アイザック・ニュートン
| アイザック・ニュートン | |
|---|---|
| 人物情報 | |
| 誕生 | 1642年12月25日 リンカーンシャー州ウールスソープ-カールスターワース |
| 死没 | 1727年3月20日(満84歳没) ミドルセックス州ケンジントン |
| 居住 | |
| 学問 | |
| 研究分野 | 自然哲学、物理学、数学、天文学、錬金術、キリスト教神学 |
| 研究機関 | ケンブリッジ大学 王立協会 |
| 母校 | ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジ |
| 主な業績 | ニュートン力学 万有引力の法則 微積分法 光のスペクトル分析 |
| 署名 |
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サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton, ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日[注 1])はイングランドの自然哲学者[注 2]、数学者。神学者。
ニュートン力学を確立し、古典力学や近代物理学の祖となった。古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるものであり、近代科学文明の成立に影響を与えた。
目次 |
[編集] 生涯
アイザック・ニュートンは1642年のクリスマスに[1] イングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサムから南方に10kmほど離れた一寒村[1]ウールスソープ-カールスターワース(Woolsthorpe-by-Colsterworth)において、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた。未熟児として生まれたといい[1]産婆はこの子は長生きすまい、と言ったという。
父親は、身分としてはヨーマン(独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳の時に近郊の農家の娘(アイザックの母ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3ヶ月前に死去した(後にニュートンの義父となる人物は、この父が粗野な変人であった、と述べたという。父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している)。
実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。アイザックは物ごころのつかない年齢で両親の愛を知らない子となった[1]。母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった[1]。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。息子アイザックは母のこの選択に反発「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝。この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た。
母親はニュートンの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した[1]。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった[1]。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、後に至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。だが、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。グラマースクール時代も、ニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信をもつようになったとされる[2]。その出来ごとをきっかけに学年で首席の成績をとるようになったともいわれる[1]。
学校に通うようになって2年がたち14歳になった時に、母の再婚相手が死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子供とともにウールスソープの家へと戻ってきた。母は、(亡くなった元の夫が遺した)農園を営むことを考え、父親のようにニュートンが農業(百姓)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。<ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、(前の下宿先の)クラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した[1]。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人等に相談し、ケンブリッジのトリニティカレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備をすることになった[1]。授業で教わった内容は、聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何であった[1]。
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。入学当初は「サブサイザー」として仮に、1ヶ月後に「サイザー sizar」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、というものであった[1]。大多数の学生は「コモナー」という自費で学費を払う者たちだったので、ニュートンは肩身が狭い思いをしたと推察され[1]、こうした身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという[1]。
当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavis Mathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学』、チャールトンの原子論哲学の入門書などを読んだのである。
ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。アイザック・バローである。 ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり1664年にニュートンは「スカラー」(奨学金が支給される学生[1])にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである[1]。
また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった[1]。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである[1]。学位を取得した頃、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の1/3(以上)を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生の時のそれは数度目の襲来であった[1])、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た[1]。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った[1]。こうしてニュートンは「流率法」と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(光学)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績を発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。
