ナバラ州

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ナバラ州
Comunidad Foral de Navarra
Nafarroako Foru Komunitatea
—  自治州  —
ナバラの旗
ナバラの紋章
紋章
座標: 北緯42度49分 西経1度39分 / 北緯42.817度 西経1.650度 / 42.817; -1.650
国名 スペイン
州都 パンプローナ
ナバラ県
行政
 - 種別 自治権委譲(立憲君主制憲政下)
 - 議会 ナバラ州政府
 - 首相 ジョランダ・バルシーナ (ナバラ住民連合(UPN))
面積
 - 計 10,391km2 (4,012mi2)
域内順位 11位 (スペイン中2.2%)
人口 (2008)
 - 計 619,114人
 - 人口密度 60.22人/km² (156人/mi²)
 - 順位 15位 (スペイン中1.4%)人
ナバラ人の呼称
 - カスティーリャ語 navarro(男性形)、navarra(女性形)
 - バスク語 nafar, napartar
 - 英語 Navarrese
ISO 3166コード NA
自治州法 1982年8月16日
公用語 非バスク語圏 : スペイン語
混合圏 : スペイン語とバスク語
バスク語圏 : カスティーリャ語とバスク語
議席割り当て
ナバラ州議会
下院 5人(350人中)
上院 5人(264人中)
ウェブサイト ナバラ州政府(バスク語)

ナバラ州(スペイン語: Navarra)またはナファロア州(バスク語: Nafarroa)は、スペイン自治州。一県一州の自治州でありナバラ県(かつてのパンプローナ県)単独で構成される。州都はパンプローナ(バスク語:イルーニャ)。スペイン語では第二音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。英語ではナヴァール(Navarre, 英語 /nəˈvɑr/)。

正式名称はナバラ特権州(スペイン語 : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ、スペイン語: Comunidad Foral de Navarra, [komuniˈðað foˈɾal de naˈβara], バスク語 : ナファロアコ・フォル・コムニタテア、バスク語: Nafarroako Foru Komunitatea, [nafaroako foɾu komunitatea])であり、特権(フォラル、フエロ)とはかつてカスティーリャ王国が各地域に認めていた地域特別法のことである。西はバスク州、南はラ・リオハ州、東はアラゴン州に接し、北はフランスアキテーヌ地域圏に接している。ナバラとはバスク語で「森」または「オークの林」という意味である[1]

地理[編集]

人口[編集]

自治体別の人口密度
(赤色=高密度 / 緑色=低密度)

ナバラ州は272のムニシピオ(基礎自治体)からなる。人口の約1/3が州都パンプローナ(195,769人)に住んでおり、人口の約半分がパンプローナ都市圏(315,988人)に住んでいる[2]。パンプローナに続くのはトゥデラバラニャインバリェ・デ・エグエスブルラーダスペイン語版シスール・マヨールスペイン語版(13,197人)、エステーリャタファリャアンソアインスペイン語版ビリャーバ/アタラビアスペイン語版である。人口上位10自治体のうち、パンプローナを含めて7自治体がパンプローナ都市圏の自治体である。272のムニシピオのうち、人口499人以下が158自治体、500人-999人が33自治体、1,000人-9,999人が72自治体、10,000人以上が10自治体である。ナバラ県(ナバラ州)の人口の31%が県都(州都)パンプローナに居住している。スペイン全土の県都集中率の平均は32%であり、ナバラ県(ナバラ州)の県都集中率は50県中22位である。

1900年の人口は307,999人だったが[2]、2012年には644,566人となった。人口密度は62人/km2であり、スペイン全体の人口密度92人/km2を下回っている。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している[2]。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加している[2]

順位 自治体 人口 地域
1. パンプローナ 196,955 パンプローナ都市圏(中部)
2. トゥデラ 35,369 河岸部(南部)
3. バラニャイン 21,120 パンプローナ都市圏(中部)
4. バリェ・デ・エグエス 18,414 パンプローナ都市圏(中部)
5. ブルラーダ 18,248 パンプローナ都市圏(中部)
6. シスール・マヨール 14,120 パンプローナ都市圏(中部)
7. エステーリャ 13,947 河岸部(南部)
8. タファリャ 11,201 河岸部(南部)
9. アンソアイン 10,976 パンプローナ都市圏(中部)
10. ビリャーバ/アタラビア 10,308 パンプローナ都市圏(中部)

