チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)

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第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ
Charles Grey, 2nd Earl Grey
Charles Grey, 2nd Earl Grey by Sir Thomas Lawrence cropped.jpg
2代グレイ伯(サー・トマス・ローレンス画)
生年月日 1764年3月13日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ノーサンバーランド州、Fallodon
没年月日 1845年7月17日 (満81歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスノーサンバーランド州、Howick
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 ホイッグ党
称号 ガーター勲章勲爵士 (KG)
枢密顧問官 (PC)
親族 初代ダラム伯爵 (娘婿)
初代ハリファックス子爵 (娘婿)
第3代グレイ伯爵 (子)
サー・ジョージ・グレイ准男爵(甥)
第4代グレイ伯爵 (孫)
配偶者 メアリ・ポンソンビー
サイン Charles Grey, 2nd Earl Grey Signature.svg

内閣 グレンヴィル男爵内閣
任期 1806年9月24日 - 1807年3月25日
国王 ジョージ3世

内閣 グレイ伯爵内閣
任期 1830年11月22日 - 1834年7月16日
国王 ウィリアム4世
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第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ英語: Charles Grey, 2nd Earl Grey1764年3月13日 - 1845年7月17日)は、イギリスの政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)。

ホイッグ党に所属し、海相(1806年)・外相(1806年 - 1807年)・首相(1830年 - 1834年)を歴任した。

生涯[編集]

ジェントリの家柄に生まれ、イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ[1]

1786年、22歳でノーサンバーランド州選挙区から当選し、以後1807年まで同区選出の、1807年5月から6月までウェストモーランド英語版アップルビー英語版選挙区選出の、同年6月から11月までデヴォンタヴィストック英語版選挙区選出の庶民院議員を務める[2][3]

1792年、社交界の花形でホイッグ党の有力支持者であった第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語版の妻ジョージアナの愛人となった。

チャールズ・グレイと呼ばれたが、1801年に父サー・チャールズ・グレイが男爵に叙され貴族の一員となる。1806年に父が初代グレイ伯爵へと昇叙されたことによって、彼もホーウィック子爵(Viscount Howick)の儀礼称号を帯びた。翌1807年、父の死により爵位を襲い、第2代グレイ伯爵となる。

初期は、小ピット内閣を批判して名をあげる。1806年に海軍大臣、外務大臣に就任。1830年、選挙でトーリー党を破り、ウェリントン内閣(1828年 - 1830年)を崩壊させる。組閣後、七月革命にならい、第1回選挙法改正を成立させる(1832年)。さらに翌年、奴隷法を廃止する。彼以後、自由党(ホイッグ党の後身)と保守党(トーリー党の後身)の二大政党政治が展開されてゆく。1845年7月17日、ホーウィックにて81歳で没。爵位は長男のホーウィック子爵ヘンリー・ジョージ・グレイに受け継がれた。

紅茶好きとしても知られ、アールグレイは彼にちなんで付けられた名前であるといわれている。

子女[編集]

1792年に、デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナとの間に、イライザ・コートネイ英語版という娘を儲けた。イライザは両親の娘(チャールズの妹)として育てられた。

1794年に初代ポンソンビー男爵ウィリアム・ポンソンビーの一人娘メアリーと結婚し、10男6女をもうけた。

出典[編集]

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外部リンク[編集]

先代:
初代バーラム男爵
海軍大臣
1806
次代:
トマス・グレンヴィル英語版
先代:
チャールズ・ジェイムズ・フォックス
外務大臣
1806–1807
次代:
ジョージ・カニング
先代:
チャールズ・ジェイムズ・フォックス
庶民院院内総務
1806–1807
次代:
スペンサー・パーシヴァル
先代:
初代ウェリントン公爵
イギリスの首相
1830-1834
次代:
第2代メルバーン子爵
先代:
初代ウェリントン公爵
貴族院院内総務
1830-1834
次代:
第2代メルバーン子爵
先代:
チャールズ・グレイ
グレイ伯爵
第2代: 1807–1845
次代:
ヘンリー・グレイ