ガイ・フォークス

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ガイ・フォークス
逮捕されるフォークス
生誕 1570年4月13日
ノース・ヨークシャーヨーク
死没 1606年2月10日
ウェストミンスター
罪名 大逆罪
刑罰 首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑
職業 兵士
両親 エドワード・フォークス、イーディス・ブレイク

グイド・フォークスGuido Fawkes1570年4月13日ユリウス暦) - 1606年2月10日)、あるいはガイ・フォークスGuy Fawkes)は、1605年イングランドで発覚した火薬陰謀事件の実行責任者として知られる人物である。立派な髭を蓄えた、赤毛の偉丈夫であったと伝えられる。

なお、「男、奴」を意味する英語「ガイ(guy)」は、彼の名に由来する。

生涯[編集]

若年期[編集]

ガイ・フォークスは、1570年4月13日(ユリウス暦)にヨークで生誕した。父エドワード・フォークス(Edward Fawkes)と母イーディス・ブレイク(Edith Blake)は、共にプロテスタントであった。1568年に生まれた姉のアン(Anne Fawkes)は、生後間もなく死亡。ガイ生誕の後に、アン(Anne Fawkes、上述のアンとは別)、エリザベス(Elizabeth Fawkes)の2人の妹が生まれている。

両親は幼い息子をヨークのフリー・スクールに入れた。ここで彼は、トマス・モートン(Thomas Morton、のちのダラム州司教)、オズワルド・テシモンド(Oswald Tesimond)、そして後に火薬陰謀事件の共犯となるジョン・ライト(John Wright)やクリストファー・ライト(Christopher Wright)と知り合った。

1578年、父エドワードが死去。スコットンへ移ったイーディスは、ディオニス(デニス)・ベインブリッジ(Dionis(Dennis) Baynbridge)と再婚した。ベインブリッジは多くのカトリック信者の家庭と関係が深く、この縁によりガイはカトリックの教えを奉ずるに至った。なお、ベインブリッジとイーディスは、ガイに与えられた遺産を使い込んだといわれる。

1590年、ガイはスコットンにて妻マリア(Maria Pulleyn)と結婚し、彼女との間に息子トマス(Thomas Fawkes)、娘マリア(Maria Fawkes)をもうけたとされる。ただし、これらの記述は、教区記録による情報ではなく二次資料からの引用とみられ、正確性は不明である。

従軍[編集]

フォークスは1593年頃、いとこと共にイングランドを離れ、フランドルへ渡った。この地で彼は、オーストリア大公アルベルト(後のネーデルラント長官)指揮下のスペイン軍に加わった。勇猛で博学、かつ高潔であるとして兵士からの信頼を集め、1596年には指揮官としてカレー(Calais)攻略に貢献した。彼の名声は、ウィリアム・スタンリー(William Stanley)、ヒュー・オーウェン(Hugh Owen)らの関心を惹いた。

陰謀[編集]

この頃イングランドでは、国王ジェームズ1世国教会優遇政策により、カトリック教徒は弾圧を受けていた。これに反発したロバート・ケイツビー(Robert Catesby)は、ジェームズ1世が上院の開院式に出席したところを爆殺する計画を目論み、協力者を探していた。この時、熱心なカトリック教徒であり、かつ従軍経験のあるフォークスが、彼の目に留まった。

ガイは1604年5月、ロンドンのストランド地区にある「ダック・アンド・ドレーク(Duck and Drake:「つがいの鴨」の意)」という名の宿でロバート・ケイツビー、ジョン・ライト(John Wright)、及びトマス・ウィンター(Thomas Wintour)に会い、トマス・パーシー(Thomas Percy)と共に陰謀に加わる誓約に合意した。彼はパーシーの使用人ジョン・ジョンソン(John Johnson)なる肩書きのもと、行動を開始した。

パーシーが借りた家の管理を任されたガイは、ここからウェストミンスター宮殿内の議場地下に至るトンネルの掘削を行ったが、極度の重労働であったことから放棄され(トンネルの掘削は事実ではなく、ガイらの取調べの際に捏造されたものとされる)、1605年3月頃、彼らは議場地下の石炭貯蔵室を借りることにした。ガイはパーシーと共に、この地下室を火薬の樽で満たすのを手伝った。その後、スタンリー及びオーウェンに陰謀の詳細を伝えるためにフランドルへ急派された。