地形[編集]

地形・生物気候学の観点から、ナバラ州は山岳部、中央部、河岸部の3地域に分けることができる[3]。北のピレネー山脈から南のエブロ川流域の平原まで、ナバラ州の地理は変化に富んでいる。地理学者のアルフレド・フロリスタはナバラの景観を「ミニチュア大陸」と表現した[3]

山岳部はナバラ州北部を占め、さらに湿潤地帯、ピレネー渓谷、ピレネー前縁盆地に分けられる。州北西部の湿潤地帯は平均気温が摂氏15度、年間降水量が約1,400mmであり、広葉樹、牧草、シダ類などの植生がみられる[3]。州北東部のピレネー渓谷は、激しい降雪と気温の変化が特徴のピレネー山脈山麓から、西に向かうにつれて温暖な気候が特徴の亜海洋性気候に変化している[3]。ピレネー渓谷北部ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる[3]。ピレネー前縁盆地の植生はカシ類やカシワ類などの地中海広葉樹が目立つ[3]。ナバラ州の最高峰は標高2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、その他の主要な山には、チャマンチョイア、カルチェラ、ララ=ベラグア山塊、アライス山、ウンツエコ・アリア、レイレ山、ペルドン山、モンテフラ、エスカバ、オリ山、コデス山、ウルバサ、アンディア、アララール山地などがある。

山岳部と河岸部の中間には中央部があり、山地や丘陵などがみられる北部から広大な平野が広がる南部までが緩やかに推移している。中央部の中でも気候は大きく変化し、東側は大陸性気候であり、北側は西岸海洋性気候、南側は大陸地中海性気候である。中央部にはパンプローナやパンプローナ都市圏がある。河岸部はエブロ川の本流や支流の流域であり、エステーリャトゥデラというふたつの主要都市がある。エステーリャ河岸にはなだらかな尾根や向斜面谷が見られ、ドゥデラ河岸には構造平原や沖積低地が広がっている[3]。トゥデラの北方にはバルデナス・レアレスと呼ばれる、自然公園に指定されている半砂漠地帯が広がる。河岸部の年降水量は400mm足らずであり、山岳部に比べて日照時間が長いほか、夏季と冬季の気温差が激しい[3]

ナバラ州の主要な河川には、エステーリャを流れるエガ川、パンプローナを流れるアルガ川、サングエサを流れるアラゴン川などがある[3]。これらの河川はいずれもエブロ川の支流であり、北から南に流れてエブロ川に注いだ後は、南東に流れてやがて地中海に注ぐ[3]。スペイン語とバスク語の言語境界線付近に分水嶺があり、州北西部の一部の地域からは、ウルメア川ビダソア川やレイツァラン川が、南から北に流れて大西洋に注いでいる[3]

気候[編集]

北部の湿潤地帯は大西洋の影響を受けて西岸海洋性気候(Cfb)であり、中央部の亜乾燥地帯は夏季の降水量が少ない地中海性気候(CsaまたはCsb)であり、南部の乾燥地帯は降水量が少なく冷涼なステップ気候(BSk)である。北部と南部では気候に大きな差がみられるが、概して乾燥する夏季、降水量の少なさ、シエルソと呼ばれる北風を特徴としている。

歴史[編集]

先史時代・古代[編集]

古代ローマの影響を示す硬貨(紀元前150-紀元前100年頃)

ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代マドレーヌ文化英語版期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[4]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物ドルメンメンヒルストーンサークル)が見られ、南部には鉄器時代の集落が発見されている[5]

その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した[6]。紀元前133年のヌマンティア英語版の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)を建設した[7]。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり[8][9]ブドウオリーブ小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル、アラゴン川アルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった[8]。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている[10]

中世[編集]

