ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)

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ダイアナ
Diana, Princess of Wales
プリンセス・オブ・ウェールズ
Международная Леонардо-премия 18.jpg
1995年
称号 Princess of Wales(ウェールズ公妃)
全名 Diana Frances
身位 Princess(王子妃)
出生 1961年7月1日
イングランドの旗 イングランドサンドリンガム・ハウス
死去 1997年8月31日(満36歳没)
フランスの旗 フランスパリ
配偶者 ウェールズ公チャールズ1981年 - 1996年)離婚
子女 ウィリアム王子
ヘンリー王子
父親 ジョン・スペンサー
母親 フランセス・バークロシュ
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ウェールズ公妃ダイアナDiana, Princess of Wales;全名Diana Frances(旧姓Spencer)1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、ウェールズ公チャールズの最初の妃。1996年に離婚した。1997年パリでの交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第3位のイギリス王位継承者であるケンブリッジ公ウィリアム王子およびヘンリー王子の実母。元来ドイツ発祥で、王位継承者にもドイツ系を主に外国から配偶者を迎える慣例があった同王家としては初めての、両親ともイギリス人の妃であった。

目次

生涯 [編集]

少女時代 [編集]

ダイアナは、オールトラップ子爵ジョン・スペンサーと子爵夫人フランセスの3女として、サンドリンガム・ハウスイングランドノーフォークにあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は1975年、第8代スペンサー伯爵を相続した。

スペンサー家は15世紀に欧州でも有数の羊商として財をなし、チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によってチャールズ2世マールバラ公ジョン・チャーチルの血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ男爵家はノーフォークの名士であった。姉にセーラ・マッコーコデールとジェーン・フェローズ、弟にチャールズ(1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。

オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で1967年に別居し、1969年に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、極端に勉強を嫌い、成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時にスイスフィニッシングスクールに入っている。

母フランセスは、チャールズ皇太子と再婚したカミラ・ローズマリー・シャンド(パーカー=ボウルズ夫人)の一族、ピーター・シャンド=キッドと再婚し、父ジョンはロマンス作家バーバラ・カートランドの娘レイヌ・マッコーコデール(ダートマス伯爵夫人)と再婚した。ダイアナの姉セーラはニール・マッコーコデールと結婚した(レイヌはジョンの死後、フランスのジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と再々婚した)。

チャールズとの出会い [編集]

スイスから帰国したダイアナは社交界にデビューし、1978年11月にバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが1977年から1978年にかけてチャールズ王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。

やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、保育士として働きはじめた。1980年7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人のカミラ・パーカー・ボウルズがおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。

結婚 [編集]

1981年2月24日チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表され、同年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンのセントポール大聖堂で結婚し、その模様はイギリス連邦をはじめとする世界各国で生中継され、その後も2人の動向は世界各国のマスコミで大きく報道されることとなった。

1982年には長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイスが、1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッドが生まれ、同じく世界各国で大きく報道された。

その後もイギリス国王の世継ぎの妃としてチャールズとともに様々な王室の行事に出席するほか、日本アメリカなど世界各国を訪れ、各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような熱狂的な歓迎を受けることとなった。併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり「理想のカップル」的な扱いを受けた。

だが、将来イギリスの国王となることを念頭に、伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を常に優先するよう教育され、自らもそれを実践していたチャールズと、まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放にセレブリティとの派手な付き合いを行うことを好んだダイアナとは、その生活様式や趣味、嗜好が合わず、次第に2人の間には深い溝ができていくこととなった。

不倫と離婚 [編集]

しかも結婚後もチャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は手首を切るリストカットや腕や太ももを傷つける自傷行為、過食嘔吐などの摂食障害を起こすようになったことを、自叙伝『ダイアナの真実』やBBCテレビのインタビューで明かしている。当時「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。なお1988年から専門医による治療を受け、これらの症状は回復したという[1]

チャールズとカミラの交際は世間に知れ渡り、これを機にダイアナも王室職員や大富豪のドディ・アルファイドなど、複数のさまざまな男性と大っぴらに付き合うようになった上に、マスコミにチャールズとの不仲について自らリークを行っていたとも伝えられた。夫婦は1992年12月9日に別居し、1996年8月28日に正式離婚した。

