アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
第5代ローズベリー伯爵
アーチボルド・プリムローズ
Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery
RoseberyMillais.jpg
5代ローズベリー伯
生年月日 1847年5月7日
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドンバークレー・スクエア
没年月日 1929年5月21日 (満82歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスサリー州、エプソム
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 自由党
称号 ガーター勲章勲爵士 (KG)
枢密顧問官 (PC)
親族 初代クルー侯爵 (娘婿)
第6代ローズベリー伯爵 (子)
配偶者 ハンナ・ドゥ・ロスチャイルド
サイン Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery Signature.svg

内閣 第2次グラッドストン内閣
任期 1885年3月 - 1885年6月
国王 ヴィクトリア

内閣 第3次グラッドストン内閣
任期 1886年2月 - 1886年8月
国王 ヴィクトリア

内閣 第4次グラッドストン内閣
任期 1892年8月 - 1894年2月
国王 ヴィクトリア

内閣 ローズベリー伯爵内閣
任期 1894年3月 - 1895年6月
国王 ヴィクトリア
テンプレートを表示

第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズArchibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery1847年5月7日 - 1929年5月21日)は、イギリスの政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)。

自由党に属し、ウィリアム・グラッドストンの政権で閣僚を歴任。グラッドストン引退後にイギリスの首相を務めた(在任: 1894年 - 1895年)。

1851年から1868年までは「ダルメニー卿(Lord Dalmeny)」の儀礼称号を称した。

経歴[編集]

第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの嫡子ダルメニー卿アーチボルド・プリムローズ英語版の息子として、ロンドンバークレー・スクエア英語版で誕生。母キャサリンは第4代スタンホープ伯爵英語版フィリップ・ヘンリー・スタンホープ英語版の娘。

父ダルメニー卿はスターリング選出の庶民院議員で、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム首相の下で海軍本部委員の一人を務めていた。父が1851年に死去したため、ローズベリー伯爵位の法定推定相続人として「ダルメニー卿」の儀礼称号を帯びた。また母は第4代クリーヴランド公爵ハリー・ポウレットと再婚した。

イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで学ぶ[1]。在学中の1868年に祖父の死去により襲爵、連合王国貴族「ローズベリー男爵」として貴族院議員となる。

ローズベリーの名が広く知られるようになったのは、1879年に自由党ウィリアム・グラッドストンが行った「ミッドロージアン・キャンペーン英語版」によってであった。一連のベンジャミン・ディズレーリ政権批判においてローズベリーは資金提供と舞台演出を担当し、1880年総選挙英語版での勝利に貢献した。選挙後発足した第2次グラッドストン内閣で1881年から1883年まで内務省政務次官(Under-Secretary of State for the Home Department)を務めた後、1885年に王璽尚書建設長官First Commissioner of Works)として入閣した。1886年の第3次グラッドストン内閣では外務大臣として再び閣僚となった。

1890年に妻と死別してからしばらく政界から距離を置いていたが、ヴィクトリア女王らの説得もあって復帰し、1892年の第4次グラッドストン内閣で再度外務大臣に任じられた。外務大臣としての彼は、イギリスが占領下においていたエジプト王国からの撤兵に反対し、フランスドイツとの勢力争いの舞台となっていたウガンダの排他的支配を主張した。1893年に仏泰戦争英語版でフランスがシャムに迫るとフランスとイギリスが衝突する可能性が高まったが、ローズベリーは硬軟合わせた交渉によりシャムを緩衝国として残すことで危機を解決した。また日清戦争後の1895年に起きた三国干渉では、イギリスは干渉に加わるべきでないと判断している[2]

1894年にグラッドストンが引退すると、ヴィクトリア女王は自由党内の自由帝国主義グループの領袖であったローズベリーに大命を降した。しかし彼が引き継いだ政権は、閣内・与党内に深刻な亀裂を抱えていた。財務大臣庶民院院内総務ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートはローズベリーと対立していたし、アイルランド統治法案を巡る確執もありアイルランド議会党Irish Parliamentary Party)の支持も磐石ではなかった。結局1895年6月に陸軍予算に関する法案が否決されると、彼はこれを内閣不信任と見做して総辞職した。