ちなみに万有引力の法則に関して言えば、古い伝記などでは「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、今では真偽のほどは確かではない、とされるようになっている[要出典]。あくまで、ニュートンの家の窓からリンゴの木が見えることから作られた話にすぎない、ともされる[要出典]。基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎず、つまり利害関係者当人が語る話や、その伝聞の類にすぎないので、内容に関しては真偽が不明なのである。 伝記作家が援用する資料として、同時代の作家ウィリアム・ストゥークリの書いた Memoirs of Sir Isaac Newton's Life に1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のようなくだりがある。
| “ | when formerly, the notion of gravitation came into his mind. It was occasioned by the fall of an apple, as he sat in contemplative mood. Why should that apple always descend perpendicularly to the ground, thought he to himself. Why should it not go sideways or upwards, but constantly to the earth's centre. | ” |
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—ウィリアム・ストゥークリ(Memoirs of Sir Isaac Newton's Lifeより) |
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この文章も彼が如何に日常に起きることに関心を持ち、そこから理論への着想を得ていたかという彼の賢さを表現するために作られた話、とも言われており[誰によって?]、真偽は定かではない。また、ニュートンが死去した年に、ヴォルテールは彼のエッセイ Essay on Epic Poetry (1727)のなかで彼がニュートンの姪に聞いた話として「アイザック・ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、彼の重力に関する最初の発想を得た」とする逸話を紹介している。
実際の所「リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついた」というエピソードは、ある意味誤解を招きかねない逸話である[要出典]。ニュートンが万有引力の法則を思いついたそもそもの動機は、ケプラーの法則である。単なる物が落ちる現象、地球上にある物体を地球が引っ張る力としての「重力」であれば、ニュートン以前から既に知られており、「太陽が地球になんらかの『駆動する力』を及ぼしている」とイメージしたのはケプラーであり、その両者を結びつけたのがニュートンの発見であった。
1665年にカレッジを卒業し、バチュラーの学位を得た[1]。
1667年にペストがおさまると、ケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえに他の1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため[1]、ニュートンはフェローになることができ[1]、研究費を支給されるようになった。(大科学者では、このように順風満帆で、運に恵まれた人は稀だ[1]と佐藤満彦は指摘している。) その年に『無限級数の解析 (De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas) 』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum) 』を発表した。
- この数学的研究について解説すると、ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。後々、優先権をめぐって熾烈な争いが展開されることになる。ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだが、ライプニッツより早く発見していた、と主張した。ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる。
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師バローがニュートンの才能を認めていて、自分のポストを弟子に譲るという形で実現したのである[1]。恩師の申し出に対し、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした[1]。ルーカス教授としての義務は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった[1]。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった[1]。
ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学(Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭した[1]。ニュートンは哲学者であったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ[1]。ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である[1]。
- ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返された[1]ので、やがて忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになったものである。
『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした[1]。それから2年後の1688年には、大学から選出された国会議員(下院議員)になることになった[1]。だが、議員としては殆ど発言をしなかったとされ、議会での唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」だったという[要出典]。
ニュートンは大著の執筆の後で疲れており[1](『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ[1]、初代グリニジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった[1])、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ[1]、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた[1]。そこで教え子で、19歳年下ながら社交性に富み、たちまわりがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼した[1]。またプリンキピアの刊行によりニュートンの知名度も上がり、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたので、彼にもポストの紹介を依頼した[1]。だが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった[1]。