ダイアナは離婚後は定冠詞のない「Princess of Wales(ウェールズ公妃)」を名乗ることと、ケンジントン宮殿の居住を認められ、その後は自由奔放に様々な男性との交際を行ったほか、対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動などに関っていた。

事故死 [編集]

事故現場。パリアルマ橋

1997年8月31日に、フランス首都パリで、当時の恋人であるエジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルメルセデスベンツS280ハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。36歳という若さであった。

ダイアナは事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため、譫言で「Leave me alone(放っておいて・私に構わないで)」、「oh my god(なんていうことなの)」と言い続けていた。また、事故直後の現場にはなお9人ものパパラッチが居合わせていたが、救助活動にも手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたという。

BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた脳損傷などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。

訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス大使館には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。

「国民葬」 [編集]

国葬にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、トニー・ブレア首相は「国民葬」にする旨を発表した。9月6日ウェストミンスター寺院国葬に準じた盛大な葬儀が行われた。バッキンガム宮殿半旗が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがった(当時の世論調査では王室について廃止意見が存続意見を上回った)。

それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、またそもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、女王はスコットランドに滞在していたことから、伝統に従えば旗を掲げてはならない状況だった。しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、これまでの伝統は覆された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、あらたにユニオンジャックが半旗として掲げられた。

王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移された。葬列には前の夫のチャールズと2人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加した。3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していた。沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼んだ。エリザベス女王も沿道に立ち、棺が目前を通過すると頭を下げた。

埋葬 [編集]

事故現場に建つ記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」

遺体はノーサンプトン州オルソープにあるスペンサー家領地内の池に設けられた墓所に埋葬された。ダイアナの葬儀時、友人のエルトン・ジョンが、マリリン・モンローへの追悼曲であった「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の歌詞を書き直した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」を生演奏した。

生前「人々のプリンセスでありたい」と述べていたダイアナだが、その通り、国民の多くからは現在も“イングランドバラ”(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」には「Good Bye England's Rose」という歌詞が登場する)として慕われている。なお、ダイアナの墓所は盗掘を防ぐため墓碑はなく、正確な位置を知っているのは関係者だけである。

死後、事故現場のちょうど真上に当たる陸橋には記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」が立てられている。という話があるが、誤報でダイアナ妃が事故死する以前から存在する。

ダイアナの死が陰謀によるものだとする説(陰謀論) [編集]

「ダイアナ謀殺説」 [編集]

ダイアナ妃の最後の恋人は、武器商人でありロンドンの名門百貨店ハロッズおよびパリのリッツ・ホテルエジプト人オーナーモハメド・アルファイドの息子ドディ・アルファイドであった。事故当時も車に同席しており、彼も同時に死亡している。このことからアラブ世界などで(ヨーロッパ他でも)、早い段階から「イギリス情報局秘密情報部(MI6)により暗殺されたのだ」、陰謀だとする説(陰謀説)が広がった。動機としては、

  1. 事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の異父弟としての地位を利用される事を恐れた。
  2. 事故の数か月前にダイアナ妃の実母がカトリック改宗しており、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。
  3. アルファイドはアラブ人イスラム教徒であり、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。

などが取り上げられた。だが、これらの動機に対する証拠は一切無いとし「陰謀論に過ぎない」と見做している人々も多い。

事故の際、ダイアナの運転手は抗うつ薬を飲んでいた上、相当量の飲酒もしていたとする媒体もあった。直前に撮影された映像では、運転手が特に酩酊している様子がないことから、服薬と飲酒の程度については疑問が残っている。

だが、パパラッチの追跡を逃れようと、160キロ以上という非常に高速でパリ中心部の一般道路を走行した末、トンネル直前で合流路から進入してきたパパラッチが所有する白いフィアット・ウーノをよけようとして接触し、トンネル内の道路側壁に激突したという事実は証明されている[要出典]という。この白塗りウーノの運転者は未だに当局に出頭していない。

警察(政府側)による調査と発表 [編集]

事故現場で捜査に当たったパリ警視庁は否定しているが、「ダイアナは謀殺された」とする説は根強く残っている。また、ダイアナと交際していた王室職員の事故死についても、「あれは殺されたのだ」とダイアナ自身が語ったテープが最近公表されたことから、イギリス検察当局も再調査を開始しており、チャールズ皇太子にも事情聴取が行われた。審問は2004年1月に開廷された。

