デビッド・ベッカム

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デイビッド・ベッカム
名前
本名 デイヴィッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム
愛称 Becks、貴公子
ラテン文字 David Robert Joseph BECKHAM
基本情報
国籍 イギリスイングランドの旗 イングランド
生年月日 1975年5月2日(34歳)
出身地 ロンドン、レイトンストーン
身長 183cm
体重 74kg
選手情報
在籍チーム イタリアの旗 ACミラン
ポジション MF
背番号 32
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1993-03
1995
2003-07
2007-
2009
イングランドの旗 マンチェスターU
イングランドの旗 プレストン
スペインの旗 レアル・マドリード
アメリカ合衆国の旗 LA・ギャラクシー
イタリアの旗 ACミラン
265 (62)
5 (2)
116 (13)
30 (5)
18 (2)
代表歴2
1994-96
1996-
イングランド U-21
イングランド
9 (0)
112 (17)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年5月31日現在。
2. 2009年6月10日現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

デイヴィッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム OBEDavid Robert Joseph Beckham OBE1975年5月2日 - )は、イギリスイングランド)出身の同国代表、メジャーリーグサッカーロサンゼルス・ギャラクシー所属(2009年1月から、セリエAACミランに期限付き移籍)のサッカー選手。ポジションはMF(主に右サイドハーフ)。

イギリス人のサッカー選手として初めてチャンピオンズリーグ100試合出場を達成した選手。2004年には、最も収入を得たサッカー選手になっている。イングランド代表では、2000年11月15日から、2006 FIFAワールドカップの最終戦まで、58試合でキャプテンを務めた。また、2008年3月28日フランス代表戦で代表100試合出場を達成。現在は112キャップとなり、現役選手では最多のキャップ数となっている。

愛称は「貴公子」「Becks」。日本一部のメディアでは、「ベッカム様」とも。妻は元スパイス・ガールズヴィクトリア・ベッカム(ヴィクトリア・アダムス)。

目次

[編集] 人物

多くの企業とスポンサー契約を交わし、幾多の広告・テレビコマーシャルにも出演。現在は世界第一位の億万長者サッカー選手である。ロンドン郊外に大邸宅を構えており、「ベッキンガム宮殿」と呼ばれている。

イングランド代表として100試合出場を達成した数少ない選手のうちの一人。一度マクラーレン監督に電話で「もう扉は閉ざされた」と言われ、構想外を告げられるが、所属クラブでの活躍を認められ代表に復帰した。

2006年には自身が強迫性障害であることをメディアに告白している。

[編集] プレースタイル

フリーキックを蹴るベッカム

独特のフォームから蹴られる、鋭いカーブの掛かった世界一とも言われる精度の高いクロスが最大の武器でセットプレーの際もそのキックは相手チームに脅威を与える、クロスも正確だがロングパスも非常に正確である。

またそのスター性などに隠れがちではあるが驚異的な運動量と献身的なカバーリングには特筆すべき物があり、イングランド代表の試合ではトリニダード・トバゴ代表戦、レアル・マドリードの試合ではレアル・ソシエダ戦で運動量の必要とされる右サイドバックの位置でプレーさせられたことがある。

ドリブル突破やトリッキーなプレーは得意ではないが状況判断に優れており、不用意にボールを失ったり相手の攻撃の起点となるようなプレーをしないなど、先述の運動量含めユーティリティ性の高いプレーヤーである。時折みせるミドルシュートの精度も高くゴールも多く決めている。

[編集] クラブ経歴

[編集] マンチェスター・ユナイテッド

マンチェスター・ユナイテッドの下部組織からの生え抜きであり、クラブを1992年5月のFAユースカップ優勝に導いた選手の一人。ベッカムはクリスタル・パレスとの決勝戦のセカンドレグでゴールを決めている。1992年9月23日に行われたリーグカップの試合に途中出場し、トップチームデビューを飾り、クラブとプロ契約を結んだ。その翌年もFAユースカップの決勝に進出をしたが、リーズ・ユナイテッドに敗れた。 1994年にはリザーブチームでリーグ優勝を果たしている。

1994年12月7日ガラタサライ戦に出場し、チャンピオンズリーグデビュー。グループステージの最終戦で4-0で勝利したものの、得失点差でバルセロナに及ばず、3位でグループステージ敗退となってしまった。

1994-95シーズンには、トップチームでの経験を積むためにプレストン・ノース・エンドにレンタルで移籍、コーナーキックから直接決めた得点を含め、5試合に出場し、2ゴールを挙げた。マンチェスター・ユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日に行われたリーズ・ユナイテッド戦に出場し、遂にプレミアリーグデビューを果たした。

ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バットガリーフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれる選手たちの一人であった。 1994-95シーズンを最後に、ポール・インスマーク・ヒューズアンドレイ・カンチェルスキスといった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソン監督は、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏にダレン・アンダートンマルク・オーフェルマルスロベルト・バッジョの獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用するこを決めたが、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦でアストンヴィラに1-3で敗れ、アラン・ハンセンの「子供ばかりでは勝てない」という言葉に代表されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。

ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシー戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドを逆転して得たものであった。

マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に召集されることはなかった。

1996-97シーズン開幕前にベッカムは背番号10を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドン戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムが自身のこの最も有名なゴールを決めた時、彼が履いていたスパイクは誤ってベッカムに支給された、チャーリー・ミラーのためにカスタマイズされたスパイクであった。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。

1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいたが、今日まで使用され続けている。

1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルに次いで、2位でシーズンを終えた。

1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛びまわったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。

リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパー(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。

FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッド戦とチャンピオンズリーグ決勝バイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは、ユナイテッドは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、インジュリー・タイムに2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた素晴らしい活躍が評価され、バロンドールFIFA最優秀選手賞では、いずれもリヴァウドに次いで2位に選出された。

1998-99シーズンのクラブでの偉業に関わらず、ベッカムは一部のファンやジャーナリストの間では未だに評判が悪く、FIFAクラブ世界選手権ネカサ戦で故意のファールで退場処分を受けた後にも批判を浴びた。プレスの間では、妻が悪い影響を与えており、ベッカムを売ることがユナイテッドにとってプラスになるのではないかと囁かれるようになった。しかし、監督は彼を支持しクラブに留まることになった。1999-2000シーズン中には、イタリアユヴェントスへの移籍の話があったが、結局は何も起こらなかった。

しかし、ベッカムがサッカーから離れたところから名声を得始めたことによって、2000年の初めからファーガソンとベッカムの関係は悪化し始めた。2000年にベッカムは嘔吐下痢症に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソンは、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていたヴィクトリア・ベッカムが子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒し、ベッカムに対してクラブでの最大の罰金(2週間分の給料、ベッカムの場合は50,000ポンド)を科し、ユナイテッドのライバルであるリーズ・ユナイテッドとの重要な試合のメンバーから外した。ファーガソンは後に自叙伝の中で、「チームメイトに対してフェアではなかった」として批判し、ベッカムを非難した。しかし、ユナイテッドは記録的な差でリーグのタイトルを獲得し、ベッカムもタイトル獲得に貢献した。

「結婚するまで彼は何の問題もなかった。夜にはよくアカデミーでコーチをしたりと素晴らしい若者だった。しかし、結婚によってエンターテイメントシーンへ入ってしまったことが問題だった。その瞬間から彼の生活は決して以前のようにはならなくなってしまったし、彼はそのような有名人になってしまった。サッカーはそのほんの一部に過ぎない。」(アレックス・ファーガソンが2007年にベッカムの結婚について語った言葉)

ベッカムは連覇に貢献し、1999-2000シーズンは、2位のアーセナルに18ポイント差を付けて優勝し、残り11試合を11連勝で飾り首位を快走した。連勝中にベッカムは5ゴールを挙げ、シーズンを通して6ゴール、全公式戦で8ゴールを記録した。

ベッカムは3連覇を達成した2000-01シーズンのユナイテッドの中心選手であった。ベッカムはリーグ戦で9ゴールを挙げた。

2002年4月10日、チャンピオンズリーグのデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で左足の第二中足骨を骨折した。怪我をさせた選手がイングランドがワールドカップで対戦することになっているアルゼンチンのアルド・ドゥシェルという選手であったため、イギリスのメディアの間では故意に負わせた怪我ではないかとの憶測が生まれた。怪我により、ベッカムは残りのシーズンを棒に振り、クラブもリーグのタイトルを逃した。大部分は彼への肖像権料の支払いの割合についてであったが、数か月に及ぶ交渉の末、3年間の契約延長にサインした。新しい契約による給料の増加と広告収入により、ベッカムは世界で一番収入を得ているサッカー選手となった。

2001-02シーズンは、ユナイテッドの選手として、ベッカムにとっての最高のシーズンであった。リーグ戦28試合に出場し11ゴール、全公式戦42試合に出場し16ゴールの成績を残した。

怪我から回復して迎えた2002-03シーズンであったが、オーレ・グンナー・スールシャールがベッカムに代わって右サイドでプレイしており、マンチェスター・ユナイテッドで以前のようにポジションを得ることが出来なかった。監督との関係も2003年2月15日に行われたFAカップのアーセナル戦後に悪化。ドレッシングルームで敗退に怒ったファーガソンがスパイクを蹴り上げ、それがベッカムの目の上を直撃し、縫合が必要な傷を負ってしまった。この事件をきっかけとして、多くの移籍の噂が巻き起こり、ブックメーカーは、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めた。チームは低調なスタートを切ったが、12月頃から立ち直り、リーグ優勝を果たした。ベッカムは全公式戦を通して52試合に出場し、11ゴールを挙げた。

ベッカムは、イングランド代表ではレギュラーとしてプレイし続けており、6月13日にOBEを受勲した。

ベッカムはプレミアリーグで265試合に出場し、61ゴール、チャンピオンズリーグでは81試合に出場し、15ゴールの成績を残した。6度のリーグ優勝と2度のFAカップ優勝、チャンプインズリーグとインターコンチネンタルカップ、FAユースカップのタイトルを12年間の間に獲得した。

