ハールレム

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ハールレム
Gemeente Haarlem
ハールレム中心部のマルクト広場にあるグローテケルク (「大聖堂」)
ハールレム中心部のマルクト広場にあるグローテケルク (「大聖堂」)
ハールレムの市旗 ハールレムの市章
基礎自治体、
都市旗
基礎自治体、
都市章
愛称 : 花の街(Bloemenstad)
標語 : "善は軍を圧倒する(ラテン語表記:Vicit vim virtus)"
位置
の位置図
位置
ハールレムの位置(オランダ内)
ハールレム
ハールレム (オランダ)
ハールレムの位置(北ホラント州内)
ハールレム
ハールレム (北ホラント州)
ハールレムの位置(北欧と中欧内)
ハールレム
ハールレム (北欧と中欧)
地図
地図
座標 : 北緯52度22分53秒 東経4度38分09秒 / 北緯52.381379度 東経4.635753度 / 52.381379; 4.635753
行政
オランダの旗 オランダ
 州 (Provincie) 北ホラント州の旗 北ホラント州
 基礎自治体、
都市
ハールレム
市長(en) ジョス・ウィーネン
Jos Wienen[1]
CDA
地理
面積  
  基礎自治体、
都市域
32.12 km2
    陸上   29.32 km2
    水面   2.8 km2
標高 2 m
人口
人口 (2017年8月 現在)
  基礎自治体、
都市域
15万9,556人
    人口密度   5,461人/km2(1万4,140人/mi2
  市街地 20万4,429人
  都市圏 42万447人
  備考 [2]
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
オランダの郵便番号(英語) 2000–2037, 2063
市外局番 023
面積[2]、標高[3]
公式ウェブサイト : http://www.haarlem.nl/
スパールネ川

ハールレム(Haarlem [ˈɦaːrlɛm] ( 音声ファイル))は、オランダ北ホラント州にある基礎自治体ヘメーンテ)であり[2][注 1]、州都が置かれている都市。ニューヨークハーレム地区の名称は、このハールレムに由来する。ハーレムとも表記される。

地勢・産業[編集]

ハールレム(市域)の地形図画像、2014年3月

街の中心部から北海沿岸まで約5キロメートル程度。スパールネ川沿いに位置する印刷業のほか、チューリップヒヤシンスなどの球根栽培も盛んである。近隣の都市としては、約20キロメートル東のアムステルダム、30キロメートル北のアルクマール、25キロメートル南のライデンなどが挙げられる。

街のあだ名は川にちなんで「スパールネの街」(スパルネストタド)、あるいは何世紀もの間、園芸栽培で栄えたことから「花の街」と呼ばれる。

歴史[編集]

1245年都市権を得る。中世後期には、毛織物造船などの産業が発達した。

市域をめぐる壁が築かれるのは、都市権を獲得してから20年以上を経た1270年である。現在の市域にはかつてのスコーテン Schoten、また以前は行政上ブルメンダールヘームステーデに属した地域も組み入れられた。スパールンダム Spaarndam の西部は基礎自治体としてハールレムに含まれるが、新興住宅地は行政区分上、隣接するハーレマーメールに属する。

16世紀後半の八十年戦争では、1572年11月より激しいスペイン軍の攻撃を受け、数か月の抵抗を見せるも翌年7月に降伏した。1577年の講和によってスペイン軍は撤退し、カトリックプロテスタントの同権が確認された。これ以降、フランドルより多くの難民が流入し、彼らによって麻織物工業や漂白の高度な技術がもたらされた。そのため、この時期のハールレムはヨーロッパ屈指の漂白地として繁栄を取り戻した。

そのほか、17世紀頃よりチューリップなどの球根栽培が盛んに行われ、今日に至るまでハールレムの主要産業の1つとなった。1839年、オランダ初の鉄道がアムステルダムとハールレムの間で開通した。

宗教[編集]

ハールレムには9世紀からキリスト教の教区教会が置かれ、初めての教会は聖ウィリブロルドによって695年に設立されたフェルセンの教会の「娘」という位置づけで、現在のマルクト広場(en 中央市広場)にその木造の教会があった。跡地に立つのが大聖堂 St.-Bavokerk である。アヴィニョン教皇時代の1309年にローマ教皇クレメント5世に初めて贖宥状を与えられ、人口が増え教会が拡張されると、1245年、都市の権利を受けた。その後1347年と1351年の火災があり、ハールレムは教会再建の資金集めに1397年に再びポルティウンクラ (en) の贖宥状を受ける。ところがこれは数世紀にもわたって繰り返し使用され、拡張と修復に資金をもたらした。

