ログローニョ

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Logroño

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Logrono 2005.jpg
Flag of La Rioja (with coat of arms).svg ラ・リオハ州
Flag of La Rioja (with coat of arms).svg ラ・リオハ県
面積 79.57km²|79.57km² km²
標高 384m
人口 150,071人(2,008年) 人 ()
人口密度 1,888人/km² 人/km²
守護聖人 San Bernabé、Virgen de la Esperanza
Logroñoの位置(スペイン内)
Logroño
Logroño
スペイン内のログローニョの位置
Logroñoの位置(ラ・リオハ州内)
Logroño
Logroño
リオハ県内のログローニョの位置

北緯42度27分55秒 西経2度27分0秒 / 北緯42.46528度 西経2.45000度 / 42.46528; -2.45000座標: 北緯42度27分55秒 西経2度27分0秒 / 北緯42.46528度 西経2.45000度 / 42.46528; -2.45000

ログローニョLogroño)は、スペイン北部のラ・リオハ州北端に位置する都市。同州の人口の半分が集中している。

エブロ川に面しているため、歴史的に古くからサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のような道が交差する地であった。また、中世にはイベリア半島の諸王国がその領有を巡って争った。過去数百年間、ゆっくりとではあるがログローニョは国内他州からの移民を受け入れて、顕著な人口増加の傾向を見せている。

由来[編集]

市内を流れるエブロ川

ログローニョという地名の語源は不明である。965年、パンプローナ王ガルシア・サンチェス1世がこの地をサン・ミジャン修道院に寄進したと記した文献に、ルクロニオ(Lucronio)という地名となって登場している。1095年、特権(es:Fuero)が授けられた際には、一度名付けられたイリョ・グロニオ(illo Gronio)という名は除かれ、ログロニオ(Logronio)の名であった。これについては、古いケルト語で『階段』または『一歩』を意味するグロニオに、後からラテン語化されたことを示すイリョがついたものとされている。グロニオという名については、当時の人々がエブロ川をしばしば往復していたためについたと信じられている。

称号[編集]

ログローニョの市旗は、聖アンデレ十字を描いている。これは、ボルゴーニャ家のシンボルであった名残である。この十字が授けられたのは1237年、バエサ攻略(1227年11月30日、聖アンデレの聖名祝日)のログローニョ住民の功を讃え、カスティーリャ王フェルナンド3世が授けた。

フアン2世は、1431年2月7日、パレンシアを都市に昇格させた。同月20日にはバリャドリッドが都市とされた。フアン2世は1444年7月20日、ログローニョに対して「非常に高貴な」(muy noble)と「非常に王に忠実な」(muy leal)という称号をコルテスにおいて授け、これは今も市旗に残されている。この言葉を授けられたのには理由があった。ナバラ王フアン2世軍の攻撃にさらされたログローニョ住民が、『数多くの戦禍、死と掠奪、大火、損害と抑圧』に遭遇しても、カスティーリャ王への忠心を示し続けたからである。

1523年7月5日、カルロス1世は、1521年にフランス軍の侵攻にログローニョが抵抗したことを讃え、その紋章に3本のユリの花を描くことを許した。

1854年12月、コレラ流行の際の住民の振る舞いを讃え、イサベル2世はログローニョにエクセレンシア勲章を授けた。

地理[編集]

都市の中核はエブロ川右岸にある。地理的には川谷の中間にある平地であるが、丘や580mの標高のカンドラス山がある。実際、ログローニョの地理的状況のために、トラックや鉄道輸送において東のサラゴサや西のブルゴスへ行くのは容易である。しかし、北にカンタブリア山脈、南にイベリコ山地があるために、南北へ向けてのアクセスには制限がある。

気候[編集]

ログローニョの気候表

ログローニョの気象は、エブロ川谷に位置するために緩和されており、典型的な地中海性大陸気候(es)である。年間の最低気温は13.5℃である。年間平均降雨量は400mmである。

歴史[編集]