「ナバラ王国の心臓」と称えられたレイレ修道院

西ゴート族フランク族もこの地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を築いた[11][12]。905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、10世紀半ばにはレオン王国、アラバ、リバゴルサ、カスティーリャ王国、カリフ国などと婚姻関係を結んだ[13]。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった[14]。1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域を次々と従えて王国の地位を強固なものとし[15][11]ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[16]。850年以後にサンティアゴの巡礼路巡礼者の人気を得たが、サンポール峠かシーズ峠でピレネー越えをした巡礼路はナバラで合流し、プエンテ・ラ・レイナエステーリャの町を通過した。巡礼者の往来は11世紀にピークに達し、ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。

1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかったが、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した[17]。ナバラ王国時代にはアラブ美術が持ち込まれ、トゥデラモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている[5]。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた[18]。1200年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世にビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われ、ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となったが[19]、1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる少数ながら象徴的な200人の騎士たちがカトリック勢力の勝利に貢献し、レコンキスタ(再征服運動)においてイスラーム勢力に決定的な打撃を与えた[20]

1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まったが[21][22]、ナバラ王国は強力なフエロ(特権法や特権制度)の大部分を維持した。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した[23]。歴代の総督はナバラ人に快く思われず、フランスから召喚を受けた際に代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補を議会が拒んだこともあった[23]。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された[23]。女王フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった[24]。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った[24]。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた[24]。1379年には、トゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領された[24]。1418年にはカルロス3世オリテに王宮を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた[25]。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した[26][27]。1479年には近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が合体してイベリア半島がほぼ統一され、イスラーム勢力化にある地域を除けば、ナバラ王国はスペインでほぼ唯一の独立した王国となった[28]。スペイン王国が1492年にグラナダを手に入れると、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた[28]

近世[編集]

1512年にはカスティーリャ王フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し[29][30]、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された[31]。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ[32]。ナバラ王位にあったカタリナフアン3世ピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ね、フランス側のナヴァール王国は1791年まで存続した。

17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった[33]。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ[33]。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった[33]。1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた[34]。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており[35]、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された[36]

18世紀初頭には、スペインの各地方の中でナバラだけがいまだに「王国」と呼ばれていた[37]。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した[38]。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった[38]。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた[38]。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった[39]

フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争(半島戦争)が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者はナバラ、スペイン・バスクフランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した[40]。ナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した[40]。1813年にスペイン独立戦争が終結すると、スペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した[41]スペイン独立戦争後の1833年には第一次カルリスタ戦争が勃発したが、1839年のベルガラ協定でカルリスタ側の敗北が決定した。スペイン政府は行政改革の一環としての設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名してフエロが撤廃され[42]、数百の町がスペインに統合されて特権法憲章が制定された[43]。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動に移転すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が台頭した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。国内の不安定な政治情勢の中、1870年代の第三次カルリスタ戦争中にはエステーリャを首都としてバスク政府が設立されたが、アルフォンソ12世のスペイン王権の復興と反撃によってカルリスタの敗北が決定し、戦争後のスペイン政府の中央集権化の政策はナバラに大きな影響を与えた。1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダと呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(4つは1つ)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。

近代[編集]

1890年代のガマサダ後にパンプローナに建てられた記念碑

カルリスタがカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域ではバスク民族主義が台頭したが、ナバラでは状況が異なった[44]。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮した[45]。1931年にバスク地方が提出したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)は、カトリックを中心に据えたために共和国議会で同意が得られなかった。1933年に再度作成されたバスク自治憲章案はカトリックを中心に据えず、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県の住民投票で承認されたが、ナバラ県では反対票が過半数に達した。1931年から1939年の第二共和政下では左派と右派の勢力の分裂が続き、スペイン国内は政治的に混迷を極めた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた[46]。1936年7月18日にはエミリオ・モラ将軍がパンプローナで反乱を起こし、3年に渡るスペイン内戦が勃発した。この軍事反乱後には、強硬派によって要注意人物に指定された個人に対するテロ活動が相次ぎ、進歩的な共産主義者に加え、軽度の共産主義者や、政権にとって単に不都合なだけの人物でさえもテロの対象となった[47]。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、ファシスト風敬礼に適応した聖職者らは自発的に謀略に加担し、また要注意人物殺害の任務にさえ関与した[48]。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した[49]。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。バスク民族主義者はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長でありCAオサスナの共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。