捜査は2006年12月まで続けられ、ロンドン警視庁前警視総監ジョン・スティーブンズが12月14日に約3年にわたる調査の結果を発表。「運転手の飲酒運転と無謀運転が事故の原因であり、殺害の陰謀はなかった」と暗殺説を否定した。同時に事故当時ダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定された。それでも一部には「ダイアナ謀殺説」を信じている人々は存在している。また、根拠に乏しい「説」をまるで事実かの様に報じるマスコミが内外に存在する。

2007年1月8日に、ダイアナの死因究明の審問が3年ぶりに再開された。検視官は2006年末の資料その他を基に、事故原因の特定を進めた。スティーブンス前警視総監は、「報告書が審問結果を予断しているわけではない」、と述べ、イギリス警察は、ダイアナの妊娠説とアルファイドとの婚約説をきっぱり否定し国民に報告した。

政府以外からの反応 [編集]

しかし、アルファイドがダイアナへのプロポーズのために婚約指輪をオーダーした高級宝石店が、2人の近日中の婚約の予定を認め、その証拠としてアルファイドが婚約指輪をピックアップした瞬間の防犯カメラの映像と、その指輪の写真を世界中に同時公開した。

政府側の見解では、最終的にダイアナの乗った車は「無謀な高速走行による事故」と断定され、陰謀説は否定された形となっている。しかし疑惑を完全に払拭したとはいえないこともあり、政府側ではない見解では、陰謀だとする説(「陰謀論」)を支持したり唱える人が後を絶たない状況である。

称号および敬称 [編集]

ウェールズ公妃ダイアナの紋章

チャールズ王太子との離婚に伴い、ダイアナは「Her Royal Highness the Princess of Wales(ウェールズ公妃殿下)」との称号および敬称は失ったが、「Diana, Princess of Wales(ウェールズ公妃ダイアナ)」と称することは許された。これは有爵者と離婚した女性が、離婚後も(再婚までは)前夫の爵位の女性形(ただし、離婚前とは異なり定冠詞はつかない)を一種の姓として名乗ることができる慣習によるものであり、王室側とダイアナ側での協議により決定された。2005年にチャールズと結婚したカミラは、プリンス・オブ・ウェールズの妻として自動的に(定冠詞付きの)「The Princess of Wales」(ウェールズ公妃)の称号を与えられたものの、国民のダイアナ人気に配慮しこの称号の使用を辞退し、夫の有する他の称号に基づいて「The Duchess of Cornwall」(コーンウォール公爵夫人)(スコットランドにおいては「The Duchess of Rothesay」(ロスシー公爵夫人)の称号を名乗っている。

イングランドにおけるダイアナの称号および敬称は、彼女の生涯にわたって次のように変わった。

  • ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Honourable Diana Frances Spencer (1961年7月1日-1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)
  • ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Lady Diana Frances Spencer (1975年6月9日-1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)
  • ウェールズ公妃殿下(スコットランドではロスシー公爵夫人) - Her Royal Highness The Princess of Wales (Her Royal Highness The Duchess of Rothesay) (1981年7月29日-1996年8月28日:結婚から離婚まで)
  • (元)ウェールズ公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales (1996年8月28日-1997年8月31日:離婚から死去まで)

主な文献 [編集]

  • アンドリュー・モートン、入江真佐子訳 『ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』 早川書房 1992年、新版1997年
    新版は、事故死直後に刊行、本人インタビューである事が明かされた。
  • アンドリュー・モートン、木村博江・石戸谷滋訳 『ダイアナ妃13年目の選択』 文藝春秋、1994年
  • ニコラス・デイヴィス、広瀬順弘訳 『ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱』 読売新聞社、1992年
  • コリン・キャンベル、平形澄子訳 『ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活』 イースト・プレス 1992年
  • ポール・バレル、川崎麻生訳 『ダイアナ妃 遺された秘密』 ワニブックス、2003年
    ダイアナ妃の元執事、未公開の手紙や写真を掲載。
  • トレバー・リース・ジョーンズ、高月園子訳 『そして薔薇は散った ダイアナ妃事故3年目の真実』 ショパン、2000年
    著者は事故時のボディーガードで唯一の生存者。
  • ティナ・ブラウン 『ダイアナ クロニクル 伝説のプリンセス 最後の真実』 中央公論新社、2011年
    菊池由美・笹山裕子・村上利佳・高橋美江訳(発行・マーブルトロン)

