チャールズ・チャップリン
| チャールズ・チャップリン Charles Chaplin |
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映画『チャップリンの失恋』のチャップリン |
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| 本名 | チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin) | ||||||||||||||
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| 別名 | チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin) | ||||||||||||||
| 生年月日 | 1889年4月16日 | ||||||||||||||
| 没年月日 | 1977年12月25日(満88歳没) | ||||||||||||||
| 出生地 | |||||||||||||||
| 死没地 | |||||||||||||||
| 職業 | 映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家、作曲家、マイム | ||||||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||||||
| 活動期間 | 1895年 – 1976年 | ||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||
| 『キッド』 『黄金狂時代』 『街の灯』 『モダン・タイムス』 『独裁者』 『ライムライト』 |
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チャールズ・スペンサー・チャーリー・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。
目次 |
生涯[編集]
映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。愛称はチャーリー(Charlie)。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品にふれることは容易である。また、バスター・キートンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。独裁者アドルフ・ヒトラーを皮肉的に描写した映画『独裁者』で有名だが、そのモデルとなったヒトラーと誕生年月が同じ、1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。
幼年期[編集]
イギリス・ロンドンのケニントン地区ランベスのイーストレインで生まれた[1]。両親はミュージック・ホールの歌手で、チャーリーが1歳のときに離婚。彼は5歳のとき、声の出なくなった母親の代わりに舞台に立ったという。その7年後、父チャールズ・チャップリンはアルコール依存症によって死去し、母ハンナ・ヒルは精神に異常をきたし施設に収容される。
どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーと孤児院や貧民院を転々。生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職に就いた。また俳優斡旋所に通い、ミュージック・ホールでパントマイム劇などを演じて一家の家計を支える。10歳の時には「エイト・ランカシア・ラッズ」という木靴ダンスの一座に加わり、14歳の時には「シャーロック・ホームズ」のビリー役を得て地方巡業に参加するなど、演技のスキルを積んだ。
ハリウッド[編集]
1908年、兄の勧めで名門フレッド・カーノー劇団に入り[2]、寸劇「フットボール試合」のけちんぼ役、「恐れ知らずのジミー」などで成功。若いスターとなり、15歳のコーラス・ガール、ヘティ・ケリーに恋をする。
1909年、パリ巡業。ボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす「マミング・バーズ(唖鳥)」上演。以後当たり役となり、「ロンドン・クラブの一夜」と題されてアメリカ、カナダ各地の劇場で公演、大成功をおさめる。
1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、「キーストン・コップス」や「ベイジング・ビューティーズ」で有名な映画プロデューサー、マック・セネットの目にとまり、週給150ドルでスラップスティック・コメディ専門のキーストン・ピクチャーズ・スタジオ(Keystone Studios)に入社する。
映画デビューの1914年だけで36本の作品に出演。当時、すでにキーストン・スタジオのトップスターだったメーベル・ノーマンドやロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となる。
1915年、シカゴのエッサネイ・スタジオ(Essanay Studios)に移籍。週給1250ドル。ここで14本の短編が作られる。2作目から女優エドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。
1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドルという破格の契約金でミューチュアル・フィルム社(Mutual Film)に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境の下12本の傑作を世に送る。兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリン曰く、“ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない”。
1918年、ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、ファースト・ナショナル社(First National、後にワーナー・ブラザーズと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的大スターとなる。また同年には、第一次世界大戦に参戦したアメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画を製作。
1919年、盟友のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに、配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。
1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする[4]。 帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる[3]。
赤狩りの嵐[編集]
チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物である。完璧主義で知られ、俳優としてはもちろん、製作、監督、脚本、そして自らの映画のために作曲、バレエの振り付けまでをも担った。 また、数ある映画スターの中でも抜きんでて人脈が広く、スタジオには名士が訪ねて来るような類稀な人物であった。
1931年、トーキーが隆盛を誇っていたにもかかわらず、サイレントの孤塁を守って撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは「街の灯」のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリッヒと再会を果たす。
