初期フランドル派

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初期フランドル派(しょきフランドルは)は、15世紀から16世紀にかけて北方ネサンス期アルプス以北の北ヨーロッパ[1]のルネサンス運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)のブルゴーニュ領ネーデルラント、特にフランドル地方ブルッヘヘントといった都市で活動した芸術家たちとその作品を意味する美術用語。

時代区分としては、ロベルト・カンピン(1375年頃 - 1444年)とヤン・ファン・エイク[2](1395年頃 - 1441年)が活動した1420年代初頭から、ヘラルト・ダヴィト(1460年頃 - 1523年)の死去までを指すことが多い[3]。ただし、初期フランドル派の終焉をいつとみなすのかについては複数の学説があり、ピーテル・ブリューゲルが死去した1569年とする説、八十年戦争のきっかけとなったネーデルラント諸州のスペイン・ハプスブルク家に対する反乱 (en:Dutch Revolt) が起きた1566年あるいは1568年とする説、17世紀の始まりとする説など、研究者によって様々である。

初期フランドル派の重要な芸術家として、ロベルト・カンピン[4]、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンペトルス・クリストゥスシモン・マルミオンハンス・メムリンクフーホ・ファン・デル・フース、ヘラルト・ダヴィト、ヒエロニムス・ボスピーテル・ブリューゲルらの名前が挙げられる[5]。このような初期フランドル派の芸術家たちによって、美術における自然主義的表現と、美術作品とその観覧者に一体感を持たせるような仮想画面空間の構築手法 (en:Illusionism (art)) は飛躍的な進歩をみせ、さらに作品に複雑な寓意を持たせる表現手法が発展していった。絵画作品としてはキリスト教の宗教画や小規模な肖像画が多く、イタリアで勃興したルネサンスとは異なり、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれなかった。風景画も発展し単独で描かれることもあったが、肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かった。絵画作品は支持体に木材を使用した板絵が多く、一枚の板からなる作品、あるいは複数枚の板を組み合わせた三連祭壇画多翼祭壇画などが制作されている。絵画以外の美術分野として装飾写本彫刻も一般的ではあったが、非常に高価な美術品となっていた。

初期フランドル派の活動時期はイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。しかし中央イタリアの古典古代の復興(ルネサンス人文主義)を背景とするイタリアルネサンス絵画とはまた別の表現であるとみなされている[6]。初期フランドル派の画家たちは、それまでの北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響とを融合させた作品を産みだした。その結果、作品の美術様式としては初期ルネサンスと後期ゴシックの両方にカテゴライズされている。

さらに、初期フランドル派の活動時期はブルゴーニュ公国がヨーロッパ中に大きな影響力を持っていた時代とも合致する。当時のネーデルラントはヨーロッパ政治経済の中心地であり、また、高い芸術的技能を誇る高級品の一大産地でもあった。歴代ブルゴーニュ公の統治下でこの地域は経済的にも大きな成功を収め、知識人や芸術家が自由に活動できる場所としても発展していった。そして初期フランドル派の巨匠たちの絵画は、ドイツやイタリアの商人、銀行家らによって諸外国へと持ち込まれた。徒弟制度と工房を活用した絵画制作手法によって多くの作品を生産することができ、公開市場用、直接注文用のどちらにも良質な作品を供給することが可能だった。

1600年代半ばのマニエリスムの勃興とともに初期フランドル派の絵画は流行から外れ、大衆からの人気がある作品群ではなくなった。その結果、現在に伝わる初期フランドル派の作品に関する公式な資料、記録がほとんど存在せず、もっとも重要視される芸術家の情報でさえもほとんど伝わっていないという事態が生じた。このような状況の中で、20世紀初頭に初期フランドル派に関する極めて重要な研究を行ったのがドイツ人美術史家マックス・ヤーコプ・フリートレンダー (en:Max Jakob Friedländer) であり、その先駆的な大著『15、16世紀のネーデルラント絵画の名作 (Meisterwerke der niederländischen Malerei des 15. und 16. Jahrhundert)』は、1950年代、1960年代になってからドイツ人美術史家エルヴィン・パノフスキーらがさらに発展させていく学説となった。

その絵画を描いたのが誰なのかという「作者の特定」は、現在でも非常に難しい問題となっている。画家が弟子や助手と協同で作品を製作する工房の存在も大きく、さらに画家が描いたオリジナルの絵画をもとにして工房による複製模写が何点も製作されたことも混乱に拍車をかけた。1950年代後半になってから、美術史家のパノフスキー、フリートレンダー、メイヤー・シャピロ (en:Meyer Schapiro) が実施した初期フランドル派の画家と作品の特定結果は、現在でもほぼそのまま定説となっているものが多いが、画家に関する公的な記録はごくわずかで散逸して失われたものも多く、重要な画家の生涯は依然として不明な点が多く残されたままである。画家の名前ですら伝わっておらず、研究家の間で議論になっていることも多い。また、現存している絵画の中にも、オリジナルの祭壇画から裁断された断片であったり、パネルの一部しか残っていない作品など、制作当時の状態をとどめていないものが多数存在する。

概説[編集]

用語の定義と意味する地域[編集]

ヘントの祭壇画』に描かれた聖母マリア(1432年)。
フーベルト・ファン・エイクヤン・ファン・エイク兄弟の合作で、初期フランドル派最初の傑作とされている。

初期フランドル派はさまざまな呼ばれ方をすることがある。なかでも「後期ゴシック派」、「初期ネーデルラント派」は特に良くみられる呼称である[7]。美術史家のエルヴィン・パノフスキーはもともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技術)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている[8]。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である[6]

1477年当時のブルゴーニュ公国の地図。ブルゴーニュ公国は15世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家が政治的に統治していた地域で、フランドル北部とネーデルラント王国南部も含まれる。芸術の中心地だったのは15世紀に栄えたブルッヘとヘント、16世紀に栄えたアントワープである[9]

初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツ人美術史家フリートレンダー、パノフスキー、オーストリア人美術史家オットー・ペヒトらドイツ語圏の学者たちの先進的な研究成果があるが、英語圏の学者たちは「初期フランドル派」ではなく「初期ネーデルラント派 (Early Netherlandish painting )」という用語を使用することが多い。

文化の中心地フランドルには世界各地の芸術家が集っていたことから、「初期フランドル派」は、さらに広い地理的意味を持たせた「北方ルネサンス」、「北方絵画」と呼ばれることもある。15世紀から16世紀半ばのフランス、ドイツ、ベルギー、オランダの国境は、現代のものとは異なっていた。現在ではベルギーの一地方となっているフランドルとその周辺は、当時ブルゴーニュ公国の一部であり、その後ネーデルラント17州の一部としてハプスブルク家の支配下に置かれる地域である。世界各地の画家や商人がブルッヘヘントといったフランドルの都市に集まり、国際的な金融、貿易、芸術の中心地を形成していった。また、著述家や解説者も当時の「フランドル」と「ネーデルラント」とを用語としてあまり区別しておらず、16世紀のイタリア人画家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリもその著作の中で、北ヨーロッパの画家を全て「フランドル人」としている[10]

伝統的に初期フランドル派に分類される画家の中にも、オランダ語圏、フラマン語圏出身ではない人物は多い。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの誕生名はフランス語風のロジェ・ド・ラ・パステュールである[11]。ドイツ出身のハンス・メムリンク、エストニア出身のミケル・シトウもフランドルで活動し、フランドル風の作品を描いた、初期フランドル派に分類される画家である。

歴史[編集]