精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になった[1]。やがてニュートンは精神状態に変調をきたすようになった。不眠や食欲減退に苦しみ、被害妄想にも悩まされた。ジョン・ロックへの書簡の中には、(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになったといった内容を書いたりしたものが残っている[1]。2年ほど自宅に引きもるような状態になったとも言われる[誰によって?]。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘[1]、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある[1](母は1697年6月に死去した)。錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている[誰によって?]。この壮年期におけるスランプにおいても頭脳は明晰で、ヨーロッパ中に難解な数学問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直線上に2つの点があるとする。一つの物体が上の点から下の点まで引力のみで落下する時に要する時間をもっと短くするには、どのような道筋に沿って降下すれば良いか?」という最速降下点と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え匿名でベルヌーイに投稿した。
そんな苦しい時代ではあったが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して大蔵大臣になり、1696年4月にはニュートンに造幣局監事のポストを紹介してくれ[1]、1699年には造幣局長官に昇格することになった。モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、就任早々通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した[1]。元大学教授にしては鮮やかな手並みで[1]、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし[1]、偽金製造シンジケートの親分シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした。 在職中は偽金造りが激減した。一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしており、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった[1]。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(South Sea Bubble 南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる[1](南海会社というのはイギリスの会社で、スペイン領中南米との貿易で独占権を得て、奴隷貿易で暴利をむさぼっていた会社であり、南海泡沫事件とは同社が大宣伝をして株が暴騰したが、事業の不振が明るみに出ると株は暴落して1720年に倒産し、多数の投資家が破産するに至った事件である[1])。
研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した。(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である。)晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イギリス国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れ、生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである[1]。こうしたことなどから、彼はおそらくアリウス派の異教徒、つまりユニテリアンだったのだろう、とする指摘もあるという[1]。
1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である[1]。
授与から20年ほど後の1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた[1]。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった[1]。
[編集] 自然哲学における業績
主著 羅: Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(1687年7月5日刊 和訳名『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』)のなかで万有引力の法則と、運動方程式について述べ、古典数学を完成させ、古典力学(ニュートン力学)を創始。これによって天体の運動を解明した。またゴットフリート・ライプニッツとは独立に微積分法(流率法)を発明した。光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である(なお反射望遠鏡の概念自体はスコットランドの数学者ジェームズ・グレゴリーが1663年に論文として発表しており、反射望遠鏡の発明者はニュートンだとする伝記は誤りである。)。
ニュートンは、地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線に分かれることを示した。また光の粒子説を唱え、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。
他にも、ニュートンの冷却の法則、二項定理の証明、運動量および角運動量の保存の法則の端緒をつけ、空気中での音速や恒星の起源などについて言及した(なお現在の視座では多くが不正確なものであり、正しく完成させたのは後世の学者たちである)。
[編集] ニュートンによる科学革命
ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば[要出典]、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示したともされる。
後の時代に、科学者らは上記のような方法論が、「実証主義による近代科学の礎になった[要出典]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。
これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とも言う。
[編集] 科学以外の側面
詳細は「アイザック・ニュートンのオカルト研究」を参照
ニュートンは自然哲学あるいは科学分野において著しい功績を残していたが、それ以外の分野にも熱心に取り組んでいたことは、20世紀になるまであまり知られていなかった。生涯の長い期間をケンブリッジで過ごしたニュートンは、そこに「ポーツマス・コレクション」と呼ばれる数多い未発表資料を残していた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは1936年に一部を入手し分析した成果もふまえ、1946年に『人間ニュートン』というタイトルの講演を行い、ニュートンを「最後の魔術師」[3]とも「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」[4]とも評した。1960年代には資料の批判的な研究が盛んになり、ニュートンが持つもうひとつの側面が鮮明になった。[5]こうしてニュートンは「神学者」「最後の錬金術師」と呼ばれることもある。