[編集] レアル・マドリード
レアル・マドリード時代のベッカムとチームメイトであったジダン

マンチェスター・ユナイテッドはバルセロナへの移籍を望んでいたが、ベッカムはレアル・マドリードを選択し、4年間の契約を結んだ。移籍金は約3500万ユーロだとされている。手続きは2003年7月1日に完了し、ローリー・カニンガムスティーブ・マクマナマンに続いて、レアル・マドリードでプレイするイギリス人のサッカー選手となった。マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表では7番を付けていたが、クラブのキャプテンであるラウールが付けている背番号であったため、7番を選ぶことはできず、ベッカムは23番を選択した。その選択の理由は、尊敬するバスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが付けていた番号であるからだと言われている。

レアル・マドリードは4位でシーズンを終了し、チャンピオンズリーグでも準々決勝で敗退したが、ベッカムは開幕戦でのゴールを含め、最初の公式戦16試合で5ゴールを挙げ、すぐにサポーターのお気に入りとなった。しかし、リーグかチャンピオンズリーグのいずれかのタイトルを獲得することを望んでいた会長の期待には応えることは出来なかった。

2004年7月、スペインでのプレシーズンのトレーニングに参加している時に、ガソリンの缶を運んでいた男が、ベッカムの家の壁を登って侵入するという事件が起こった。ヴィクトリアと子どもたちはその当時家にいたが、家にたどり着く前に警備員が侵入者を捕まえ難を逃れた。2004年10月4日ウェールズ代表戦で、ベン・サッチャーにファウルを犯し、イエローカードを受け、累積で次戦のアゼルバイジャン代表戦は出場停止となった。ベッカムは試合中に肋骨を負傷していることに気付き、次の試合には出場できないことを悟り、イエローカードを貰うために意図的にファウルを犯したと明かした。イングランドサッカー協会は調査に乗り出し、ベッカムは「重大な過ちを犯してしまった」と認め謝罪をした。そのすぐ後のリーグでのバレンシア戦でも退場処分を受けた。審判に抗議しイエローカードを受けた後に、審判に向けて拍手を送り、その行為に対して2枚目のカードが出された。しかし、2日後に異議申し立てが認められ、退場処分は取り消されることになった。ベッカムは2005年12月3日ヘタフェ戦でシーズンで3度目の退場処分の受けた。そのシーズン、ベッカムはリーグで最も多くのアシストを記録した選手となった。

2005-06シーズンは、優勝したバルセロナに12ポイント差を付けられての2位に終わり、チャンピオンズリーグでは、アーセナルに決勝トーナメント1回戦で敗れた。

ウォーミングアップをするベッカム

ベッカムはシーズン中に、カリフォルニアとイーストロンドンにサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれた。

2007年はバルセロナと接戦の末にリーグ優勝し、レアル・マドリードに加入して以来初めてリーグのタイトルを獲得した。

監督に就任したファビオ・カペッロの好みにより、ベッカムは最初の数試合はスターティングメンバーで出場したが、スピードのある新加入選手のホセ・アントニオ・レジェスに右サイドのポジションを奪われた。ベッカムがスターティングメンバーとして出場した最初の9試合で、レアルは7ポイントを落とした。

2007年1月10日、長引いた交渉の末に、スポーツディレクターを務めていたプレドラグ・ミヤトヴィッチは、シーズン終了後にクラブを去ると発表したが、あれは誤訳であり、実際には再交渉はまだ始っていないと言ったのであると主張した。

1月11日、ベッカムはロサンゼルス・キャラクシーと7月1日からの5年間の契約を結んだと発表した。1月13日にカペッロは、ベッカムは練習は続けるが、レアル・マドリードでの最後の試合を終えたと述べ、今後の試合では起用しないことを示唆した。しかし、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウールグティがカペッロに出場を懇願し、チームも低迷していたこともあり、カペッロは2月10日のレアル・ソシエダ戦のメンバーに召集し、ベッカムはゴールを決め、チームも試合に勝利した。ベッカムの最後のチャンピオンズリーグ出場となったのは、2007年3月7日のバイエルン・ミュンヘン戦であり、本戦出場数通算103試合は、当時3番目に多い記録であった。

2007年5月17日、ベッカムはレアル・マドリードでの最後の試合となったマジョルカ戦に出場、チームは3-1で勝利した。ベッカムと交代で出場したレジェスが、2得点を挙げる活躍で、ベッカムはクラブ加入以来初めて、リーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得した。

この成果に復帰後のベッカムの多大な貢献があったことは確実視され、マドリーファンの多くやメディアを中心に彼を冷遇した監督ないしクラブ上層に対する批判が少なからず行われた。後にカペッロは「賢者は過ちを繰り返さない」と自分のミスを認める発言を行い、またシーズン終了後のインタビューでカペッロは「私がシーズン中犯した重大な一つのミスはベッカムの力を見誤った事だ」とも明かした。

シーズン終了後、レアル・マドリードは、ベッカムのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を解消するために交渉していると発表したが、ギャラクシー側が拒否したため試みは失敗に終わった。