おそらくローマとの強い結びつきがなかった理由は、アヴィニョン教皇の贖宥状を得たからと考えられる。町の中心に立ち大聖堂と呼ばれる教会にエクス・カテドラ (司教座) が置かれたのは1559年から1578年までのたった19年でしかない。その教会 (Sint-Bavokerk) はもとは教区教会として聖マリア教会と称し、1274年にフリースラント軍 (Kennemers) あるいは西フリースラント軍など侵略を受けるたび天国から降臨してハールレムを解放したという守護聖人バーフ (en)にちなんで、聖バーヴォ教会と改称された。この故事にしたがい、1572年のスペイン軍による包囲戦でハールレム軍の勝鬨 (かちどき) 「Sint Bavo voor Haarlem」(ハールレムの聖バーフ) が生まれたと伝わる。スペインとの戦いはグーツミツプレイン (Goudsmitsplein) に地下教会聖ジョセフスタティが建つきっかけとなった。

ローマカトリック小教区は1559年に教区になり (Dioecesis Harlemensis)、初代司教ニコラース・ファン・ニーランド (1510年生まれ) が1561年11月6日に着座する。1569年、飲酒の咎 (とが Dronken Klaasje) をいさめるアルバ公に辞任を勧められる。司教はスペインのカトリック教徒の侵略ばかりか地元オランダの改革派をも恐れ、悲しみをかき消そうと飲酒に走ったとされる。このときは1566年に市長命令による教会封鎖が数か月続いたため、イコン破壊を免れた。この期間にカトリック教会につながる象徴や像はすべて取り払われ、教会堂内には既にいくつものグループがチャペルを築いていたことから、おのおのが教会にしのびこんでは宝物を持ち出し、混乱もなくひそかに地下教会に運び込んだ。しかしながらハールレムの陥落 (siege of Haarlem) をきっかけにスペイン軍がカトリック教の図像をふたたび配置する。ギルドがそれぞれの祭壇を修復するには莫大な費用がかかった。スペインとの戦いで消耗したハールレムの財界は行き詰まり、維持しきれなくなったチャペルやカトリック教会の建物が廃れて別の用途に転用される例が相次いだ。兵士1500人が捕虜として収容され、処刑を待ったバーケネッセル教会 Bakenesserkerk などは50年にわたり泥炭倉庫として使われることになる。

ニーランド司教の後継者ゴッドフリード・ファン・ミエルロ (ドミニコ会) でハールレムとローマの300年にわたる交わりが終わる。スペイン軍が敗北した1578年の聖餐日 (5月29日)、教会がウィレム1世 (オラニエ公)の軍の攻撃にさらされると司祭が一人殺され、教会の多くの物が破壊された。「ハールレムの正午」(Haarlemse Noon) と呼ばれるこの出来事により司教は逃亡を余儀なくされる。それでも教会の宝物の多くは、教会から500メートル以内に築かれた地下の教会に保管されていた。市議会は聖バーフ教会とそのすべての小教会を没収すると、後に福音改革派教会の教義に沿って改宗させ、新しく (現在に至る) 「大聖堂」Grote Kerk に改称させる。旧カトリック教徒とルター派は公的に容認されながら地下に潜った。プロテスタントもカトリックも、政治不安がすべて収まったときに「彼らの」教会の支配を取り戻すのはカトリックだろうと予想していたが、オランダのプロテスタントは自分たちがカトリック教徒をひとり残らず地方自治体から排斥したため、もし再びカトリック教会を容認した場合、損害賠償を課されることを恐れた。オランダ全土で新しいカトリック教会が建ち、水道のポンプ施設と類似しているため (同じ建築家によるネオクラシカル様式の設計)、ウォーターボード教会と呼ばれる。1841年にはハーレルムのヤンストラート Jansstraat に聖ジョセフ教会を新築、ようやくローマカトリックの司教座が設置されたのは1853年を待つことになる。教会が大きくなると、1898年にライツェヴァール (ライデン運河) 沿いに聖バーフ大聖堂と呼ばれる別の大聖堂が建てられた。ハールレム司教は新教会運河 (Nieuwe Gracht canal) に正式な司教館を構えている。

ハールレムには旧カトリック司教も着任、また独自のシナゴーグを持つ小さなユダヤ人コミュニティも現存する。

元のハールレム市立博物館であったフランス・ハルス美術館は現在も、「ハールレムの正午」に教会から没収された作品を多く収蔵する。

文化と娯楽[編集]

美術館、博物館[編集]

