ウィリアム4世 (イギリス王)

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ウィリアム4世
ウィリアム4世

ウィリアム4世William IV, William Henry(ウィリアム・ヘンリー)1765年8月21日 - 1837年6月20日)は、イギリスハノーヴァー朝国王及びハノーファー王国国王(ドイツ名:ヴィルヘルム Wilhelm, 在位:1830年6月26日 - 1837年6月20日)である。ジョージ3世と王妃シャーロットの第3子で、先王ジョージ4世の弟である。

生涯[編集]

青年時代海軍に勤務していたため、後に「船乗り王」(Sailor King) の愛称で親しまれた。13歳の時士官候補生として海軍に入隊し、1780年のサン・ビセンテ岬の月光の海戦に参加した。アメリカ独立戦争の時はニューヨークで勤務しており、イギリス歴代君主の中でアメリカ合衆国を訪問した経験のある最初の人物となった。ウィリアムは1785年に士官となり、翌年に軍艦「ペガサス」の艦長になった。1786年中頃には、ニューファンドランドハリファックス(ノヴァスコシア)に差し向けられ、カナダの土を踏んだことのある最初の君主にもなった。その年の暮れにはネルソン提督の旗下西インド諸島で勤務した。1789年には海軍少将に進級した。同年、クラレンス公を叙爵、王に即位するまでこの爵位で通した。

多数の愛人を囲った兄たち(ジョージ4世ヨーク公フレデリック)とは異なり、ドロシー・ジョーダン(ドロセア・ブラントの名で女優として活躍していたアイルランド人)と20年余り夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けた。庶子達には、自分の公位から取ったフィッツクラレンス(FitzClarence:「クラレンスの子」の意味)の姓を与えている。

1818年、ザクセン=マイニンゲンゲオルク1世の娘アーデルハイト(イギリスではアデレード・オブ・サクス=マイニンゲンと呼ばれる)と結婚した。二人の娘を授かったが、いずれも夭折した。

1830年、兄ジョージ4世の後を襲って王位に即く。戴冠式などどうでもいいと言い出して側近を慌てさせたが、華美にしないことと節約を条件に挙行を渋々受け入れた。派手好きな貴族たちがそんな地味な式など面白くないと騒ぎ出すと、「ウェストミンスター寺院が広々として涼しげではないか」と全く意に介さなかった。65歳という当時としては高齢の新国王は、海軍時代にロンドン市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めなかった。幸運にも街角で国王を見つけたロンドン市民は歓喜のもとに彼を取り巻き、彼もまたそうした者たちと気さくに握手をしたり語りかけたりして人気を集めた。

ウィリアム4世の治世において、グレイ伯の元で救貧法の継続、地方政府の民主化、大英帝国内における児童労働の制限と奴隷労働の廃止などいくつかの改革がなされたが、そうした中でも腐敗選挙区の廃止・議席の再配分・選挙権の拡大を骨子とした1832年のイギリス初の選挙制度改革は特に重要なものだった。これを突破口としてイギリスでは選挙法に次々と改革がもたらされるようになり、そこに議会制民主主義の完成を見ることになる。

ウィリアム4世は父や兄ほど政治に干渉することはなかったが、1834年、議会の意思に反してメルボルン子爵首相に任命した。これが英国政治史上、議会の意思に反して国王が首相を任命した最後の例となった。

1837年に肝硬変で死去。イギリス王位は姪のヴィクトリアが、ハノーファー王位は弟のエルンスト・アウグストがそれぞれ継いだ。

子女[編集]

1819年3月21日、アデレードとの間にシャーロットが生まれたが同日に死去、1820年12月10日にエリザベスが生まれたが1821年3月4日に死去した。

庶子として、ドロシー・ジョーダンとの間に10人の子を儲けた。

外国から授与された勲章[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 君塚直隆著『女王陛下のブルーリボン』NTT出版、2004年。以下、国名五十音順。

関連項目[編集]

ウィリアム4世 (イギリス王)
ヴェルフ分家

1875年8月21日 - 1837年6月20日

爵位
先代:
ジョージ4世
イギリスの旗 連合王国国王
第3代:1830年 - 1837年
次代:
ヴィクトリア
Flag of Hanover 1837-1866.svg ハノーファー国王
第2代:1830年 - 1837年
次代:
エルンスト・アウグスト