マルタ・アルゲリッチ

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マルタ・アルゲリッチ
1962年のマルタ・アルゲリッチ}
1962年のマルタ・アルゲリッチ
基本情報
出生名 Martha Argerich
出生 1941年6月5日(73歳)
出身地 アルゼンチンの旗 アルゼンチン ブエノスアイレス
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ
活動期間 1949年 -
レーベル ドイツ・グラモフォンEMIフィリップス・レコード

マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich[1], 1941年6月5日 - )はアルゼンチンブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。

経歴[編集]

外交官の家庭に生まれ、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァピアノを学び始める。

1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトピアノ協奏曲ニ短調K466バッハフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。

1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、彼女の父親にウィーン赴任を命じた[2]。これに伴って家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴマガロフマドレーヌ・リパッティディヌ・リパッティ夫人)、イタリアミケランジェリブリュッセルアスケナーゼに師事した。

1957年ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。

1960年ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。22歳のとき作曲家で指揮者のロバート・チェンと最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に破婚。

1965年ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞(マズルカ賞)も受賞した[3]

1969年、1957年に出会った指揮者のシャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。

ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのクレーメルイヴリー・ギトリスルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチマイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。

1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。

受賞歴にはフランス政府芸術文化勲章オフィシェ(1996年)、ローマ・サンタ・チェチーリア協会員(1997年)、グラミー賞(1999年、2004年、2005年)、ミュージカル・アメリカ誌・Musician of the Year(2001年)、第17回高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門、2005年)、旭日小綬章(若手音楽家の育成等に寄与したとして、2005年)などがある。

演奏スタイル[編集]

第一に挙げられるのは、ライヴでも録音でも極度にテンポが速いという事である。しかし、打鍵は極めて正確で、リズム感が抜群であり、かつ豊かな表情を持った演奏が高く評価されている。

レパートリー[編集]

レパートリーはバロック音楽から古典派ロマン派印象派現代音楽まで非常に幅広い。J.S.バッハスカルラッティハイドンモーツァルトベートーヴェンシューベルトシューマンショパンリストメンデルスゾーンブラームスチャイコフスキードビュッシーラヴェルフランクサン=サーンスクライスラーバルトークラフマニノフスクリャービンプロコフィエフストラヴィンスキーショスタコーヴィチルトスワフスキメシアンなど。一方で、スティーヴン・コヴァセヴィチネルソン・フレイレアレクサンドル・ラビノヴィチ、近年ではアルゲリッチお気に入りの若手ピアニストたちとともにピアノ2重奏や連弾による演奏会も行っている。母国アルゼンチンの作曲家では、ヒナステラピアソラロペス=ブチャルドグアスタビーノラーサララミレスなど。日本人の作品では、1995年小澤征爾のバースデイ・コンサートで、大江光のチェロとピアノのための「お話-A Talk」をロストロポーヴィチと共演(世界初演)した。

人物像[編集]

母語であるスペイン語の他に、フランス語英語ポルトガル語ドイツ語イタリア語などを自在に操ることができる。精神的に納得できない場合は、しばしば演奏会をキャンセルすることもある(ただし、逆にどうしても演奏したいときには体調不良でも演奏することもある)。メディア嫌いで知られ、インタビューの回数は多くない。

若い頃、職業ピアニストであることが嫌になり、語学が堪能なことから秘書になろうと思ったことがあると、インタビューで語っている。また、この当時は、ピアノを弾かずテレビばかり観ていたとも語っている。

3度の結婚で3人の娘をもうけたが、いずれも離婚している[4]。子どもたちはみなアルゲリッチが引き取り育てた。アルゲリッチの3人の娘には、いずれもプロフェッショナルの音楽家はいない。しかし、中国人指揮者との長女であるリダ・チェンは、ヴィオラ奏者として母親と共演することがしばしばある[5]シャルル・デュトワとの娘アニー・デュトワは、アルゲリッチのいくつかのCDをはじめ、しばしばクラシック音楽のCDのライナーノートや音楽専門誌に執筆している。ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチとの間に生まれたステファニー・アルゲリッチは、主にアルゲリッチのCDの表紙やドキュメンタリー映像などを撮影しているプロの映像アーティストである。

1980年の第10回ショパン国際コンクールの審査員であったアルゲリッチは、ユーゴスラヴィアからの参加者イーヴォ・ポゴレリチが本選に選ばれなかったことに猛烈に抗議して、審査員を辞退した。ポゴレリチのことを「だって彼は天才よ!」と言い残して帰国した件だけが取り上げられることが多いが、アルゲリッチは「審査席に座った事を恥じる」と述べ、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めてしまうのではなく、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。1990年代後半ドイツで、急病のポゴレリチに代わって、アルゲリッチが登場したことがある。プロコフィエフピアノ協奏曲第3番ハ長調 Op.26を演奏した。

日本とのつながり[編集]

1970年に初来日し、以後、幾度も来日している。大分県別府市とは特につながりが深く、1994年に別府ビーコンプラザ・フィルハーモニアホール名誉音楽監督に就任し、1996年より別府アルゲリッチ音楽祭(1998年第1回開催)の総監督を務め、2007年には別府アルゲリッチ音楽祭の主催団体であるアルゲリッチ芸術振興財団(Argerich Arts Foundation)の総裁に就任している。1998年以降は別府アルゲリッチ音楽祭のため、毎年来日している。 2013年5月完成を予定に別府市内に拠点となる建物を建設予定。建物は内藤廣が設計を担当する。(2013年6月時点)

脚注[編集]

  1. ^ Argerichの読み方については、「アルゲリッチ」が普通であるが、彼女の母国であるアルゼンチンがスペイン語を公用語としていることから、その読み方で「アルヘリッチ」、「アルヘリチ」などとも表記される。また、日本ではドイツ語読みで「アルゲリッヒ」「アルゲリヒ」と表記されていた時期もある。アルゲリッチ自身は来日時のインタビューで「どちらの呼び方が正しいのかよく聞かれるが、自分の先祖はスペインのカタルーニャ地方出身で、カタルーニャ語の読み方では『アルジェリーク』になる。しかし、自分としては『アルゲリッチ』が気に入っているので、これに決めている」という主旨の発言をおこなっている。
  2. ^ "People" April 07, 1980 "A Top Woman Pianist, Martha Argerich, Nearly Gave Up Her Steinway for Steno" By Fred Hauptfuhrer, Mary Vespa
  3. ^ 1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクール出場時の映像の一部を観ることができるが、第1次予選での「英雄ポロネーズ」作品53の映像は、客席側から撮影されているフィルム以外は、全てコンクール後に撮影された時の物が使われている。正面(及び手のアップ)から撮影されたフィルムは音とアルゲリッチの動きと合致していない部分がほとんどであること、また、コンクール時アルゲリッチが使用したピアノはスタインウェイ社製であったにもかかわらず、ベヒシュタイン社のピアノを弾いているという事が挙げられる。スケルツォ第3番の映像もコンクール後撮影された時のフィルムであり、第2次予選での実況録画・録音ではない。
  4. ^ 稀に語られることがあるが、ロストロポーヴィチとの間に子どもがいるというのは全くの誤りである。当然彼とは結婚もしていない。
  5. ^ なお、リダ・チェンがピアニストのフー・ツォンとの間に生まれた子どもだと言うのは間違いである。

外部リンク[編集]