『ターバンの男の肖像』 (1433年)、ヤン・ファン・エイク。
ヤン・ファン・エイクの自画像の可能性がある。
『ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの肖像』(1572年)、コルネリス・コルト画。

15世紀初頭の北ヨーロッパには、様々な芸術学派、様式が混在していた。1400年ごろからそれまでの国際ゴシック様式が衰退し、イタリアで発生したルネサンスの影響が徐々に見られ始めるようになり、ウルムニュルンベルクウィーンミュンヘンなどが1400年前後の芸術の中心都市となっていく。さらにこの時代以降、絵画技法の進歩と新たな顔料の採用が芸術分野を大きく変革していった。フランスや北イタリアの芸術革新を受けて、木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画などの芸術も発展している[12]。なかでも絵画分野で大きな革新となったのは、フランドル出身のフーベルトとヤンのファン・エイク兄弟がその使用方法を確立した油彩技法である。油彩技法はほかの初期フランドル派の画家たちにも即座に導入され、ロベルト・カンピンとロヒール・ファン・デル・ウェイデンが技法をさらにこの技法を発展させていった。現在、ヤン・ファン・エイク、カンピン、ファン・デル・ウェイデンの三人が、最初期の初期フランドル派におけるもっとも優れた画家であり、影響力が高かった画家であるとみなされている。しかしながら、フランドル以外の北ヨーロッパ、ボヘミアポーランドオーストリアシュヴァーベンといった諸国、都市への初期フランドル派の影響が直接見られるのは、さらに後年になってからだった[12]

1420年代のロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクの作品に始まり、1523年に死去したヘラルト・ダヴィトの作品にいたるまで、初期フランドル派の作品には様式の連続性が明確にみられる。1400年代中盤になるころには、初期フランドル派の最初期の巨匠たちが始祖となった美術革新は全ヨーロッパに広まっており、続く世代の芸術家たちが自身の作品にこの革新性を取り入れ、さらなる進展を加えていった。ヤン・ファン・エイクの作品は、その生前からヨーロッパ各地のコレクターが先を争って入手しようとしている。その複製画も広く出回り、初期フランドル派の作風が南ヨーロッパ、中央ヨーロッパへと広まることとなっていった[13]。この結果、中央ヨーロッパの作品にはイタリア・ルネサンスと北方絵画の両方の影響が見られる。この二派の様式は混交し、初期フランドル派とルネサンスの芸術家とが交流したこともあって、ハンガリー王マーチャーシュ1世をはじめとする、両派の画家を後援する人物も現れることとなった[14]

ニュルンベルクでは、アルブレヒト・デューラーがヤン・ファン・エイクの細部にわたる精緻な表現を模写することによって精密な表現技法を身につけ、さらにデューラー独自の宗教色の感じられない人体描写へと昇華させている[15]。ほかにも15世紀にケルンで活動していたシュテファン・ロッホナーや「聖母の生涯を描いた画家」(en:Master of the Life of the Virgin) と呼ばれている画家たちにも影響を与えており、すでに盛期ゴシック様式の技術を身につけていたこれらの芸術家の作品にも、北ヨーロッパからもたらされたファン・デル・ウェイデンやディルク・ボウツの作品からの影響がみられる[16]。そして16世紀になるころには、このような初期フランドル派の画家たちの革新性は、北ヨーロッパ全土でごく標準的なものとなっていた。さらに有力な画家たちはそれまでにはなかった、大衆からの尊敬と社会的地位とを新たに獲得することができるようになった。芸術家のパトロンはたんなる絵画制作依頼者ではなく、芸術家自身を宮廷に迎え入れ、新しく見聞を広めるための旅行資金をも出資してくれる王侯貴族となっていった。

1500年ごろになると、それまで芸術の中心都市だったブルッヘは衰退していき、代わってアントワープの重要性が増し、アントワープ・マニエリスム (en:Antwerp Mannerism) とよばれる学派が興った。現在ではアントワープ・マニエリスムはまったく重要視されておらず、その活動期間も1500年から1530年ごろまでと短いものではあったが、この学派の勃興が初期フランドル派の終焉であるとみなされることがある。アントワープ・マニエリスムはイタリアルネサンスの影響を受けてはいたが、それでも「最後期ゴシック様式」であり、前世紀の伝統的ネーデルラント美術の延長に過ぎないと考えられていた[17]

15世紀後半から16世紀初頭に活動したヒエロニムス・ボス(1450年頃 - 1516年)は、初期フランドル派の中でも最重要かつもっともよく知られた画家の一人である。ボスは非常に特異な画家で、他の初期フランドル派の画家たちの特徴とも言える自然描写、人物描写における写実主義はほとんど見られない。ボスの作品の多くには空想的で幻覚を起こさせるような生物や風景が描かれており、遠近法などの技法にも全くといっていいほど無関心な画家だった[18]。このように独創的な作風のボスは当時の芸術家にほとんど影響を与えなかった画家ではあるが、ピーテル・ブリューゲル(1525年頃 - 1569年)はボスの作風を研究し、自身の作品に取り入れた数少ない画家の一人である[19]

イタリアルネサンスとの関係性[編集]

『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年頃)、フーホ・ファン・デル・フース
ウフィッツィ美術館フィレンツェ
ブルッヘの銀行家トマッソ・ポルティナーリの依頼で描かれた作品で、1483年にフィレンツェへと持ち込まれた。

時期的に見ると、北ヨーロッパにおける初期フランドル派の美術革新は、イタリアで勃興したルネサンスとほぼ同時に発生している。ルネサンス美術は古代ギリシア・ローマ時代(古典古代)の美術様式をその源流としていたのに対し、初期フランドル派はそれまでのゴシック様式に負うところが大きい。ギリシャやイタリアなど南ヨーロッパの地中海沿岸諸国の人々の伝統的な哲学観、芸術観と、北ヨーロッパのネーデルラント諸国の人々が代々受け継いできたそれらの伝統的価値観とはまったく別物であり、当時のネーデルラントではいわゆる「ラテン」の文化、事物は低く見られていた[20]。また、ルネサンス期のイタリアでは、絵画のみならず建築、彫刻、そして哲学など、様々な分野にわたって急激な変革が起こっているが、ネーデルラント美術での大変革はほぼ絵画分野にのみ限定した形で発展した[6]。例えば、ネーデルラントでは16世紀になってもゴシックが主要な建築様式であり、徐々にではあるがルネサンスの影響が北ヨーロッパにも波及し始めた後にも、ネーデルラント地方の建築の特徴としてゴシック様式は使用され続けたのである[20]

ネーデルラントではイタリアと違って、ルネサンスの人文主義はほとんど浸透しなかった。14世紀当時のヨーロッパではデヴォティオ・モデルナ (en:Devotio Moderna) と呼ばれる一種の宗教革命が起こっており、ネーデルラントでもこのような新しい宗教観が多くの美術作品の題材、構成、外観に強く影響を与えている[21]。教会などのキリスト教団体、あるいは信心深い一般信徒からの依頼によって描かれた祭壇画のようなキリスト教的モチーフを描いた宗教画は、ゴシック期と同様に初期フランドル派の絵画でも数多く描かれていた[22]。しかしながら、北ヨーロッパでも南ヨーロッパでも、宗教とは無関係に一般の人物を描いた普通の肖像画の需要が増し、ネーデルラントやイタリアの画家は、肖像画には聖人や歴史上の人物を描かなければならないという、中世以来の絵画制作上の制約から解き放たれた。イタリアにおいてはこの進歩はルネサンス人文主義との関係性が強かったが、当時のネーデルラントでの肖像画の需要はそのような個人主義の高まりとは無関係だった。このことは、ネーデルラントでは画家に絵画作品を発注するような金銭的余裕があるのは裕福な商人などごく一部の層であったこと、さらに、個々の画家たちの考え方が先進的であったことが影響している[23]