スペイン内戦後の1939年にはフランシスコ・フランコによる独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた[50]。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタというふたつの主要な派閥に群れをなした[50]。一方、教皇至上主義の環境は宗教団体に肥沃な土壌を提供し、オプス・デイは1952年にパンプローナにナバラ大学を設立してより大きな影響力を持った。1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した[51]。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した[51]。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた[51]。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県ではバスク祖国と自由(ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。

現代[編集]

1975年のフランシスコ・フランコ死後にスペインが民主化の時期を迎えると、ナバラ県の地方政府と良好な関係を保っていた政治家はアドルフォ・スアレスが率いる民主中道連合(UCD)に参加したが、1979年にはハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴとヘスス・アイスプン・トゥエロを主導者として ナバラ住民連合(UPN)が設立され、民主的なスペイン1978年憲法で規定された過程への参加を拒否し、地方特権の維持を主張した。この一方で、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県はバスク民族主義者や左派政党が主流であり、1978年のゲルニカ憲章(バスク自治憲章)でナバラ県も含めた4県での自治州の設立を謳っていたが、ナバラ住民連合はバスク州への参加を拒否し、住民投票でも反対が過半数に達した。ナバラ県政府は1982年に独裁時代の制度的枠組みを引き継いだ自治憲章を策定し、ナバラ県単独でのナバラ州が成立した。バスク民族主義者や少数派の進歩的な勢力が要求した改革は住民投票によって批准されなかった。1987年にはナバラ州初の公立大学として、ナバラ州立大学が設立された。

政治[編集]

ナバラ州議会の議席分布(2011年-)

フランシスコ・フランコ独裁政権の終焉後、1982年にナバラ自治州憲章が制定され、ナバラ県は17自治州のひとつとなった。教育、社会サービス、住宅開発、都市開発、環境保護などがナバラ州の政治機関の責任下に置かれている。また、17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州とバスク州は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められる[52]。他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、国民党(PP)の前身)と提携する地方政党であるナバラ住民連合(UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得したバスク民族主義左派政党も一定の強さを示した[51]。1980年には民主中道連合(UCD、後に解散)から、1984年にはスペイン社会労働党(PSOE)のナバラ支部であるナバラ社会党(PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、ミゲル・サンスが15年間に渡って州首相を務めた。現在の州首相は2011年にナバラ住民連合から選出されたジョランダ・バルシーナ(女性)である。右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、バスク民族主義を標榜する政党もかなりの得票を得ており、北部のいくつかの地域ではこれらの政党が多数派である。これらの政党はナバラ州とバスク州の合併を指針に挙げているが、スペインにあるすべての政党同様に、ナバラ社会党もナバラ住民連合もこの動きに反対している。

ナバラ州首相
# 期間 名前 出身政党 備考
第1代 1979-1980 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民連合(UPN-AP) ナバラ県首相
第2代 1980-1984 フアン・マヌエル・アルサ・ムニュスリ 民主中道連合(UCD) 任期中にナバラ州成立
第3代 1984 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民連合(UPN-AP)
第4代 1984-1991 ガブリエル・ウライブル ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第5代 1991-1995 フアン・クルス・アリ ナバラ住民連合(UPN-PP)
第6代 1995-1996 ハビエル・オターノ ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第7代 1996 フアン・クルス・アリ ナバラ民主主義者統一(CDN)
第8代 1996-2011 ミゲル・サンス ナバラ住民連合(UPN-PP)
第9代 2011- ジョランダ・バルシーナ ナバラ住民連合(UPN) 女性首相
ナバラ州議会議長
# 期間 名前 出身政党 備考
1979-1983 ビクトル・マヌエル・アルベロア ナバラ社会党(PSN-PSOE) ナバラ州成立以前
第1代 1983-1987 バルビーノ・バドス ナバラ住民連合(UPN-AP)
第2代 1987-1991 イグナシオ・ハビエル・ゴマラ ナバラ住民連合(UPN-PP)
第3代 1991-1995 ハビエル・オターノ ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第4代 1995-1999 マリア・ドローレス・エグレン ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第5代 1999-2003 ホセ・ルイス・カステホン ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第6代 2003-2007 ラファエル・グレア ナバラ住民連合(UPN-PP)
第7代 2007-2011 エレーナ・トーレス ナバラ社会党(PSN-PSOE)
第8代 2011- アルベルト・カタラン ナバラ住民連合(UPN)

