カタルーニャ州

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カタルーニャ
Catalunya
Cataluña
Catalonha
Flag of Catalonia.svg Escudo de Cataluña.svg
州旗 紋章
Localización de Cataluña.svg
州都 バルセロナ
公用語 カタルーニャ語アラン語カスティーリャ語
面積
 – 総面積
 – 割合
第6位
 32,114km²
 6.3%
人口
 – 総人口(2005年)
 – 割合
 – 人口密度
第2位
 7,364,078人
 15.96%
 223.9人/km²
住人の呼称
 –カスティーリャ語
 –カタルーニャ語

 catalán/-ana
 català/-ana
自治州法 2006年6月18日
(改正前は1979年12月22日
ISO 3166-2:ES ES-CT
州歌 収穫人たち
議席割当
 – 下院
 – 上院
 47
 23
州首相 アルトゥール・マス (CiU)
公式サイト

カタルーニャ州カタルーニャ語Catalunya [kətəˈluɲə], カスティーリャ語Cataluña, アラン語Catalonha)は、スペイン自治州。州都はバルセロナ。自治州政府はジャナラリター・デ・カタルーニャ

スペイン北東部、ピレネー山脈の南に位置し、地中海に面する。スペイン国内ではバレンシア州アラゴン州に接する。ピレネー山脈でアンドラフランスミディ=ピレネー地域圏ラングドック=ルシヨン地域圏)に接している。

カタロニアは英語由来の表記。

カタルーニャの由来[編集]

カタルーニャ語で書かれたものとしては最古とされる12世紀の文書

カタルーニャ(Catalunya)という名が使われ始めたのは12世紀である[1]スペイン辺境伯領を成立させた小さな伯領の塊を指す言葉であった。この伯領は徐々にフランク王国から独立していく。言葉の起源には様々な解釈がされている。一般に広く通用している説は、カタルーニャは城の国であると示唆している[2]。カストラー(castlà)という言葉は城の主という意味に進化する[3]。この説は、カステーリャ(castellà、カスティーリャ人)と同義語であることを示唆する。

別の説は、Catalunyaが『ゴート人の土地』を意味するゴティア(Gothia)からきたとする。スペインの辺境伯領はGothiaとして知られる土地の一つであったからだという[4]。 批評家たちはむしろその説は単純すぎるとみなしている[5][6]

また、別の説はこの地方に定住していたイベリア人の一部族ラケタニ(en:Lacetani)の名だとしている。彼らはローマの影響を受けており、この名がやがてKatelans、Catalansへと進化していったとする[7]

歴史[編集]

アンプリアスに残るローマ浴場跡

古代[編集]

古代、イベリア半島の他地域同様に古代ギリシャ人がロザスへ入植した。その後カルタゴの植民地、次いでローマの植民地であった。中心都市であるバルセロナはもともとポエニ戦争を戦ったハンニバル・バルカを輩出したカルタゴの名家バルカ家の領土であり、都市名もバルカ家に由来する。属州ヒスパニアの一部となり、タラッコ(現在のタラゴナ)は主要都市の一つであった。

ローマ帝国崩壊後、4世紀に渡り西ゴート王国に支配される。8世紀、ムーア人のアルアンダルス支配下に入る。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキen:Abdul Rahman Al Ghafiqi)を敗死させたフランク王国が旧西ゴート領を征服、または旧西ゴート貴族と同盟して現在のカタルーニャ北端部を獲得した。795年、カール大帝スペイン辺境伯領として知られるようになる緩衝地帯をつくった。これは、後ウマイヤ朝のアルアンダルスとフランク王国の間の防御バリアーとして、地元貴族が別個に統治する弱小王国からなる州、セプティマニアを背後にしていた。

カタルーニャ君主国の成立[編集]

カタルーニャ文化は中世に発展し始めた。カタルーニャ北端にかたまる小さな伯領が、これらの弱小王国から生じた。中世以降は、フランク王国と臣従関係となったバルセロナ伯領が、その他の伯領を通婚による相続で獲得し、カタルーニャ最大の領主となった。バルセロナ伯は王を名乗らなかったものの実質的に独立し、現在フランスに含まれるルシヨン地方を含めてピレネー山脈の両側に支配を拡げ、カタルーニャ君主国を成立させた。987年、ユーグ・カペーをフランス王に承認しなかったカタルーニャは、フランスのくびきから脱した。1137年、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世アラゴン女王ペトロニーラが結婚し、以後バルセロナ家の下でアラゴン王国との同君連合が成立した。これはアラゴン連合王国などと呼ばれるが、アラゴンがカタルーニャを吸収したのではなく、2カ国は平等な立場であった。法制度・司法制度はそれぞれ独自のものを維持し続けた。

