ヴィクトリア (イギリス女王)
| ヴィクトリア Victoria |
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|---|---|
| イギリス女王 | |
1887年
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| 在位 | 1837年6月20日 - 1901年1月22日 |
| 戴冠 | 1838年6月28日、於ウェストミンスター寺院 |
| 別号 | インド女帝 カナダ女王 オーストラリア女王 |
| 全名 | アレクサンドリナ・ヴィクトリア 英語: Alexandrina Victoria |
| 出生 | 1819年5月24日 |
| 死去 | 1901年1月22日(満81歳没) |
| 埋葬 | 1901年2月2日 |
| 配偶者 | アルバート・オブ・サクス=コバーグ・アンド・ゴータ |
| 子女 | 一覧参照 |
| 王家 | ハノーヴァー家 |
| 王朝 | ハノーヴァー朝 |
| 父親 | ケント公爵エドワード・オーガスタス |
| 母親 | ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド |
| 宗教 | イギリス国教会 |
| サイン | |
ヴィクトリア女王(英語: Queen Victoria、1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)の女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)。
目次 |
[編集] 人物
近代以降、英国の最も輝かしい時代であるイギリス帝国の最盛期の象徴として君臨した女王。「君臨すれども統治せず」の立憲君主制の理念によって議会制民主主義を貫き、ベンジャミン・ディズレーリ、そして、王配:アルバートの助言によってイギリス帝国を繁栄させた。その治世はヴィクトリア朝と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。アルバートとの円満な家庭生活はこれを象徴した。また子女が欧州各国と婚姻を結び、ヨーロッパの祖母と呼ばれるに至った。
この時代、イギリスは世界各地を植民地化して一大植民地帝国を築き上げ、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号を得ている。 ヴィクトリア湖、ヴィクトリア滝など、女王の名に因んだ命名も少なくない。
ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められていない。そのためヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、叔父エルンスト・アウグストがその地位を継いだ。
[編集] 家系
母:ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉であった。
レオポルドの妻は摂政王太子(のちのジョージ4世)の一人娘で、イギリスの王位継承者であるシャーロット王女(=ヴィクトリアの従姉)であったが、シャーロットは1817年に死去し、ジョージ4世の直系の後継者はいなくなった。
ジョージ4世は、キャロライン王妃の死後も再婚せず、愛人と隠遁生活に入った。このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子をもうけようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父:ケント公も50歳で結婚した。
[編集] 生涯
[編集] 王女時代
ヴィクトリアの洗礼式に代父となったのは、ケント公の兄・摂政王太子ジョージ、ロシア皇帝アレクサンドル1世(イギリス訪問中で、ジョージとも仲が良かった)。代母は、ケント公爵夫人ヴィクトリアの実母アウグスタ、ヴュルテンベルク公妃シャルロット(ケント公爵の姉)だった。洗礼を司ったカンタベリー大主教マナーズサットンが、赤子の名は何と呼ぶか尋ねたとき、皇帝アレクサンドルが「アレクサンドリナ」と答えた。兄に、聞き慣れない異国風の名前を付けられたケント公爵は、摂政王太子の兄の機嫌を損ねないように、「せめて母親の名前を一つつけたい」と控えめに願い出て、「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」という名前となった。このいきさつもあり、公的に名乗るときは「ヴィクトリア・オブ・ケント」としていた。1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公爵は亡くなった。
母ケント公爵夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3歳までドイツ語のみを話す生活を送った。幼児期に英語の学習を始め、のちに古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学んだ。またオペラを好んだためイタリア語の学習も行った。
ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、王弟ウィリアム4世が王位を継承した。ウィリアム4世には子がなく、ヴィクトリアは推定王位継承者となった。母:ケント公夫人は、ヴィクトリアを厳しい監視下に置いた。
[編集] 女王時代
1837年6月20日、ウィリアム4世の崩御により、ヴィクトリアは18歳で即位した。即位当初の首相:メルバーン子爵の助言により政治を行った。メルバーン子爵を信頼するあまり、1839年に彼が首相を辞した際、後任となるべきロバート・ピールと女官人事をめぐって対立し、組閣を承認せず、メルバーン子爵を続投させ政権交代を阻止してしまった。
1840年2月10日、母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子 アルバートと挙式。1841年、メルバーン子爵が首相を再び辞した際には、本来何らの権限のないアルバートが妥協案をもたらして、女王と新首相ピールを仲裁した。この一件で軋轢が生じたものの、間もなく妥協が成立し、以後20年余りに渡り、アルバートは「良き夫」として女王を公私ともに支えた。1857年になって、アルバートに対し正式に「王配殿下」(HRH the Prince consort)の称号を与えた。
結婚21年目の1861年12月14日、42歳で夫アルバートが死去する。女王は悲嘆し、常に喪服を着用するようになり、数年に渡り公の場に姿を現さなくなった。
後半生においては、ベンジャミン・ディズレーリに絶大な信頼を寄せ、ウィリアム・グラッドストンとは対立した。
晩年は、アルバートを記念した事業に精力を注いだ。その代表例が、ヴィクトリア&アルバート博物館やロイヤル・アルバート・ホールである。「ゴールデン・ジュビリー」と名付けられた即位50周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」と名付けられた60周年の記念式典は、それぞれ盛大に行われた。同名の長女:ヴィクトリア王女とは最晩年まで親密で、数千通に及ぶ書簡が現存している。
1901年1月22日死去。81歳没。在位64年におよんだ[1]。
[編集] 子女