経済[編集]

1960年代までナバラ県の経済は第一次産業が中心だった[53]。山岳部では牧畜が行われてトウモロコシテンサイなどが栽培され、中央部の盆地にはヒマワリアブラナなどの加工用プランテーションが広がり、エブロ川流域にはオリーブブドウの畑が広がっている[53]。1960年代には工業化が始まり、当初は繊維業や皮革業などが中心だったが、1973年には金属工業が第二次産業分野の首位となった[53]。金属工業からはフォルクスワーゲンの工場と部品工場を中心とする自動車産業が派生し、1980年代後半には自動車産業が優勢となった[53]。2000年代には第二次産業の中で自動車産業と機械鉱業が抜きんでており、主要都市の工業団地にその他の産業の工場が存在する。ペラルタ/アスコイエン(英語版)は金属工業、エステーリャはグラフィックアート、アリョ(英語版)やレイツァ(英語版)サングエサは製紙業、レサカ英語版やベラデビダソア(英語版)は冶金工業、オラスティ/オラサグティア(英語版)はセメント、カスカンテ(英語版)は繊維業といった具合に、第二次産業は州各地に散らばっている[53]。また、2000年代には風力発電光電池太陽光発電などのエネルギー産業が著しく発展し、再生可能エネルギーは州内の電気エネルギー消費の60%を賄っている[53]。ナバラ貯蓄銀行とパンプローナ貯蓄銀行が合併して誕生したナバラ銀行はスペイン有数の金融機関である[53]

社会[編集]

言語[編集]

地域別のバスク語話者の割合

スペイン語はナバラ州全域で公用語であり、バスク語もバスク語が話される地域では公的な地位を有している[54]。1986年、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された。「バスク語圏」ではバスク語が普及しており、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており[54]、「混合圏」でもバスク語は公的な地位を得ているが、「非バスク語圏」では公的な地位を得ていない。このため、州北西部では広くバスク語が話されている一方で、南部では完全にスペイン語が話されている。州都のパンプローナは二言語の混合地域である。2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者であり、7.6%が能動的でないバスク語話者であり、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している[55]。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16-24歳では20%以上を記録している[55]。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した [56]

教育[編集]

1952年にはローマ・カトリック教会に属するオプス・デイが、パンプローナナバラ大学を創設した。ナバラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部はエコノミスト誌やフィナンシャル・タイムズ紙によって世界トップクラスの評価を受けている[57]。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には腫瘍学病理生理学神経科学・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された[58]。ナバラ大学では人文科学や社会科学の研究も盛んである[58]。1987年にはナバラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合してナバラ州立大学が創設された[58][59]。ナバラ州立大学は革新的な学科構造を取り入れており、大学研究を企業発展につなげることを目標としている[58]。パンプローナとトゥデラにはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する[58]

ナバラ州では16歳未満の全児童生徒の就学が実現しており、教育施設は公立学校か私立学校を選択できる[58]。特にバスク語が公用語である地域ではバスク語教育の導入が進められており、公立学校・私立学校のそれぞれでバスク語を学んだり研究したりすることができる[58]。高等音楽教育を行う学校としてパブロ・サラサーテ音楽学校があり、7校の市立音楽学校とその他の私立音楽学校の頂点に位置する[60]。高等教育機関の他には、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒醸造学研究所、穀物・牛技術研究所などの研究機関が存在する[58]

交通[編集]

