永井荷風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
| お知らせ |
| このテンプレートの解説ページができました。使用されるべき記事が決まりましたので一度ご確認ください。 |
永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家である。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。号は断腸亭主人、金阜山人。
目次 |
[編集] 年譜
- 1879年 - 東京市小石川区金富町に愛知県士族[1]で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生まれた。
- 1883年2月 - 弟貞二郎出生 しばらく荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ祖母に育てられる。
- 1884年 - 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通う。
- 1886年 - 小石川の実家に戻り小石川小日向の黒田小学校初等科に入学。
- 1887年11月 - 弟威三郎出生
- 1889年4月 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。7月、竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。
- 1891年9月 - 神田一ツ橋の高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)第2学年に編入学。
- 1897年3月 - 中学校第5学年を卒業。 7月、第一高等学校を受験するが不合格。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活するが、帰国して神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に臨時入学する。
- 1898年9月 - 「簾の月」という作品を携え広津柳浪に入門。
- 1899年1月 - 落語家6代目朝寝坊むらくの弟子になり三遊亭夢之助の名で寄席に出入りする。しかし父の反対で落語家修行を断念する。12月外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
- 1900年 - 歌舞伎劇作者福地桜痴の門下となった。
- 1901年4月 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者になる。9月、同社を解雇。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。
- 1902年9月 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。
- 1902年9月 - 父の勧めで渡米
- 1905年6月 - ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。12月、横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。
- 1907年 - 正金銀行リヨン支店に転勤。
- 1908年6月 - 銀行をやめた後、2か月ほどパリに遊ぶ。7月、神戸に到着。8月、『あめりか物語』を発表。
- 1909年3月 - 『ふらんす物語』刊行直前に発禁となる。
- 1910年2月 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し、同学科顧問・森鴎外の推薦により、教授に就任。5月、雑誌『三田文学』を創刊、主宰した
- 1911年11月 - 「谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
- 1912年9月 - 材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
- 1916年2月 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。
- 1917年9月 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)
- 1944年3月 - 親戚である大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として入籍。
- 1945年3月 - 東京大空襲で偏奇館消失。6月、明石を経て岡山へと疎開。8月、岡山県勝山町に疎開中の谷崎潤一郎を訪問したのち岡山市郊外の避難先に帰り、そこで終戦を知る。
- 1952年11月 - 文化勲章受章。
- 1954年1月 - 日本芸術院会員に選ばれる。
- 1959年 - 79歳で没。死因は胃潰瘍。
東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠る(1種1号7側3番。管理事務所通りを進んで右側)。ほかに、故人の遺志があった東京都荒川区南千住の浄閑寺に、1963年の祥月命日に谷崎潤一郎ら知友有志が建立した詩碑と筆塚がある。詩碑には詩集『偏奇館吟草』にある「震災」が彫り込まれた。
[編集] 荷風の住まい
- (生家の思い出をもとに小説『狐』を書く)
- 1890年 - 父が文部大臣芳川顕正の秘書官となり麹町区(現・千代田区)永田町の官舎に移る
- 1891年 - 一家は小石川の本邸に帰る
- 1893年11月 - 父、金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転
