高野虎市
高野 虎市(こうの とらいち[1]1885年 - 1971年)は、チャールズ・チャップリンの秘書として有名な人物。広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区八木)出身。
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[編集] 略歴
- 1885年:広島の裕福な庄屋に生まれる。
- 1900年:アメリカに移民として渡る(父親には留学と偽装)。
- 1916年:チャップリンに運転手として雇われる。
- 1934年:チャップリンの元を離れ一時帰国し、すぐにアメリカに戻る。
- 1941年:アメリカで「スパイ容疑」で逮捕される。日米開戦後に強制収容所に収容。
- 1948年:8月に強制収容所から釈放される。
- 1957年:日本に帰国。東嶋トミエと出会う。
- 1971年3月19日:死去
- 2006年:3月25日~4月2日まで、京都市にて、チャップリン研究の第一人者大野裕之らの呼びかけで、「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市遺品展」が開催される。チャップリン国際シンポジウムも同時開催され、東嶋トミエ、クライド・クサツ、黒柳徹子、ジョゼフィン・チャップリン、大野裕之らが講演した。
- 2009年高野虎市の詳細な伝記『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市〜』講談社、大野裕之著が発刊された。
[編集] 人物
広島の裕福な庄屋に生まれる。1900年、15歳のときに親に「留学」と称して渡米し、当初は従兄弟を頼りに暮らしながら雑貨店などで働きながら法律の勉強をしていていた。1916年にチャップリンが運転手を募集していたため赴いたところ、採用された。とくにチャップリンが日本人を求めていたわけでも、高野がチャップリンのファンであったわけでもない。
当初は運転手としての雇用だったが、後にマーベリック・テレルやトム・ハリントンら他の秘書とともに、チャップリンの身の回りに関する全てを担う秘書と呼べる存在となる。チャップリンは高野の仕事に対する一途な姿勢に感銘をうけ、一時期家の使用人全てを日本人にしたほどである。また、チャップリンが日本贔屓であるのも彼に由るところが大きい。高野に最初の子息(長男)が誕生した際には、チャップリンは自らのミドルネーム(スペンサー)をその名前として与えている。1932年にチャップリンが訪日した際にも同行。このとき、五・一五事件の前夜に皇居付近を自動車で走行中、チャップリンに「車を降りて皇居(当時は宮城)の方角に向かって会釈してほしい」と依頼した。これはチャップリンに対する不穏な動き[2]を察知し、印象をよくするためにおこなったものであったが、チャップリンは従ったもののその真意を測りかねていたという。
1934年までチャップリンの元で秘書を務めた。全幅の信頼を寄せられていた虎市が突然解雇された理由については諸説あるが、チャップリンの当時の妻ポーレットの浪費癖を指摘したところ、日本人に対する差別意識を持っていたポーレットに不快に思われ、それに押し切られたチャップリンによって解雇されたという説が有力である。その後チャップリンは高野に対して再度秘書として戻ってくるようアプローチを試みたが、高野が秘書からの引退を考えていたこともあり成功しなかった。
なお、その後チャップリンは高野に莫大な退職金とアメリカの映画配給会社ユナイテッド・アーティスツ社の日本支社長の地位を用意した。このうち支社長の地位は、日本での作品上映に当たる代理店としての権利を与えたものであったが、日本の興行習慣に高野が馴染まなかったため長続きはしなかった。高野はその後いくつかの事業を試みるがいずれも成功しなかった。この間、日系人の妻を病気で失っている。
チャップリン研究家の大野裕之によると、第二次世界大戦における日米開戦前の1941年6月、アメリカで日本軍のスパイ容疑でFBIに逮捕された。これは高野と面識のあったアメリカ人俳優から日本海軍の士官との面会を依頼されて取り次いだ際に、アメリカ海軍の機密情報を渡したという容疑であった。実はこの俳優はFBIの放った囮であり、実際にはそのような事実はなかった。子息のスペンサーは、高野の逮捕後にその待遇の好転を図るべく志願して軍隊に入営した。スペンサーはその後大戦中に日本軍と対戦する経験もしている。
日米開戦後には日系人の一人としてモンタナ州の強制収容所に収容されるが、ここでも高野は「特に反米的な日本人」として厳しい取り扱いを受けた。このため、日本の敗戦後も収容が続き、6年間の抑留を経て釈放されたのは、戦争終結から3年後の1948年8月のことであった(日系人の強制収容を参照)。
釈放後もアメリカにとどまり、ロサンゼルスで法律事務所を開業し、第二次世界大戦中にアメリカ市民権を失った日系人の権利回復運動に当たった他、日本人移民のアメリカ永住権や国籍取得の支援を行った。
1957年に、第二次世界大戦中にアメリカ市民権を失った日系アメリカ人のアメリカ市民権回復運動への支援を日本で募る目的で日本に帰国した。晩年は故郷の広島で過ごし、1971年に、86歳で死去。
[編集] その他
- チャップリンの映画『チャップリンの冒険』(1917)に運転手役として出演している。これは予定されていた俳優が二日酔いのため撮影にこられなかったためであった。ほかにもう1本出演作がある。
- 映画監督牛原虚彦は高野の紹介によってチャップリンに弟子入りができた。
- 1935年に故郷に消防用の火の見櫓を寄贈した。櫓本体はすでに失われているが、寄贈者として高野の名が刻まれた銘板の付いた土台が現在も残っている。
- テレビ番組トリビアの泉において「チャップリンのマネージャーは日本人。」とトリビアとして取り上げられたことがある。
- 最晩年に、チャップリンへの面会を希望していた萩本欽一から請われてアドバイスをした。高野は「チャップリンは日本人、特に女性が好みだから女性を連れて行けば会ってくれるだろう」と答え、それを聞いた萩本は(女性は連れて行けなかったため)博多人形を土産として持参した。
[編集] 参考文献
- 大野裕之『チャップリンの影 日本人秘書高野虎市』(講談社、2009年)
- 大野裕之『チャップリン再入門』(日本放送出版協会(NHK出版生活人新書)、2005年)
- 日本チャップリン協会・大野裕之『チャップリンの日本』(日本チャップリン協会、2006年)- 2006~7年に日本で開催された遺品展の図録写真集。
[編集] 脚注
- ^ 戸籍上は「高野虎一」。2008年1月6日放映のNHK教育テレビ『ETV特集』「チャップリンの秘書は日本人だった」で親族が提示した戸籍謄本にてこの事実が明らかにされた。
- ^ 五・一五事件においては、チャップリンも襲撃の対象とされていた。