州内には2005年時点で3,636kmの道路があり、うち209kmが有料または無料の高速道路、540kmが一般道路、457kmが州道、2,427kmが地方道である[61]。パンプローナを中心として、主要な道路はウエスカサラゴサログローニョビトリア=ガステイスサン・セバスティアンイルンに通じている[61]トゥデラ=パンプローナ=アルトサス/アルサスアスペイン語版を結ぶ軸、トゥデラ=ログローニョを結ぶ軸、パンプローナ=エステーリャ=ログローニョを結ぶ軸の3本の軸が道路交通の中心である[61]。環状道路がパンプローナ都市圏を取り巻いており、都市圏の交通渋滞を緩和している[61]

サラゴサとビトリア=ガステイスを結ぶ路線が州唯一の鉄道路線である。トゥデラからタファリャを通ってパンプローナまで北に向かいパンプローナで西に向きを変えて、アルトサス/アルサスアに至る[61]。主要都市ではエステーリャを通る鉄道路線は存在しない。トゥデラ近郊ではサラゴサ方面行きとログローニョ方面行きの路線が、アルトサス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面行きとサン・セバスティアン方面行きの路線が分岐している。パンプローナから南6kmにはパンプローナ空港があり、マドリード=バラハス空港バルセロナ=エル・プラット空港などに向けて定期便が運行されている[61]。2010年には滑走路が延長されて2,405mとなり、また新ターミナルが建設された。

文化[編集]

料理[編集]

ロンカル(チーズ)

ナバラ州は大西洋にも地中海にも面していないが、ピレネー山麓の河川で獲れたマスサケなどの川魚が料理に用いられることがあり[62]、ナバラの伝統料理としてマスのナバラ風[注 1]がある[62][63]。肉料理にはカルデレーテ(羊肉またはウサギ肉と野菜の煮込み)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳部ではヤマウズラキジバトウサギなどのジビエ(狩猟鳥獣)が食材として用いられる[62][63]

VPプラド・デ・イラチェ(英語版)やVPアリンサノ(英語版)やVPパゴ・デ・オタスなどのワインアスパラガスピキーリョ英語版(赤ピーマン)、ロンカル(チーズ)、イディアサバル(チーズ)、パチャラン英語版(食後酒)にはDO(原産地呼称制度)が導入されている[53]。河岸地方で生産されるコゴーリョ(小型レタス)、アーティチョークグリーンピースソラマメなどもナバラの代表的な野菜であり[62]、またトゥデラモモ、エチャウリのサクランボなどの果物などもある[62]リンボクの実を熟成させたパチャランは家庭でも作られており、モスカテル(甘口ワイン)はデザートとしても選択される[62]

祭礼[編集]

ナバラ州のすべての自治体では守護聖人を称える祭礼が開催される[64]謝肉祭(カーニバル)、クリスマスのオレンツェロ英語版(大酒飲みの炭焼き職人)、サンパンツァルなども受け継がれており、祭礼中のエンシエロ(牛追い)やヒガンテスとカベスドス(巨大人形)は多くの町の祭礼に見られる要素である[64]。山岳部ではチストゥ英語版(3本穴の縦笛)や小太鼓、中央部や河岸部ではバグパイプなどの楽器が祭礼を盛り上げる[64]。個々の祭礼では、7月に行われるパンプローナのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)、ランツの謝肉祭、レサカのオレンツェロなどが有名であり、サン・フェルミン祭は世界中から観光客を集める[64]。3月には州内外からフランシスコ・ザビエルが生まれ育ったハビエル城に巡礼者が集まり、聖週間(イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼が行われる[64]

芸術[編集]

ナバラの拠点となる博物館は1956年に開館したナバラ博物館であり、またパンプローナ大聖堂の修道院別館には司教区博物館がある[60]ロンセスバーリェス、コレーリャ、トゥレブラス、トゥデラ、ハビエル城内部などに宗教芸術に関する博物館があり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗学博物館が、イラチェにはフリオ・カロ・バローハ民俗博物館が、ロンカルにはフリアン・ガヤレ邸博物館が、エステーリャ王宮内にはグスターボ・デマエストゥ博物館がある[60]。美術館には、アルスサにあるホルヘ・オテイサ美術館、アリスクンのサンチョテナ美術館、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館などがある[60]。ナバラ総合図書館は50万冊以上の蔵書を持っている[60]

