湯川れい子

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湯川 れい子(ゆかわ れいこ、本名:湯野川 和子(ゆのかわ かずこ)[1]1939年1月22日 - )は音楽評論家作詞家翻訳家東京都出身。

目次

[編集] 人物

東京目黒区生まれ。父は元海軍大佐の湯野川忠一[1]

疎開先の山形県米沢市で一時期を過ごした後、東京へ戻り、鴎友学園を卒業する。有楽町のジャズ喫茶で、ジャズに出会う。 ジャズ評論家として1960年にスウィング・ジャーナル誌で執筆をはじめる。その後ラジオのDJワイドショーのコメンテーターなどでメディアに自ら出演。作詞、翻訳、ノンフィクション作家など活躍の場を広げる。日本作詞家協会会長、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事、日本大衆音楽文化協会理事も務める。

1965年エミー・ジャクソンの歌った「涙の太陽」をR.H.Rivers名義で英語で作詞し、当時日本コロムビアの洋楽レーベルであったCBSから発売された。R.H.Riversとは「れい子・湯川」を直訳した「レイコ・ホット・リバース」の略である[2]。同時期に青山ミチのヴァージョンのために日本語詞も書き、その日本語詞がのちに安西マリアに歌われることになる。安西マリア、サンディー田中美奈子メロン記念日川本真琴などがカバーした。

1966年6月にザ・ビートルズが来日した際、湯川は関係者に紛れ込んで宿泊中のビートルズと面会を果たしたが、ジョン・レノンに無視された。ビートルズ解散後、湯川はジョンにインタビューをした時に「あの時なぜ私を無視したんですか?」と質問すると、ジョンもその時のことを覚えていたようで「あの頃、僕らのホテルには売名目的でビートルズに面会したがる政治家連中が大勢いたんだよ。僕らはそういう連中にウンザリしていて、君もそういう人間なんじゃないかと疑ってしまったんだ」と湯川に謝罪した[3]

エルビス・プレスリーの熱烈なファンであり、数多くのライナーノーツを書いている。また、日本におけるプレスリーのファンクラブ幹部も務めている。ラジオのDJ歴は数十年に及ぶ長きにわたっている。ラジオ日本の「アメリカン・トップ40」でのDJは、特に有名であった。

元夫はエイトスター・ダイヤモンド代表の田村熾鴻。 ロックバンド「ジン」のVoひぃたんは姪にあたる。

[編集] 作詞

[編集] あ行

[編集] か行

[編集] さ行

[編集] た行

[編集] な行

[編集] は行

[編集] ま行

[編集] や行以降

[編集] 社会的活動

日本文化人の中でも盛んに社会活動を行う人物の一人。政治的問題に踏み込むことも珍しくない。環境問題や反戦平和運動などボランティア活動も積極的に行っている。このため、社会民主党から東京都知事選挙への出馬を要請されたことがあるが、辞退をしている。

北朝鮮による日本人拉致問題解決を求める意見広告ニューヨーク・タイムズに掲載する運動を行なった「意見広告7人の会」呼びかけ人に名を連ねる(残りの6人は有田芳生勝谷誠彦加藤哲郎重村智計高世仁日垣隆)。

[編集] 著書

[編集] 単著

  • 『幸福へのパラダイム』(第10回日本文芸大賞ノンフィクション賞)
  • 『幸福への共時性』
  • 『幸福への旅立ち』
  • 『オーロラ・光ふる夜』
  • 『結婚であなたが幸せになる13の法則』
  • 『湯川れい子のロック50年―見た!聞いた!会った!世界のスーパースター達』(シンコーミュージック・エンタテイメント) ISBN 4401619692

[編集] 共著

[編集] テレビ番組

[編集] 脚注

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  1. ^ a b 『わたしが子どもだったころ』(BS hi)より
  2. ^ 湯川れい子が2010年11月15日笑っていいとも!に出演した際、本人が自ら語った。
  3. ^ 2009年9月放送の「爆笑問題の日曜サンデーにて湯川本人が証言。
  4. ^ 「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」

[編集] 外部リンク

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