1932年、シンガポールにジャワ、バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。
訪日中、たまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である「五・一五事件」の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。
さらに、第二次世界大戦前の1936年に発表した問題作『モダン・タイムス』やその後の『独裁者』のあたりから、欧米・日本における鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。1941年にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで、映画製作の停止を余儀なくされた。
1945年に第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、そのファシズムを批判する彼の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。特に1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める非米活動調査委員会から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかしそのような中で1948年に、フランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。
1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の法務長官から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還。自らに名声や富、成功をもたらす大きな原動力となったアメリカと決別する[5]。
アメリカを去ったチャップリンは、映画への出番もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと幸せな晩年を送る。世界的な名士として尊敬され、クララ・ハスキルやパブロ・カザルス、ジャン・コクトー、山口淑子らと交友関係を持った。
1965年にエラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。
1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」(The Freak)の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。
1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。
再び、アメリカへ[編集]
1972年、アカデミー賞授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む(後述)。チャップリンにはアカデミー特別賞が授与されたが、これは彼の国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えた。
1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(後述)。
1976年の秋、地元スイスの「クニー・サーカス」(Circus Knie)の公演に車イス姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。
死去[編集]
1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳だった。
生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村のこじんまりとした墓地に3メートル程の距離で埋葬された。
死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された[6]。複数犯かと思われたが、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された[7]。
ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立され、観光スポットの一つとなっている。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。
作品の特徴[編集]
役柄[編集]
チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたちのちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。
この独特の扮装と役柄は、1914年の2作目『ヴェニスの子供自動車競走[8]』で初めて登場している(チャップリン本人は当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルなキャラクターに成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、そんな保守的な世論にも果敢に立ち向かい、プロレタリアートの立場から、資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至る。
作風[編集]
初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的でアナーキーな作風が多い(女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである)。
しかし、1917年の『勇敢』・『移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。
1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさをユーモアをもって描き、初の長編になる『キッド(1921)』では、捨て子と逞しく生きていく姿が人々の共感を呼んだ。さらにアラスカ・クロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代(1925)』、曲馬団の少女に恋をした『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。
また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋(1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。 以降、美しいものへの憧憬と放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。
献身的で一途な愛を描いた『街の灯(1931)』・『ライムライト(1952)』。大不況下にあえぐ労働者の実態を通し、幸福の在り処を問う『モダン・タイムス(1936)』。反戦メッセージを含む異色のブラックコメディ『殺人狂時代(1947)』。革命により国を追われた『ニューヨークの王様(1957)』など。
ペーソス[編集]
チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出した羊の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、彼は「きっと、あの羊は泣いているんだ……」と感じたという[要出典]。
“永遠の放浪者”のモデルとされる人物は、足を引きずりながら荷車を押す男だった。
