イングランド君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

最初にRex Anglorum(イングランド王)の称号を用いたのはマーシア王オファであるが、その権力は彼の後には生き延びることはなかった。9世紀にケント及びマーシアからサセックスを征服したウェセックスの王は次第にイングランド王国の他の王国に支配を及ぼすようになった。絶えることなく続くイングランド君主一覧は伝統的に829年のウェセックス王エグバートに始まる。アルフレッド大王 とその男子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン国王〟の称号を用いた。アゼルスタンは927年にノーサンブリアを占領してからRex Anglorumの称号を採用した。ヘンリー2世の治世の開始時(1154年)に称号がRex Angliae(イングランド国王)になった。

ウェールズ公国は1284年のルゥドドランの法令でイングランド王国に吸収され、1301年にエドワード1世は長男のエドワード2世プリンス・オブ・ウェールズの称号を授けた。この時以来、エドワード3世を例外として全てのイングランド君主の長男はこの称号を帯びるようになった。1603年のエリザベス1世の死後、イングランドとスコットランドの王位はジェームズ1世のもとで一つとなった。国王の布告によってジェームズ1世は自らの称号を「グレートブリテンの王」とした。ジェームズ1世の即位以来、親を介して二重の相続人である両王国の後継者の称号を「イングランド王」ないしは「イングランド女王」とするのは、ジェームズ1世の布告に照らせば不正確である。しかし、この称号は今日に至るまでしばしば用いられる用法として存続している。1707年にイングランドはスコットランドと法律上合同を行い、グレートブリテン王国が成立した。1707年以来、イングランドは法律上は、グレートブリテン王国以降の連合王国から分離していない(ただし、スコットランドについては、連合王国の法体系上特別な扱いがなされることも多い)。ヘンリー2世以来、イングランドの支配下に置かれているアイルランド王国は1800年の連合法によって翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部となった。この状態はアイルランド自由国成立後の1922年まで続き、その後の改名 (enの結果、イングランドを含む連合王国の名称はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となった。

マーシア家[編集]

幾つかの資料では最初にRex Anglorum の称号を用いたのは757年以来、マーシア王であったオファの774年だと言われているが、この主張は明らかに10世紀に偽造された憲章に基づいている[1][2]。 しかし、自らをOf Rx Aと刻んだ幾つかのオファの貨幣から彼がOf Rx Aの立場にあったと信じられている[3]。このことは当時、後世に獲得したのよりも異なる意味を有していた、即ち、アングル人の王であって、必ずしもサクソン人の王ではない[3]

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
オファ
(+OFFA•REX+)
774年–796年
Offa 747年頃 クネスリス
5人の子を儲ける
28日
58歳

ウェセックス家[編集]

連続した一覧は伝統的に802年以降のウェセックス王で同王として最初にイングランドに君主権を及ぼしたエグバートに始まる[4]。エグバートは825年にマーシアを破ってブレトワルダになったが、829年にマーシアの支配権を失った。アルフレッド大王とその男子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン人の王〟の称号を用いた。927年のアゼルスタンの征服以降はrex Anglorum (イングランド王)の称号が採用された。

