メルバーン子爵

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メルバーン子爵: Viscount Melbourne)は、イギリス子爵位。アイルランド貴族メルボルン子爵メルボーン子爵と表記されることもある。1781年にサー・ペニストン・ラム準男爵が叙位されたことに始まる。

歴史[編集]

爵位名の由来となったメルバーン・ホールイングランドダービーシャーにある

メルバーン子爵家の祖となったマシュー・ラムSir Matthew Lamb, 1st Baronet)は、ストックブリッジStockbridge)やピーターバラ選出の下院議員となり、1755年準男爵Baronet, of Brocket Hall in the County of Hertford; カウンティ・オヴ・ハートフォードにおけるブロケット・ホールの、グレートブリテン準男爵)の称号を与えられた人物である。彼はサー・ジョン・コークSir John Coke)の子孫であるシャーロット・コーク(Charlotte Coke)と結婚したため、サー・ジョンが建てたメルバーン・ホールMelbourne Hall; メルボルン・ホール)はラム家に渡った。

サー・マシューが死去すると、シャーロットとの間に生まれていた息子のペニストンPeniston Lamb)が第2代準男爵となった。彼も政治家で、初めルドガーズホールLudgershall)選出の、次いでマルムズベリーMalmesbury; マームズベリー)選出の、さらにワイト島ニューポートNewport, Isle of Wight)選出の下院議員を務めた。そして1770年メルバーン男爵Lord Melbourne, Baron of Kilmore, in the County of Cavanアイルランド貴族)に、1781年カウンティ・オヴ・キャヴァンにおけるキルモアメルバーン子爵Viscount Melbourne, of Kilmore in the County of Cavan、アイルランド貴族)に、1815年カウンティ・オヴ・ダービーにおけるメルバーンメルバーン男爵Baron Melbourne, of Melbourne in the County of Derby連合王国貴族)に叙された。

初代メルバーン子爵の長男であるペニストンPeniston Lamb)は早世したため、次男のウィリアムが2代子爵となった。彼はホイッグ党の政治家で、カニング内閣でアイルランド担当大臣Chief Secretary for Ireland)、グレイ内閣で内務大臣Home Secretary)となり、1834年首相および上院院内総務Leader of the House of Lords)となった。この時の内閣は短命に終わったが、1835年にウィリアムは再び首相および上院院内総務となった。彼の首相としての治績は、死刑の適用範囲の縮小、地方行政改革、救貧法の改正(Poor Law Amendment Act 1834)などが挙げられる。なおオーストラリアメルボルンは彼にちなんで名づけられた。

初代ボーヴェイル男爵フレデリック・ラム(後の第3代メルバーン子爵)。1846年ジョン・パートリッジen)画、ナショナル・ポートレート・ギャラリー

2代子爵の息子も早世したため、爵位は初代子爵の三男であるフレデリックFrederick Lamb)が相続した。彼は外交官で、在バイエルンイギリス公使British Minister to Bavaria)・在ポルトガルイギリス大使British Ambassador to Portugal)・在オーストリアイギリス大使British Ambassador to Austria)を務め、襲爵前の1839年カウンティ・オヴ・ノッティンガムにおけるボーヴェイルボーヴェイル男爵Baron Beauvale, of Beauvale in the County of Nottingham; ボーベール男爵。連合王国貴族)に叙されていた。

3代子爵は1853年に死去したが、彼には息子がおらず、初代子爵の四男であるジョージGeorge Lamb、グレイ内閣で内務政務次官Under-Secretary of State for the Home Department)を務めた政治家でもあった)も息子のないまますでに死去していたため、これらの爵位は断絶した。

一覧[編集]

ラム準男爵(ブロケット・ホールの) (1755年)[編集]

メルバーン男爵 (1770年)[編集]

メルバーン子爵 (1781年)[編集]

ボーヴェイル男爵 (1839年)[編集]