デヴィッド・ボウイ

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デヴィッド・ボウイ
デヴィッド・ボウイ(Rock am Ring 1987 にて)
デヴィッド・ボウイ(Rock am Ring 1987 にて)
基本情報
出生名 デヴィッド・ロバート・ジョーンズ
別名 ジギー・スターダスト
シン・ホワイト・デューク
出生 1947年1月8日(67歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン ブリクストン
ジャンル ロック
ポップ
アート・ロック
グラムロック
プログレッシブ・ロック
エクスペリメンタル・ロック
クラウト・ロック
ポストパンク
電子音楽
アンビエント
ブルー・アイド・ソウル
インダストリアル
テクノ
ジャズ
ファンク
ディスコ
フォーク
職業 シンガーソングライター俳優レコード・プロデューサーアレンジャー作曲家
担当楽器 ボーカル
ギター
ピアノ
キーボード
サックス
シンセサイザー
ドラムス
パーカッション
ハーモニカ
メロトロン
マンドリン
チェンバレン

マリンバ
カリンバ
ヴァイオリン
チェロ
オルガン
サンプリング
ヴィブラフォーン
スタイロフォン
活動期間 1964年 -
レーベル フィリップス
デッカ
RCA
EMI
アリスタ
コロムビア
ライコディスク(RCA時代の旧盤の米国でのリイシュー関連)
共同作業者 ミック・ロンソン
ブライアン・イーノ
イギー・ポップ
公式サイト DavidBowie.com

デヴィッド・ボウイ(David Bowie, 本名 David Robert Hayward-Jones, 1947年1月8日 - )は、イギリスを代表するマルチ・ミュージシャンであり、俳優としても長いキャリアを持つ。本国イギリスではビートルズローリング・ストーンズクイーンらと並んで、20世紀のイギリスを代表するロック・スターの一人である。2000年、雑誌『NME』がミュージシャンを対象に行ったアンケートでは、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選ばれた。

映画監督のダンカン・ジョーンズは息子。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第23位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第39位。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第28位[1]

略歴[編集]

出自から初ヒットまで[編集]

1947年1月8日イギリスロンドン南部ブリクストンに生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ジョーンズ。子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるプラターズリトル・リチャードエルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ。14歳の時(1961年)、母親にアルト・サックスをプレゼントされ、地元のサックス奏者の師事を受ける。翌年、友人との喧嘩が元で左眼の視力をほぼ失っている(左眼の瞳孔が開いた状態になり、以来、両目の色がそれぞれ異なって見えるようになる)。16歳の時、義兄テリーに薦められたジャック・ケルアックビートニク小説「路上」に決定的な影響を受け、本格的に音楽活動を開始。サックス奏者としていくつかのバンドに所属した。

1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード」などと名を変え、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになる。

1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。

1968年1月から3月までリンゼイ・ケンプの劇団の元で過ごし、パントマイムの腕を磨いた。

1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。

グラム・ロック時代[編集]

1970年ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が多分に含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。

1972年コンセプト・アルバムジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日イギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。

「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。

アメリカ時代[編集]

1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンド・ドッグス』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。その中断期間中にフィリー・ソウルに傾倒するようになり、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになった。

1975年カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちてきた男』がクランクインした。

1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した。

ベルリン時代[編集]

ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護とも取られかねない際どい発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったやらないなどの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされることになった。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。

1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになる。ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、あえてプロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。

カルト・スターとの決別[編集]

1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。初ヒット曲の「Space Oddity」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「Ashes to ashes」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。

一転して1980年代ナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のメガヒットアルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この頃のボウイは俳優としても出演が多い。

ティン・マシーン時代[編集]

1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージチェンジをはかり、シンプルなロックバンド「ティン・マシーン」を結成。アルバムを3枚リリースする。その後、過去のベストヒットメドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンドアンドヴィジョン』ワールドツアーを行い、過去の総決算を果たそうとした。

ソロ活動再開[編集]

1991年に『ティン・マシーンII』を発表。この後、現在までティン・マシーンのスタジオアルバムはリリースされなく正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。

1993年にはモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。1995年には今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』をリリース。その後、1997年に『アースリング』、1999年には『アワーズ…』をリリースする。

メジャーなロックスターには珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入し、復調の兆しをみせる。

病気療養と引退報道[編集]

2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』、2003年に『リアリティ』と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールドツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による心臓の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。

この一件以来、ボウイは創作活動には消極的となり、新作も2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降はリリースされていない。公の場に姿を現したのも、2006年デヴィッド・ギルモアアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われていない。

親交の深いブライアン・イーノ2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語っている。

同年秋、妻のイマンのインタビューによると、近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語っている。現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中とのことであるが、刊行期日などはまだ明らかにされていない。ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としている。

2011年にはボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカによると「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べている。同年3月には、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『Toy』がインターネット上に流出するという事件が起こった。

突然の音楽シーンへの復帰[編集]

2013年1月8日、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』を3月に発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119カ国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27カ国のiTunesチャート1位になった[2]

余談だが、ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい[3]

人物[編集]

音楽家としてのボウイ[編集]