ネーデルラントの美術にイタリアルネサンスの影響が最初に見られだしたのは、南ヨーロッパへと旅する画家が現れ始めた1400年代終わりごろになってからである。ルネサンスの中心地ともいえる1400年代のフィレンツェは、銀行業、貿易業が発達した一大経済都市だった。絵画制作への需要も多く、裕福な商人層が個人的な肖像画だけではなく、自身の信仰心を示すものとして宗教画の制作を画家に依頼することも多かった[24]。さらに、ウルビーノなどイタリアの諸都市にもブルゴーニュ公の宮廷が置かれていたことが、画家たちに宮廷芸術家としての活動の場を与えた。画家たちは徐々に自分たちの社会的地位を意識するようになった。作品に自分の署名をするようになり、自身の肖像画を描き、そしてその芸術活動を通じて個人的な名声を確立するようになっていった[25]

初期フランドル派の優れた画家たちはイタリアでも高く評価された。フリートレンダーは、15世紀当時のほかのあらゆるものよりもイタリアに大きな影響を与えた可能性が高いとしている[26]。初期フランドル派が開始した美術変革はイタリアの芸術家たちにも認められ、初期フランドル派の作品から、屋内の人物描写や、開かれた扉や窓を通じて垣間見える屋内の表現手法などがイタリア絵画に取り入れられた[27][28]。フーホ・ファン・デル・フースが描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』は、フィレンツェの画家たちに北ヨーロッパの最先端の絵画がどのようなものかを紹介することに大きな役割を果たし、シチリア出身の画家アントネロ・ダ・メッシーナなどの画家は、おそらく当時シチリア、ナポリ、ヴェネツィアなどで活動していた初期フランドル派の画家たちの影響を強く受けている。

一方で、初期フランドル派の画家たちのほうも、イタリアで勃興したルネサンスという一大革新と無関係ではなかった。ヤン・ファン・エイクはおそらく1426年から1428年にかけてイタリアを訪れており、その影響がヘントの祭壇画に見てとれる。さらに当時のブルッヘのような国際的大都市に諸外国の文物が流入してくることは当然のことだったといえる[26][29]

画家と作品[編集]

技法と素材[編集]

ヘントの祭壇画』(1432年頃)より、イヴの拡大画像。フーベルト・ファン・エイク、ヤン・ファン・エイク。
シント・バーフ大聖堂(ヘント)
当時の新素材である油絵具で描かれた最初期の絵画の一つ。それまで用いられていたテンペラフレスコとの違いを、肌の色合いや髪の毛の詳細表現から見てとれる。

ヤン・ファン・エイクロベルト・カンピンロヒール・ファン・デル・ウェイデンの初期の作品は、北ヨーロッパ絵画界の自然主義、写実主義に大変革をもたらし、自然界そのままの表現を作品に持ち込むことに大きく貢献した[30]。人物像は感情表現豊かに写実的に表現され、それまでの絵画作品よりもはるかに実際の人間らしく描かれた。パノフスキーが「金は金そのままに」描いたと表現したように[31]、作品のモチーフとする対象物だけではなく、太陽の光が帯のように降りそそぐさまやその反射のような自然現象をも、絵画として正確に再現することに注力した。初期フランドル派の画家たちは、それまでの絵画作品で用いられていた平凡な遠近法や、単に輪郭線だけで三次元的形状を表すような手法は採用せず、絵画をはじめて観る者がどれだけその作品と一体感が持てるかを重要視した。ヤン・ファン・エイクは、その作品『アルノルフィーニ夫妻像』で、この絵画を観る者に、あたかも自分が絵画に描かれている二人の人物と同じ部屋に入りこんだかのような感覚を持たせることに成功している[32]

初期フランドル派の画家たちによる絵画素材や絵画技法の革新が、絵画作品に豊かで明瞭な表現を可能なものとし、人物、風景、室内などの様子をより詳細に描きあげることに大きく寄与した。このような革新のうち、最重要といえるのが油絵具を使用した油彩技術である[33]。北ヨーロッパで固着材として油脂を使用してきた歴史は12世紀まで遡ることができるが、それでも1430年代までは卵テンペラが絵画制作の主流だった。鶏卵を固着材として使用したテンペラは乾燥が比較的速く、華やかで明るい色彩を得ることができるが、質感や深い陰を自然に表現する目的にはあまり向いていない[34]

『聖母子と聖バルバラ、聖カテリナ』(1415年 - 1425年頃)、クエンティン・マセイス
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
グルーサイズで描かれた、美しくも保存状態が酷い現存作品の一例。何層もの汚れが画肌を覆っているが、顔料にさらなる損傷を及ぼす可能性が高いために修復洗浄が不可能となっている。

テンペラに比べると、油絵具はよりなめらかで透明感のある画肌を表現でき、さらに筆使いによって様々な濃淡を描き分けることができる。乾燥が遅いことを利用して、絵具が乾く前に様々な加筆が可能で、画家にとって時間をかけた、より精緻な表現ができる絵具といえる[35]。線描によって陰影をつけるハッチング、絵具が乾燥する前にさらに絵の具を重ねて混ぜ合わせるウェット・オン・ウェット (en:Wet-on-wet) 、重ね塗りされた絵の具の上層をそぎ落とすことによって下の絵の具の層(レイヤ)を表出してより滑らかな色彩や明暗の階調を表現するなどの絵画技法も、油彩の導入とともに発展していったものである。さらに油彩では、反射する光の明暗の度合いを描き分けることができ[36]、透明なガラス越しの光がもたらす効果を絵画に再現することが可能となった[37]。初期フランドル派の作品が、自在に光を表現できる油彩技法によって、より緻密で写実的に物の質感を描き出すことに成功したことは、ヤン・ファン・エイクの肖像画に描かれた、宝飾品に降りそそぐ陽光、木製の床、質感豊かな織物、家庭用品などの表現に確認することができる[38][39]。油彩画は通常絵筆で描かれるが、細い棒や、柔らかな印象を与えるために画家自身の指も使用されることがあり[40]、さらに指や掌は、画肌の上に塗布されるグレイズ (en:Glaze (painting technique)) が絵画作品本体に与える影響を低下させる目的でも使われた[41]

植物性油脂の代替として動物性タンパク質を固着材として使用した、より安価なグルーサイズ (en:Glue-size) と呼ばれる絵の具も当時使用されていた。グルーサイズで制作された絵画は非常に多かったが、現存している作品はほとんどない。これは支持体として使用された麻布がタンパク質の影響で腐食してしまったことと、固着材に使用されたタンパク質自体が溶解してしまったことによる。このグルーサイズで描かれた、溶解による損傷があるとはいえまだ保存状態が比較的良好でよく知られている作品に、クエンティン・マセイスが1415年から1425年ごろに描いた『聖母子と聖バルバラ、聖カテリナ』と[42]、ディルク・ボウツが1440年から1455年ごろに描いた『キリストの埋葬』(en:The Entombment (Bouts)) がある[43]