1258年のコルベイユ条約で、フランスは正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。13世紀にハイメ1世(カタルーニャ語ではジャウマ1世)の下でバレアレス諸島バレンシアへのレコンキスタを進めた。1410年、バルセロナ家のマルティン1世が後継を定めず急逝したために、候補者を選びアラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3カ国が投票するかたちを取ったカスペの妥協で、カスティーリャ・トラスタマラ家出身のフェルナンド・デ・アンテケーラ(フェルナンド1世)が新国王に選ばれた。アラゴン王家は14世紀から15世紀の間(バルセロナ家、のちトラスタマラ家)、優れた海運力を持ちシチリア王国ナポリ王国も支配し、地中海帝国を築いた。

自治[編集]

カタルーニャにおける議員と立法府の体系は、聖域(カトリック教会)と停戦会議(assemblees de pau i treva)で、最古の記録は1027年からあった。これらは当初、ビック司教ウリバ(1046年没)によって召集された特別な地方会議であった。ウリバは名の知られた扇動者であったが、会議は次第にバルセロナ伯の宮廷へ取り込まれていった。初のカタルーニャの法典(Usatges de Barcelona)は、これらの会議でなされた決定をもとにしてバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世によって発布された。

バルセロナ伯がアラゴン王を兼ねるようになってから、積極的な領土拡大が続けられ、アラゴン王・バルセロナ伯の経済力・軍事力には限界が見え始めた。特に経済危機や軍事拡大期に不十分となった。軍の確保と王家の収入安定は、宮廷の堅実な拡張及びその手続きの形式化を必要とした。それはやがてカタルーニャ議会、コルツ・ジャナラル・デ・カタルーニャ(corts general de Catalunya)またはコルツ・カタラーナス(Corts catalanes)と呼ばれるようになった。

コルツはカスティーリャにおけるコルテスと同じく、教会の代表、封建貴族、王立都市代表の3身分から構成されていた。コルツの主な機能は、王または臣下が提案した法の承認であった。コルツの開催時期は不規則で(王が新たな収入を欲したときに行われた)、会期の間に王の制定法を承認し、議会独自の法も承認した。1283年から、全ての法律にはコルツの承認が必要とされることが決められた。コルツが開かれない時期も王権を監視するため、永久的な議会の代表部を設置した。これがジャナラリター・デ・カタルーニャ(Generalitat de Catalunya、現在ではカタルーニャ自治州政府を指す)である。民族の意志が反映されるコルツと、君主に次いでカタルーニャ社会を統治する常設機関ジャナラリターは、カタルーニャの自治の象徴であった。

低迷の時代[編集]

1469年、アラゴン王子フェルナンド(後のフェルナンド2世)とカスティーリャ王女イサベル(イサベル1世として1474年に即位)が結婚した。フェルナンド2世がアラゴン王となった1479年が、カスティーリャとアラゴン王国が同君連合となった年とみなされている。しかしカタルーニャ=アラゴンがカスティーリャに吸収されたのではなく、あくまで君主同士の結婚による結びつきのみであり、アラゴン、カスティーリャの領域・慣例法・独自法は維持された。

当時のカタルーニャ=アラゴンと、カスティーリャの国力の違いは明白であった。14世紀、15世紀と続いた疫病の流行、内乱の結果、カタルーニャ=アラゴンは人口を激減させていた。地中海帝国の名を誇った交易は、オスマン帝国が台頭してからは以前とは比べものにならないほど縮小されていた。大航海時代の到来で、商業活動の中心は大西洋貿易へと移っていたことも災いした。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸植民、対アメリカ大陸貿易から、カタルーニャ=アラゴンは排除されていた。富はカスティーリャに集まり、レコンキスタの完了や王権強化に追われるフェルナンド2世はカスティーリャからカタルーニャ=アラゴンへ戻ることはまれで、副王を置いて統治を行っていた。徐々に政治的権力はアラゴンからカスティーリャへ、カスティーリャからスペイン帝国へと移っていった。

