国際ゴシック

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国際ゴシック(こくさい-)は、ゴシック美術の末期に、教皇庁や宮廷を中心に幻想的で細密な絵画が流行した状況に対して、ヨーロッパ共通のスタイルが成立したとして、フランスの美術史家により名づけられたもの[1]。国際ゴシック様式とも。

展開[編集]

国際ゴシックは、一般にアヴィニョンの教皇庁などで活躍したシエナ派の活動がきっかけで広まったとされることが多い[2]シエナ派は、北方のゴシック様式とイタリアジョットらの芸術を融合し、繊細な宗教画を描いた。中でもマルティーニ(1285年? - 1344年)はシエナ市庁舎壁画の聖母像(1315年)や受胎告知(1333年)を描き、また1340年からアヴィニョンに招かれて、当時ここに置かれていた教皇庁新宮殿建設の仕事に従事した。アヴィニョンの教皇庁には各国から多くの画家が訪れており、活発な交流が行われた。やがて14世紀後半から15世紀にかけて、ヨーロッパ各国の宮廷(北フランスフランドル、プラハ、カタルーニャなど)やアヴィニョン教皇庁を中心に、共通した様式の絵画が流行するようになった。特にプラハ神聖ローマ帝国皇帝のカール4世(1347年 - 1378年)の本拠として、整備が進められた。

絵画[編集]

写本は運搬も容易であるため、国際ゴシックの普及に果たした役割は大きい。

ルネサンスとの関係[編集]

イタリアではフィレンツェを中心にルネサンス美術が華開きつつあったが、ファブリアーノはフィレンツェで『東方三博士の礼拝』(1423年)を描いており、同時代的な現象であった。

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 元々は19世紀末にフランスの美術史家ルイ・クラジョ[1]ルネサンスのルーツはフランスにあると主張するために使い始めた言葉のようである
  2. ^ 「西洋美術史」美術出版社、1990年