- 1894年10月 - 麹町区一番町の借家に移転
- 1902年 - 家族とともに東京市牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居
- 1903年-1908年 アメリカ、フランス滞在
- 1918年12月 - 東京市京橋区築地(現・中央区築地)に転居(断腸亭)
- 1920年 東京市麻布区市兵衛町(現・東京都港区六本木)に転居(偏奇館)
- 1945年3月 - 東京大空襲により偏奇館消失 6月 - 岡山県に疎開
- 1946年1月 - 千葉県市川市菅野の杵屋五叟の転居先に寄寓。
- 1947年1月 - 千葉県市川市菅野の小西茂也方に寄寓
- 1948年12月 - 市川市菅野に売家を求めて転居。
- 1957年3月 - 市川市八幡町に転居。
[編集] 主要作品
- 『地獄の花』1902年刊 『明治の文学・永井荷風』筑摩書房所収
- 夢の女 1903年 集英社文庫
- 『あめりか物語』1908年刊 岩波文庫
- 『ふらんす物語』1909年(発売禁止)岩波文庫
- 狐 1909年
- 『冷笑』1910年刊
- 『すみた川』1911年刊 「すみだ川・新橋夜話」岩波文庫
- 新橋夜話 1912年
- 『珊瑚集』(訳詩集)1913年刊 岩波文庫
- 『日和下駄』(随筆)1915年刊 講談社文芸文庫
- 『腕くらべ』1918年刊 岩波文庫
- 『おかめ笹』1920年刊 岩波文庫
- 江戸藝術論 1920年 岩波文庫
- 雨潚々(短編)1921年 岩波文庫
- 下谷叢話 1926年 岩波文庫
- 『つゆのあとさき』1931年刊 岩波文庫
- ひかげの花 1934年 岩波文庫「雨潚々・雪解」所収
- 『濹東綺譚』1937年刊 岩波、新潮文庫、角川文庫
- 踊子 1946年
- 勲章 1946年
- 浮沈 1946年 新潮文庫「浮沈・来訪者」
- 問はずがたり 1946年
- 来訪者 1946年
- 葛飾土産 1950年
- 渡り鳥いつ帰る 1950年(映画化)
- 男ごころ 1956年(絶筆)
- 『断腸亭日乗』(一部は1947年刊『荷風日歴』)摘録されて岩波文庫
- 荷風は大正中期から死の前日まで42年間に渡って日記を書き継ぎ、大切に保存していた。戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写しており貴重であるが、公表を意図して書かれている点に注意すべきである。
- 没後の『荷風全集』は岩波書店で旧版が2度、新版も2009年に2度目が刊行開始。
- ぬれずろ草紙(春本)『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』とんぼの本・新潮社に抄録
[編集] 映画
[編集] 流行歌
[編集] 結婚・女性
- 八重次は本名・内田八重(1880-1966)。後の日舞藤蔭流初代家元藤蔭静枝。
- 1915年 八重次と離婚。
[編集] 女性観
生涯の間に性交渉を持った女性の思い出を1936年1月30日の日記に書いている。子を儲けたくないと思い、必ず避妊具を使用していたという。随筆『西瓜』に「子供が成長して後其身を過ち、盗賊となれば世に害を貽(のこ)す。子供が将来何者になるかは未知の事に属する。之を憂慮すれば子供をつくらぬに若(し)くはない」と記している[4]。 また、荷風は「僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前で酔払はない事、処女を犯さない事、素人の女に関係しない事。此の三箇条を規則にしてゐる…」と述べている[5]。
上述による荷風の思考を考慮しなければ『濹東綺譚』を表層的に捉えると女性差別小説と誤解されることが多い。但し上述の通り荷風自身のバックグラウンド及び荷風の江戸時代にする憧憬や荷風の生きた時代を考慮すると、『濹東綺譚』は男女間あるいは人間同士の機微を描いた小説であることが理解できる。そうして、同時に、女の切実な寂しさと、男の行きずりの恋愛による、不安定さが描き出された作品だといわれている。
その上で、太宰治は「女生徒」という作品の中で、主人公の旧制高等女学校の生徒と思われる女性に、「濹東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。私は、好きだ。」と言わせる場面がある。
[編集] 晩年
戦後は市川市に住んでいたが親戚と同居していたことで執筆活動が思うに任せなかったことから、友人の相磯凌霜の別宅(船橋市海神)を書斎代わりとして使用した。戦後の作品は全て海神で執筆された。
一時期、市川に来てから知り合ったフランス文学者・小西茂也の家に間借りしていた。小西はこの時期荷風のわがままや奇行に悩まされることになったが、あぐらもかかず座布団もなしに正座しつづけ、暑くても肌を脱がない荷風の礼儀正しさには「さすがに士族の子弟である」と感心している。
晩年のストリップ通いも有名で、浅草のストリップ劇場の楽屋にも出入りし、踊り子たちに囲まれた写真も残っている。
晩年の荷風は外食が多く、特定の店にこだわっていた。特に浅草のレストラン「アリゾナ」にはよく通い、窓際の席でビールとビーフシチューを注文するのがお決まりで、トマトケチャップがお気に入りであった。席がふさがっていると「今日は席がありません」と言ってさっさと帰ってしまうので、店の者が新聞紙を置いて席を取っていた。また、自宅から程近い京成八幡駅前の料理屋「大黒家」には死の前日まで通い、熱燗一本にカツ丼を必ず注文していた[6]。
最期は侘び住まいののちの孤独死であった。腹をおさえたまま絶命している写真が存在する。多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだ。
[編集] その他
- 三島由紀夫とは三島の父方の祖母・夏子を通じて遠い親戚に当たる。すなわち、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[7]。
