カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン

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カルロス・マリーア・デ・ボルボン
Carlos María de Borbón
ボルボン家
Carlos Maria Isidro.jpg
モリナ伯ドン・カルロス
称号 モリナ伯
全名 Carlos María Isidro Benito
カルロス・マリーア・イシドロ・ベニート
出生 1788年3月29日
スペインの旗 スペイン王国マドリード王宮
死去 1855年3月10日(満66歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国トリエステ
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国トリエステ、トリエステ大聖堂内サン・カルロ・ボッローメオ礼拝堂
配偶者 マリア・フランシスカ・デ・ブラガンサ
  マリア・テレザ・デ・ブラガンサ
子女
父親 カルロス4世
母親 マリア・ルイサ・デ・パルマ
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カルロス・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=パルマスペイン語: Carlos María de Borbón y Borbón-Parma, 1788年3月29日 - 1855年3月10日)は、スペインの王族。モリナ伯。カルリスタの王位請求者としてカルロス5世スペイン語: Carlos V)を称した。

生涯[編集]

スペイン国王カルロス4世とその妃マリアの間の次男としてマドリード王宮で生まれた。

兄のスペイン王フェルナンド7世嫡出の男子を持たず、4度目の結婚で王女を得たのみであった。ボルボン家サリカ法による継承を定めていたため、カルロスが王位を継承する予定であったが、1830年にフェルナンド7世はサリカ法を廃した。1833年にフェルナンド7世が崩御すると、長女のイサベル王女が即位した(イサベル2世)。

スペインでは当時、ブルジョワの支持する自由主義派と、教会・貴族地主を中心とする反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政マリア・クリスティーナ王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、カルリスタ戦争が発生することになった。1833年、カルロスはバスクナバラに政府を作ってカルロス5世と称し、トマース・デ・スマラカレギ英語版ラモン・カブレラ英語版将軍を司令官として、マドリードの政府軍と衝突し、最初は優勢を占めた。一時はマドリードに迫る勢いだった。しかしバルドメロ・エスパルテロを将軍に迎えたマドリード軍が逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れ、1839年にスマラカレギに代わり将軍となったラファエル・マロト英語版は、単独でマドリードの政府とベルガラ協定英語版を結んで休戦した。

カルロスはフランスブールジュに亡命した。1845年にはカルリスタの王位を長男のカルロス・ルイスに譲り、自らはトリエステに引退した。

この後もカルリスタはスペイン北部で勢力を保ち、19世紀を通じて政治勢力として存続し、王位請求運動を行った。

家族[編集]

1816年に、ポルトガル国王ジョアン6世の次女マリア・フランシスカ(1800年 - 1834年)と結婚した。姉カルロータ・ホアキーナの娘であるため、カルロスとマリア・フランシスカとは叔父と姪の関係にあった。2人の間には3男が生まれた。

マリア・フランシスカと死別後、1838年にその姉マリア・テレザ(1793年 - 1874年)と再婚した。2人の間に子供は生まれなかった。

先代:
スペイン王位請求者
(カルリスタ)
1833年 - 1845年
次代:
カルロス6世