子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至る。しかし女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病した。ヴィクトリア女王の傍系の親族には血友病保因者はいないため、ヴィクトリア女王が血友病の突然変異を持って生まれたと見られる。
- ヴィクトリア(1840年-1901年) - ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后
- アルバート・エドワード(1841年-1910年) - エドワード7世
- アリス(1843年-1878年) - ヘッセン大公ルートヴィヒ4世大公妃
- アルフレッド(1844年-1900年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵
- ヘレナ(1846年-1922年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人
- ルイーズ(1848年-1939年) - アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
- アーサー(1850年-1942年) - コノート公爵
- レオポルド(1853年-1884年) - オールバニ公爵
- ベアトリス(1857年-1944年) - バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ公妃
[編集] 系譜
| ヴィクトリアの血統 (ウィンザー家) | |||
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父
2. ケント公爵エドワード |
4. 英国王ジョージ3世 | 8. 英国王太子フレデリック | 16. 英国王ジョージ2世 |
| 17. キャロライン | |||
| 9. オーガスタ | 18. フリードリヒ2世 | ||
| 19. マグダレーナ | |||
| 5. シャーロット | 10. カール | 20. Adolphus Frederick II | |
| 21. Princess Christiane Emilie | |||
| 11. エリーザベト | 22. Ernest Frederick I | ||
| 23. Countess Sophia Albertine | |||
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母
3. ヴィクトリア |
6. フランツ | 12. エルンスト | 24. Francis Josias |
| 25. Princess Anna Sophie | |||
| 13. ゾフィー | 26. フェルディナント・アルブレヒト2世 | ||
| 27. アントイネッテ・アマーリエ | |||
| 7. アウグステ | 14. ハインリヒ | 28. Heinrich XIX | |
| 29. Countess Sophia Dorothea | |||
| 15. カロリーネ | 30. George Augustus | ||
| 31. Countess Ferdinande Henriette | |||
[編集] 栄典
ヴィクトリアが外国から授与された勲章は以下の通りである[2]。
エチオピア:ソロモン勲章(1897年)
スペイン王国:マリア・ルイーザ勲章(1834年)、カルロス3世勲章
セルビア:タコヴォ勲章(1882年)、白鷲勲章(1883年)、聖サヴァ勲章(1897年)
シャム:白象勲章(1880年)、チャクリ王家勲章(1897年)
ハワイ:カメハメハ勲章(1881年)
ヘッセン:金獅子勲章(1862年?)
ブラジル:ペドロ1世勲章(1872年)
ブルガリア:赤十字勲章(1886年)
プロイセン王国:ルイーゼ勲章(1857年)
ペルシア:太陽勲章(1873年)
ポルトガル:聖イサベル勲章(1836年)、我らが貴婦人ヴィラ・ヴィコサ勲章
モンテネグロ:ダニーロ1世勲章(1897年)
ロシア帝国:聖エカチェリーナ勲章(1839年)
[編集] 人物・逸話
- ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート と初めて会ったのは16歳のときである。血縁関係の他に、2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まった。ちなみに、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚した。女王に求婚することは許されなかったからである。結婚式は1840年2月10日に行われた。
- 身長は約5フィート(150cm程度)で、小柄な女性であった。
- 趣味は、乗馬と日記だった。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させた。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却していたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残している。また、汽車による旅行を好んだという。
- アルバート死後の服喪時代、馬丁(従僕)のジョン・ブラウンを寵愛し、恋仲にあると噂されて「ブラウン夫人」と呼ばれた。
- 純白のウェディングドレスを初めて着用した人物であり、またイギリスにクリスマスツリーを飾る習慣を広めた。
[編集] ヴィクトリア女王を題材にした作品
[編集] 映画
- Queen Victoria 至上の恋 - 1997年、イギリス映画
- ヴィクトリア役:ジュディ・デンチ
- ヴィクトリア女王 世紀の愛 - 2009年、イギリス映画
- ヴィクトリア役:エミリー・ブラント
[編集] 伝記(日本語文献)
- ヴィクトリア女王(リットン・ストレイチー/小川和夫訳、冨山房百科文庫)
- ヴィクトリア女王(スタンリー・ワイントラウブ/平岡緑訳、中央公論社 上下巻/ 中公文庫 全3巻)
- ヴィクトリア女王-大英帝国の戦う女王(君塚直隆、中公新書)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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ヴィクトリア
ヴェルフ家の分家
1819年5月24日 -1901年1月22日 |
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| 先代: ウィリアム4世 |
第4代:1837年6月20日 - 1901年1月22日 |
次代: エドワード7世 |
| (創設) | 初代:1901年1月1日 - 1月22日 |
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初代:1901年1月1日 - 1月22日 |
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| 先代: バハードゥル・シャー2世 (ムガル帝国皇帝) |
初代:1877年1月1日 - 1901年1月22日 |
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