大規模ホールにはナバラ州立バルアルテ会議コンサートホール、パンプローナ市立ガヤレ劇場などがあり、コンサート、オペラ、演劇などが行われる[60]。音楽コンクールには声楽のフリアン・ガヤレ国際コンクール、パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクールなどがあり、音楽団体にはパブロ・サラサーテ交響楽団、パンプローナ合唱団、パンプローナ室内合唱団、パンプローナ交響楽団などがある[60]

19世紀に現れたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダはロマン主義・伝統主義の著作家であり、20世紀初頭には小説家のフェリシュ・ウラバイェンが非順応主義を表した[60]。詩人のアンヘル・ウルティアは雑誌「アルガ川」を創刊し、カルロス・バオスなどの作品が掲載された[60]。他の20世紀の著作家にはアンヘル・マリア・パスクアル、ホセ・マリア・イリバレン、ラファエル・ガルシア・セラーノ、ホセ・マリア・サン・フアンなどがいる[60]。現代作家にはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる[60]エウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究協会)がバスクに関する調査研究や文化振興を行っている[60]アンダルシア州アストゥリアス州カンタブリア州カスティーリャ・イ・レオン州カタルーニャ州エストレマドゥーラ州ガリシア州バレンシア州には同郷州人会がある[60]

スポーツ[編集]

ペロタのプレー中のティティン3世

ナバラではサッカー狩猟ウィンタースポーツペロタ・バスカなどのスポーツが行われており、サッカーとペロタ・バスカは観るスポーツとしても人気がある[65]。サッカーのCAオサスナ、ハンドボールのSDCサン・アントニオ英語版(2013年解散)、ペロタ・バスカなどのプロチームがあり、フットサルのホタFS英語版も全国リーグで実績を残している[65]。ペロタ・バスカの競技場は伝統的に教会に隣接していることが多く、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国選手権シングルス1部優勝5度)、アイマル・オライソラ(全国優勝4度)、バリオラ(全国優勝1度)、エウギ(全国優勝3度)、ルベン・ベロキ(バルセロナ五輪金メダル)などの名選手を輩出している[65]。バスクの伝統的スポーツであるアイスコラリ(丸太切り競技)、アリハソツァイレ(石の持ち上げ競技)なども活気がある[65]

出身人物[編集]




脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ トゥルチャ・ア・ラ・ナバラ。スペイン語: Trucha a la Navarra。背開きにしたマスの中に生ハムを挟んでオーブンで焼いた料理であり、ナバラ地方独特の料理である。出典は辻勲『専門料理全書 スペイン料理』辻学園調理技術専門学校、1999年、pp.68-69「ますのナバラ風」

出典[編集]