エルフウェルドが父エドワード長兄王とアゼルスタンとの間である924年の4週間に王であったことの幾つかの証拠はあるが、彼は戴冠しなかった[5][6] 。しかし、このことは歴史家たちに受け入れられなかった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
エグバート
(Ecgberht)
829年–839年[7]
Egbert 775年[8]
エアルフムンドの男子[7]
レドブルガ
3人の子を儲ける[7]
839年2月4日
64歳[7]
エゼルウルフ
(Æþelwulf)
2月5日
839年–856年
Æthelwulf 795年アーヘンで誕生
エグバートレドブルガの男子
(1) オスブルガ
6人の子を儲ける
(2) ユディート・オブ・フランドル
853年10月1日に結婚
子は儲けず
858年1月13日
62 、3歳[4]
エゼルバルド
(Æþelbald)
856年–860年
Aethelbald.jpg 834年[9]
エゼルウルフとオスブルガの男子
ユディート・オフ・フランドル
子を儲けず
860年12月20日
エゼルベルト
(Æþelberht)
12月21日
860年–865年
King Æthelberht from All Souls College Chapel 835年
エゼルウルフとオスブルガの男子
不明
2人の子を儲ける
865年
約30歳[4]
エゼルレッド
(Æþelræd)
865年–871年
Coin of Æthelred 837年
エゼルウルフとオスブルガの男子
ウルフリダ
868年
2人の子を儲ける
871年4月23日
約34歳[4]
アルフレッド大王
(Ælfræd)
4月24日
871年–899年[10]
Statue of Alfred the Great in Wantage 849年
ウォンティジ
エゼルウルフとオスブルガの男子[11]
エアルフスウィス
ウィンチェスター
868年
6人の子を儲ける[12]
899年10月26日
約 50歳[10]
エドワード長兄王
(Eadweard)
10月27日
899年–924年[13]
Edward the Elder 871年–877年
アルフレッド大王とエアルフスウィスの男子[14]
(1) エクヴィン
893年
3人の子を儲ける
(2)エルフフォド
902年
10人の子を儲ける
(3) エドギフ・オブ・ケント
905年
4人の子を儲ける[15]
924年7月17日
ファルンドン
約50歳[13]
アゼルスタン
(Æþelstan)
8月3日
924年–939年[16]
King Athelstan from All Souls College Chapel 895年
エドワード長兄王とエクヴィンの男子
未婚[16] 939年10月27日
約44歳[16]
エドマンド1世
(Eadmund)
10月28日
939年–946年[17]
Imaginary portrait of Edmund I 921年
エドワード長兄王とエドギフの男子[17]
(1) エルギヴァ・オブ・シャフツベリー
3人の子を儲ける
(2) エゼルフラド・オブ・ダメルカム
944年
子を儲けず[18]
946年5月26日
プクレチャーチ
約25歳(殺害された)[17]
エドレッド
(Eadred)
5月27日
946年–955年[19]
Imaginary line engraving of Edred made by un unknown engraver after an unknown artist 923年
エドワード長兄王とエドギフの男子
未婚 955年11月23日
フルーム
約32歳[20]
エドウィ
(Eadwig)
11月24日
955年–959年[21]
Line engraving of Edwy made by an unknown engraver after an unknown artist 940年
エドマンド1世とエルギヴァの男子[22]
エルフギフ[21] 959年10月1日
約19歳[21]
エドガー
(Eadgar)
10月2日
959年–975年[23]
King Edgar of England 943年
ウェセックス
エドマンド1世とエルギヴァの男子
(1) エゼルフラッド
960年
1子儲ける
(2) エルフリーダ
964年
2人の子を儲ける
975年7月8日
ウィンチェスター
約32歳[24]
エドワード殉教王
(Eadweard)
7月9日
975年–978年[25]
St. Edward the Martyr 962年
エドガーとエゼルフラッドの男子
未婚 978年5月18日
コルフェ城
約16 歳(暗殺)[25]
エゼルレッド2世
(Æþelræd Unræd)
5月19日
978年–1013年 (最初の統治)[26]
Image of Æthelred II with an oversize sword from the illuminated manuscript "The Chronicle of Abingdon" 968年
エドガーとエルフリーダの男子[27]
(1) エルフラエド・オブ・ノーサンブリア
4人の子を儲ける
(2) アレルギフ
991年
6人の子を儲ける
(3) エマ・オブ・ノーマンディー
1002年
3人の子を儲ける[28]
1016年4月23日
ロンドン
約48歳[26]

デーン家[編集]

エゼルレッド2世の統治中にイングランドはデンマーク王 の支配下に置かれた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
スヴェン
(Svend Tveskæg)
12月25日[29]
1013年–1014年[30]
Sweyn Forkbeard, from an architectural element in the Swansea Guildhall, Swansea, Wales 960年
デンマーク
ハーラル1世グリド・オラフスドティルの男子[31]
(1) グンヒルト・オブ・ポーランド
990年
7人の子を儲ける
(2) シギルド・ザ・ハウグティー
1000年
1女儲ける[31]
1014年2月3日
リンカンシャーゲインズバラ
約 54歳[31]

ウェセックス家(第1次復帰)[編集]

スヴェン1世の死でエゼルレッドは亡命先から帰国して1014年 2月3日に再び王であることを宣言した[32]。エゼルレッドの男子は、アングロ=サクソン人から王冠を奪い取ろうと画策するデーン人と対立するロンドン市民と賢人会議[33]に選ばれた後に父の後を継承した。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
エゼルレッド2世
(Æþelræd Unræd)
3月|3]]/4月
1014年–1016年 (第二次統治)[26]
Image of Æthelred II with an oversize sword from the illuminated manuscript "The Chronicle of Abingdon" 968年
エドガーとエルフリーダの男子[34]
(1) エルフリーダ・オブ・ノーサンブリア
4人の子を儲ける
(2) アレルギフ
991年
6人の子を儲ける
(3) エマ・オブ・ノーマンディー
1002年
3人の子を儲ける[35]
1016年4月23日
ロンドン
約48歳[26]
エドマンド2世
(Eadmund)
1016年4月24日 –
11月30日[33]
Edmund Ironside 993年
エゼルレッドとエルフリーダ・オブ・ノーサンブリアの男子[33]
エディス・オブ・イースト・アングリア
2人の子を儲ける[36]
1016年11月30日
グラストンベリー
約23歳[33][36]