カタルーニャの自治全てを廃止した新国家基本法

1640年から10年余り続いた収穫人戦争(カタルーニャ反乱)は、スペインが世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える。この時、カタルーニャはフランス王国への編入を決議してフランス軍を迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権の保持を主張し、フランスの宰相であったリシュリューを辟易させたと言われている。これは、中世から続くカタルーニャの自治意識を踏まえれば、フランスの絶対王政に拒否感を示したのは無理のないことだった。また、フランス軍が進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍に協力しようとせず、呆れたフランス軍がカタルーニャの防衛を放棄して撤退したほどであった。要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こうが構わない」という考え方だったのである[8]。結局1651年から1653年にかけて、フェリペ4世の庶子フアン・ホセ・デ・アウストリアにより反乱は鎮定された。また、1659年のピレネー条約でカタルーニャ北部のルシヨンがフランスへ割譲され、今日のスペインとフランスの国境が定まった。

18世紀初めのスペイン継承戦争(1701年 - 1714年)では、カタルーニャはバレンシアと共にフェリペ5世に対抗し、カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の側について戦った。戦争は初めカール大公が有利だったが(第1次バルセロナ包囲戦第2次バルセロナ包囲戦)、1710年にフェリペ5世側が徐々に巻き返した。1711年ヨーゼフ1世が逝去すると後継問題が急浮上し、1713年ユトレヒト条約を締結すると、1714年にカール6世は神聖ローマ皇帝に即位し、スペイン王位を断念することになった。とり残されたバルセロナはスペイン・ブルボン軍に包囲され降伏(第3次バルセロナ包囲戦)、陥落の1714年9月11日は、国としてのカタルーニャが死んだ日とされている。1716年に布告された新国家基本法en:Nueva Planta decrees)により、自治権を剥奪され単なる州の地位に転落した。この後、スペイン・ブルボン家のもとで中央集権体制が推進される。その過程でカスティーリャ語の導入(官庁・学校でのカタルーニャ語の禁止)、カスティーリャ人官僚や資本の移入が急激に進められ、カタルーニャはスペインの構成州に変えられたかのようだった。

近代・現代[編集]

18世紀以降はスペイン国内で最も早く産業革命が起こった。きっかけは、これまで禁止されていたカタルーニャ=新大陸間の自由貿易が解禁されたことである。最初、羊毛の織物業、鉄鋼業、製紙業の生産が増加した。次に、イギリスのように、綿織物工業が近代化の起爆剤となった。1760年、カルロス3世はバルセロナに貿易委員会を設置した。栽培技術の向上からワイン生産が伸びて輸出がさかんとなった。石炭や鉄といった原材料の資源に乏しいカタルーニャが、スペインが次々と海外領土を失い新大陸貿易の市場を失っても生産を伸ばし続けられたのは、代替となった蒸気機関のおかげであった。リョブレガート川やテル川、フルビア川沿いには、水力タービンを備えた製糸工場が立ち並んでいた。1832年、紡績と織の工程を全て蒸気機関で行うスペイン初の工場が、バルセロナに完成した。

富を蓄え、自信をつけたカタルーニャ人の間で、自らのカタルーニャ人としての出自を誇るという意味から、カタルーニャ語・カタルーニャ文化の復活(ラナシェンサ、カタルーニャ・ルネサンスとも)が叫ばれ、ロマン主義の影響を受けた文化芸術活動が盛んになる。20世紀初頭、フランスのアールヌーボー流行を受けカタルーニャではモデルニスモと呼ばれる芸術運動が華開く。ガウディは正にこの時代の人間である。 1931年に、ボルボン朝の中央集権的王政が打倒され、共和政にかわり民主的な新しい憲法が成立した。共和国政府は、カタルーニャ地方、バスク地方ガリシア地方を独自の言語や文化を持つ地域として大幅な自治権(自治政府)を認めた。しかし、1933年末のスペイン総選挙では、右派が勝利した[9]。翌1934年右派のアレハンドロ・レルーの反動的組閣人事が発表されると、ジャナラリター・デ・カタルーニャ首班のリュイス・クンパニィスは、10月6日ジャナラリター庁舎のバルコニーで「カタルーニャ共和国」の成立を宣言した。 1936年、バルセロナで人民オリンピックが開催される数時間前にスペイン内戦が勃発、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍が3年かかってスペイン第二共和政政府を倒した。内戦後のフランコ時代には、カスティーリャ語以外の言語の公での使用が大幅に制限され、カタルーニャ愛国主義と結びつく公の活動の類は禁止された。例として、アナーキズム、社会主義、民主主義、共産主義に関する本を出版したり、単に公の場でこれらの思想を議論することも禁止された。この抑圧は、政府機関や公開行事におけるカタルーニャ語の使用禁止となって現れた。カタルーニャ語での民俗行事・宗教行事は再開され、大目に見られていた。マスメディアでのカタルーニャ語使用は禁止されていたが、1950年代から劇場内で使用が許可された。また、独裁政権下でもカタルーニャ語での出版は続けられた。