- 広田弘毅内閣の陸軍大臣として有名な寺内寿一とは中学時代の同窓生であった。永井は長髪だったため硬派の寺内らに目を付けられ、ある日無理矢理髪を切られてしまった。
- アメリカ・フランス滞在中、ワーグナーやベルリオーズの作品に親しんだ荷風は、帰国後『あめりか物語』『ふらんす物語』などの小説や評論で積極的に紹介。1938年5月には浅草で自作オペラ『葛飾情話』を発表(作曲・菅原明朗、アルト・永井智子)するなど、クラシック音楽の日本への普及に大きな功績をあげている。
- 日記には自作の『すみだ川』が東海林太郎の歌でレコード化された事や、美ち奴の「ああそれなのに」、高峰三枝子の「懐かしのブルース」の歌詞が載せられている。文言には低い評価を与えていたが、戦前から終戦後の流行歌にも興味を持っていた。晩年は「裏町人生」を口ずさんでいたと言う。
- 猥褻裁判で争われた「四畳半襖の下張」は、荷風の小説に加筆したものとも言われる。『面白半分』(1972年7月号)にこの小説が掲載されると、編集長野坂昭如らが摘発され、1980年、最高裁で有罪判決が確定した。
- 2004年、千葉県市川市の市制70周年式典で名誉市民の称号を贈られた。
[編集] 一族
[編集] 家族
[編集] 親族
- おじ 阪本釤之助(官僚)
- いとこ 永井松三(外交官、永井家第13代当主)、高見順(作家)、阪本越郎(詩人)、大島一雄(杵屋五叟)など
- その他の親族 古井喜実(政治家、妻は阪本釤之助の長女で荷風の従妹にあたる)、高見恭子(タレント、従弟・高見順の娘)、馳浩(プロレスラー・政治家、高見恭子の夫)、小鳩くるみ(童謡歌手。荷風の大叔父である鷲津蓉裳の曾孫。本名の鷲津名都江ではマザーグースの研究者で目白大学教授として知られる)
[編集] 系譜
- 永井家(永井氏系譜(武家家伝))
- 永井家の祖は、天正12年(1584年)の長久手の合戦に武功を挙げた永井伝八郎直勝である。鈴木成元『永井直勝』によると、直勝は、長田氏を名のり、徳川家康の嫡男松平信康に仕えたが、信康自刃後、家康に仕えることとなり、その命によって「長田を改めて大江氏となり、家号を永井というようになった」のである。この大江永井氏の始祖(荷風永井氏の始祖)が、直勝の庶子久右衛門正直である。荷風の実弟永井威三郎の著書『風樹の年輪』は、永井家の系譜を詳細に調べているが、それによると、「慶長十二年丁未(一六〇七)尾張国星崎荘大江永井家の始祖正直は、年二十三歳で牛毛荒井村に居を構えて一家を創立した。早くは知多郡板山村外で育ち、慶長の初めに愛知郡星崎荘本地村に移り、数年の後にこの地に移った」とある。正直は、製塩業によって成功し、「巨利を得た」という[8]。荷風は、「わたしのおじいさんは松右衛門といった。永井家は代々当主が松右衛門を名乗るんですよ」(『荷風思出草』)といっている。そうなったのは、正直から四代目の正治の時からで、八代後に永井星渚という人が出た。星渚は、江戸の儒者として聞えた市川鶴鳴に学び、在野の儒者として知られ、その学は徂徠派の服部南郭の系統に属すると伝えられている。星渚は、子がなかったので、従弟匡鼎に家をゆずったが、匡鼎は早世したので、その子の匡儀(通称松右衛門)に継がせることとなった。匡儀は、士前と号し、俳諧をよくした。その養子の匡威(まさたけ)[9]が、荷風の祖父にあたる人で俳諧、茶道をよくしたが、荷風は「祖父は全然東京へ出てくることがなかったので全く知らない」(『荷風思出草』)と述べている[10][11]。匡威が土田氏からの養子であるため、家の存続はしているが、血筋は絶えている。
永井匡威━┳━永井 久一郎━┳━永井 壮吉(荷風) ┃ ┃ ┃ ┣━鷲津貞二郎 ┃ ┃ ┃ ┗━永井威三郎 ┃ ┣━永井松右衛門━━━永井 松三 ┃ ┣━阪本 釤之助━┳━阪本 越郎 ┃ ┃ ┃ ┃ 古井 喜実 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━ふく ┃ ┃ ┃ ┗━高見 順━━━━━━━高見恭子 ┃ ┃ ┃ 馳 浩 ┃ ┗━大島 久満次━━━大島 一雄(杵屋五叟)━永井永光
[編集] 参考文献
- 『永井荷風 人と作品 43』 新書:清水書院 1984年
- 『新潮日本文学アルバム 23 永井荷風』 新潮社 1985年
- 松本哉 『永井荷風という生き方』 集英社新書 2006年
- 川本三郎 『荷風好日』 岩波現代文庫 岩波書店 2007年
- 半藤一利 『荷風さんの戦後』 ちくま文庫 2009年
- 佐藤春夫 『小説永井荷風』 岩波文庫 岩波書店 2009年6月 ほか多数
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 『新日本文学アルバム 23 永井荷風』5頁に掲載されている荷風の戸籍謄本に“士族”と記されている。
- ^ 八重次との結婚をいとこの永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなった(『永井荷風 人と作品 43』 85頁)
- ^ 大正5年には威三郎がある工学博士の三女と結婚したが、この結婚には「荷風と別戸籍とすること、新居を構えること、結婚式当日荷風を参列させぬこと」などの条件付だった(『永井荷風 人と作品43』 85-86頁)
- ^ 『永井荷風という生き方』27頁
- ^ 『永井荷風という生き方』161頁
- ^ 永井荷風と大黒家
- ^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』p.442(夏目書房、2000年)
- ^ 秋庭太郎『考證 永井荷風』
- ^ 土田生駒氏の実家である土田氏の子孫熊次郎(匡威)が永井家に養子に入り、その孫が荷風。血筋上は土田氏である。
- ^ 『永井荷風 人と作品 43』 8頁-9頁
- ^ 了願寺由緒沿革