代わって首相となった保守党の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは直ちに解散総選挙英語版を行って勝利し、翌1896年にローズベリーは自由党の党首を辞任した。以後徐々に彼は党内の主流派ではなくなり、ヘンリー・キャンベル=バナマンハーバート・ヘンリー・アスキスに対して貴族院から批判を行った。1908年の「人民予算英語版」に対しても反対票こそ投じなかったものの反発している。最後に議場に姿を見せたのは1911年議会法に賛成票を投じた時であった。1916年に挙国一致内閣を組織することになったデビッド・ロイド・ジョージはローズベリーに「高いポスト」を提示したが、辞退している。

1929年5月21日エプソムの自宅で死去し、ダルメニー英語版の教会墓地に葬られた。

家族[編集]

1878年にローズベリーは、ユダヤ人銀行家メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵の一人娘ハンナ・ドゥ・ロスチャイルド英語版ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの孫)と結婚した。ハンナは1874年に死去したメイアーから父の所領の大半を相続しており、イギリス有数の遺産相続人であった。2人を引き合わせたのは、ベンジャミン・ディズレーリ夫人メアリー英語版であった。

夫人との間に二男二女をもうけた。

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Venn, J.; Venn, J. A., eds (1922–1958). “Rosebery, Archibald Philip Primrose, Earl of.”. Alumni Cantabrigienses (online ed.). Cambridge University Press. 
  2. ^  Chisholm, Hugh (1911). “Rosebery, Archibald Philip Primrose, 5th Earl of”. In Chisholm, Hugh. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. 

外部リンク[編集]


公職
先代:
レオナルド・コートニー英語版
イギリスの旗 内務省政務次官英語版
1881年-1883年
次代:
J.T.ヒバート英語版
先代:
ジョージ・ショウ=レフィブレ英語版
イギリスの旗 建設長官英語版
1885年
次代:
デイヴィッド・プランケット英語版
先代:
初代カーリングフォード男爵英語版
イギリスの旗 王璽尚書
1885年
次代:
第3代ハーロウビー伯爵英語版
先代:
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 外務大臣
1886年
次代:
初代イデスリー伯爵
先代:
(新設)
CountyLondon.svg ロンドン参事会議長英語版
1889年 - 1890年
次代:
サー・ジョン・ラボック準男爵
先代:
サー・ジョン・ラボック準男爵
CountyLondon.svg ロンドン参事会議長英語版
1892年
次代:
ジョン・ハットン
先代:
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 外務大臣
1892年-1894年
次代:
初代キンバリー伯爵
先代:
ウィリアム・グラッドストン
イギリスの旗 第48代首相
1894年-1895年
次代:
第3代ソールズベリー侯爵
先代:
初代キンバリー伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務英語版
1894年-1895年
先代:
初代キンバリー伯爵
イギリスの旗 枢密院議長英語版
1894年-1895年
次代:
第8代デヴォンシャー公爵
党職
先代:
ウィリアム・グラッドストン
自由党党首
1894年-1896年
次代:
ウィリアム・バーノン・ハーコート
先代:
初代キンバリー伯爵
自由党貴族院院内総務英語版
1894年-1896年
次代:
初代キンバリー伯爵
名誉職
先代:
第6代ホープトン伯爵英語版
リンリスゴー総督英語版
1873年-1929年
次代:
第2代リンリスゴー侯爵
先代:
第5代バクルー公爵
ミッドロージアン総督英語版
1884年-1929年
次代:
第6代ローズベリー伯爵英語版
スコットランドの爵位
先代:
アーチボルド・プリムローズ
Earl of Rosebery COA.svg 第5代ローズベリー伯爵
1868年-1929年
次代:
ハリー・プリムローズ英語版
イギリスの爵位
先代:
(創設)
Earl of Rosebery COA.svg 初代ミッドロージアン伯爵
1911年-1929年
次代:
ハリー・プリムローズ英語版