余談だが、8月末にロンドンに戻ったガイは、聖クレメント教会の裏手に住む未亡人・ハーバート夫人の家に住んだ。しかし、程なくして彼女が彼とカトリックとの関係を疑い始めたため、彼はこの家を去ることを余儀なくされた。この一件は、カトリック信者であるということが如何に危険であったかを示している。

発覚[編集]

10月26日グレゴリオ暦11月5日)、「議会の開院式への出席は危険である」と警告する匿名の書簡が、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー(w:William Parker, 4th Baron Monteagle)の元に届けられた。これを知った陰謀者の間で懸念が噴出したが、書簡の記述が抽象的であったこと、また火薬に荒らされた形跡がなかったことから、ケイツビーは計画の続行を決意した。ガイは、火薬の見張りと点火の任を帯びて、宮殿地下に籠った。しかし11月5日(11月15日)未明、治安判事トマス・ナイヴェットらの捜索により、フォークスは逮捕された。

最期[編集]

フォークスの署名(拷問後に自署。上は「Guido」、下は「Guido Fawkes」)

11月5日(11月15日)早朝、ガイは国王の寝室に連行され、尋問を受けた。彼は、「トマス・パーシーの使用人ジョンソン」という嘘の肩書きを語ったほかは、いかなる情報の提供も拒否した。しかし拷問の結果、自らの本名と、陰謀に関わった者の名を自白した。

彼に対する裁判はウェストミンスター・ホールで行われた。裁判とはいっても名ばかりのものであり、有罪の評決が下されることは初めから決定済みであったとみられる。フォークスは1606年1月31日2月10日)、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド(Ambrose Rookwood)、及びロバート・キーズ(Robert Keyes)と共にウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードにて、「Hanged, drawn and quartered首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑)」と呼ばれる、国王に対する大逆罪を犯した、貴族でない男性にのみ執行される極刑に処せられた。

ガイは、それまでに受けた苛烈を極める拷問と病で衰弱し、死刑執行人の手を借りねば絞首台にも登れない程であったという。また、首を吊られた時点で衰弱の為に絶命してしまったらしいことが、記録として残っている。

ガイ・フォークス・ナイト[編集]

曳き回されるガイの人形。イースト・サセックスの州都ルイスにて

火薬陰謀事件に因み、イギリスでは毎年11月5日に「ガイ・フォークス・ナイト」、別名「ガイ・フォークスの日」、「ボンファイアー・ナイト」、「プロット・ナイト(Plot Night)」と呼ばれる行事が北アイルランドを除く各地で開催される。「ガイ(Guy)」と呼ばれる、ガイ・フォークスを表す人形を児童らが曳き回し、最後には篝火に投げ入れられて燃やされる。ヨークシャーでは、パーキンというケーキを、ガイ・フォークス・ナイトに食べる習慣がある。

伝統的に、11月5日が近付くと児童らが自作のガイ人形を持って近所を回り、「A penny for the Guy!(ガイ人形の為に1ペニーを!)」と言って祭りに備える為のお金を募ったが、現在ではその風習は廃れ、今日では僅かに一部の地域でのみ見られるに到った。現在では、主に篝火と打ち上げ花火を楽しむ行事となっている。

文化的位置と他メディアへの影響[編集]

ガイは、ウェールズ方面では国王暗殺を試みた罪人として扱われているが、スコットランド方面では自由を求めて戦ったとして英雄視されている。

ガイの犯行についてはイギリスの伝統的な子守歌である『マザー・グース』にも見られる。

1982年アラン・ムーアとデヴィッド・ロイドによって発表されたコミック作品を原作とし、2006年に公開された映画作品『Vフォー・ヴェンネッタ』の主人公「V」は、ガイ・フォークスの仮面を被っている。Vは独裁体制の破壊をもくろむアナーキストであり、原作コミックでは初登場の時点で反逆者の代表としてガイに言及している。

ガイ・フォークスの仮面[編集]

ガイ・フォークスの仮面を被ったアノニマス

ガイ・フォークスの仮面は、上記の映画『Vフォー・ヴェンデッタ』の主人公Vの仮面として世界的に知られることとなり、その後アノニマスウィキリークスジュリアン・アサンジ、世界各国の「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」の活動にも用いられ、ガイ・フォークスの名と共に「抵抗と匿名の国際的シンボル」と認知されるようになった[1]

脚注[編集]

  1. ^ ウォール街デモ参加者に広がる英反逆者ガイ・フォークスの仮面 「抵抗の象徴」”. 阿修羅(CNN配信のニュースの掲載された掲示板のアーカイブ) (2011年11月6日). 2013年9月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]