大抵、名声を得たミュージシャンは、その時点までに確立した己のスタイルを貫こうとし、ファンもまたそれを望んでいるものだが、ボウイの場合はスタイルを変化させることによってファンを失う危険をものともせず、様々なジャンルにわたる大胆な音楽性の変化を繰り返し、それぞれのジャンルにおいてエポックメイキングな作品をリリースしている。そのためか、70年代・80年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも多い。海外ではジャパンデヴィッド・バーンカルチャー・クラブヴィサージスパンダー・バレエデュラン・デュラントレント・レズナービリー・コーガンなど、多方面に亘る。

また、「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、時代時代の音楽に対する明敏さを生かし、それまでとは打って変わった音楽性という実験を繰り返しながら、様々な意味での自己刷新を計ることが多いため、安定した商業面での成功をおさめるには不利といえるが、セールス的には成功している部類に入り、アーティステックな面と商業面をうまく両立させている、数少ないミュージシャンのうちの一人である。

1973年には初の日本公演を果たしている。飛行機恐怖症のため船で来日し、シベリア鉄道で帰国した。

2000年に大英帝国勲章コマンダーを、2003年には大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退している[4]

役者としてのボウイ[編集]

ボウイの初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちてきた男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらした。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演している。以降の役者としての経歴は散発的なものであった。1983年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演した。また1984年には『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではポンティウス・ピラトゥスを演じた。

『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・ミュージカル『ビギナーズ』(1986年)は失望と非難の的となった。同年彼はジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』でゴブリンの王ジャレスを演じた。

彼はまた『ハンガー』でカトリーヌ・ドヌーヴスーザン・サランドンと共演し、『バスキア』ではアンディ・ウォーホル役を演じた。『ツイン・ピークス-ローラ・パーマー最期の7日間』ではミステリアスなFBI捜査官フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。

ボウイは2002年の「100人の偉大な英国人」の中にデビッド・ベッカムウィンストン・チャーチルジョン・レノンといった人物と並んで選出された。

栄典および受賞等[編集]

フランス[編集]

1999年 フランス芸術文化勲章コマンドール[5][6]

米国[編集]

1999年 バークリー音楽院名誉音楽博士号[7]

音楽作品[編集]

※詳細な作品に関しては、デヴィッド・ボウイの作品を参照のこと。

スタジオアルバム[編集]

ライヴアルバム[編集]

サウンドトラック[編集]

コンピレーション[編集]

※はティン・マシーンの活動時にリリースしたもの

出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

日本のテレビ番組[編集]

CM[編集]

  • 宝酒造、焼酎「純」(1980年、日本、楽曲『クリスタル・ジャパン』使用、本人も出演)
  • MTV、"I want my MTV"・キャンペーン(1983-1985年、アメリカ、楽曲『モダン・ラヴ』使用、本人も出演)
  • ノエビア化粧品(1984年、日本、楽曲『ウィズアウト・ユー』、『ブルー・ジーン』使用)
  • ペプシ(1987年、アメリカ、楽曲『モダン・ラヴ』使用、ティナ・ターナーと共演)
  • NTTドコモ(1997-1999年、日本、楽曲『レディ・スターダスト』使用)
  • ヴィッテル(2003年、フランス、楽曲『ネヴァー・ゲット・オールド』使用、本人も出演)
  • 本田技研工業ステップワゴン・スパーダ(2004年、日本、楽曲『レッツ・ダンス』使用)
  • 三洋電機eneloop(2005年、日本、楽曲『チェンジズ』使用)
  • ルイ・ヴィトン(2013年、フランス、楽曲『アイド・ラザー・ビー・ハイ』使用、本人も出演)

日本公演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  2. ^ http://ro69.jp/blog/miyazaki/77053 それにしてもデヴィッド・ボウイの最新ビジュアル・コンセプトがぐもも&続報あれこれ - ro69.jp 「宮嵜広司の「明るい洋楽」・2013年1月9日閲覧。
  3. ^ http://www.barks.jp/news/?id=1000089430 エコー&ザ・バニーメンのイアン、デヴィッド・ボウイ重病説を信じトリビュート・ソングを作っていた 邦楽・洋楽情報満載の音楽ポータルサイト BRAKS 「BRAKSニュース」・2013年4月17日閲覧。
  4. ^ Thompson, Jody (2007年1月8日). “Sixty things about David Bowie”. (No. 35): BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6230201.stm 2010年7月4日閲覧。 
  5. ^ Encyclopedia>Ordre des Arts et des Lettres”. SiteMaster.com. 2010年4月5日閲覧。
  6. ^ PAYTRESS, MARK (1 April 2003). BOWIE STYLE. TOKYO FM Publishing. 
  7. ^ Honorary Degree Recipients”. Berklee College of Music. 2010年4月5日閲覧。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 『デヴィッド・ボウイ詩集 - スピード・オヴ・ライフ』(シンコーミュージック、2002年)
  • 『BOWIE STYLE』(TOKYO FM 出版、2003年)
  • 『アーカイヴ・シリーズ No.12 デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2004年)
  • 『デヴィッド・ボウイ・ファイル』(シンコーミュージック、2006年)
  • 『全曲解説シリーズ デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2006年)

外部リンク[編集]