フランコの没後1978年に新憲法が制定され、新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章において、カタルーニャ語はカスティーリャ語とともにカタルーニャ自治州の公用語とされた。

2006年6月18日、自治権の拡大を問う自治憲章改定案への住民投票が行われ、74%の圧倒的多数の賛成で承認された。改定案は、独立ではなく地方分権を拡大するものであった。同州は、税、司法、行政の分野でそれまで以上の権限を持つことになった。

しかし、自治では不十分であるとして、カタルーニャでは独立を求める声が一定数ある。特に、ソブリン危機に端を発する経済危機の状況下で、経済政策においてカタルーニャが他の自治州よりも不当に扱われているとの思いから、独立勢力は勢いを得つつある[10]。2012年11月25日のカタルーニャ州議会選挙では、独立を主張する4つの政党が合計87議席と、全体の約3分の2を獲得している[11]。9月11日は「カタルーニャの日」という記念日であり、この日には独立を求めるカタルーニャ市民が100万人単位で集まり、人間の鎖を作って政府に独立を求めている[12]

政治[編集]

ジャナラリター(政府)[編集]

カタルーニャ自治州議会

カタルーニャ州は、バスク州ガリシア州アンダルシア州と並んで、スペイン国内で高度の自治が与えられている。カタルーニャ自治憲章は、制定法の基礎であるスペイン憲法に次ぐ基本法である。カタルーニャ州の自治政府はバルセロナに置かれたジャナラリター・デ・カタルーニャ(Generalitat de Catalunya)として政治的に組織される。現在のジャナラリターは、自治州議会(Parlament)、自治州首相(President)、内閣(Govern)からなる。

中世に誕生したジャナラリターは、スペイン継承戦争後に公布された新国家基本法(1716年)によって廃止された。20世紀には第二共和政の下で復活したが、スペイン内戦により再び廃止され、1978年の新憲法によって再び復活した。

公安[編集]

カタルーニャは、起源が18世紀に遡る独自の警察組織、モスズ・ダスクアドラ(ca:Mossos d'Esquadra)を持っている。1980年以降、モスズ・ダスクアドラはジャナラリターの指揮下にある。1994年以降、スペイン国内全体を統括するグアルディア・シビル、スペイン内務省統括の国家警察(es:Cuerpo Nacional de Policía)に替わって拡大した。グアルディア・シビル及び国家警察は、カタルーニャ州内での港湾、空港、沿岸、国境線、税関、身分証明、他の組織の軍事監視といった特定の機能行使のため、一部の代理部を残している。

司法[編集]

州内でのほとんどの裁判制度は、国の司法機関が処理している。法制度は、カタルーニャでは分けて処理されるいわゆる民法を例外として、スペイン国内一定である。

民族主義[編集]

2014年11月9日に独立を問う住民投票が予定されている。ただし、スペイン国の憲法裁判所は住民投票を認めない判決を既に出している。

県と都市[編集]

カタルーニャ州は4つの県から構成される。 (2010年1月1日現在 出典:IEC(カタルーニャ統計局)、人口は2011年推計値)

県都 面積(km²) 人口(人) 人口密度(人/km²) 自治体数 単一居住地域数[13]
バルセロナ県 バルセロナ 7,726.4 5,526,536 713.3 311 1,312
ジローナ県 ジローナ 5,905.0 756,293 127.5 221 1,091
リェイダ県 リェイダ 12,168.4 441,858 36.1 231 1,020
タラゴーナ県 タラゴーナ 6,308.2 810,564 128.2 184 475
32,108.0 7,535,251 234.0 947 3,898