市内に博物館、美術館は数箇所あり、オランダ最古はスパーネ川沿いのタイラーズ美術館 Teylers Museum である。ミケランジェロレンブラントの作品を含む美術博物学科学の資料を収蔵する[4]。前出のフランス・ハルス美術館の本館はオランダの巨匠の作品を集め、マルクト広場の分館は現代美術専門のデハーレン De Hallen である。同じ広場には「精肉会館」(en) の地下にハールレム考古学博物館 (en)、広場を挟んだ向かいのビルは毎週土曜日にハールレムの歴史を紹介する展示を公開する。

そのほか、ハールレム手回しオルガン博物館(en)、16世紀創設の元養老院に設けられたドルフィー (en 精神医学博物館)、時計商の店舗をそのまま保存したテンブーム記念館 (en 第二次世界大戦中にユダヤ人を隠匿[5]) があり、フランス・ハルス美術館の向かい側に立つ建物はハールレム歴史博物館である (Historisch Museum Haarlem)。

劇場、映画館、文化センター[編集]

劇場や映画館も複数あり (美術館・博物館併設を除く)、フィルハーモニーは都心のマルクト広場に近いコンサートホール、隣の Toneelschuur 劇場は映画のスクリーンが複数面備わっている (単に映画小屋 Filmschuur とも呼ばれる)。市民劇場 Stadsschouwburg (ウィルソン広場) は大規模改修を経て2008年に再オープンし、定員は698席である[6]

すでに閉館した映画館は2館で、1915年創設のシネマパラスはオランダ屈指の古さを誇りながら2011年1月15日に惜しまれつつ廃業した[7]。またもう1軒のブリンクマン・シネマはマルクト広場に面し、閉館日は2012年2月1日である[8]。市内の映画館はほかに1軒だけ残り、パテ・ハールレムはラークスの新しいショッピングセンターで2011年7月5日に営業を開始している[9]

ポップスのコンサート会場パトロナート (en) はオランダ国内でも最大の会場の一つ。市民や市外からの訪問者を迎える人気のナイトスポットでもある。

年中行事[編集]

ハールレマーハウト公園の森。
公園のヒルデブランド記念碑。

花の行列 bloemencorso (英語)という毎年4月恒例の行事では、花で装飾した台車を連ねてノートウェイク Noordwijk (英語)からハールレムまでパレードを運行し、1日だけ展示する。同月にはマルクト広場とハールレム・ノルトで移動遊園地が開く。その他、同じくマルクト広場を会場に行われる行事特筆すべきは、恒例の音楽祭ハールレム・ジャズ・アンド・モア (旧称ハールレム・ジャズ・スタッド)、料理人が技を競うハールレム・キュリネールが著名で、1年おきに開かれるコミック関連のハールレム・ストリップダゲン Haarlemse Stripdagen も人気がある。

毎年5月5日、オランダがナチスから解放された記念日に開かれるベフレーディスポップ音楽祭 Bevrijdingspop の会場はハールレマーハウト公園 (en) で、この公園ではほかに音楽と演劇の祭典ハールレマーハウト・フェスティバルも行われる。

スポーツ界[編集]

2006年のハールレムベースボールウィーク (ピム・ミュリエ競技場)

ハールレムに本拠地を置くスポーツクラブはいくつもあり、多様な種目に取り組んでいる。また、国際競技大会の招致にも積極的である。

サッカー[編集]

アマチュアリーグに参加するサッカークラブのほか、かつてはプロリーグのクラブ HFCハールレム があったが2010年1月に経営不振に陥り解散した。1879年創設のロイヤル・ハールレムシェ・サッカークラブ (Koninklijke HFC) は現在も活動を続け、創設者ピム・ミュリエが築いたネーデルラント王国初のサッカークラブは、オランダ史上初のクラブの歴史をつむいでいる。

野球・ソフトボール[編集]

オランダは野球ソフトボールにおけるヨーロッパの強豪国として知られている。とりわけハールレムは昔から野球・ソフトボールが盛んな地域で、国際大会の開催都市にも指定されているほか、キンヘイムスパークス・ハールレムなどのクラブチームが国内外の主要大会で数多くのタイトルを獲得してきた。

隔年開催の野球の国際大会・ハールレムベースボールウィークはピム・ミュリエ競技場を使用する。2014年には、発足間もない世界野球ソフトボール連盟 (WBSC) による初の主催大会で、しかもヨーロッパ初開催となった第14回世界女子ソフトボール選手権のホストを務めた。

その他[編集]