デーン家(復帰)[編集]

1016年 10月18日のアサンダンの戦いの結果、エドマンド2世は、カヌート大王がウェセックスを除く全イングランドを支配することを認めた条約に調印した[37]。11月30日にエドマンド2世が死ぬとカヌート大王はイングランド全土を統治する唯一の王となった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
カヌート大王
(Knútr)
11月30日
1016年–1035年[38][39]
Cnut.jpg 995年
スヴェンとグンヒルト・オブ・ポーランドの男子[38]
(1) アレルギフ・オブ・ノーサムポトン
2人の子を儲ける
(2) エマ・オブ・ノーマンディー
1017年
エゼルレッド2世の寡婦[38]
1035年11月12日[39]
シャフツベリー
約40歳[38]
ハロルド1世
(Harald)
11月13日
1035年–1040年[40]
Harold H.jpg 1016/7年
カヌート大王とアレルギフ・オブ・ノーサムポトンの男子[40]
アエルギウフ
1 人男子を儲ける[41]
1040年3月17日
オックスフォード
23 ないしは 24歳[40]
ハーデクヌーズ
(Hardeknud)
6月18日
1040年–1042年[42]
Hardeknut.jpg 1018年
クヌーズ1世とエマ・オブ・ノーマンディーの男子[41]
不明 1042年6月8日
ラムベス
約24歳[41]

ウェセックス家(第2次復帰)[編集]

ハーデクヌーズの後、1042年から1066年にかけて短いサクソン朝の復帰があった。ヘイスティングズの戦いの後にイングランドの歴史は決定的なものとなり、ウィリアム1世がイングランド王になった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
エドワード懺悔王
(Eadweard)
6月9日
1042年–1066年[43]
バイユーのタペストリー 1003年
イスリプ、オックスフォードシャー
エゼルレッド2世とエマ・オブ・ノーマンディーの男子[43]
エディス・オブ・ウェセックス
1045年1月23日
子を儲けず[43]
1066年1月5日
ウェストミンスター寺院
約 60歳[43]
ハロルド2世
(Harold Godwinesson)
1066年1月6日–10月14日[43]
Harold2.jpg 1020年
ゴッドヴィンギーザ・トルケルスドーティルの男子[43]
(1) エディス・スヴェーニシャ
6人の子を儲ける

(2) エディス・マーシア
ヨーク
1064年
2人の子を儲ける[43]

1066年10月14日
ヘースティングス
約46 歳(戦死)[43]
エドガー・アシリング
(Eadgar Æþeling)
1066年10月15日–12月17日
即位宣言をするも戴冠せず[44]
Edgar the Ætheling.jpg 1053年
ハンガリー
エドワード・アシリングとアガタの男子[45]
未婚[45] 1125年
約 72歳[44]

ノルマン家[編集]

1066年にフランス王の封臣でエドワード懺悔王の従妹の男子であるノルマンディー公 ギヨーム2世がイングランドに侵攻してウェストサクソンを征服したことでノルマン・コンクエストが確立され、自らの恒久的な政府をウィンチェスターからロンドンに新しく移転した。10月14日のヘイスティングズの戦いハロルド2世の死が決定的になると、アングロサクソン人の賢人会議エドガー・アシリングをハロルド2世に代わる国王に推戴したが、エドガーは侵略者に抵抗することが出来ず、戴冠することもなかった。ギョーム2世は1066年のクリスマスにイングランド王として戴冠し、今日ではウィリアム征服王、ウィリアム庶子王、ウィリアム1世として知られている。

スタンフォード・ブリッジの戦いと同時に、ノルマン朝デーンロウ、次第には一貫してイングランドの支配を主張するスカンジナヴィア半島の請求者を追い払うことに成功した、それによって自身のスカンジナヴィアの子孫達に王冠を守る一方で、後世に西ローマ帝国のイギリス海方面にあるサクソンの沿岸部として知られたが、神聖ローマ帝国イギリス海峡方面にあるネウストリア国境地帯に変わった南側に基盤を置いた。ノルマンディーでは王権が強大に増強され、ごく僅かな独立は大目に見られた。それはノルマン朝の主題であったウェセックス支配を大きく特徴付け、幾つかの場合、まさにノルマン朝の性質の実態は、自らの公国はフランク人の性質から独立しているという歴史的決定の型を通じたサクソン朝とデーン朝の混合であった。サクソン朝にせよデーン朝にせよ掴んだ権力が他者に対抗する自らの区域という単純なものであったことからすると、屈服されたイングランドが得たものがごく少量であった。ウェストサクソンの君主のデーン人の攻撃に対する実力行使や自らの支配の集中化が不十分であったことから、イングランドはノルマン人の手で押さえ付けられていた、しかしこの結果は行政の中心(即ち、ウェストミンスター)は以前よりもデーンロウに近く、権力の集中は太守のような地方の政府の役人の手から完全に離れていた。ノルマンディーでは単にルーアンからロンドンまでのキュリア・レジスによって当局が派遣された、そして王自身と側近に近付くことは共通の人々に厳しく制限されていた。この隔絶は、しかし、自らが独立した王位を求めるという明らかにデーン人の先入観を持ったような王によって廃位された影響され易い他の君主よりも安定した統治を維持するには必要不可欠であった。