レアルでのキャリア終了の1ヶ月後に、アメリカの経済誌『フォーブス』は、ベッカムは広告塔としてクラブのグッズ販売に貢献し、在籍4シーズンで6億ドルにも上る売上を記録したと報じた。

[編集] ロサンゼルス・ギャラクシー
ギャラクシーでキャプテンを務めるベッカム

2007年1月11日、ベッカムはレアル・マドリードを離れ、メジャーリーグサッカーロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍することが明らかになり、翌日のMLSのスーパードラフトの際に公式な記者会見が開かれた。

ベッカムとロサンゼルス・ギャラクシーとの契約は7月11日に結ばれ、13日にホーム・デポ・センターでギャラクシーへの入団発表が行われた。ベッカムは23番を選び、入団発表前に既にギャラクシーのレプリカユニフォームの販売枚数は250,000枚以上の記録的な販売数になっているとことの報道がなされた。

ギャラクシーでのデビュー戦は、7月21日に行われたワールドシリーズのチェルシー戦であり、0-1で敗れたが、ベッカムは78分から出場した。8月9日のD.C. ユナイテッド戦に途中出場し、リーグデビューを果たした。

翌週のスーパーリーガ準決勝のD.C. ユナイテッド戦はで初めてスターティングメンバーとして出場し、キャプテンを務め、イエローカードを貰い、前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半にはランドン・ドノバンの得点をアシストした。チームも2-0で勝利し、8月29日のパチューカとの決勝戦に進むことになった。決勝戦でベッカムは右足の膝を負傷し、MRIを行った結果、内側側副靭帯の損傷であることが判明し、その後6週間チームから離脱することになった。チームに復帰したのはシーズンの最終戦であった。10月21日に行われたシカゴ・ファイアーとの最終戦でベッカムは途中交代で出場したが、チームは0-1で敗れ、プレーオフに進出することは出来なかった。 デビューシーズンはリーグ戦5試合を含め、8試合に出場、リーグ戦では得点を挙げられなかったが、2アシストを記録した。

ベッカムは2008年1月4日から、ギャラクシーのプレシーズンが始まるまでの3週間、アーセナルの練習参加した。

リーグ戦での初ゴールは、4月3日のサンノゼ・アースクエイクス戦の前半9分に決めたものであった。5月24日のカンザスシティ・ウィザーズ戦で3-1で勝ち、チームは西カンファレンスの首位に浮上した。その試合の終了間際に、ベッカムは1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールへシュートを入れた。しかし、ギャラクシーは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことは出来なかった。

[編集] ACミラン
レンタル移籍中のミランでプレーするベッカム

ワールドカップの予選はMLSのシーズンオフにも行われるためベッカムは、ファビオ・カペッロ率いるイングランド代表でプレイするためのコンディションを維持するために、ヨーロッパに戻るのでないかとの噂が流れ、2008年10月22日ACミランは、2009年1月7日から、ベッカムがレンタルで加入すると発表した。様々な憶測がなされたが、ベッカムはMLSを去る意思はなく、2009年3月の開幕にはギャラクシーに戻ると明らかにした。一部からは、マーケティング目的の移籍であると揶揄されたが、ミランはチームを強化するために必要な移籍であると主張した。7番と23番は既に他の選手が付けていたため、ベッカムは32番を選んだ。メディカルチェックを終えたベッカムは、クラブの医師から、38歳になる5年後までサッカー選手としてプレイすることが可能だと告げられた。

2009年1月10日の2-2で引き分けたASローマ戦でスターティングメンバーとして89分まで出場し、セリエAデビューを飾り、4-1で勝利した1月25日のボローニャ戦で初ゴールを決めた。

3月にはミラノからロサンゼルスへ戻ることになっていたが、ベッカムは最初の4試合で2ゴールを挙げ、数アシストを記録するなどの活躍をすると、ベッカムはミランに残りたいと希望し、ミランもベッカム残留のために数百万ドルを支払う意思があるとの報道がされた。2月4日には、2010 FIFAワールドカップでイングランド代表としてプレイするためにも、ベッカムはミランに完全移籍することを求めていることが明らかになったが、ミランの提示した1000-1500万ドルの金額は、ギャラクシーのベッカムへの評価に見合う額ではなかった。

しかし、交渉は1ヶ月間続き、3月2日のロサンゼルス・タイムズは、ベッカムの移籍期間は7月中旬まで延長されたと報じ、ベッカムも7月中旬から、2009年のMLSのシーズン終了まで、ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイをすると話した。

[編集] 代表経歴

イングランド代表でキャプテンを務めるベッカム

1996年9月1日に行われたワールドカップ予選のモルドバ代表戦で代表デビュー。

その後の予選の試合にも出場を続け、1998 FIFAワールドカップを戦うイングランド代表のメンバーに選出された。監督を務めていたグレン・ホドルが、大会に集中できていないと判断し、最初の2試合はスターティングメンバーから外されたが、3戦目のコロンビア代表戦でスターティングメンバーに抜擢されると、フリーキックからゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。このゴールは、ベッカムの代表での初ゴールであった。