テニスクラブ HLTC ハールレム (1884年創設) および柔道のケナムジュ協会 Kenamju (1948年創設) はそれぞれ、その分野でオランダ初の歴史を歩んできた。

ハールレムが招致する国際競技としては、バスケットボールのハーレルム・バスケットボール・クラシック (Haarlem Basketball Classic) もある。サッカーのピッチとほぼ同じ広さを使う氷上の競技バンディの第1回国際試合は1891年に行われ、ハールレムがイギリス南東部に本拠を置くビューリーフェン・バンディ・クラブ (en) と対戦した[10][注 2]。フィールドの広さがアイスホッケーと同じ「リンクバンディ」は今日も続いている[12]

文化関連のエピソード[編集]

モーツァルトが演奏したと伝わるパイプオルガン (ハールレム、聖バーフ教会)
モーツァルトが演奏したと伝わるパイプオルガン (ハールレム、聖バーフ教会)
大空の下に都市と周辺の景色を描いた油絵。
ハールレムの建物群を描いた『View of Haarlem with Bleaching Fields』。ヤーコプ・ファン・ロイスダール作 (1665年前後)

海面より低い国土を囲む堤防に穴を見つけ、指でふさいで決壊を防いだ少年の物語はハールレムの英雄『Hero of Haarlem』として知られている。文学作品でこの都市を舞台にしたものは、古典では大デュマ著『黒いチューリップ』(La Tulipe Noire, 1850年)、最近ではグレゴリー・マグワイヤ Gregory Maguire の『Confessions of an Ugly Stepsister』がある。前者は花弁が黒いチューリップをめぐり最後のシーンをハールレムに設定してあり、物語を受けてハールレム園芸協会は黒色の栽培種の成功に賞金を懸けている。

オランダ東インド会社バタヴィア航路の船が「ヘロニムス・コルネリス」号 Jeronimus Cornelisz と名付けられたきっかけは、破産した同名の化学者が1628年に乗組員になったからである。17世紀になると繁栄するハールレムの街には高い建物が林立して評判になり、その印象深い風景を指す言葉「ハールレンピェ」Haerlempje が生まれた。わけても画家ヤーコプ・ファン・ロイスダールが絵の題材に選んだことから、当時、評判になった都市景観の面影をたとえば『View of Haarlem with Bleaching Fields』で知ることができる[13]。フォークソング『アムステルダム』(アル・スチュワート作詞作曲) の歌詞にハールレムが登場する。映画では『オーシャンズ12』に登場するアムステルダム中央駅の場面はハールレム駅で撮影された。

その他の建築物と史跡[編集]

私設救貧院

18世紀以来、人口単位の美術館・博物館の件数でハールレムを抜くオランダの都市はないといわれている。現在では閉館した文化施設の数でも群を抜く。また中庭を配した私設救貧院 hofjes があり、市内に19箇所と潤沢なこともこの都市の特徴で、主に独身の高齢者女性を入居者に迎える。週末に一般開放するところが多く、また設立団体がそのまま運営を続け高齢の独身女性のみ受け入れる例が大部分を占める。ほかに特徴的な建築物には1389年開学のハールレム・ラテン学校 Stedelijk Gymnasium Haarlem があり、学生主催のモデル世界大会が恒例である。

その他の主な建築群を紹介する。

中央広場(A)に面した聖バーフ教会(E)。向かって左に精肉会館(C)が見える。
中央広場(A)に面した聖バーフ教会(E)。向かって左に精肉会館(C)が見える。

交通[編集]

ハールレム駅は市内で最も重要な鉄道駅。ダーク・マーガダント設計。
Zuidtangentはハールレム市内とスキポール空港を結ぶ質の高い公共交通機関。
航空
自治体域の東がアムステルダム・スキポール空港と接している。空港のターミナルビルまでは、ハールレム駅前のバス停からZuidtangentバス300系統に乗り、所要時間30分である(5分 - 10分に1本運行。市街地を出ると空港手前までバス専用道路を走る)。
鉄道
ハールレム駅より、アムステルダム中央駅への列車が10分 - 15分に1本運行されている(所要時間15分 - 20分)。また、アムステルダム・スローテルダイク駅で乗り換えアムステルダム・スキポール空港へ行くこともできる(所要時間約30分)。そのほか、ロッテルダム中央駅方面行きインターシティや各停、ホールン行き快速 (Sneltrein) なども運行されている。
バス
ハールレム駅前バス停から、Zuidtangentバス急行300系統・175系統(アムステルダム・スキポール空港アムステルフェーン経由アムステルダム・ベイルマー・アレーナ駅行き)が5分 - 10分に1本ずつ運行されている。そのほか、アイマウデン英語版アムステルダム・マルニクス通りバスターミナル、アウトホールン英語版アムステルダム南駅行きなども運行されている。