主な自治体 (2010年)[編集]

41のクマルカ(カタルーニャの郡)と947の自治体がある。

順位 自治体 人口
1 バルセロナ バルセロナ県 1,619,337
2 ルスピタレート・ダ・リュブラガート バルセロナ県 258,642
3 バダローナ バルセロナ県 218,886
4 タラサ バルセロナ県 212,724
5 サバデイ バルセロナ県 207,338
6 タラゴーナ タラゴーナ県 140,184
7 リェイダ リェイダ県 137,387
8 マタロー バルセロナ県 122,905
9 サンタ・クローマ・ダ・グラマネート バルセロナ県 120,060
10 レウス タラゴーナ県 106,622

ジローナ県の県都であるジローナは96,236人で11番目である。上記以外の主な都市には、フィゲーラストゥルトーザがある。

4プロビンシア(provincies)から7ベゲリア(vegueries)へ[編集]

2010年7月27日カタルーニャ州議会でベゲリアス法案が賛成多数で可決された(賛成:カタルーニャ社会主義者党党(PSC)、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)、ICV-EUiA、反対:CiU、国民党他)。現行のスペインの50県体制、カタルーニャについては4県体制はスペイン支配の象徴でもあり、今春から与党提議の7 vegueriesへの移行法案が議論されていた。Vegueriaとは中世から1716年のDecreto de Nueva Planta de 1716が施行されるまでの間とられていた制度である。それによると、現在カタルーニャ州は4つの県(Provincia)、バルセロナ県、タラゴナ県、ジローナ県、リェイダ県に分けられているが、新制度では7つのVegueria、バルサローナ(Barcelona)、カタルーニャ・サントラル(Catalunya Central)、ジローナ(Girona)、リェイダ(Lleida)、タラゴーナ(Tarragona)、テーラス・デ・レブラ(Terres de l'Ebre)、アルト・ピリネウ(Alt Pirineu)に分けられるとされる。

地理[編集]

カタルーニャの地理区分:
. ピレネー山脈
橙色. 準ピレネー山脈
. セントラル盆地
. カタルーニャ海岸山脈

カタルーニャ州は、3つの地理区分に分けることができる。フランス国境ともなっている北のピレネー山脈、地中海沿岸にあるカタルーニャ海岸山脈(es:Cordilleras Costero Catalanas)と平地に挟まれた部分、中央部のセントラル盆地(es:Depresión Central Catalana)である。

カタルーニャ州内の最高峰は、ピレネー山中にあるピカ・ダスタツ(es:Pica d'Estats、3,143m)である。18世紀までカタルーニャ最高峰とされていたカニゴー山(Canigó、フランス語ではカニグー山)は、2,785mである。カタルーニャの州内を、西から東へと大河エブロ川が流れ、ムンシアーで地中海へ注ぐ。

気候[編集]

ピレネーの丘陵にあるタウイ
地中海に面したリゾート地、カダケス

カタルーニャ州の気候は変化に富んでいる。タラゴナ県バルセロナ県ジローナ県のある海岸部は人口が多く、地中海性気候である。リェイダ県バルセロナ県内陸部を含む内陸地方は、ほとんどが大陸性地中海性気候(en:continental Mediterranean climate)の様相を見せる。ピレネー山脈の峰峰は山岳気候か、高い頂上では高山気候である。

地中海地方では、夏は乾燥して暑く、海風は湿気を含んでいる。夏季の最高気温は30℃前後となる。夏季はピレネー山脈地方で雨が多い時期にあたり、しばしば嵐となる。冬は涼しいか、その状況のために寒い。ピレネー山脈では、しばしば降雪があり、時には海岸部のような標高の低い場所でも見られる。春と秋は全体として典型的な雨季にあたる。

内陸部は、夏に海岸部より暑く乾燥する。気温は最高で35℃を超え、幾日か40℃に達することもある。海岸では夜になると気温14℃から16℃と涼しくなる。霧は谷や平野では通常見られず、特にありえるのはセグラ川などで冬の風物詩となっている雨氷である。

経済[編集]

カタルーニャは、スペイン経済の主要な牽引役であり、第三次産業の比率が高い。[14]

2007年、カタルーニャ州のGDPは2025億9百万ユーロで、一人当たりのGDPは24,445ユーロだった。[15]。この年、GDPの成長は3.7%であった[16]世界金融危機の状況では、2009年のカタルーニャ州は景気後退を受けGDP-2%に減少すると予想されている[17]