現存している初期フランドル派の傑作は、安価だったキャンバスではなく、木の板(パネル)を支持体として描かれている板絵のほうが多い[44]。使用された木の板はオーク材が多く、年輪年代学を用いたオーク材の年代調査が、当時の各画家たちがどこで活動していたのかを判定する研究の一助となっている[45]。支持体として使用される木材は、歪みやねじれを起こさないように通常は半径方向に切り出される(柾目)。その後、木材から水分を抜いて乾燥させてから使用された。板絵に使用されるパネルの制作には非常に高い熟練技術が必要とされており、美術史家ローン・キャンベルは当時の板絵に使用されているパネルについて「優れた工作技術で、素晴らしい工芸品といえる。板と板との繋ぎ目をみつけることすら非常に難しいほどだ」としている[41]

パトロンと画家の社会的地位[編集]

受胎告知』(1434年 - 1436年)、ヤン・ファン・エイク
ナショナル・ギャラリー(ワシントン

最初期の初期フランドル派の主要な画家たちは、読み書きができる十分な教育を受けた中流階級以上の出身である。たとえばヤン・ファン・エイクは作品の署名をギリシャ文字で行っていたほか、ヘントで活動していた画家の多くは工房の弟子たちに読み書きも教えていた[46]。多くの画家が経済的な成功を収めており、ネーデルラントや北ドイツのみならずスペインやイタリアなどの諸外国からも高い評価を得ていた。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは息子をルーヴェン大学に学ばせており、ヘラルト・ダヴィト、ディルク・ボウツなど多くの画家が大規模な絵画を個人的に制作し、その作品を自身の好みに応じた教会、修道院に寄進するだけの金銭的余裕があった。中にはフランク・ファン・デル・ストクト (en:Vrancke van der Stockt) のように不動産に投資した画家もいる[46]。また、ヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公の宮廷に迎えられ、宮廷画家ならびに近侍 (en:valet de chambre) の地位を与えられており、ブルゴーニュ公フィリップ3世に親しく拝謁できる立場の人物だった[47]。当時、都市部や宮廷内で暮らしていた画家はわずかで、多くの画家が町に居を構えていたが、国内、あるいは中央ヨーロッパからの大量の絵画制作注文を受けることに問題はなかった。北ドイツ、バルト海沿岸諸国、イベリア半島の諸都市や、イタリアのヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ[48]の商人や銀行家といった有力な富裕層、さらにはイングランドやスコットランドの権力階級からも絵画注文を受けていた[49]

『フィリップ3世の肖像』(1450年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
ディジョン美術館(ディジョン)

歴代のヴァロワ=ブルゴーニュ公の嗜好として華美で高価なものに興味を示すことが多く、金で縁取りされたタペストリー、真珠やルビーで装飾されたグラスなどの贅沢品が好まれた。もともと初期フランドル派の絵画には金箔のような高価な素材は使用されておらず、それほど高額な制作費がかかるものではなかったが、後にはブルゴーニュ公の趣味を反映して素材から贅沢な美術品となっていった[50]。フィリップ3世が残した1425年の記録には新しく画家を雇い入れたことについて「高い技術を持ち優れた作品を制作するため (pour cause de l'excellent ouvrage de son mėtier qu'il fait )」という釈明めいた文言が記されている[51]

歴代のブルゴーニュ公はイタリアやスペインなど外国の王族に影響力があり、その親族には自国の絵画市場を外国へも拡大することに成功した人物がいる。1460年代にはナポリやフィレンツェへもネーデルラント絵画の販路が広げられた[51]。美術史家ローン・キャンベルは、ネーデルラントにとどまった絵画よりも、このような方法で諸外国へと持ち出された絵画のほうが現在まで多く残っていると指摘しており[52]、このことは16世紀半ばにオランダを中心に発生したビルダーシュトゥルムと呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)で多くの宗教画が破棄されたことと、第二次世界大戦で北ヨーロッパが壊滅的な被害を受けたことに起因する。

ネーデルラント以外の富裕なパトロンの存在と国際貿易の発展が、ネーデルラントの画家たちに工房を経営するだけの金銭的余裕を与えた。このような工房の弟子たちは画家の家に住み込む内弟子であることが一般的で[53]、将来一人前の画家となって芸術家ギルドの成員になることを志す若い弟子、あるいは実力はあるが自身で工房を持って独り立ちできるだけの資金力のない芸術家が助手として雇われた[53]。大規模な工房の場合、その経営者、責任者たる画家は絵画作品の重要な部分、たとえば肖像画であれば顔、指、複雑に刺繍された衣服などのみを描くことも多かった。作品の重要ではない箇所は工房の弟子や助手が仕上げることとなった結果、画家本人が直接手がけた箇所と弟子や助手が手がけた箇所とで作風が明確に異なっている作品も少なくない。ヤン・ファン・エイクのように経済的にまったく問題がない画家であれば、過去に商業的に成功した自身の作品の複製画を工房に制作させることだけでも生活は成り立ち、そのような恵まれた環境のもとでまったく新しい作風、構成の絵画作品の追求に専念することもできた[54]。このような工房を中心とした絵画制作の場合、画家は下絵や略図を描くだけで後の工程はすべて工房の作業となるのが通例となっていた。この慣習のために、現在残っている絵画が画家個人の作品ではなく「画家○○の工房の絵画」とされている作品も多い。1400年代半ばに美術作品の需要が大幅に増加し、多くの作品が工房から直接、あるいは贅沢品を扱う公開即売会で売りさばかれた。この時期は美術品の売買において美術商(画商)が大きな役割を果たすようになったころで、画家自身が画商として公開即売会に参加し、自身が絵画制作に使用する額、パネル、顔料などと同じように他の画家が描いた作品を購入することもあった[53]

作品にこめられた寓意[編集]

初期フランドル派の画家たちがその作品にこめた宗教的寓意、象徴、比喩は、複雑かつ多様な意味を持った膨大なもので、現代においてもはっきりとは解明されていないものが多い。当時のキリスト教を扱った宗教画、とくに聖母子およびキリストの生涯をモチーフとした絵画群には、同一の象徴が何度も描かれている。画家が作品に何らかの寓意をこめたものを描くときには、教養ある人間のみが把握できるものではなく、より多くの人々がこめられた寓意を明確に理解できることを意図して描いた。そして、初期フランドル派の作品で用いられた寓意表現は、キリスト教の教義、教理の差異があったイタリアの芸術家たちにも馴染み深いものだった[55]。寓意表現に関する研究が進んでいないのは現存している記録がごく僅かであることが主たる要因で、皮肉なことに現存していない作品に関する当時の記録が残っていることが少なくない[56]

絵画構成[編集]

肖像画[編集]

『マルガレーテ・ファン・エイクの肖像』(1439年)、ヤン・ファン・エイク
グルーニング美術館(ブルッヘ)
女性の肖像』(1460年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
ナショナル・ギャラリー(ワシントン)
若い女の肖像』(1460年以降)、ペトルス・クリストゥス
絵画館(ベルリン)
『若い女性の肖像』(1478年頃)マルティン・ショーンガウアー
ハインツ・キスターズ・コレクション(クロイツリンゲン)

1430年ごろまでのヨーロッパ美術作品に、宗教と関係のない人物肖像画はほとんど存在しない。絵画に描かれる人物は聖人や聖書の登場人物が大多数を占め、歴史上実在した人物や著名人などはヤン・ファン・エイクらを先駆とする初期フランドル派の登場まで描かれることはなかった[57]。ヤン・ファン・エイクが1432年に描いた『男性の肖像』がこの最古の一例で、新しい作風で描かれた絵画の象徴と見なされている。様々な点で新機軸がみられる重要な作品で、その写実性と、狭い肩幅、結ばれた口元、まばらな睫、潤んだ青い瞳など、描かれている男性への細部にわたる鋭い観察眼が作品の詳細表現に反映されている[58]