しかし、決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン代表戦、シメオネに報復攻撃を加え退場処分となり、また、チームもPK戦の末に敗退したこともあり、「10人のライオンと1人の愚かな若者」という標語をつけられ、戦犯としてメディアを含め多くの批判を浴びた。

ベッカムへのファンによる批判がピークに達したのが、2-3で敗れたEURO2000ポルトガル代表戦(ベッカムは2得点を演出した)である。サポーターは試合を通してベッカムにブーイングを浴びせ続けたが、ベッカムはそれに対して右手の中指を立てて応えた。その行為もまた非難されたが、かつて彼を批判していた新聞社は読者に対し、もうベッカムを批判するのは止めるようにしようと求めた。

2000年11月15日、10月に監督を辞任したケヴィン・キーガンの後を継いだピーター・テイラー監督にキャプテンに指名され、続いて監督に就任したスヴェン・ゴラン・エリクソンの下でもキャプテンとしてプレイし続けることとなった。ベッカムは、5-1で勝利したドイツ代表戦を含め、ワールドカップ最終予選で活躍を続けた。ギリシャ代表戦では、1-2とリードされている後半ロスタイム、同点となるフリーキックを決めイングランドをワールドカップ出場へと導いた。これらの活躍を通して、ベッカムがブーイングを浴び批判されるようなことはなくなった。その年は、BBCスポーツ・パーソナリティー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、FIFA最優秀選手賞では2位に選ばれている。

怪我から回復し、2002 FIFAワールドカップ初戦のスウェーデン代表戦に出場を果たし、アルゼンチン代表戦では、PKからゴールを決めた。イングランド代表は準々決勝でブラジル代表に敗れ、ベスト8で大会を後にした。ベッカムは、翌月にマンチェスターで開催されたコモンウェルスゲームズの開会式に参加した。

EURO2004にもイングランド代表として出場したが、1-2で敗れたフランス代表戦でPKを失敗した他、準々決勝のポルトガル代表戦のPK戦でも最初のキッカーとして外してしまうなど活躍することは出来なかった。

ベッカムは、2005年1月にUNICEF親善大使に任命された。また、ロンドンでの開催を目指すオリンピックの誘致活動に参加し、大きな貢献をした。2005年10月行われたオーストラリア代表戦で退場し、代表キャプテンとして初めて退場処分を受けた選手となり、イングランド代表として2度退場した初めての選手にもなった。

2006年6月10日、イングランド代表にとっての2006 FIFAワールドカップ初戦であるパラグアイ代表戦では、ベッカムのフリーキックがカルロス・ガマーラオウンゴール引き起こし、イングランドは1-0で勝利した。6月15日に行われた2戦目のトリニダード・トバゴ代表戦では、83分にベッカムのクロスからピーター・クラウチのゴールが生まれ、終了間際には、スティーヴン・ジェラードのゴールもアシストした。試合は2-0で勝利し、大会スポンサーのバドワイザーが選出するマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

決勝トーナメント1回戦のエクアドル代表戦では、59分にフリーキックからゴールを決め、イングランド代表選手としてワールドカップ3大会で得点を挙げた初めての選手となり、試合も1-0で勝利し、準々決勝進出を果たした。ベッカムは試合前から体調が悪く、体調不良と脱水症状に陥いった結果、得点後もプレイを続けたが、試合中に数回嘔吐した。

準々決勝のポルトガル代表戦では、怪我のために52分で交代し、試合は延長戦を終えても0-0ままで、PK戦の末に敗れた。交代後ベッカムは、プレイできないことから目に見えて落胆しており、ベンチで涙を流した。

ワールドカップ敗退後の翌日、記者会見で代表キャプテンを退くとの声明を出した。「キャプテンとして代表を率いることはとても名誉な特権であり、代表では95試合(実際は94試合)に出場し、58試合でキャプテンを務めたが、チームはスティーブ・マクラーレン監督の下で新しい時代を開こうとしている時で、キャプテンマークを譲り渡すのが正しい選択であると考えている。」と、述べた。その後ジョン・テリーがキャプテンに就任した。

キャプテン辞任後の2006年8月11日、スティーブ・マクラーレンは初めて代表を召集したが、ベッカムはメンバーから外れ、マクラーレンは「チームは新しい方向に進もうとしており、そこにベッカムは含まれていない。」と、述べた。だだし、将来的には呼ぶ可能性があると話した。ベッカムに代わって、ワールドカップのメンバーであったショーン・ライト=フィリップスキーラン・リチャードソンアーロン・レノンが起用されたが、マクラーレンは最終的に右サイドはスティーヴン・ジェラードに任せた。

ジョン・テリーへのアシストとなるフリーキックを蹴るベッカム

2007年5月26日、マクラーレンは監督就任後に初めてベッカムを召集し、新しいウェンブリー・スタジアムで行われたブラジル代表との親善試合にスターティングメンバーとして出場し、後半にジョン・テリーのゴールをアシストするなど、良いパフォーマンスを見せた。イングランドが勝利するかに思われたが、ジエゴの終了間際の得点により、1-1の引き分けに終わった。続くEURO2008予選のエストニア代表戦にも出場し、代名詞とも言えるクロスから、マイケル・オーウェンピーター・クラウチのゴールをアシストし、3-0の勝利に貢献した。ベッカムは2試合で決まったゴールの内、3ゴールをアシストし、マクラーレンも「今の彼以上の右サイドの選手は、世界中探してもいない」と評価を改め、MLS移籍後も代表でプレイし続けたいというベッカムの願いは実現することになった。