チャップリンの母ハンナは、通りをゆく人々をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。
映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴、これにも一つエピソードがある。
年の暮れ、食べるものがない中、慈善鍋のスープを配りに教会の人が鐘を鳴らしてやってきた。病気の母が「チャーリー!早く鍋を持って取りに行って」と彼を促す。彼は自分の靴がないので裸足で行くしかなかった。すると、「私の靴を履いておいき」と母がつけ加えて言った。小さな足に大きなボロ靴を引きずって、彼はスープを貰いに、寒い雪の中を駆け出した。
これら幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。
劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功した後は母を呼び寄せることができた。彼女を風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかし彼女は最後まで息子の成功を理解できぬまま、1928年に亡くなった。もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと心配していた、と後年チャップリンは回想している。
反ナチズム[編集]
チャップリンは、ドイツ・ナチス党の指導者で、同国の総統となり独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアやチェコスロバキアを併合していったヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたルーズヴェルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。
なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない[4]。チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っている(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)。また、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」と語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の根拠になったのかもしれない。
「完璧主義者」[編集]
監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した(チャップリンが主演のヴァージニア・チェリルを根本的に好かなかったという理由がある)。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。
また、自身唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性(1923)』においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人(1967)』同様監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレン、マーロン・ブランドという当時の二大スターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方、『巴里の女性』は永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、評論家受けはよかったものの興行成績が芳しくなく、サウンド版が世に出るまでお蔵入りにされていた。
技術的・音楽的な特徴[編集]
出演した作品はサイレント映画がほとんどで、こういったことから「チャップリンはトーキーを軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。
1929年、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わぬチャップリンには信念があった。 実際1931年の『街の灯』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた[5]。また1936年の『モダン・タイムス』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い[6]、1940年の『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編カラーのシネマスコープ作品は『伯爵夫人』のみである。
音楽家になる夢を捨てきれず、1916年にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。1925年には、エイブ・ライマン・オーケストラ(Abe Lyman)をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」[9])をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。
正式な音楽教育は受けておらず、譜面の読み書きはできなかったが、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを専属のアレンジャーが写譜した。撮影の合い間は、かけだしの頃に独学で習得したチェロやヴァイオリン(左利きだったため特注品を愛用)を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられたパイプオルガンを何時間でも鳴らしたという。
チャップリンの作曲した楽曲としては、“スマイル”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“エターナリー”(Eternally)(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌により大ヒットした。その後はマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによってカヴァーされ、今日でもスタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌い継がれている。
また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“ティティーナ”(Titina)は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。同曲はトヨタ・istのCMソングとなり、大きな話題を呼んだ。
近年、生のオーケストラをバックに、チャップリンの色褪せぬフィルム・ミュージックをスクリーンとともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。指揮者のカール・デイヴィス(Carl Davis)やティモシー・ブロック(Timothy Brock)が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。
スキャンダル[編集]
チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としてはつつましやかなものだった」という。また戦争への出兵拒否などでFBIから牽制を受けるなど、チャップリンをめぐるゴシップはマスコミの餌食となり、第二次世界大戦から冷戦期のアメリカでは、その平和思想もあいまってネガティブ・キャンペーンの的となった。