1508年から1509年にアルブレヒト・デューラー[59]、肖像画の基本的役割が「死後もその容姿をとどめる (Awch behelt daz gemell dy gestalt der menschen nach jrem sterben)」ことにあると記している[60]。15世紀の肖像画は描かれた人物の社会的地位や権力を誇示するもので、個人的な立身や成功をその死後にも記録として伝えることを期待されており、ヨーロッパ全体で見ると、1500年ごろまではほとんどの肖像画が、王族や上級貴族、高位聖職者を描いたものだった。しかしながらブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの経済的発展が様々な層に上流中産階級を生み出し、個人的肖像画、あるいは自身を絵画のなかの登場人物として描かせた宗教画 (en:donor portrait) の制作依頼が盛んになっていった[61]。制作依頼者を描きこんだ宗教画では、制作依頼者は聖人の前にひざまずいた人物に描かれることが多い。依頼者がいかに聖人に近く描かれていたとしても両者は目を合わせることはなく、依頼者は中空を凝視しているように描かれるのが普通だった[62]。 初期フランドル派の画家たちは肖像画制作と宗教画制作とをまったくの別物として峻別していたが、聖母子を描いた肖像はそれまでの伝統的な宗教肖像画をそれほど逸脱するものではなかった。ヨーロッパ各地に存在した画家ギルドは、芸術家の守護聖人とされる聖ルカの庇護下にあることを謳っていた。ルカは聖母マリアの肖像画を描いた聖人といわれ、「聖母を描く聖ルカ」はこの時代になって好まれるようになったモチーフである[63]。初期フランドル派の肖像画から、当時の北ヨーロッパの人々の容貌や、衣服に関する情報を得ることができる。聖人や聖書の登場人物はまだ伝統的な作風で描かれていたが、初期フランドル派の画家たちが描く個人的肖像画では、従来までの理想化された表現は採用されていない。そして、その肖像画を見るものに対して、モデルの個人的特徴が見事に捕らえられた顔が、自信に満ちてこちらを見つめ返すかのように描かれているのである[22]

『赤いターバンの男の肖像』(1433年)、ヤン・ファン・エイク
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ヤン・ファン・エイクの自画像ではないかといわれている作品。
『カルトジオ会修道士の肖像』(1446年)、ペトルス・クリストゥス
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
『男の肖像』(1460年 - 1470年)、ディルク・ボウツ
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

初期フランドル派の画家たちが肖像画に描かれる人物の顔の向きを、古代ローマ時代の貨幣やメダル以来主流だった横顔から、斜め前へと変更した。斜め前の角度で描かれた肖像画のほうが横顔のそれに比べると輪郭や頭部の特徴の表現に優れ、作品に表現できるモデルの身体の範囲は広がり、その作品を観るものへの訴求力も高まる。ヤン・ファン・エイクが1433年に描いた、自画像とも言われる『赤いターバンの男の肖像』は、斜め前の角度で描かれた初期フランドル派の肖像画の嚆矢といえる作品の一枚で、画家ヤン・ファン・エイク自らが観る者を見つめているという点においてもより重要な作品といえる[64]。しかしながら、この絵画のように描かれている人物の目線がこちらを見つめている作品の数は少ない。そして、その数少ない作品においても、こちらを見つめるモデルの視線は超然とした親しみのないよそよそしいものであり、このことは描かれている人物の高い社会的地位を反映しているのではないかと考えられている。なかには例外といえる作品もあり、見合いあるいは婚約用の女性の肖像画は、可能な限りモデルが魅力的に映えるように描かれている。このような肖像画ではモデルは愛想の良い微笑を浮かべており、未来の夫たる人物に対して清潔感と明るさを振りまくような構成で描かれている[65]

肖像画に革新をもたらしたのはヤン・ファン・エイクであるが、その絵画技法を発展させて次世代の画家たちにより大きな影響を及ぼしたのは、まず間違いなくロヒール・ファン・デル・ウェイデンである。先人たるヤン・ファン・エイクの精緻な細部表現に倣うというよりも、ファン・デル・ウェイデンは抽象的で感覚的な描写を重視した画家といえる。ファン・デル・ウェイデンは肖像画家としてきわめて高く評価されていた画家だが、描いた肖像画には顕著な類似性が見られる。おそらくは制作時間短縮のために、同じ下絵を幾度も複数の作品に使用していたと考えられ、このことがファン・デル・ウェイデンの肖像画群に、一定の理想的な作風と信仰表現をもたらした。ファン・デル・ウェイデンは同じ下絵を使って全体を描いた後に、描く人物それぞれの特徴をとらえた描写をその表情に加えることによって肖像画を仕上げたのである[66]。ファン・デル・ウェイデンの死後、ペトルス・クリストゥスが、それまでの肖像画に描かれていた単色による平坦な背景ではなく、より自然な光景を背景とした肖像画という新しい構成を生み出した[67]。その後、ファン・デル・ウェイデンの次世代の画家のなかでハンス・メムリンクがネーデルラント肖像画家の第一人者となり、ネーデルラントの中産階級だけではなくイタリアからも絵画制作依頼を受けるようになっている。メムリンクも他の画家たちに多大な影響を与えた人物であり、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年 - 1519年)もその絵画『モナ・リザ』の、風景を背景とした女性の肖像という画面構成に影響を受けたと考えられている[68]。フランス人画家ジャン・フーケ(1420年 - 1481年)も、ヤン・ファン・エイクとファン・デル・ウェイデンから大きな影響を受けた人物で、ドイツではハンス・プライデンヴルフ (en:Hans Pleydenwurff) や[69]マルティン・ショーンガウアーなど、多くの画家の作品に初期フランドル派からの影響を見ることができる[70]

祭壇画[編集]

『セダノ家の三連祭壇画』(1523年)、ヘラルト・ダヴィト
ルーヴル美術館(パリ)

初期フランドル派第一世代の巨匠たちが描いた三連祭壇画は、それまでに確立されていた13世紀、14世紀のイタリア人画家による祭壇画から、伝統的表現技法を多く取り入れている。なかでも典型例といえるのが中央パネルには聖人が描かれ、両翼には天使や中央パネルに描かれた聖人の生涯が補足的に追加されていることである[71]。14世紀後半ごろにはネーデルラントで描かれた三連祭壇画がヨーロッパ諸国で有名となり、1500年代初めごろまでこれらの祭壇画には大きな需要があった。当時絶頂期を迎えていたブルゴーニュ公国はヨーロッパ諸国に強い影響力を持っており、初期フランドル派の画家たちによる美術革新はすぐさまヨーロッパ全土へと広まっていった。この時期に制作された初期フランドル派の祭壇画には彫刻と絵画の両方の技法が使用されており、文字が彫刻された中央パネルと、折りたたんだときにその中央パネルを隠すことができる、絵画が描かれた両翼とで構成されていた。このような祭壇画は、主として1380年代のドイツ人のパトロンの依頼によって制作されている。しかしながら、大規模な祭壇画の輸出が始まったのは1400年ごろからのことだった。1560年代の偶像破壊運動(イコノクラスム)によって、ネーデルラントに保管されていた多くの祭壇画は破壊されてしまい、1400年以前に制作され、主にドイツの教会や修道院からもたらされた祭壇画も失われてしまった[72]

