ダダイスム

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ダダイスム: Dadaïsme)とは、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。ダダイズム、あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。

歴史[編集]

第一次世界大戦の1910年代半ばに、ヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークなどで同時多発的かつ相互影響を受けながらその流れは発生した(初期ダダ)。

「ダダ」という名称は1916年トリスタン・ツァラが命名したため(辞典から適当に見つけた単語だったとも言われる)、この命名をダダの始まりとすることもある(ダダ宣言)。ツァラなどによってチューリッヒで行われた、特にチューリッヒ・ダダと言われる運動は、キャバレー・ヴォルテール(Spiegelgasse 1番地に往時の様子を偲ぶことができる)を活動拠点として参加者を選ばない煽動運動的要素も孕んでいた。1918年チューリッヒでツァラにより第2宣言がなされる。

同様の活動は各大都市ごとにあったが(→主要都市のダダ)、1919年頃にツァラはアンドレ・ブルトンに招聘されてパリに活動の場を移した(パリ・ダダ)。その後1922年頃にツァラとアンドレ・ブルトンとの対立が先鋭化し、1924年にはダダから離脱したブルトン派によるシュルレアリスムの開始(シュルレアリスム宣言)と前後してダダイズムは勢いを失った。

数年後にツァラとブルトンは和解し、ツァラはシュルレアリスムに合流した。1945年頃、シュルレアリスムも終息した。

影響[編集]

スイス・スタイル[編集]

戦後の復興期に、スイスでは4カ国語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)が併記される事情から、1950年代に入るとスイス・スタイル等の発展が始まり、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンポール・ランドが登場して、スイスは再びデザインの中心地に戻ってきた。これらの活動では、コーポレートアイデンティティなどの表現がみられる。1965年アーミン・ホフマンエミール・ルーダーバーゼル造形学校ドイツ語版英語版に教室を設立、30年間(1968–1999)にわたって教育を行なった。

ネオダダ[編集]

アメリカでは、ダダの流れを汲むニューヨーク・ダダニュー・バウハウスなどの土壌があったが、1960年代にダダイズム運動が復興し、ネオダダと呼ばれ、「反芸術」運動として隆盛した。のちのポップ・アートやコンクレーティズム(日本では具体派)、コンセプチュアリズムなどへ分岐していった。この意味で第二次世界大戦以後の現代美術の震源地となったといえる。

主要都市のダダ[編集]

写真・映画[編集]

ダダイスムに立脚した写真表現も存在する。第一次大戦と続く第二次大戦を通じて形成された虚無感を背景に、常識や秩序に対する否定や破壊といった感覚を表現の基調とする。

ダダと呼べるような写真作品を残している代表的な写真家美術家に、マン・レイクリスチャン・シャドマックス・エルンストジョン・ハートフィールドクルト・シュヴィッタースハンナ・ヘッヒラウル・ハウスマン北園克衛などが挙げられる。

ダダに特に多い写真表現としては、フォトモンタージュがある。単に写真を切り貼りしたというコラージュというような作品から、より緻密に1枚の作品に仕上げているものまであり、後者の作品は、シュルレアリスムの写真へもつながっていく。複数の写真を組み合わせることにより、比較的に容易に、意外性を生じさせたり社会風刺ができるところに、ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだ理由の1つがあると推測される。

ドイツの画家ハンス・リヒター1910年代半ばから1920年代にかけて、ダダイスム映画作品も手がけている。

日本におけるダダ[編集]

1920年大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイズム一面観」が掲載される[2]高橋新吉1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[3]1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊。[4]。翌年1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎壺井繁治岡本潤川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋新吉が詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)を発表する(辻潤が編集した)。「DADAは一切を断言し否定する」で始まる[5]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らがMAVOを結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助橋本健吉野川隆らによって創刊される。日本では1922年(大正11年)から1926年(大正15年)がダダ運動のピークとなった。ダダイズムは以降も、中原中也、坂口安吾、宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた[6]

  • 辻潤 - 高橋新吉よりダダイズムの運動を知り、自らをダダイストと名乗る。
  • 『ダダイズム』(1922年12月 - 1923年?) - 吉行エイスケ発刊。
  • 『赤と黒』(1923年1月 - 1924年6月) - 萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎、林政雄小野十三郎など
  • 高橋新吉 - 1923年詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)ほか。
  • MAVO (1923年7月 - 1925年) - 村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の五名が代表メンバー。高見沢路直(田河水泡)ものちに参加。
  • 『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年6月 - 1926年1月) - 編集人は玉村善之助、橋本健吉、野川隆。北園克衛、稲垣足穂、村山知義らも寄稿した。
  • 中原中也 - 高橋新吉に影響を受け、「ノート1924」に、46篇のダダ的な作品を記す。
  • 陀田勘助- 栃木県生まれ。本名、山本忠平。1922年、村松正俊と詩誌「ELEUTHERIA」、翌年から一年間は「鎖」、さらにその後継誌「無産詩人」を発刊した。1925年、アナーキズム系の詩誌「黒畑」を編集、労働運動に加わり1928年から共産党員となる。翌年検挙され獄中からら書簡に詩を書き続けたが、原因不明の獄死を遂げた。1963年渋谷定輔編『陀田勘助詩集』(国文社)が出版された。
  • 北園克衛
  • 坂口安吾 - ヴィトラックやツァラの詩を翻訳[7]

戦後は、1960年代ネオダダを標榜して高松次郎赤瀬川原平中西夏之らによるハイレッド・センターが「東京ミキサー計画」などのハプニングイベントを遂行した(→ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)。

なお、『ウルトラマン』に登場した三面怪人ダダのネーミングは、ダダイスムに由来するという。ちなみに、「ブルトン」の名を持つ怪獣もウルトラマンに登場している。

主な芸術家[編集]

List of Dadaistsを参照。

脚注[編集]

  1. ^ 一般に「東京ダダ」という呼称はないが、辻潤やMAVOの活動など主要な日本のダダイスムの活動は東京であったため、都市名を記した。
  2. ^ 池田誠「風博士におけるナンセンスとダダとの関係」武蔵大学人文学会雑誌32巻1号(2006)
  3. ^ 辻潤年譜
  4. ^  吉行和子「吉行エイスケ 作品と世界」国書刊行会,1997年、吉行淳之介『詩とダダと私と』作品社、1997年
  5. ^ 高橋新吉
  6. ^ 日本においてダダはシュルレアリスムよりもインパクトが強かったため、ヨーロッパにおけるようなダダからシュルレアリスムへの芸術運動のシフトが行われずに、強い影響力を持った。
  7. ^ 池田誠「風博士におけるナンセンスとダダとの関係」武蔵大学人文学会雑誌32巻1号(2006)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]