に見られる人形の服に、"Welcome the Rolling Stones"(ローリング・ストーンズを歓迎する,ようこそストーンズ の意)と書いてある。これはポールが死んだ替わりに、ライヴァルであるストーンズにメンバーを要求したとも見られる。
  • 表ジャケットの上記の人形は、赤い服は血を意味し、交通事故当時ポールが乗っていたとされる白い車がある。そして死人を埋葬する際の手袋もある。
  • 表ジャケットにある割られた頭の人形(福助人形のことだろう。割られてるように見られるのは丁髷だ)はポールの致命傷を表している。
  • 表ジャケットのソニーテレビ(?)は、電源がつけられないらしくこれは「ポールの死について報道しないで欲しい」ということを表しているらしい。
  • 表ジャケットの中心に鏡を立てると、"BEATLES"が"BENICE3"と読める。
  • 表ジャケットのポールは一人だけ木の楽器(イングリッシュホルン)を持っており、これはを意味する(本当の楽器はチューバだがリンゴの蝋人形の足に使われている)。
  • 表ジャケットで一人だけ、青い色の服を着ている。これはポールのみ寒色で、他は暖色である。これは"命を落とし冷たくなった"ということだろう
  • 表ジャケットでポールの手が彼の心臓に行っている。これは死者を神聖にする宗教的なシンボルである。
  • ジョン、リンゴ、ジョージは適当な角度に立っているが、ポールはまっすぐに体を向けている。これはポールが切抜きのように見える(ポールの死体を他の3人が支えているようにも見える)。だが勿論撮影に使われたのは本物のポールであり、あまり公にされていないジャケットのオフショット(4人が離れて移っている写真)からもそれが見られる。
  • ジャケット見開き(CDブックレットでは9ページ)のポールの腕にワッペンを付けられていて、そのワッペンには“O.P.D.”と書いてある。これは“Officially Pronounced Dead”(正式に宣告された死)の略である(実際には、これはカナダで買ったO.P.P.のワッペンで“Ontario Provincial Police”の略である)。
  • 裏ジャケの写真でポールだけが背中を向け、体型が違う。また、頭上に"without you"の文字がある(この写真撮影の際ポールはアメリカに滞在しており、ビートルズのロード・マネージャーであるマル・エヴァンスが代役を務めたため背中を向けている、と言われている)。
  • 収録曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」に「Billy Sears!」が「Bill is here(ビルはここに(いる))」とされ、ビルという替え玉が見つかったとされる(シアーズが替え玉の説で考えるとおそらく、「ビリー・シアーズ=ビル」とも捕らえられる)。
  • 収録曲「シーズ・リーヴィング・ホーム」でポールが死んだと言われている「水曜日の朝」のことを歌っている。
  • 収録曲「グッド・モーニング・グッド・モーニング