ウァレイア遺跡

古代[編集]

ローマ時代に築かれたウァレイア(Vareia、現在は市の一地区)がログローニョの起源とされる。当時の住民は、カンタブリアからやってきたケルティベリア人であった。

大プリニウスは、ウァレイアの存在と、航行可能な川としてエブロ川について記述を残している。ウァレイアはアウグストゥス帝の軍から物流支援を受けており、ウェスパシアヌス帝時代にムニキピウムとされた。中世から11世紀頃まで、カンタブリア山脈とエブロ川とをつなぐ場所に橋が架かっており、ローマ属州ヒスパニア他都市との貿易用に利用された。ローマ時代に築かれたのは、マンティブレ橋であった(現在のアラバ県との県境近く)。現在ログローニョ近郊には、カエサルアウグスタ(現在サラゴサの一部)からカラグリス(現在のカラオラ)とをつなぎ、ヒスパニア・タラコネンシスへ向かっていたローマ道が残っている。

中世[編集]

中世の間、ログローニョの位置の重要性は、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴンの3王国の国境が交わる地であったのと同様に、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が通っていたという事実にも起因した。人口が増加し戦略的要所となって、レオン王アルフォンソ6世は1095年、ログローニョへ特権を授けた。この特権は本質的にアルフォンソ6世以前から行使されており、ログローニョ周辺地域の大部分で行われた。

現在のサンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ準司教座聖堂への初めての言及は、1196年に遡る。ローマ時代に起源を持つ、円形の建物としてだけ名前が残っている。ルネサンス様式の現在の建物はカトリック両王時代のもので、15世紀から18世紀にかけ建設された。1454年当時の人口は、711人であった。

近代[編集]

レベリン門

コムネロスの反乱中期の1521年、内乱に乗じて侵攻してきたフランス王フランソワ1世軍とログローニョ市民は対峙した。年代記によると、アスパロト将軍率いる30000人の兵がログローニョを包囲したという。5月25日に始まった戦闘で、市民隊長ベレス・デ・ゲバラが防衛隊を組織した。サンティアゴ教会にて市の全体集会が召喚され、アスパロト将軍に以下の書簡が送られた。"ログローニョは敵に門を開くことはない。住民一人一人が戦う意志を持っている。我々はログローニョを死守する。"

5月24日に設置された防護柵と29回の砲弾によって、戦闘員と非戦闘員におびただしい数の死者が出た。幾つかの戦闘が試みられた。6月10日にはフランス軍を混乱に陥れようと、勇敢なログローニョ市民と戦闘員たちが野営するフランス軍に奇襲を仕掛けた。軍全体が攻撃者への恐怖と混乱状態になり、兵士たちは20000人の兵を従えたナヘラ公マンリケ・デ・ララが接近してきたことに気づいた。スペイン兵を前に彼は怖じ気づき、アスパロト将軍は封鎖線を下げるよう命じた。そして逃げまどう自軍とともに敗走した。6月11日、市は勝利を祝い、"聖バルナベへの崇敬"を誓った。6月11日が聖バルナベの聖名祝日であったからである。カルロス1世はログローニョの勝利を記憶するためとして、市の紋章に3本のユリを加えるよう命じた。この法律は1523年7月5日に成立した。現在も残るレベリン門のアーチは、フランス軍に包囲された市の古い門を飾っていたもので、ログローニョ包囲戦から1年後の1522年から建設された。

1523年、カルロス1世はナヘラとログローニョを訪問した。この時に、王に対する貢献の証拠として、レベリン城壁の扉、ナヘラのカルロス1世の扉はどちらも国王の紋章で飾られた。同時に、パラシオ教会内にあるカバリェロス・デ・サンタ・マリア王立礼拝堂、サンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ準司教座聖堂、サンティアゴ教会にも国王の紋章を掲げた。