  1. ^ 石塚秀雄『バスク・モンドラゴン 協同組合の町から』彩流社、1991年、p.54
  2. ^ a b c d ナバラ州政府(2005)、p.21
  3. ^ a b c d e f g h i j k ナバラ州政府(2005)、pp.11-19
  4. ^ ナバラ州政府(2005)、p.25
  5. ^ a b ナバラ州政府(2005)、p.26
  6. ^ バード(1995)、pp.19-20
  7. ^ アリエール(1992)、pp.41-43
  8. ^ a b バード(1995)、pp.25-28
  9. ^ 大泉(2007)、p.9
  10. ^ バード(1995)、pp.31-34
  11. ^ a b ナバラ州政府(2005)、p.59
  12. ^ Collins, Roger (1990). The Basques (2nd ed.). Oxford, UK: Basil Blackwell. ISBN 0631175652. , p. 140-141.
  13. ^ バード(1995)、pp.45-46
  14. ^ バード(1995)、pp.48-53
  15. ^ アリエール(1992)、pp.46-50
  16. ^ Collins (1990), p. 181.
  17. ^ Collins (1990), pp. 214-215.
  18. ^ バード(1995)、pp.64-68
  19. ^ Collins (1990), pp. 185.
  20. ^ バード(1995)、pp.68-70
  21. ^ バード(1995)、pp.97-99
  22. ^ Collins (1990), pp. 232.
  23. ^ a b c バード(1995)、pp.106-113
  24. ^ a b c d バード(1995)、pp.116-120
  25. ^ バード(1995)、pp.121-127
  26. ^ Monreal/Jimeno (2012), pp. 10-15.
  27. ^ バード(1995)、pp.127-130
  28. ^ a b バード(1995)、pp.132-135
  29. ^ 萩尾ほか(2012)、pp.71-75
  30. ^ Monreal, Gregorio; Jimeno, Roldan (2012). Conquista e Incorporación de Navarra a Castilla. Pamplona-Iruña: Pamiela. ISBN 978-84-7681-736-0. , pp. 30-32
  31. ^ 渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年、p.36
  32. ^ バード(1995)、pp.157-160
  33. ^ a b c バード(1995)、pp.201-208
  34. ^ バード(1995)、pp.190-199
  35. ^ バード(1995)、pp.166-168
  36. ^ バード(1995)、pp.168-170
  37. ^ バード(1995)、pp.212-215
  38. ^ a b c バード(1995)、pp.216-220
  39. ^ バード(1995)、pp.165-166
  40. ^ a b バード(1995)、pp.224-228
  41. ^ バード(1995)、pp.228-230
  42. ^ Collins (1990), p. 275.
  43. ^ ナバラ州政府(2005)、p.62
  44. ^ バード(1995)、pp.281-282
  45. ^ バード(1995)、pp.282-284
  46. ^ Paul Preston (2013). The Spanish Holocaust: Inquisition and Extermination in Twentieth-Century Spain.. London, UK: HarperCollins. p. 182. ISBN 978-0-00-638695-7. 
  47. ^ Preston, P. 2013, p. 179-181
  48. ^ Preston, P. 2013, p. 182-184
  49. ^ Preston, P. 2013, p. 183
  50. ^ a b Navarra. Historia: Franquismo”. EuskoMedia Fundazioa. 2014年9月16日閲覧。
  51. ^ a b c d バード(1995)、pp.305-309
  52. ^ 萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』明石書店、2012年、pp.151-155
  53. ^ a b c d e f g h ナバラ州政府(2005)、pp.71-76
  54. ^ a b Parlamento de Navarraナバラ州議会
  55. ^ a b IV. Inkesta Soziolinguistikoa Gobierno Vasco, Servicio Central de Publicaciones del Gobierno Vasco 2008, ISBN 978-84-457-2775-1
  56. ^ V Inkesta Soziolinguistikoa”. Euskal Autonomia Erkidegoko Administrazioa Hezkuntza, Hizkuntza Politika eta Kultura Saila (2013年7月1日). 2014年5月31日閲覧。
  57. ^ Incoming”. ナバラ大学. 2014年11月5日閲覧。
  58. ^ a b c d e f g h ナバラ州政府(2005)、pp.76-80
  59. ^ Origins and former statutes”. ナバラ州立大学. 2014年11月5日閲覧。
  60. ^ a b c d e f g h i j k l m ナバラ州政府(2005)、pp.34-38
  61. ^ a b c d e f ナバラ州政府(2005)、pp.67-70
  62. ^ a b c d e f ナバラ州政府(2005)、pp.47-51
  63. ^ a b ナバラ Navarra”. 日西観光協会. 2014年11月8日閲覧。
  64. ^ a b c d e ナバラ州政府(2005)、pp.38-44
  65. ^ a b c d ナバラ州政府(2005)、pp.53-55

参考文献[編集]

  • ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年
  • 大泉陽一『未知の国スペイン –バスク・カタルーニャ・ガリシアの歴史と文化-』原書房、2007年
  • ナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局ナバラのすべて ナバラ州政府、2005年(第6版)
  • レイチェル・バード『ナバラ王国の歴史』狩野美智子訳、彩流社、1995年

外部リンク[編集]

  • 公式サイト (バスク語)(スペイン語)(英語)(フランス語)
  • ナバーラスペイン政府観光局 (日本語)
  • ナバラのすべてナバラ州政府政府広報官オフィス-コミュニケーション総局企画出版局、2005年(第6版)(日本語)