移動派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

移動派(いどうは;ロシア語: Передвижники)は、官立美術アカデミーの制約に抗議したロシアリアリズム美術の画家集団で、1870年に「巡廻美術展協会(または移動展覧会協会)」を発足させた。「移動派」という通称は、この集団がロシア各地で主催した巡廻美術展にちなんでいる。公共観念や美的観念においてヴィッサリオン・ベリンスキーニコライ・チェルヌィシェフスキーの影響を受けていた。

移動派は、1870年イワン・クラムスコイ、G.ミャソエドフ、ニコライ・ゲーヴァシーリー・ペロフらの首唱により、官製芸術の中心地であるペテルブルク美術アカデミーに対抗して、民主主義的な理想のために闘うロシアの前衛的な芸術集団として結成された。ペテルブルク美術アカデミーから追放された14人の芸術家により1863年に結成され、クラムスコイが指導者を務めた「美術家組合(Арте́ль худо́жников)」を前身としており、クラムスコイが引き続き移動派を指導した。

移動派は、1871年から1923年にかけて48回の移動展覧会を行なった。まずサンクトペテルブルクモスクワで展覧会を行なった後、キエフハリコフカザンオリョールリガオデッサなどの諸都市で展覧会を開いた。

銃兵処刑の朝 ワシーリー・スーリコフ

移動派の同人は、写実主義の美術家として、しばしば批判精神を以て社会生活の多角的な特徴を示した。移動派の美術は、民衆の貧しさだけでなく美しさを、また苦しみだけでなく力強さや忍耐力を描いたのである。移動派の人文主義的な芸術は、ロシア帝国専制政治を毅然と糾弾しており、ナロードニキ運動は共感を以て描かれた(たとえばイリヤ・レーピンの「宣伝家の逮捕」「自白の拒否」「待っていなかった」など)。移動派の美術で最も重要な意味をもつものは、社会生活(都市生活)であり、後には歴史画で民衆を描いた(たとえばワシーリー・スリコフの「銃兵隊処刑の朝」など)。

移動派は、その全盛期(1870年1890年)において急激に視野を広げてゆき、画像の自然さや自由さを強めていった。光を描くにあたって、時代がかった伝統的な暗い色調とは対照的に、より自由な態度から、明るめの色調を選んだ。移動派は画像の自然さを狙って、人間の環境とのかかわりを描写した。

松林の朝 シシュキンとサヴィツキーの共作

移動派の革新的で独創的な大衆芸術は、民主主義的・公共的・倫理的・美的に有効な教育手段として有効であり、移動派の革命的な意識が高まるのに手を貸しつつ、ロシアの解放運動の発展の重要な要素となった。

移動派は、帝国内のほとんどすべての才気煥発の人材を集結した。ウクライナラトヴィアアルメニアからの出身者も同人であった。同人の作品だけでなく、彫刻家マルク・アントコリスキーや、戦争画で名高いヴァシーリー・ヴェレシチャーギンらの作品も展示した。移動派の美術が発展する上で重要だったのは、評論家で民主主義者のウラディーミル・スターソフと、画廊を開設して移動派の作品を購入し、物心ともに同人への援助を惜しまなかった社会事業家のパーヴェル・トレチャコフの二人による庇護であった。

見知らぬ女 クラムスコイ画

移動派の権威と大衆的な影響力は、着々と伸びて行き、帝政も、移動派に対する当初の強圧的な駆け引きを止めざるを得なくなった。移動派の活動を従属させ、落ち込んだ美術アカデミーの官製芸術の評価を引き上げようとする試みがなされた。1890年代までにペテルブルク美術アカデミーの体制に移動派の同人も含まれるようになり、自然主義の画派に影響を見せるようになった。

世紀の変わり目になると、移動派は日常生活の反映としての深みを失い始める。ロシア画壇において象徴主義モダニズムの旗振り役となった『芸術世界』が1898年に創刊されると、その同人によって移動派は追い落とされた。移動派の影響力は崩れ、同人のうちある者は、プロレタリアによる労働運動の興隆を反映して、社会主義的な理念を示すようになった。

1923年の第48回巡廻美術展をもって移動派は公式に活動を終えた。同人の大半は革命ロシア美術家連盟に加入し、移動派の伝統にすがり付きつつ、大衆に分かりやすい、ソヴィエト当局の方針に忠実な美術作品の創作を熱望した。こうして移動派の同人の多くがソビエト美術に参与し、19世紀リアリズム美術の伝統を引き摺る社会主義リアリズム美術の形成に一役買ったのであった。

移動派の同人[編集]

外部リンク[編集]