『キリスト降誕の多翼祭壇画』(1450年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

初期フランドル派の画家による、現存する最初期の祭壇画は極めて少ない。1380年代以降に制作された、文字が彫刻された中央パネルと絵画が描かれた両翼で構成された、作者未詳の三連祭壇画はさらに希少である[73]。当時「三連祭壇画(: triptiek)」という言葉は存在せず、このような作品は「扉のある絵画」と呼ばれていた[74]。両翼が折りたたみ可能なのは、純粋に実用的な理由からである。両翼は宗教的祝日のみに開かれることが一般的であり、内面に描かれた絵画はそれ以外の日に観ることはできなかった。内面に比べてはるかに地味な外面を普段は目にしていることによって、内面に描かれた絵画を観るときにより鮮烈な印象となる。三連祭壇画よりも多くのパネルで構成され、様々な内面と外面とを持つことができる多翼祭壇画は、より強い視覚的効果を与えることが可能となる。フーベルト・ファン・エイクが制作を始め、制作途中に死去したフーベルトの後をついで弟のヤン・ファン・エイクが1432年に完成させた『ヘントの祭壇画』は、平日、休日、祝日それぞれで異なった翼が開かれていた。『ヘントの祭壇画』は総数24枚のパネルで構成されており、開くパネルの組合せによって様々な意味を作品に持たせることができたのである[75]

『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年頃)、フーホ・ファン・デル・フース
ウフィツィ美術館(フィレンツェ

15世紀半ばの初期フランドル派の祭壇画が高く評価されていたことは、ヨーロッパ諸国の著名な修道院、教会に作品が収蔵されていたことからも間違いない。美術史家のティル=ホルガー・ボルヘルトは「このような優れた祭壇画は洗練された文化の反映であり、15世紀前半にそのような名声を誇っていたのはブルゴーニュ公領ネーデルラントだけだった」としている[76]。1390年代までに、主としてブリュッセルやブルッヘで制作されたネーデルラントの祭壇画が北ドイツの教会から購入された。とりわけブリュッセルで制作された祭壇画の人気は1530年ごろまで続いている。しかしながら、その後アントワープの工房で制作された祭壇画が人気を得るようになった。アントワープでは、祭壇画のパネルに描く絵画を複数の工房で分担するという新しい制作手法が主流となっており、このことについてボルヘルトは分業の初期形態であると指摘した[76]

1500年代半ばごろから新しい芸術運動であるマニエリスムが主流となり、初期フランドル派が好んで描いた複数のパネルからなる祭壇画は古めかしいものと見なされて人気を失ってしまった。さらにイコノクラスムのために、多くの国々でこれらの祭壇画が不快で卑俗なものであると考えられるようになった。複数のパネルで構成されていた祭壇画は解体されて、それぞれが別個の作品として売買され、一人の人物が描かれたパネルであれば肖像画として流通していた。一枚のパネルが肖像ごとに裁断され、背景を塗りつぶされてしまった例もあり、美術史家キャンベルはこれらの作品が「優れた17世紀オランダ絵画のコレクションに紛れて飾られていたとしても何の違和感もなかっただろう」としている[77][78]

ディプティク[編集]

『聖母子とマールテン・ファン・ニーウウェンホーフェ』(1487年)、ハンス・メムリンク
メムリンク美術館(ブルッヘ)

ネーデルラントでディプティク形式の絵画が描かれだしたのは15世紀半ばのことで、とくに1430年代から1560年代にかけて、小美術品の愛好者たちに新しい工芸品として好まれた[79]。当時制作されたディプティクの多くは、片面に注文主の肖像画、もう片面に聖人が描かれたものだった。これは、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、フーホ・ファン・デル・フース、ハンス・メムリンク、ヤン・ファン・スコーレルが発展させた形式である。ディプティクの多くは小さなもので、蝶番でつながれ書物のように開くことができる、同じ大きさの2枚のパネルから構成されている。双方のパネル内面に描かれた絵画は共通のテーマを持っていることが多い。

『受胎告知』(1467年 - 1470年)、ハンス・メムリンク
グルーニング美術館(ブルッヘ)

ディプティクとロケットは、どちらも蝶番によって開閉できる、内側が絵や写真で装飾されている小工芸品といえるが、ディプティクはロケットとは違って直接身につける装飾品ではない。ディプティクの外面は内面に描かれた絵画の付属的なもので、注文主の紋章や大理石装飾が施されていることが多い[80]。宗教的な目的で制作されることが多く、大きさ、価格ともに手ごろなものだった。なかには、依頼主の夫妻をそれぞれのパネルに描いた作品もみられる[81]。宗教的モチーフとしては同一のものが何度も使用されており、とくにメムリンクの作品にみられるように「聖母子」を描いたディプティクが数多く残っている[82]。これは当時聖母マリア信仰が盛んだったことによる。

ディプティクが北ヨーロッパで広まったのは、14世紀後半の宗教的価値観の変化が一因となっている。例えば、一種の宗教改革であるデヴォティオ・モデルナ (en:Devotio Moderna) が推進したものがあげられ、より深い瞑想的、内省的な宗教観が大衆に受け入れられるようになり、個人的に行う沈思黙考や信仰が広まっていた。一人で持ち運びや取扱いができる小さなディプティクがこのような目的には適しており、ネーデルラントやドイツの新興中産階級、裕福な修道会に好まれたのである[21]

現存しているディプティクには、構成している2枚のパネルの技法に大きな差異があるものが多く、このことはそれぞれのパネルが異なる時期あるいは別の作者によって作成されていることを意味する。この理由として美術史家ジョン・ハンドは、不特定多数向けに公開市場で売買されていた宗教的モチーフが描かれたパネルと、ディプティクの注文主が画家に個人的に描かせた自身の肖像画のパネルとを組合わせて、当時のディプティクが制作されていたためであるとしている[83]。当時制作されたネーデルラントの祭壇画と同様に、後世になってからディプティクの多くが切り離されてそれぞれ別の作品として売りさばかれた。額装や蝶番も含めた当時そのままの状態で現存しているディプティクは極めて少ない。

装飾写本[編集]

トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵の一枚(1409年頃)
この時祷書の挿絵には、ヤン・ファン・エイク、フーベルト・ファン・エイク、バーテルミー・デックリンブルク兄弟らの作品が含まれていると考えられている。

1400年代半ばごろまでは、板に描かれた板絵よりも、装飾写本のほうがより優れた美術品であるとみなされていた。古くから修道院を中心として伝統的に制作されていたが、12世紀ごろには一定の品質が求められるようになり、専門の工房で制作されるようになった。そして装飾写本の内容も、時祷書や祈祷書のような宗教関連だけではなく、歴史書、小説、詩集や、現在では自己修養書に含まれるような道徳本など多岐に渡るようになっていく。14世紀のパリ、ローマ、そしてネーデルラントでは、それまでの修道院の回廊に設けられた写字室での高級装飾写本が制作されることはなくなり、都市部の工房での制作へと移行していった[84]。しかしながら、その内容が宗教的なものから大衆受けするものに大きく変わっただけで、装飾写本の製作過程自体はほとんど変化することはなかった。装飾写本に対する需要は増大していったが、修道院に蔵書されている装飾写本を目にする機会が大衆にとってはほとんどなかったこともあり、世俗の写字者と挿絵画家が大衆からの個人的な制作依頼を受けるようになった[85]。装飾写本の制作依頼をする人物には修道僧のような暮らしを送り、修道服のような格好をしている人々が多かった。当時の装飾写本の挿絵画家は著名で高く評価されており、画家たちの記録も多く現存している[86]