出身者[編集]

姉妹都市[編集]

姉妹都市協定を交わす自治体は以下の通り[14]

また次の都市と提携している[14]


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ オランダの基礎自治体一覧(英語版)も参照。
  2. ^ 日本では国内初の専用リンクが2017年12月に新得町に建設された[11]
  3. ^ Emirdağとは廃棄物管理をめぐる「廃棄物処理に関する新規定」プロジェクトを進めてきた[15]。すでに業務提携案の合意と処理計画が確立。Emirdağ から今後もハールレムと業務提携を続ける意思が打診された[15]。この交渉は両都市における文化、教育、保健事業ならびに高齢者介護の推進を念頭に置いて施行される。

出典[編集]

  1. ^ Jos Wienen geïnstalleerd als nieuwe burgemeester van Haarlem” (オランダ語). Haarlems Dagblad (2016年9月21日). 2016年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月22日閲覧。 「ハールレムの新市長ハールレムの新市長としてヨス・ヴィーネンが設置Jos Wienen就任」
  2. ^ a b c CBS Statline” (オランダ語、英語). opendata.cbs.nl. CBS. 2019年11月3日閲覧。 公式統計「CBS Statline」
  3. ^ Postcodetool for 2011RD” [郵便番号用ツール2011RD版] (オランダ語). Actueel Hoogtebestand Nederland. Het Waterschapshuis. 2014年2月13日閲覧。 標高統計。
  4. ^ Collections”. Teylers Museum. 2010年5月5日閲覧。
  5. ^ Information”. Ten Boom Museum. 2010年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月5日閲覧。
  6. ^ Stadschouwburg 公式サイト(オランダ語)
  7. ^ Closure of Cinema Palace(オランダ語)
  8. ^ Closure of Brinkmann Cinema”. 2013年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月16日閲覧。 (Dutch)
  9. ^ Opening Pathé Haarlem”. 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月16日閲覧。 過去ログ版。
  10. ^ Algemeen > De geschiedenis” [The history > General] (オランダ語). translate.google.co.uk. 2018年3月28日閲覧。 as edited by Olympicbandy at 15:36, 28 March 2018 (UCT)に脚注を加筆。
  11. ^ 地域経済 > 挑む 新得バンディ連盟理事 大谷賢司さん(31) 氷上スポーツ「バンディ」普及に奔走 国内初のリンクを開設」『日本経済新聞』、2018年3月10日。2019年11月8日閲覧。
  12. ^ Haarlemse Bandy Club - Bandy voor jong en oud sinds 1895” (オランダ語). www.bandyhaarlem.nl. 2014年3月23日閲覧。 as edited by 78.70.110.195 at 13:40, 23 March 2014 (UTC)に脚注を加筆。
  13. ^ Slive & Hoetink 1981, p. 22.
  14. ^ a b Stedenbanden” (オランダ語). haarlem.nl. Haarlem. 2019年10月22日閲覧。
  15. ^ a b Info op stedenbanden.nl

参考文献[編集]

代表執筆者の姓のABC順。

  • Ach lieve tijd: 750 jaar Haarlem, de Haarlemmers en hun rijke verleden, Koorn, F.W.J.他 (編集), Vrieseborch, Zwolle, 1984. (ISBN 90-6630-035-3).(オランダ語)ハールレム史750年とハールレム人。
  • Deugd boven geweld: een geschiedenis van Haarlem, 1245–1995, Ree-Scholtens, G.F. van der (編集); Verloren, Uitgeverij. Hilversum, 1995. (ISBN 90-6550-504-0).(オランダ語)ハーレム市制750周年記念事業。ハーレム歴史作業部会と市立公文書館主導。Kloot, Ab van der (挿絵)、(歴史監修)
  • eschiedenis en beschrijving van Haarlem, van de vroegste tijden tot op onze dagen, F. Allan, J. J. van Brederode, Haarlem, 1874.(オランダ語)
  • Lourens, Piet; Lucassen, Jan (1997) (オランダ語). Inwonertallen van Nederlandse steden ca. 1300–1800. Amsterdam: NEHA. ISBN 9057420082 
  • Slive, Seymour; Hoetink, Hendrik Richard (1981) (オランダ語). Jacob van Ruisdael. Amsterdam: Meulenhoff/Landshoff. ISBN 978-90-290-8471-0 

関連項目[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]