2007年8月22日に行われたドイツ代表との親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながら代表でプレイした選手となった。2007年11月11日クロアチア代表との試合に途中出場し99キャップ目を記録すると、ピーター・クラウチの2-2となるゴールの起点なったが、2-3で敗れ、イングランドはEURO2008の出場権を逃してしまった。しかし、ベッカムは代表引退はせずに、これからも代表でのプレイを続けるとの意向を示した。その後、レアル・マドリード在籍時に監督を務めていたファビオ・カペッロが監督に就任した。初陣となるスイス代表との親善試合に出場すれば100キャップ目となるが、ベッカムは3ヶ月間試合に出場していないために体力面に問題があるとして、メンバーには加えなかった。

2008年3月20日、カペッロは、26日のフランス代表と親善試合に向けたメンバーにベッカムを召集した。ベッカムはスターティングメンバーとして試合に出場し、イングランド人として100キャップを記録した5人目の選手となった。カペッロは、前日の会見でベッカムをフランス代表戦に起用すると明言し、将来的なことはこれから考えると話していた。2008年5月11日、カペッロは28日にウェンブリーで行われるアメリカ代表との試合と、6月1日にアウェー行われる試合に臨む代表メンバー31名を発表し、ベッカムもそこに含まれた。試合前にベッカムは100キャップを記念した金色の帽子を贈られ、サー・ボビー・チャールトンから渡された時には、観衆はスタンディングオベーションで讃えた。試合では決勝ゴールとなったジョン・テリーのゴールをアシストし、後半から交代でデヴィッド・ベントリーがピッチに入った時に観衆は、その交代に対してブーイングを送った。6月1日のトリニダード・トバゴ代表戦では、カペッロはベッカムをキャプテンに指名し、ベッカムはワールドカップ以来、2年ぶりにキャプテンとして試合に出場した。

ワールドカップ予選のベラルーシ代表戦で87分から出場し107キャップを記録し、歴代3位のキャップ数となり、2009年2月11日に行われたスペイン代表との親善試合では、スチュワート・ダウニングに代わり後半から出場、代表108キャップ目を記録し、ボビー・ムーアの持つフィールドプレイヤーとしての最多出場数の記録に並び、イングランド代表歴代2位タイのキャップ数となった。

2009年3月28日スロバキア代表との試合に途中出場し、ムーアの記録を更新し、試合ではウェイン・ルーニーのゴールをアシストした。2009年6月10日アンドラ代表戦でスターティングメンバーとして100試合目の出場を果たした。

[編集] 「ベッカム様」

ベッカムとその妻ヴィクトリア

2002年W杯以降、持ち前の甘いマスクで日本の女性たちから絶大な人気を獲得し、日本のマスコミが付けたアダ名が「ベッカム様」。ソフトバンクモバイル(旧・ボーダフォン日本法人)、ペプシコーラアディダス東京ビューティーセンター (TBC)明治製菓リニューカーM702iSNTTドコモ)などのテレビCM出演でもお馴染みとなった。彼が来日する際には空港に多くのファンが殺到した。

プレミアシップ発足後、マンチェスター・ユナイテッド(プレミアシップ優勝8回)をはじめ、多くのタイトル獲得に貢献した。しかし、チームの勢いが失墜し始めた頃、ファーガソン監督との確執が露呈し試合でもスタメン出場の機会が減り始めた。ベッカムのプレーからは泥臭さが消え、勝負をしかけることも少なくなっていった。ファーガソンは「昔はあんな奴じゃなかった」と語り、その原因が妻のヴィクトリアにあることをほのめかした。この確執が原因で、03-04シーズンからレアル・マドリードに移籍した。この移籍の直後、マンチェスター・ユナイテッドはクリスティアーノ・ロナウドを獲得し、背番号7は彼がつけている。しかし、本人はインタビューにて「僕がイングランドに帰るとしたら、マンチェスター・ユナイテッドしかない。親父(ファーガソン)のことは今でも尊敬している」と語っている。ファーガソン自身も「デビッドの心には常にユナイテッドがある」と語っている。

2007年、欧州選抜チーム対マンチェスター・ユナイテッドの親善試合、欧州選抜チームのベッカムは怪我で出場できなかったが、ハーフタイムに4年ぶりにオールド・トラフォードに現れると、ユナイテッドのファンから盛大な拍手で迎え入れられた。 またこの事についてファーガソンは「デビッドはサポーターにきちんとさよならを言えずにスペインに行ったから、サポーターは喜ぶだろうね、とてもファンタスティクな事」と歓迎した。