貯蓄銀行はカタルーニャの主要な収入源の一つである。スペイン国内の貯蓄銀行46行のうち10行がカタルーニャ発祥で、ラ・カイシャ(La Caixa、カタルーニャ語の発音ではラ・カッシャ、Caja de Ahorros y Pensiones de Barcelona)はヨーロッパ初の貯蓄銀行である[18]。最初のプライベート・バンクはカタルーニャ発祥であり、サバデイに本店を置くバンク・サバデイはスペインのプライベート・バンクで第4位である[19]

2004年のバルセロナ株式市場は、約2050億ユーロを取引した。これはマドリード株式市場に次いでスペイン2位の取引高である

カタルーニャ人世帯の最大の支出は住居費であり、2005年12月の調査によると、カタルーニャはマドリードに次いで『住宅価格の高い州』である。平均で1平方mあたり3,397ユーロである。

2012年に表面化したスペインの経済危機では、経済・財政難に直面。米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズは、同年8月31日、自治州政府の資金調達が難しくなるとして、同州の長期信用格付けを引き下げ投資不適格級(BB)とした[20]。 

人口統計[編集]

カタルーニャ州の人口分布図

カタルーニャ州の2008年の公式人口は7,354,411人で、そのうちの移民割合は概算で12.3%であった。バルセロナ都市地方(ルスピタレート・ダ・リュブラガートバダローナクルナリャー・ダ・リュブラガートなど)の面積2,268平方km圏内には、3,327,872人が暮らし、バルセロナの半径15km以内におよそ170万人が暮らしている[21][22]

1900年のカタルーニャ人口は1,984,115人であったが、1970年には5,107,606人であった[23]。これは、1960年代から1970年代にかけて起きた大規模な国内人口移動で生じた増加である。スペイン内陸部から産業の発達した都市への人口流入が起き、カタルーニャではアンダルシア州ムルシア州エストレマドゥーラ州からの人口流入の波がやってきた。

言語[編集]

サロウ岬

カタルーニャ州ではロマンス語の一つであるカタルーニャ語が話されており、カスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語とされている。またリェイダ県のピレネー山脈中のアラン谷では、オック語の一つガスコーニュ語の方言であるアラン語が話されており、同地域ではカスティーリャ語、カタルーニャ語とともに公用語とされていた。2010年9月22日「アラン地域のオクシタン語、アラン語に関する法律」(Llei de l'occità, aranès a l'Aran)が自治州議会で可決され、アラン語は、カスティーリャ語、カタルーニャ語とともにカタルーニャ州全体の公用語に規定された[24]

フランコ政権下では公教育の場からカタルーニャ語が排除され、公の場全てで禁止され、カタルーニャ人の親が自分の子供にカタルーニャ語の名を与えることすら許されなかった。

現在、カタルーニャ語は自治州政府、その管轄下の公共機関で使用される言語である。基礎的な公教育の場では、週3時間のスペイン語授業を除いてカタルーニャ語が使われる。ビジネスにおいては、カタルーニャ語で全ての情報(メニューやポスターなど)を掲示するよう求められている(従わないと罰金が科せられる)。アラゴン語やカスティーリャ語にはいずれも情報表示義務はない。

罰金の導入は、カタルーニャ語使用拡大のため1997年の言語法で導入された[25]。法律ではカタルーニャ語とカスティーリャ語が公用語であると保証されている。公私に渡る個人の活動で偏見なしに市民によって使われている[26]。たとえジャナラリターが常にコミュニケーションにカタルーニャ語を使用し、一般市民に対してカタルーニャ語で通知が伝えられたとしても、市民が望めばカスティーリャ語でジャナラリターから情報を得ることができる[27]

1978年の民主化以降、自治政府による積極的な言語政策を通じて、カタルーニャ語は短期間に再び社会の幅広い層で使われるようになった。地元民はカスティーリャ語とのバイリンガルであるが、地元社会に溶け込みたいのであればカタルーニャ語の習得は必要といえよう。

カタルーニャ文化[編集]

民俗[編集]

ラ・セウ・ドゥルジェイでの巨人と石頭

人間の塔(カステーヤル、en:Castellers)は、カタルーニャ民俗の証に数えられる。チーム(colles castelleres)の競い合いによって人間の塔がつくられる。18世紀、カタルーニャ南部で生まれたとされている。ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