逸話 [編集]

ジョン・トラボルタとダンスを踊るダイアナ
バラ 「プリンセス・オブ・ウェールズ」(FL) ハークネス (1997) バラ 「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」(HT) J&P (1999)
バラ 「プリンセス・オブ・ウェールズ」
(FL) ハークネス (1997)
バラ 「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」
(HT) J&P (1999)
  • 1986年5月に夫のチャールズ皇太子とともに来日しダイアナ旋風が沸き起こった。東京・青山で行われたパレードでは約9万人が沿道に集まり2人を歓迎した。(しかし、その時には既に2人の関係は危機的状況に陥っていた)[2]
  • 1986年5月1日に日本のテレビ朝日系列で放送された特別番組『華麗!!ダイアナ妃のすべて見せます』の中で、少女時代のダイアナを主人公としたアニメ『虹のかなたへ! 少女ダイアナ物語』が放送されている。キャストはダイアナ(島本須美)、ダイアナの祖母レディ・ファーモイ(麻生美代子)、ダイアナの父(徳丸完)、ダイアナの母(上田みゆき)、チャールズ皇太子(堀内賢雄)等。その後のソフト化は行われていない。
  • 2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第3位となった。
  • ダイアナ」とはローマ神話での狩猟の女神の名前である。それを踏まえ、「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」とダイアナの弟のスペンサーは弔辞を述べた。
  • 1995年に、BBCテレビのインタビューで自らが自分の腕と足を傷つける、自傷行為を行っていた事、拒食・過食の状態にあったことを告白した。これによって自傷行為・過食症に対する関心は強まった。ただし、この番組のインタビュアーのマーティン・バシールは巧みな話術で知られ、ダイアナ本人が意図して言ったことなのかどうかは不明である。だが、現在知られる彼女のイメージはこの番組の影響が大きい。
  • また、チャールズの不倫とそれに対する自傷行為などを、自分に好意的なマスコミに対して自ら積極的に売り込んでいたことを暴露されている。
  • 首相官邸(ダウニング街10番地)に電話して「君主制反対」と言ったことがある。
  • ダイアナのロングヘアが途中からショートカットに変わったのはイギリス陸軍の特殊空挺部隊(SAS)のキルハウス(Kill House 家宅捜索訓練用モックアップ)を見学中、フラッシュバン(特殊閃光音響手榴弾)によって髪の先が焦げたためである。彼女は見学前に一切の事故に対しSASを免責とするという証書にサインしていたため、隊員が処分されることはなかった。
  • 離婚後、王族として自国のデザイナーの服を着る、という縛りがなくなり、ジャンニ・ヴェルサーチなどのトレンドに乗った服を身につけるようになり、ファッション・アイコンとして知られるようになった。のちに、息子ウィリアムの「ママは服をいっぱい持っているけど、着ないなら、チャリティーに寄付したら?」の一言で、所有するドレス類をチャリティー・オークションにかけ、収益金を慈善団体に寄付した。
  • 死後「イングランドのバラ」と呼ばれた彼女だが、亡くなる直前の1997年にイギリスのハークネス社がバラの品種を彼女に献呈。苗木の売上の一部をイギリス肺病基金に寄付することを条件に、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を下賜された。彼女は「このような素敵なバラに私の名前を付けてくださいましてありがとうございます。このバラの苗木の売上が肺病の患者とその研究に貢献できることを大変嬉しく思っています」と直筆の謝辞を贈っている。死後には、アメリカ合衆国のJ&P社で作られたバラの品種が、苗木の売上の一部を途上国支援のための「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」に寄付する条件で、「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」と命名することが許された。
  • 賛美歌"I vow to thee, my country"私は汝に誓う、我が祖国よ)が学生時代より好きだった事をウィリアム王子が知っていたため、王子の希望により、葬儀でも演奏された。またこの曲は結婚の時にも演奏された曲でもあった。

脚注 [編集]

  1. ^ 林 直樹 『よくわかる境界性パーソナリティ障害』〈主婦の友社〉2011年7月
  2. ^ http://wwwz.fujitv.co.jp/diana/biography.html [リンク切れ]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]