主に右サイドのMFとしてプレーしているが、本人はセンターハーフを好んでいる。これはもちろんブライアン・ロブソンの影響である。しかし、右サイドを自分が一番活きるポジションだとも言っており、右サイドの方がやりやすいという自覚も持っているようだ。

その容姿からマーケティング面での貢献が非常に高く、レアル・マドリードは彼を獲得するために用意した約46億円ともいわれる移籍金を、彼のユニフォームの売上代金のみで取り戻したとも言われる。一方、チームは彼が加入して以来優勝から遠ざかってしまったことから、ファンからは「彼がレアルにした貢献はユニフォームの売り上げを伸ばしたことだけだ」と皮肉られた。

鳴り物入りでレアル・マドリードに加入したが、2006年まで優勝を経験していなかった。攻撃的なスター選手の多いチームにおいては、守備的な選手の重要性が問われており、特にベッカム獲得と同時期にマケレレを放出したことはレアル・マドリードにとって最大の失敗と言われている。それ以降3シーズン守備が安定せず、カマーチョ以後の監督の必須命題になっているがカペッロ・ミヤトビッチ体制になっても変わっていないことから、ベッカム本人の問題の域を超えている。2007年シーズンで念願の優勝を果たし批判を打ち消した。

ベッカムがレアル・マドリードとの契約延長にサインせず、アメリカ・ロサンゼルスギャラクシーへの移籍を発表した際、レアルのカルデロン会長はマドリー市内の大学の講義でチーム内の非難発言を繰り返した。その中で「ベッカムはアメリカ以外のどのチームからも依頼はなかった。彼はアメリカに行ってなんにでもなれるだろう」と発言し、発言を録音していた学生からラジオ局に流れ大問題に発展した。しかし実際はACミランやイングランドの複数のクラブから依頼があった事が後に明るみに出て、会長はミーティングの席でベッカムに謝罪した。

またこの一連の騒動に関してシーズン終了後に元チームメイトであるジダンは「レアル・マドリードは重大なミスを犯した。ベッカムを手放した事で来シーズン代わりの選手を探さなければならない。まぁ彼と同等の選手を探す事は不可能に近いだろうけどね」と語っている。

レアル・マドリードに加入した際、背番号7はラウールが既に着用しており、ベッカムの背番号に注目が集まったが、その番号は23番であった。驚きをもって迎えられたが、「マイケル・ジョーダンを尊敬していて、それにちなんだ」と報道されたが、のちに本人が「空いている番号でどれでもよかった」と語っている。(しかし彼加入前のシーズンに退団した主将DFフェルナンド・イエロが付けていたレギュラーナンバーの背番号4も空き番になっているため矛盾している。しかし本人は守備的すぎると興味を示さなかった。また、この年のコンフェデレーションズカップで試合中に倒れて死去したカメルーン代表のMFマルク・ヴィヴィアン・フォエが同じマンチェスターを本拠地とする、マンチェスター・シティで付けていた番号でもあり、彼に捧げて23番をつけたのではないかという憶測もある。彼の死後、マンチェスター・シティの23番は、永久欠番となった。)一方で、ロサンゼルスギャラクシーへの移籍会見時には「背番号はマドリード時代と同じ23が良い。マイケル・ジョーダンを尊敬しているし、アメリカでは特別な番号だ。」と語っている。

[編集] その他

  • 幼少の頃からマンチェスターUの試合を必ずと言っていいほど正装で観戦し、かなりの敬意を表していた。また、欧州遠征で日本代表と対戦したときはジーコ監督(当時)に「小さい頃からファンだった」と試合前に正装をして挨拶に行ったこともある。
  • ベッカムの身体の各所には、妻や子供たちの名前がタトゥーとして刻まれている。左腕には、インドのヒンディー語等の言語で使用されるデーヴァナーガリー文字で『VHIKTORIYA』と彫られている。デーヴァナーガリー文字にはCの音をあらわす文字がないので、代わりにKが用いられる。英単語の語尾のAがYAに変わるのはインド英語の特徴である。VHIはスペル間違いである。
  • 2002年日韓ワールドカップの際のヘアースタイルソフトモヒカン)が「ベッカムヘアー」と称され人気に。またその当時、イングランド代表のキャンプ地であった兵庫県淡路島に滞在していた事もあり、神戸近郊によく出没していた。神戸市にある神戸大丸百貨店で閉店後に店舗を貸し切り、買い物をしたこともある。
  • 明治製菓のバレンタインデーイベントで、チョコレート製の巨大ベッカム像が作られた。
  • レアル・マドリードの一員として来日した際、各メディア取材のはしご状態となったが、そのさ中「めちゃ×2イケてるッ!」(フジテレビ)「やべっち寿司」に出演し、彼が座った席は赤い座布団が縫いつけられている。また、その時食べた、かっぱ巻きが非常に気に入り、それ以来かっぱ巻きが大好物なったらしい。「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)の1コーナー「ビストロSMAP」では、チームの同僚のグティと出演している。
  • 2003年アディダスラグビーCMで、ラグビー・イングランド代表、スタンドオフジョニー・ウィルキンソンと競演。持ち前のキックセンスで、ラグビーのゴールキックも見事に決める。トルコ戦のPKの大ミスを「ウィルキンソンに影響されたから」とジョークにされた会見は有名である。ジョニー・ウィルキンソンは、「ラグビー界のベッカム」と言われている。
  • 日本に限った話であるが、容姿の優れたヨーロッパ出身のスポーツ選手を「○○界のベッカム」と呼ぶことがある(上記のジョニー・ウィルキンソンや、角界のベッカム:琴欧洲
  • ロンドン近郊イーストロンドン、レイトンストーン育ちの為、下町言葉コックニー(Cockney:ロンドン下町訛り)を話す。
  • 少年時代、天才サッカー少年としてテレビで紹介されたことがある。
  • 2006年1月に愛車「BMW・X5」を盗まれるという被害に遭う。その車が2007年4月になりマケドニア共和国内務省大臣公用車になっていることが判明。ベッカムの熱狂的なファンだった内務省大臣(女性)は「取り戻したければマケドニアまで本人が取りに来ることが条件」と発言した。
  • ドイツワールドカップの欧州予選 北アイルランド対イングランド戦で相手DFの執拗なマークにあい感情をむき出しにしているチームメイトのルーニーを宥めているシーンもありイギリスの言葉で『サッカーは、子供を大人にし 大人を紳士にする』とあるように精神的にもチームのキャプテンとして成長した様子が伺える。
  • フランス・フットボール誌が2008年4月に発表した世界のサッカー選手の年収ランキングで第一位(3100万ユーロ(約50億円))に選ばれた。
  • 趣味は切手集めとテディベアのコレクション。オークションで1800ポンドのテディベアをEBAYで購入したことが英国のBBCニュースで流れたことがある。
  • 2008年12月31日、ペプシとのコマーシャル契約を解消した。