サルダーナ(en:sardana)は、カタルーニャの民俗舞踊として非常によく知られており、その他の舞踊にはバリ・デ・バストン、モイシガンガ、南部のホタが知られる。カタルーニャ音楽の一種アバネレスは、特に夏季のコスタ・ブラバで歌われている。スペインを代表する舞踊とされるフラメンコは人気がなく、むしろルンバがより一般的に好まれている。

より規模の大きな祝祭で、カタルーニャの大衆文化が常に存在している。巨人(gegants)と石頭(capgrossos)のパレード、コレフォック(祭りの締めくくりに街頭で爆竹の一種を打ち鳴らすこと)である。ベルガのパトゥムは、ユネスコ無形文化遺産に登録されている[28]

カタルーニャの象徴[編集]

カタルーニャは以下のようなシンボルを持つ[29]

カタルーニャの旗
サン・ジョルディの日に花を買い求める人々
  • カタルーニャの旗、またはサニェーラ(Senyera)は、カタルーニャ・アラゴン・シチリアなどを支配したアラゴン王家の紋章[30]を基礎にしたものである。金色の地に4本の赤い横線がひかれている。これは1932年以降公式の象徴となっている。
  • カタルーニャの日[31]は、9月11日で祝日とされている。普通はラ・ディアダ(La Diada)と呼ばれる。スペイン継承戦争末期、1714年の第3次バルセロナ包囲戦でブルボン軍にバルセロナが陥落した日を記念している。
  • カタルーニャの国歌『アルス・サガドース』(Els Segadors収穫人たち)は、古くから歌い継がれてきた曲で、1899年にエミリ・グアニャベントにより現在の詞に編成された。1993年2月25日に施行された法律で公式歌とされた[32][33]。この曲は1639年から1640年に、当時のフェリペ4世の圧制に不満を爆発させたカタルーニャが独立を求め、収穫人戦争が起きたことから生まれた。鎌を振れ(Bon cop de falç)と繰り返し歌われる。
  • サン・ジョルディの日(La Diada de Sant Jordi)は、毎年4月23日、カタルーニャ中の全ての市町村で広く祝われる祝祭である。この日、人々は本とバラの花を交換し合う。カタルーニャ人は、民族の誇りを表すためにサニェーラを街頭や家々に掲げる。
  • FCバルセロナは、カタルーニャの国際的に有名な象徴である。本拠地カンプ・ノウは、前述したフランコ政権下でカタルーニャ語の使用が許可された数少ない場所として、いまなお市民の心のよりどころとなっている。長きに渡ってレアル・マドリードとライバル関係にあり、2チームの対戦はエル・クラシコと呼ばれ毎シーズン注目を集めている。

2010年7月28日、カタルーニャ自治州議会において、自治州内における闘牛禁止法案が、賛成68票、反対55票、棄権9票の結果、可決された。法律は2012年1月1日より施行される[34]。これに関してはカタルーニャ州南部(タラゴナ県)で盛んな牛の角に松明を付ける祭り(Toro embolado)やコレボウス(Correbous)についての是非の問題も沸き起こった[35]

カタルーニャの食文化[編集]

カタルーニャの料理は、地中海式ダイエットを基本としている。フランスのピレネー=オリアンタル県アンドラといったカタルーニャ文化圏でも食されている。多様で非常に多くの農産物(トマト、ナス、ニンニク、赤ピーマン、アーティチョーク、マメなど)、海産物(イワシ、マグロ、タラ)、オリーブ油豚肉ハムソーセージラム肉が使われる。大まかに分けて内陸部が豚肉を中心とした料理、海岸部が魚介を中心とした料理とされる。

  • アイオリソース
  • ロス・スケツ・オ・ラ・サルスエラ(los suquets o la zarzuela) - 魚介の煮込み
  • アスクデーリャ(escudella)- シチューの一種。豆、ジャガイモ、キャベツの他、ボティファッラというソーセージと肉を入れるのが特徴
  • カルスターダ(Calçotada) - タラゴナ特産のネギCalçotを直火で焼いてソースを付けて食べる
  • パン・コン・トマテ(カタルーニャ語ではpa amb tomàquet) - パンにトマトをすりつけ(ニンニクをすりつけるところもある)、塩とオリーブ油で食べる。肉料理の付け合わせにされる。
  • クレマカタラーナ - 洋菓子
  • パネリャット(Panellets) - 11月1日のカスタニャーダ祭りで用意される伝統菓子。小麦粉、砂糖、粗挽きアーモンド、卵、ジャガイモ(またはサツマイモ)で作る。