科学の分野で偉大な功績を挙げたニュートンではあったが、我が強く気難しくて偏屈な一面もあり、議論において意見の合わぬ者は反論の余地すら与えず叩き潰すまで論破。講義があまりに高度で難解な為にお手上げになった生徒から順に退散、誰も居なくなった教室で一人講義を続けていた。生涯で一度だけ笑ったことがあるが、それは論敵がボロを出した嘲りの笑いだったという逸話が残っている。愛猫家としても知られており研究や実験に超人的な集中力を発揮する反面、食事には無頓着で、食べ忘れて冷え切った食事を研究所に住み着いた二匹の猫に与えていた。当時イギリス市井の一般通念において猫は単なる街に生息するケモノの一種で、愛玩で飼うなどという風習は存在せず、人の食べ物を猫の餌にするのはかなり奇異な行為であった。現在においては珍しくもないが、ニュートンの「常軌を逸した天才の所業」の中でとりわけ特別なのが猫達が自由に出入り出来るようにと、大きい猫用と小さい猫用の大小2つの扉、つまり「キャットフラップ」を発明するが、大きい猫も小さい猫も大きな扉から出入りする様子を見て首を傾げたとの逸話が残っている。[6]
[編集] キリスト教徒として
ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』に纏められた。この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。[5]
絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。[5]
ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定はニュートンが異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派に属していたことを示し、ケインズは「恐ろしい秘密」とコメントしている。[5]
[編集] 錬金術師として
ニュートンは、造幣局長官の地位に隠れて錬金術の研究を行っていた。20世紀になって、ニュートンの遺髪の分析により水銀が検出されたことはニュートンの錬金術にかける情熱を実証することとなった。
[編集] 論争・先取権争い・感情的確執
ニュートンは同時代の人々としばしば争っていたことが知られている。 [7]
1660年代には、ライプニッツと微分積分法の先取権を巡って争いが生じ[1]、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになった。
1672年にはロバート・フックと光の分散と干渉の理論に関して論争になった[1]。
1680年にはジョン・フラムスティードと彗星を巡って論争になった。これは1ヶ月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものか、という論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だ、としたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかった、というものである[1]。論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したが、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、後に王立学会の会長の地位についた時などはその地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし[1]、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求する時にはフラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした[1]。またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになった時には、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもした[1]。
1686年には、プリンキピアの出版の時、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した[1]。
[編集] ニュートンの評価
ニュートンの一連の発見は、19世紀になるとロマン主義の観点から非難されるようになる。特に、ジョン・キーツ、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・バトラー・イェイツらはニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して憚らなかった。
それに対し、リチャード・ドーキンスは著書「虹の解体 ("Unweave the rainbow")」で、スペクトルの発見に代表されるニュートンの研究こそは人類の知見を大きく広げることに貢献したのであり、結果として宇宙へのセンス・オブ・ワンダーを生み出し、詩情の源泉となると反駁した。
1978年から1988年にかけて用いられた1UKポンド紙幣に肖像が登場した。
[編集] 略年表
- 1642年(0歳)誕生
- 1665年(22歳)万有引力を発見
- 1668年(25歳)学位取得
- 1669年(26歳)ケンブリッジ大学のルーカス教授職に就任
- 1672年(29歳)王立協会会員に就任
- 1687年(44歳)『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)刊行(ニュートン力学発表)
- 1699年(56歳)造幣局長官に就任
- 1701年(58歳)国会議員に選出
- 1703年(60歳)王立協会会長に選出
- 1704年(61歳)『光学』 刊行
- 1705年(62歳)ナイト位授与
- 1710年(67歳)グリニッジ天文台監察委員長に就任
- 1727年(84歳)死亡
[編集] 注釈
- ^ ニュートンの生きていた時代のヨーロッパでは主に、グレゴリオ暦が使われ始めていたが、当時のイングランドおよびヨーロッパの北部、東部ではユリウス暦が使われていた。イングランドでの誕生日は1642年のクリスマスになるが、同じ日がグレゴリオ暦では1643年1月4日となる。二つの暦での日付の差は、ニュートンが死んだときには11日にも及んでいた。さらに1752年にイギリスがグレゴリオ暦に移行した際には、3月25日を新年開始の日とした。
- ^ ニュートン自身は自然哲学者だと自認しており、自然哲学者として活動していた。また、そもそもニュートンの当時にはscientistという名称や概念は存在していなかった。scientist科学者という語が造語されるのは、はるか後の時代、1833年のことで、ウィリアム・ヒューウェルによる。
[編集] 出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn 佐藤満彦 『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』 中央公論社、2000年、178-226頁。ISBN 4-12-101548-7。
- ^ Smiles, Samuel (1859). "Self Help" ChapterXI.
- ^ 大野忠男訳『ケインズ全集』第10巻、東洋経済新報社,、p364
- ^ 大野忠男訳『ケインズ全集』第10巻、東洋経済新報社、p370
- ^ a b c d 岡崎勝世 『聖書vs.世界史』 講談社現代新書、1996年、第一刷、157-176頁。ISBN 4-06-149321-3。
- ^ 長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』岩波新書
- ^ 尚、科学界によっては理論が正しいと証明されれば何事も無いが、先取権においては解釈を巡って苛烈な論争になる場合がまま有り、先取権について当事者である学者が特別目くじらを立てるのは特別珍しいことではない。発明や特許においても先取権で揉めるのは現代においても同様である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Newton Papers:ケンブリッジ大学のNewton Papers
- ニュートンの錬金術年表
- ニュートン錬金術に関する邦語文献
- 『光学』アイザック・ニュートン(岩波文庫 1983/01) ISBN 978-4003390412
- (百科事典)「Isaac Newton」 - スタンフォード哲学百科事典にある「アイザック・ニュートン」についての項目。(英語)