『サーカス』撮影中の1927年、当時の妻リタ・グレイに離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を暴露される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪させるほどのものであった。後年に執筆した自伝では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で暴露本を書いた。また、撮影スタジオの火災や、1928年には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまりいい時期ではないようだ。
1943年、女優ジョーン・バリー(Joan Barry)には子供の父権認知訴訟を起こされる。血液判定ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の陪審員評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。
1953年、赤狩りの煽りを受けて、終生の伴侶となったウーナ夫人とスイスに亡命。このチャップリンのスイス亡命は、「共産主義者への迫害と戦う硬骨の喜劇俳優の意地」といった文脈で礼賛された。右翼勢力は、チャップリンの政治思想を問題にして、ロリコンとしての道徳的非難によるハリウッド追放劇と捉えようとしたが、アメリカの一般国民はこの追放劇に激しく抗議。決定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。国務長官は特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と苦し紛れの声明を出さざるを得なくなった。
家族[編集]
チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。
- ミルドレッド・ハリス(Mildred Harris、1901 - 1944、最初の妻、女優、1918年結婚)
- ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919、長男〈長男〉、生後3日で死去)
- リタ・グレイ(Lita Grey、1908 - 1995、2人目の妻、1924年結婚)
- チャールズ・チャップリンJr(1925 - 1968、次男〈長男〉)
- シドニー・アール・チャップリン(1926 - 2009、三男〈次男〉、俳優、『ライムライト』、『伯爵夫人』などに出演)
- ポーレット・ゴダード(Paulette Goddard、1911 - 1990、3人目の妻(ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという[7]。女優、『モダン・タイムス』、『独裁者』で共演)
- ウーナ・オニール(Oona O'Neill、1926 - 1991、4人目の妻、劇作家・ユージン・オニールの娘、1943年に結婚)
- ジェラルディン・チャップリン(1944 -、長女〈長女〉、女優、『ドクトル・ジバゴ』、『チャーリー』などに出演。女優としては最も有名)
- マイケル・チャップリン(1946 -、四男〈長男〉、『ニューヨークの王様』に出演)
- ドロレス・チャップリン(孫、女優、J-FIVE Modern Times のミュージックビデオに出演)
- カルメン・チャップリン(孫、女優)
- ジョゼフィン・チャップリン(1949 -、次女〈次女〉、女優、『カンタベリー物語』に出演。日本チャップリン協会最高顧問)
- ヴィクトリア・チャップリン(1951 -、三女〈三女〉、女優、『独裁者』のメイキングフィルム(カラー)を発見した)
- ユージーン・チャップリン(1953 -、五男〈次男〉、レコーディングエンジニア、ノック・サーカス(Circus Nock)芸術監督)
- キエラ・チャップリン(孫、モデル、実業家でもある)
- ジェーン・チャップリン(1957 -、四女〈四女〉)
- アネット・チャップリン(1959 -、五女〈五女〉、モーリス・ベジャール振付によるバレエ「Mr.C」(1994年)に主演)
- クリストファー・チャップリン(1962 -、六男〈三男〉)
チャップリンと日本[編集]
- 大正時代から日本では「変凹君」「アルコール先生」という愛称で親しまれた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったため、配給会社があだ名での紹介をしたためで、酔いどれ役も多かったことからそのように呼ばれた。
- 正月興行として恒例だったニコニコ大会。ロスコー・アーバックル(通称デブ君)、メーベル・ノーマンド、チェスター・コンクリン、マック・スウェイン、ベン・ターピンなど花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンだった。
- チャップリン喜劇を得意とした映画説明者(活動弁士)に大蔵貢、杉浦市郎、松竹で活躍した俳優・小倉繁は“和製チャップリン”といわれた。
- 戦前に日本で公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年/昭和13年封切)までで、太平洋戦争による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『黄金狂時代』サウンド版だった(1946年/昭和21年)。1940年製作の『独裁者』は1960年(昭和35年)に封切られた。
- チャップリンが映画の中で使用した有名な根鞭ステッキは、滋賀県草津市の特産品で、地元の竹(寒竹)で作られており、しなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は雨傘を用いていた。
- 運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていたポーレット・ゴダードは高野を嫌っていたため衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。
- 『サーカス』の製作中、牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に淀川長治との対談などで振り返っている。
- 1932年(昭和7年)5月14日に初来日。五・一五事件に遭遇して[8]、多大な衝撃を受けた。歌舞伎座や明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞。初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあう。帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキをえらく気に入った。また箱根の富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランドに逗留。日本橋の「花長」では海老の天ぷらを36尾も食べ、その後の来日でも天ぷらを好んで食べたことから、「天ぷら男」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時だった。
- その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時読売新聞文芸部長を務め、後に小説家に転身した小野金次郎で、小野金次郎がチャップリンから戴いたサイン入りポートレートが孫である俳優の小野武彦が自身の自宅に保存していることを明かしている[9]。