1592年、フェリペ2世は、フェリペ王子とイサベル・クララ・エウヘニア王女を伴ってログローニョを訪問した。王家のラ・リオハへの厚遇は、市場や祝祭への譲歩に現れた。この時代、ログローニョに初めてイエズス会の神学校が設立された。ヒューマニズムと民衆文化に的が絞られた証として、この学校では後世まで貴重品だった紙が使われていた。

1570年には、ログローニョで異端審問法廷が開かれた。年代記によると、1610年11月7日と8日にはアウト・デ・フェが行われ、準司教座聖堂前広場にて、6人の魔女たちが火炙りにされた。

現代[編集]

エステルパロ邸

1833年、ログローニョ県が設置され市はその県都となった(しかし1930年代まで市の人口は30,000人を超えなかった)。19世紀の政治家バルドメロ・エスパルテロは、晩年をログローニョで過ごした。現在ログローニョ市はエスパルテロに関する記念物を保存しており、エスポロン通りには彼の彫像が、そして彼の邸宅はラ・リオハ博物館となっている。エスパルテロ像は1895年に設置された。同年4月、現在はプラセテス・マテオ・サガスタ研究所となっている歴史的建築物の建設が始まった。

スペイン第二共和政社会主義者動乱期の1936年3月18日、サンティアゴ教会と、ラ・リオハ新聞社の入ったピアス神学校の建物が炎上した。1936年8月20日にラ・リオハ新聞社は再開した。その時既に、中央政府の合法化に対する反乱は、既に州内で勝利をおさめていた。1944年にも、かつてのメルセド修道院であった教会が放火され、後にタバコ工場となった。1978年にタバコ工場は閉鎖され、ラ・リオハ州政府によって元の修道院へと改装する計画が1984年に始まった。現在、建物は公立図書館となっている。

統計[編集]

20世紀から21世紀にかけ、多様な国からの移民がログローニョへ移住した。2008年時点でのログローニョ人口は150,398人であった。市生まれの住民は68,649人、ラ・リオハ州出身者が26,298人、他州出身者が34,527人、外国出身者が20,924人であった。ログローニョで暮らす移民の出身国は、アルゼンチンボリビアコロンビアエクアドルガーナモロッコパキスタンルーマニアが多い。

経済[編集]

ログローニョのワイン、食品加工がよく知られる。その他に機械工業、製靴業などがある。

史跡[編集]

  • サンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ準司教座聖堂 - 前身の教会は12世紀に建てられた。1453年に共同教会(en)となった。数々の改築・補修が行われてきたが、最後の工事は18世紀で、2つの塔が付け加えられた。見どころは聖歌隊席、17世紀からの巨大な祭壇、ミケランジェロ・ブオナローティの作であるキリスト磔刑像である。
  • サンティアゴ教会 - 現在の建物は16世紀のもの。17世紀に聖ヤコボの像が立つバロック様式ファサードが付け加えられた。
  • サンタ・マリア・デ・パラシオ教会 - 1130年にアルフォンソ7世が自分の宮殿(palacio)として建てたためこの名がついた。最初は、カスティーリャ王国における聖墳墓教会を建てる目的であった。
  • レベリン要塞と門
  • ピエドラ橋
エスパルテロ将軍騎馬像 
サンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ準司教座聖堂 
パラシオ教会 
ピエドラ橋 

行事[編集]

サン・バルナベ祭
  • サン・ベルナベ祭 - 毎年6月11日。1521年、フランス軍による包囲戦に勝利した出来事を祝う。祭の間、魚屋の組合が魚のフライとパンを振る舞う。これは、フランス侵攻時にログローニョ住民が食料としていたという故事にちなむ。市民は中世の衣装に身を包み、ログローニョ市民とフランス軍との対決を再現する催しに参加する。

交通[編集]

A-12(パンプローナ、ブルゴス)、A-68(サラゴサ、ミランダ・デ・エブロ)が通る。ログローニョ空港にはマドリード、バルセロナへの定期便がある。

ログローニョ出身の人物[編集]

姉妹都市[編集]

外部リンク[編集]