ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)

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アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン=ゴードン

第4代アバディーン伯ジョージ・ハミルトン=ゴードンGeorge Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen, KG KT FRS PC, 1784年1月28日 - 1860年12月14日)は、イギリスの政治家。1791年から1801年までハッド卿(Lord Haddo)。トーリー党を継承した保守党に属した。

概要 [編集]

第3代アバディーン伯ジョージ・ゴードンの息子であるハッド卿ジョージの長子として、エディンバラで誕生した。1791年に父を、1795年に母を亡くした後はスコットランドの政治家である初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダスの元で育った。パブリックスクールハーロー校ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで学んだ。

1805年12月、トーリーの議員に選出。 最初の妻キャサリン(初代アバコーン侯ジョン・ハミルトンの娘)が亡くなった1812年、彼は外務省に加わった。彼は大使に任命されてウィーンへ赴任し、イギリス=オーストリア間のトプリッツ条約に署名した。1801年、祖父アバディーン伯が亡くなり伯位を継承した。

ウェリントン政権で外相を歴任するが、第二次ピール内閣で再び外相になり、アヘン戦争を終結させ、ヨーロッパ列強とアメリカと宥和外交を展開した。特にアメリカとの関係を重視して、ウェブスター・アシュバートン条約を結び国境問題の解決にあたる。外務省出身だったアバディーン伯は、長く軍事関係の役職をやっていた前任者で同年齢のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルとは正反対の外交観を持っていた。この外交スタイルが首相になって災いした。東方問題が再び火の手を上げてクリミア戦争に突入すると、戦争の長期化に伴い国民の支持を失う。わずか2年足らずで政権は崩壊し、閣内にいたパーマストン内相に戦争の采配をゆずった。

参照 [編集]

外部リンク [編集]

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.