- 1936年(昭和11年)2月に再来日。ユナイトの大阪支社に勤務していた淀川長治が神戸で面会している。同年5月には、当時の愛人ポーレット・ゴダードとの新婚旅行を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上でジャン・コクトーと合流する。京都に足を運び、最高級の老舗旅館「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。
- 戦後は1961年(昭和36年)にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケルを連れて4度目の来日。高度成長期で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。1970年(昭和45年)の大阪万博の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。1972年(昭和47年)のリバイバル上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。
- 3度目の来日で岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。その後、4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。なお、現在岐阜市内での鵜飼のポスターには、チャップリンと鵜が共にいるデザインのものが用いられている。下呂温泉の白鷺橋には記念のブロンズ像が2001年に設置された。
- 晩年マスコミから遠ざかり、スイスに隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得たタレントに萩本欽一、ヴァイオリニストの前橋汀子がいる。
- 1972年、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では東宝東和が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、14本の名作・傑作を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。ロングランは続き、1986年(昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、衛星放送や市販ビデオ、レーザーディスクなどで楽しむ他はなかった。2003年(平成15年)、日本ヘラルド映画が『犬の生活』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から朝日新聞と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の映画館で行われ、後にDVDソフトとしてデジタルリマスターされた版が日本ヘラルド映画(発売元)、ジェネオンエンタテインメント(販売元)からリリースされた[10]。
- 1977年(昭和52年)のクリスマス、折しも有楽町で上映されていた、彼の半生を綴るドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』(1975)。上映終了後、館内に訃報のアナウンスが流れると、客席からはすすり泣きや感動の拍手が沸き起こった。
- ビデオテープが普及する前、チャップリンの短編映画はよく家庭用8㎜フィルムで見られていた(中でも人気だったのが『チャップリンの冒険』)。アメリカのブラックホーク社が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。
- テレビでもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くはフランキー堺(「チャップリン小劇場〔NHK〕」)や愛川欽也によるナレーション入りで、90年代は永井一郎や小松政夫が吹き替えた短編コメディーの放送があった。最近ではオリジナルを尊重し、そのままの形で放送されることが多い。
- 1977年の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌ロードショーの企画で、優秀賞に選ばれた読者がチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の伴淳三郎も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した市松人形は、永くチャップリンの自室に飾られたという。
- 日本におけるチャップリンの評論家としては長く淀川長治が代表的な存在だったが、淀川の死後は劇団とっても便利の大野裕之がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」(ライナーノーツ執筆)の監修を行い、2005年7月にロンドンで行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。
- 2006年に日本チャップリン協会が設立された。名誉会長は黒柳徹子、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に大野裕之が就任、本部は京都大学にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際シンポジウムが京都市で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之、ハリウッドの日系人俳優クライド・クサツらが講演した。2007年3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、市川染五郎、大野裕之らが講演した。第三回にあたる2009年3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。
- 手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、ヒゲオヤジのキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面のコマを斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、ウォルト・ディズニーと同等チャップリンを敬愛している旨を述べている。
主要な作品[編集]
キーストン時代[編集]
- 1914年『成功争ひ』Making a Living
- 1914年『ヴェニスの子供自動車競走』Kid Auto Races at Venice
- 1914年『夕立』Between Showers
- 1914年『恋の二十分』Twenty Minutes of Love(初監督作)
- 1914年『キャバレー御難の巻』Caught in a Cabaret
- 1914年『ノックアウト』The Knockout
- 1914年『メーベルの結婚生活』Mabel's Married Life
- 1914年『笑ひのガス』Laughing Gas
- 1914年『小道具係』The Property Man
- 1914年『男か女か』The Masquerader
- 1914年『両夫婦』The Rounders
- 1914年『チャップリンのパン屋』Dough and Dynamite
- 1914年『逢引きの場所』His Trysting Place
- 1914年『醜女の深情』Tillie's Punctured Romance(監督=マック・セネット、主演=マリー・ドレスラー、アメリカ映画史上初の長編コメディ)
エッサネイ時代[編集]
- 1915年『チャップリンの役者』His New Job
- 1915年『アルコール夜通し転宅』A Night Out
- 1915年『チャップリンの拳闘』The Champion
- 1915年『チャップリンの駈落』A Jitney Elopement