[編集] 所属クラブ

→1995年 イングランド プレストン・ノースエンドレンタル移籍
→2009年 イタリア ACミランレンタル移籍

[編集] 個人成績

所属クラブ シーズン 背番号[1] 所属リーグ リーグ カップ[2] リーグカップ UEFA主催[3] その他[4] 期間通算
出場数 得点 出場数 得点 出場数 得点 出場数 得点 出場数 得点 出場数 得点
マンU 1992–93 プレミア 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0
1993–94 28 プレミア 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
プレストン 1994–95 ディビジョン3 5 2 0 0 0 0 0 0 5 2
マンU 1994–95 28 プレミア 4 0 2 0 3 0 1 1 0 0 10 1
1995–96 24 プレミア 33 7 3 1 2 0 2 0 0 0 40 8
1996–97 10 プレミア 36 8 2 1 0 0 10 2 1 1 49 12
1997–98 7 プレミア 37 9 4 2 0 0 8 0 1 0 50 11
1998-99 7 プレミア 34 6 7 1 1 0 12 2 1 0 55 9
1999-00 7 プレミア 31 6 0 0 12 2 5 0 48 8
2000-01 7 プレミア 31 9 2 0 0 0 12 0 1 0 46 9
2001-02 7 プレミア 28 11 1 0 0 0 13 5 1 0 43 16
2002-03 7 プレミア 31 6 3 1 5 1 13 3 0 0 52 11
期間通算 265 62 24 6 12 1 83 15 10 1 394 85
レアル 2003–04 23 プリメーラ 32 3 4 2 7 1 0 0 43 6
2004–05 23 プリメーラ 30 4 0 0 8 0 0 0 38 4
2005–06 23 プリメーラ 31 3 3 1 7 1 0 0 41 5
2006–07 23 プリメーラ 23 3 2 1 6 0 0 0 31 4
期間通算 116 13 9 4 28 2 0 0 153 19
LA 2007 23 MLS 5 0 0 0 2 1 7 1
2008 23 MLS 25 5 0 0 0 0 25 5
期間通算 30 5 0 0 2 1 32 6
ACミラン 2008-09 32 セリエA 18 2 0 0 2 0 0 0 20 2
キャリア通算 434 84 33 10 12 1 113 17 10 1 604 114
  1. ^ イングランドのトップリーグは、1993-94シーズンより背番号の固定制を採用。
  2. ^ 国内カップ戦(イングランドはFAカップ、スペインはコパ・デル・レイ、アメリカはUSオープンカップ、イタリアはコッパ・イタリア)。
  3. ^ チャンピオンズリーグ、95-96、08-09シーズンはUEFAカップ
  4. ^ その他とはコミュニティーシールドUEFAスーパーカップインターコンチネンタルカップFIFAクラブワールドカップスーパーリーガのこと。

[編集] 主な記録

  • 代表初キャップ:1996年9月1日 対モルドバ戦(FIFAワールドカップ予選)
  • 初ゴール:1998年6月26日 対コロンビア戦(FIFAワールドカップフランス大会)

[編集] 獲得タイトル

チーム
個人

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
ロビー・ファウラー
PFA年間最優秀若手選手賞
1996-97
次代:
マイケル・オーウェン
先代:
ロナウド
UEFA年間最優秀選手
1998-99
次代:
フェルナンド・レドンド