1300年代のネーデルラント、とくにフランドル地方には大小を問わず多くの修道院が存在していた。これらの多くは個々の私有財産を持ち、建物の増改築や内装などに使用する美術品もまた自由裁量に任されていた。このような宗教施設のほとんどが、彩色された祈祷書や聖書の制作ないし写本を重要視しており、とくに聖人の生涯を扱った書物を収集することが多かった。15世紀になるころには、こういった書物への需要がさらに増大し、装飾写本タペストリーが多くの芸術家にとって金銭収入的に重要な創作物となっていった[87]。当時ネーデルラントで制作された有名な装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』にファン・エイク兄弟の初期の作品も含まれていると考えられているとはいえ、おそらくシモン・マルミオンがこの分野でもっともよく知られ、成功を収めた芸術家である[88]。この時期に制作された装飾写本のなかにヘラルト・ダヴィトの作品と強い類似性がある装飾写本が存在するが、これらの作品群がダヴィト本人の作品なのか、あるいはダヴィトの模倣者の作品なのかははっきりしていない[89]

当時の装飾写本は優れた美術品として珍重され、装飾写本を所持することは、財産、社会的地位、芸術的審美眼などの所有者であることを意味していた。さらに装飾写本は外交的贈答品や、王族の結婚記念品として用いられることも多かった。装飾写本の制作が修道院から世俗へと移行して以来パリが主な生産地であったが、1440年代からネーデルラントのブルッヘやヘントが台頭し、重要な生産地となっていった。これは芸術を庇護したブルゴーニュ公フィリップ3世の影響も大きく、フィリップ3世はその死去までに1,000点を超える装飾写本を注文している[90][91]。15世紀初頭には装飾写本が板絵よりも高く評価されており、多くの画家たちも高価な写本の挿絵を描いた。そしてこのことが画家の技量を広く宣伝する結果にもつながったのである[92]

再評価と学術研究[編集]

再評価[編集]

『聖ヴェロニカ』(1410年)、フレマールの画家(ロベルト・カンピンとされる)
シュテーデル美術館フランクフルト

16世紀には諸国の王室による美術品収集が盛んになった。ハンガリー女王マーリアとスペイン王フェリペ2世が、この時代に初期フランドル派の絵画を最初に収集し始めた国王で、どちらの王もファン・デル・ウェイデンとボスの作品を好んでいた。そして17世紀初頭の時点で、評価の高いコレクションには15世紀から16世紀の北ヨーロッパ絵画が必ず含まれていた。しかしながら北方ルネサンス絵画全体で見ると、当時もっとも評価されて収集対象となっていたのはドイツ人画家アルブレヒト・デューラーの作品である。1550年にはジョルジョ・ヴァザーリが、1604年ごろにはカレル・ヴァン・マンデルがそれぞれの画家に関する伝記で、初期フランドル派の画家たちのことを北方ルネサンスの中心として位置づけている。ヴァザーリはその著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の初版で、ヤン・ファン・エイクを油彩画の発明者であるという「誤った」記述をしている。しかしながら、このような誤りが散見されるにせよ、どちらの著作も初期フランドル派が美術史上非常に重要な画家たちであり、とくにヤン・ファン・エイクが絵画における革新者であるということを後世に伝える大きな役割を果たしたといえる[93]

17世紀から18世紀ごろにマニエリスムが台頭し、初期フランドル派の絵画は人気を失い、忘れ去られた存在となっていった。1821年にアルトゥル・ショーペンハウアーの母で作家だったヨハンナ・ショーペンハウアー (en:Johanna Schopenhauer) が、ヤン・ファン・エイクらの作品に興味を持つようになり、1827年にズルピツとメルキオールのボワスレー兄弟がハイデルベルクに所有していた初期フランドル派のコレクションを見学している[94]。そしてヨハンナは、ほとんど残っていない初期フランドル派の画家たちに関する歴史的文献の最初期の研究者となった[95]。その成果が1822年に出版された『ヤン・ファン・エイクとその後継者 (Johann van Eyck und seine Nachfolger )』であり、さらに同じ年にドイツ人美術史家グスタフ・フリードリヒ・ワーゲン (en:Gustav Friedrich Waagen) が、初期フランドル派の近代における最初の学術論文『フーベルトとヤン・ファン・エイク (Ueber Hubert und Johann can Eyck )』を発表した[96]

読書するマグダラのマリア』(1435年 - 1438年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
ナショナル・ギャラリーロンドン
ナショナル・ギャラリーが購入した、初期フランドル派の「小規模だが粒より」のコレクションの一つ

1830年のベルギー独立革命によってネーデルラント連合王国からベルギーが独立し、初期フランドル派の画家にゆかりのある諸都市、例えばブルッヘ(ヤン・ファン・エイク、ハンス・メムリンク)、アントワープ(クエンティン・マセイス)、ブリュッセル(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ピーテル・ブリューゲル)、ルーヴェン(ディルク・ボウツ)などがベルギー領となった。建国に伴い新しく創設されたベルギーの諸州が競って自らの文化的優位性を高めようとしたことにより、当時それまでそれほどではなかったハンス・メムリンクの評価が、ヤン・ファン・エイクと同等にまで高まるという結果をもたらした。メムリンクは非常に高い絵画技術をもち、深い感情表現に優れた巨匠であるとみなされたのである[97]

一般の収集家やドイツの美術館が、後に莫大な価値となる初期フランドル派の作品のコレクションの先駆けとなった。イギリス人貿易商エドワード・ソリー (en:Edward Solly) が1818年にファン・エイク兄弟の傑作『ヘントの祭壇画』のベルリンにあったパネル6点を購入したことなどが、このような先見の明がある好例といえる[98]。1848年にエッティンゲン=ヴァラーシュタイン公子ルードヴィヒがヴァラーシュタイン城に所有していた、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンの作品を含むコレクションを売却されることを余儀なくされ、従兄弟でイギリス女王ヴィクトリアの王配アルバートが、ロンドンのケンジントン宮殿にて販売用の展示会を開催した。しかしながらこのときには買い手がつかず、結局アルバートがすべての作品を購入している[99]。1860年にイギリス人建築家チャールズ・イーストレイク (en:Charles Eastlake) がロンドンのナショナル・ギャラリーの依頼を受けて、エドモンド・ボークザンが所有していた初期フランドル派の「小規模だが粒より」のコレクションを購入した。このコレクションには、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『読書するマグダラのマリア』を始め、ロベルト・カンピンの2点の肖像画、シモン・マルミオンの肖像画や板絵などが含まれていた[100][101]

学術研究[編集]

20世紀初頭に初期フランドル派に関する極めて重要な学術的業績をあげたのは、ドイツ人美術史家マックス・ヤーコプ・フリートレンダー (en:Max Jakob Friedländer) である。1903年の先駆的な大著『15、16世紀のネーデルラント絵画の名作 (Meisterwerke der niederländischen Malerei des 15. und 16. Jahrhundert )』と1916年の『ヤン・ファン・エイクからブリューゲルまで (Von Jan van Eyck bis Bruegel )』がそれである。フリートレンダーの著作は主として画家たちの伝記的側面が中心であり、有名な初期フランドル派絵画の作者の特定、学説の結論付けに大きな功績を残した。これらの業績は、作品の記録や画家たちの公式文書がほとんど現存していないなかでの、非常に困難な研究の結果だった。