- 1915年『チャップリンの失恋』The Tramp
- 1915年『チャップリンのお仕事』Work
- 1915年『チャップリンの女装』A Woman
- 1915年『チャップリンの掃除番』The Bank
- 1915年『チャップリンの船乗り生活』Shanghaied
- 1915年『チャップリンの寄席見物』A Night in the Show
- 1916年『チャップリンのカルメン』Burlesque on Carmen
- 1916年『チャップリンの悔悟』Police
ミューチュアル時代[11][編集]
- 1916年『チャップリンの替玉』The Floorwalker
- 1916年『チャップリンの消防夫』The Fireman
- 1916年『チャップリンの放浪者』The Vagabond
- 1916年『午前一時』One A.M.
- 1916年『チャップリンの伯爵』The Count
- 1916年『チャップリンの番頭』The Pawnshop
- 1916年『チャップリンの舞台裏』Behind the Screen
- 1916年『チャップリンのスケート』The Rink
- 1917年『チャップリンの勇敢』Easy Street
- 1917年『チャップリンの霊泉』The Cure
- 1917年『チャップリンの移民』The Immigrant
- 1917年『チャップリンの冒険』The Adventurer
ファースト・ナショナル時代[編集]
- 1918年『犬の生活』A Dog's Life
- 1918年『公債』The Bond
- 1918年『担へ銃』Shoulder Arms
- 1919年『サニーサイド』Sunnyside
- 1919年『一日の行楽』A Day's Pleasure
- 1921年『キッド』The Kid
- 1921年『のらくら』The Idle Class
- 1922年『給料日』Pay Day
- 1923年『偽牧師』The Pilgrim
- ↑ここまでは全作品米国ではパブリックドメイン(音楽を除く)(米国以外では許諾が必要)↑
ユナイテッド・アーティスツ時代[編集]
- ※:米国ではパブリックドメイン(米国以外では許諾が必要)
- 1923年『巴里の女性』A Woman of Paris(監督のみ、主演=エドナ・パーヴァイアンス)
- 1925年『黄金狂時代』※The Gold Rush
- 1928年『サーカス』The Circus
- 1931年『街の灯』City Lights
- 1936年『モダン・タイムス』Modern Times
- 1940年『独裁者』The Great Dictator
- 1942年『黄金狂時代』サウンド版(1925年の『黄金狂時代』にチャップリン自身の作曲とナレーションを施したもの)
- 1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux
- 1952年『ライムライト』Limelight
イギリスでの作品他[編集]
- 1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
- 1959年『チャップリン・レヴュー』The Chaplin Revue(『犬の生活』、『担へ銃』、『偽牧師』の3本をまとめ、チャップリン自身の作曲とナレーションを施して再編集した映画)
- 1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong(監督のみ、唯一のカラー作品、主演=ソフィア・ローレン、マーロン・ブランド)
受賞歴[編集]
アカデミー賞[編集]
1929年、『サーカス』で第1回アカデミー賞の特別名誉賞を受賞した。「『サーカス』での脚本、演技、監督、製作で示した非凡な才能」に対しての受賞だった。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらったオスカー像はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する[12]。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞[13]と主演男優賞が取り消された。
1940年には、『独裁者』で作品賞と脚本賞、主演男優賞にノミネートされた。
1972年、アメリカから追放されて20年後、第44回アカデミー賞で2度目の特別名誉賞を受賞した[10]。これは、彼を守り切れなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪の意と、「映画を20世紀の芸術たらしめたチャップリンへの計り知れない功績」に対しての受賞だった。
この授賞式では、スタンディングオベーションが5分以上にもわたって続くという、現在でも他に例のない最大の祝福を受け取っている。自身作曲による“スマイル”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とアカデミーの会長ダニエル・タラダッシュ(Daniel Taradash)は述べた。余談だが、この授賞式に先立って行われたニューヨークでの歓迎会では黒柳徹子と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ・・」と感涙した。
その後、ロサンゼルスで『ライムライト』(1952年アメリカ製作)が初めて劇場公開され、第45回アカデミー作曲賞を受賞した。本作は1952年にニューヨークで先に公開されたが、アカデミー賞の選考基準であるロサンゼルスでの公開はされていなかったので、本年度の受賞対象作品となった。
また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームから名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決したのである。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。
英国アカデミー賞[編集]
- 受賞
- 1976年 名誉賞
ニューヨーク映画批評家協会賞[編集]
ヴェネツィア国際映画祭[編集]
- 受賞
- 1972年 栄誉賞
著作権問題[編集]
上記の主要な作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間(公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)のリヒテンシュタインの法人は、米国でパブリックドメインとなった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年8月29日に東京地裁で原告全面勝訴の判決が下った。この内、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた[14]。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に最高裁判所第一小法廷は発売業者の上告を棄却、判決が確定した。
トピックス[編集]
- チャップリンが晩年を過ごしたスイスの自宅が、チャップリンの記念博物館になることが、明らかになった[15]。開館予定は2014年。
- 没後30年にあたる2007年12月、名場面と豪華出演者へのインタビューで構成されたドキュメンタリー『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003)が劇場公開され、DVDも同時発売された。
- 2009年、未公開映画 "Charlie Chaplin in Zepped" のフィルムが発見との報道がされたが、実際は編集版の作品だった。[16]