国内ではリオハにつぐワインの産地で、とくに、フランスのシャンパーニュ(シャンペン)と同じ方式で作られるスパークリングワインカバはよく知られている。

文学[編集]

観光地と世界遺産[編集]

カタルーニャ州では、次のものが世界遺産に登録されている。

バルセロナはカタルーニャでの観光の中心ともなっている。モンセラートの修道院には多くの観光客が訪れる。

参考文献[編集]

  • 立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
  • 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中公新書、2000年
  • 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー』中央公論社、1996年

脚注[編集]

  1. ^ Enciclopèdia Catalana online: Catalunya ("Geral de Cataluign, Raimundi Catalan and Arnal Catalan appear in 1107/1112") in Catalan
  2. ^ La formació de Catalunya
  3. ^ Curiositats sobre Catalunya i el català
  4. ^ Bulke, Ulrich. (1900). A History of Spain from the Earliest Times to the Death of Ferdinand the Catholic. Longman, Greens and Co. London, UK
  5. ^ La Catalogne : son nom et ses limites historiques. Histoire de Rousillon.
  6. ^ [1]
  7. ^ El Misteri de la Paraula Cathalunya
  8. ^ 色摩力夫『黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー』
  9. ^ 共和国になって選挙権を得た女性票が右派を支持した
  10. ^ Daniel BOSQUE (2013年9月14日). “カタルーニャの独立機運をたきつける経済的不満、スペイン”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/article/economy/2968159/11346552 2013年9月14日閲覧。 
  11. ^ “スペイン・カタルーニャ州議会選で独立派が勝利、住民投票の実施は微妙”. Reuters. (2012年11月27日). http://jp.reuters.com/article/domesticEquities2/idJPTK824387820121126 2013年9月14日閲覧。 
  12. ^ “カタルーニャ独立運動 募る政府への不満”. NHK. (2012年11月1日). http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/11/1101m.html 2013年9月14日閲覧。 
  13. ^ 単一居住地域とはカスティーリャ語でEntidad singular de poblaciónで、人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが。地方、過疎地域などは、一つの自治体の中に、いくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる
  14. ^ European Structural Funds in Spain (2000-2006)
  15. ^ [2] CIDEM
  16. ^ [3] CIDEM
  17. ^ [4]
  18. ^ Ranking of Savings Banks
  19. ^ [5] Profile of "Banc Sabadell" in Euroinvestor]
  20. ^ “カタルーニャ州、投資不適格=米S&Pが2段階下げ―スペイン”. 時事通信社. (2012年9月1日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201209/2012090100081 2012年9月23日閲覧。 
  21. ^ "Catalunya arriba a set milions d'habitants", Diari El Punt.
  22. ^ "Catalans grapple with migrant influx", BBC News. 3 January 2007
  23. ^ http://www15.gencat.net/pres_catalunya_dades/AppPHP/cat/poblacio.htm (カタロニア語)
  24. ^ El aranés se convierte en la tercera lengua oficial de Cataluña” (スペイン語). ABC (2010年9月22日). 2013年12月15日閲覧。
  25. ^ Catalonia's linguistic law
  26. ^ Second article of Catalonia's linguistic law
  27. ^ Ninth article of Catalonia's Linguistic Law
  28. ^ Patum de Berga
  29. ^ Statute of Catalonia (Article 8)
  30. ^ その起源はバルセロナ伯カタルーニャ君主国)が用いた紋章にある。なお、フランスのプロヴァンスの紋章も起源を同じくする。
  31. ^ Law 1/1980 where the Parlamient of Catalonia declares that 11th of September is the National Day of Catalonia
  32. ^ Law 1/1993 National Anthem of Catalonia
  33. ^ Law 1/1993 in the BOE
  34. ^ Las provincias. Cataluña prohíbe las corridas de toros
  35. ^ El Parlament blinda los 'correbous' dos meses después de prohibir los toros” (スペイン語). El Mundo (2010年9月23日). 2012年6月14日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]