その後、フリートレンダーの研究は、1950年代、1960年代になって、ドイツ人美術史家エルヴィン・パノフスキーらがさらに発展させていくことになる。そしてパノフスキーはフリートレンダーが手をつけなかった、初期フランドル派の作品に含まれる多種多様な象徴、寓意の研究の第一人者となっていった[102]。パノフスキーは初期フランドル派を説明する上でよく使用される用語を確立し、現存する有名な祭壇画に描かれた宗教的寓意の判別に重要な役割を果たした。さらに近年の研究では、ロンドンのナショナル・ギャラリー所属の美術史家ローン・キャンベルが手がけているように、エックス線と赤外線解析による画家たちの絵画技法、使用素材の分析が進んでいる。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
  2. ^ ヤン・ファン・エイクは、17世紀初めに画家・美術史家カレル・ヴァン・マンデルから「アペレスの再来」と絶賛された。
  3. ^ Spronk, p.7
  4. ^ 「フレマールの画家」と呼ばれる画家と同一視されている。
  5. ^ Ridderbos et al, p.5
  6. ^ a b c Janson, H.W. Janson's History of Art: Western Tradition. 7th rev. ed.,New York: Prentice Hall. 2006 ISBN 0-13-193455-4
  7. ^ 単に「フランドル絵画」、「ネーデルラント絵画」ないし「オランダ絵画」といった場合には、17世紀初頭の作品群(オランダ黄金時代の絵画)を指すことのほうが多い。Spronk, p.7
  8. ^ Panofsky (1969), p.165
  9. ^ Borchert, p.248
  10. ^ ジョルジョ・ヴァザーリ、『画家・彫刻家・建築家列伝』。
  11. ^ Vlieghe, Hans. "Flemish Art, Does It Really Exist?". In Simiolus: Netherlands Quarterly for the History of Art, vol. 26, 1998. pp.187 - 200).
  12. ^ a b Kemperdick, in "van Eych to Durer". p.55
  13. ^ Smith pp.89 - 90
  14. ^ Borchert, p.117
  15. ^ Borchert, p.101
  16. ^ Borchert, p.247
  17. ^ van den Brink, Peter; Lohse Belkin, Kristin; van Hout, Nico. ExtravagAnt!: A Forgotten Chapter of Antwerp Painting, 1500-1538 (catalogue). Antwerp: Koninklijk Museum voor Schone Kunsten, 2005. ワルター・フリートレンダーの著作『Mannerism and anti-mannerism in Italian painting]によって世に知られるようになった「マニエリスム」という言葉を体系づけた文献で、アントワープ・マニエリスムの定義づけを試みた最初期の文献の一つである。
  18. ^ Toman, p.335
  19. ^ Pietro Allegretti. Brueghel. Milan:Skira, 2003. ISBN 000001088X
  20. ^ a b Toman, p.317
  21. ^ a b Hand et al., p.3
  22. ^ a b Toman, p.317
  23. ^ Toman, p.198
  24. ^ このような個人的な依頼で描かれる宗教画には、依頼主自身の肖像が絵画の登場人物として描かれることがあった (en:donor portrait)。
  25. ^ Campbell, p.20
  26. ^ a b 初期フランドル派が、ほかに比肩するものがないほどにイタリアに大きな影響を与えたとする学説はフリートレンダーの研究が初出で、のちのパノフスキーも同意見であるとして賛意を示している。(Lisa Deam, "Flemish versus Netherlandish: A Discourse of Nationalism", in Renaissance Quarterly, vol.51, no.1, 1998. 1-33. Also noted (28–29) is the increased interest by art historians in demonstrating the importance of Italian art on Early Netherlandish painters.)
  27. ^ パノフスキーは「三箇所のアーチから見ることが出来る屋内風景」と表現している。 Panofsky (1969), p.142
  28. ^ Panofsky (1969), pp.142 - 143
  29. ^ Penny Howell Jolly, "Jan van Eyck's Italian Pilgrimage: A Miraculous Florentine Annunciation and the Ghent Altarpiece," Zeitschrift für Kunstgeschichte, vol. 61, no. 3 (1998), pp.369 - 394.
  30. ^ Ridderbos et all, p.378
  31. ^ Panofsky (1969), p.163
  32. ^ Smith, pp.58 - 60
  33. ^ 油絵具に使用される油脂はアマから抽出されるアマニ油が多いが、クルミなど他の植物の油脂も使われることがある。
  34. ^ Jones, p.9
  35. ^ Smith, p.61
  36. ^ Jones, pp.10 - 11
  37. ^ Borchert, p.22
  38. ^ Borchert, p.24
  39. ^ Toman, p.322
  40. ^ ヤン・ファン・エイクは『アルノルフィーニ夫妻像』制作時に犬の影の部分に指を使っている。
  41. ^ a b Campbell, p.31
  42. ^ "『聖母子と聖バルバラ、聖カテリナ』"。 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)、2011年11月7日閲覧。
  43. ^ "『キリストの埋葬』"。 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)、2011年11月7日閲覧。
  44. ^ 現在の研究では、当時キャンバスに描かれていたのは作品全体のおよそ三分の一程度とも考えられているが、それらの作品のうち現在まで残っているものは極めて少なく、現存している初期フランドル派の絵画はほとんどが板絵となっている (Ridderbos, p.297)。
  45. ^ Ridderbos, pp.296 - 297
  46. ^ a b Campbell 1998, p.20
  47. ^ Châtelet, Albert. "Early Dutch Painting, Painting in the northern Netherlands in the 15th century". Montreaux: Montreaux Fine Art Publications, 1980. pp.27 - 28. ISBN 2-8826-0009-7
  48. ^ ブルッヘは、銀行業で巨大な富を築いたイタリアのメディチ家にとっても重要な経済都市だった。
  49. ^ Smith, pp.26 - 27
  50. ^ ブルゴーニュ公フィリップ2世が建設し、数々の高価な美術品が収蔵されたシャンモル修道院も参照。
  51. ^ a b Jones, 25
  52. ^ Campbell, p.21
  53. ^ a b c Jones, p.28
  54. ^ Jones, p.29
  55. ^ Powell, p.708
  56. ^ Wolffe & Hand, xii
  57. ^ Bauman, p.4
  58. ^ Kemperdick, p.19
  59. ^ デューラーの父は金細工師で、息子のデューラーの話では、ネーデルラントで働いていたときに「偉大な芸術家」に出会ったとされている。デューラー自身も1520年から1521年にネーデルラントに滞在しており、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市を訪れている (Borchert, p.83)
  60. ^ Rupprich, Hans (ed). "Dürer". Schriftlicher Nachlass, volume 3. Berlin, 1966. 9.
  61. ^ Smith, p.95
  62. ^ Rothstein, p.51
  63. ^ Bauman, 5
  64. ^ Smith, p.96
  65. ^ Kemperdick, p.21, p.92
  66. ^ Kemperdick, pp.21 - 23
  67. ^ Smith, pp.104 - 107
  68. ^ Kemperdick, p.24
  69. ^ Kemperdick, p.25
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  78. ^ ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた祭壇画で、裁断された状態で現存している『読書するマグダラのマリア』も参照。
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  94. ^ このボワスレーのコレクションは1827年にドイツ人画家ヨハン・ゲオルグ・フォン・ディリスの勧めで1827年に売却され、アルテ・ピナコテークの中核コレクションの一つとなった
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  99. ^ John Steegman, 1950. Consort of Taste, excerpted in Frank Herrmann, The English as Collectors, p.240; ヴィクトリア女王はアルバートの死後、このときに購入した絵画のなかでも最も優れた作品をナショナル・ギャラリーに寄付している。
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参考文献[編集]

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関連文献[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]