- デビュー直後に出演した "A Thief Catcher(泥棒を捕まえる人)"という作品が、2010年、アメリカ・ミシガン州の骨董市で某フィルム・コレクターによって発見され、デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之ら、世界のチャップリン研究の権威が鑑定し、正式にチャップリン作品と認められた。主演は当時のキーストン社のスター、フォード・スターリングである。
- 「チャップリンは、『あなたの作品の中で一番好きな作品は何ですか?』と聞かれるといつも、『Next One』(次に手がける作品)と答えていた」という話がネットを中心に出回っているが、チャップリン研究の大野裕之によると[要高次出典]そのような事実はないとのことである。
- 周防正行監督による最新作『ダンシング・チャップリン』が、2011年4月16日より銀座テアトルシネマ他にて全国ロードショー公開。 公式サイトhttp://www.dancing-chaplin.jp/
- 2012年に、『チャップリン・ザ・ルーツ』と題して、初期作の完全デジタルリマスター版が大野裕之監修のもと世界初劇場公開された。うち16本に羽佐間道夫、野沢雅子、山寺宏一らの声優・弁士が声を充てた吹替え版も同時公開された。これらはDVD-BOXとして絶賛発売中である。 http://elevenarts-japan.net/chaplin.html
脚注[編集]
- ^ 「近年発見されたチャップリン宛の手紙では、彼がバーミンガム郊外のジプシー集落で生まれたとある[1]」などと報道されたが、チャップリン研究の大野裕之によると[要高次出典]、この手紙の存在は以前から研究者の間で知られており、「薄気味悪い話の好きなチャップリンは頭のおかしな人からの手紙をとっておいただけ」とのことである。
- ^ この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルが在籍していた。
- ^ この書物は1922年に欧米で刊行され、日本では『僕の旅』(高瀬毅訳)として1930年(昭和5年)に中央公論社より出版された。
- ^ 兄のシドニー・チャップリンがユダヤ人のクォーターであると主張しており、それが関連している可能性がある。詳しくは英語版Wikipedia ‐ Sydney Chaplinを参照のこと。
- ^ 作品の重要なモチーフとなっている「La Violetera(すみれの花売り娘)」は、スペインの歌手ラケル・メレエによって広く歌われたシャンソンで、チャップリンはこの曲をこよなく愛した。
- ^ 当初はトーキー映画として構想されたが、撮影初期段階でできばえに満足せず、サイレントに切り替えられた。
- ^ 大野裕之著『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』p.8。また、チャップリンの従兄弟も二人は結婚していなかったと回想している。
- ^ チャップリンは犬養毅首相との面会予定をキャンセルし、犬養の息子健と国技館で相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかった。しかし狙われている可能性があると、高野と親しかった元陸軍少将・櫻井忠温からの情報により助けられた。6月2日の帰国当日の朝、斎藤実首相を官邸に訪問した後、犬養毅が暗殺された現場に案内されたチャップリンは、板戸に残る弾痕を見て、思わず「テリブル、テリブル」と呟いたという。
- ^ 『ウチくる!?』(フジテレビ 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。
- ^ このコレクターズ・ボックスは廃盤となり、現在メモリアル・エディションとして紀伊國屋書店から再リリースされている。特典映像を含め、内容は同一のものである。
- ^ この期に製作された短編のアウトテイクスが奇跡的に残されており、『知られざるチャップリン(チャップリン・その素顔と未公開映像)』(Unknown Chaplin)というドキュメンタリーの中で見ることができる。NHKでも一部放映された。
- ^ C.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41
- ^ この賞はこれ以降廃止された。
- ^ 何れも監督没後38年と、公開後70年の長い現行法を適用。
- ^ 2007年12月21日付 AFP通信[2]
- ^ Collector finds unseen Charlie Chaplin film in tin sold for £3.20 on eBay
参考文献[編集]
- 『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 中野好夫訳 新潮文庫、1981年、改版2005年
- 『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 中野好夫訳 新潮文庫、1992年
- 元版『チャップリン自伝』 新潮社、初版1966年 ※絶版
- 大野裕之 『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』 日本放送出版協会、2007年、ISBN 978-4-14-081183-2
- 大野裕之 『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 チャップリン-なぜ世界中が笑えるのか』 日本放送出版協会、2006年、ISBN 4-14-189148-7
- 大野裕之 『チャップリン再入門』 日本放送出版協会〈生活人新書〉、2005年、ISBN 4-14-088141-0
- 大野裕之 『チャップリンの日本』 日本チャップリン協会、2006年
- 大野裕之 『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』 メディアファクトリー、2007年、ISBN 978-4-8401-2090-6
- 大野裕之 『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市』
- 講談社、2009年(講談社100周年記念出版)、ISBN 978-4063397598
- 大野裕之編 『チャップリンのために』 とっても便利出版部、2000年
品切中・絶版書籍[編集]
- 『チャップリン その映画とその時代』 岩波書店、1966年
- 『わが父チャップリン - 息子が見た喜劇王の素顔』、恒文社、1975年
- 淀川長治 『私のチャップリン』 ちくま文庫、1995年、※初版はPHP
- 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』 キネマ旬報社、1973年
- 『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』 キネマ旬報社、1975年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 日本語
- 日本チャップリン協会Web - 日本チャップリン協会公式twitter
- デビュー100周年 チャップリン・ザ・ワールド オフィシャルサイト
- 大野裕之のブログ-チャップリンの著作権のまとめ
- チャップリン名言集 (世界傑作格言集)
- 外国語
- Association Chaplin
- Charles Chaplin - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- チャールズ・チャップリンの著作およびチャールズ・チャップリンを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
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