フランスの様式である君主の順位(代数)を採用したのは、ウィリアム1世とその子孫による統治が唯一のものであった、しかし、渾名によって君主を区別するという初期の習慣は、最後まで途絶えることはなかった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ウィリアム1世
庶子/征服王

(Guillaume le Bâtard / le Conquérant)
12月25日
1066年–1087年[46]
William the Conqueror depicted at the Battle of Hastings, on the Bayeux Tapestry 1028年
ファレーズ城
ロベール1世ヘルレヴァの男子[46]
マティルダ・オブ・フランダース
ノルマンディーノートルダム教会
1053年
10人の子を儲ける[46]
1087年9月9日
ルーアン
59歳
カーンにあるサン・ピエール教会に埋葬[46]
征服の権利
ウィリアム2世赤顔王
(Guillaume le Roux)
9月26日
1087年–1100年[46]
William Rufus depicted in the Stowe Manuscript 1060年
ノルマンディー
ウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの男子[46]
未婚 1100年8月2日
ニューフォレスト
約40歳[46]
ウィリアム1世の男子;I
(appointment)
ヘンリー1世I
碩学王

(Henri Beauclerc)
8月5日
1100年–1135年[47]
Henry I 1068年9月
セルビー
ウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの男子[47]
(1) マティルダ・オブ・スコットランド
ウェストミンスター寺院
1100年11月11日
4人の子を儲ける
(2) アデライザ・オブ・ルーヴァン
ウィンザー城
1121年1月29日
子を儲けず[47]
1135年12月1日
リオンズ=ラ=フォレート城
67歳
リーディング寺院に埋葬[47]
ウィリアム1世の男子;
(seizure of the crown)
スティーブン
オブ・ブロワ

(Étienne de Blois)
12月22日
1135年–1154年[48]
Stephen 1096年
ブロワ
ブロワ伯エティエンヌ2世アデル・ド・ノルマンディーの男子[47]
マティルド・ド・ブローニュ
ウェストミンスター
1125年
5人の子を儲ける[47]
1154年10月25日
ドーバー城
約58歳[47]
ウィリアム1世の外孫
(appointment/usurpation)

対立王位請求者
名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
マティルダ
(Mathilde
Mahaut l'emperesse
)
1141年4月7日–11月1日[49]
称号の対立
Matilda 1102年2月7日
ストン・コートネー
ヘンリー1世とマティルダ・オブ・スコットランドの女子[50]
(1) ハインリヒ5世
マインツ
1114年1月6日
子を儲けず
(2) ジョフロワ4世
ラ・マンス大聖堂
1128年5月22日
3人の子を儲ける
1167年9月10日
ルーアンのノートルダム大聖堂
約65歳[49]
ヘンリー1世の女子
王位を掌握

マティルダは父のヘンリー1世によって推定相続人であると宣言され、男爵達によって認識された。しかしヘンリー1世が死ぬと、王位はマティルドの従兄にあたるスティーブン・オブ・ブロワの手に渡った。無政府時代はマティルダが正当なる支配者として君臨した1141年の数ヶ月間のことであるが、彼女は戴冠することこそはなかったものの、イングランドにおける初の女性君主とみなされる。この時、スティーブンとジョフロワ4世が互いにイングランドの政治の中に入ったことは、彼等がイングランドの民族的部類に直接の繋がりはなく、僅かにノルマン朝(ノルマン朝はイングランドとフランス間の文字通りに抽象的な橋としての役割を果たし、文化的遺産は今日のチャネル諸島で保たれている)を介した王朝的繋がりという点で注目すべきことである。

プランタジネット家[編集]

スティーブンは1153年11月にウォーリングフォード条約で、マティルダの男子アンリを養子という形で自らの王位後継者とすることに同意した。

ノルマン朝による統治期間よりも、プランタジネット家アキテーヌから支配を行い、より多くのフランスにおける領土を獲得したが(アンジュー帝国)、ジョン欠地王の代にほとんどのフランス領を失う前には、同じくイングランドを自分達の主要な領土とは見なさなかった。この長きにわたる王朝は、アンジュー朝ランカスター朝ヨーク朝の3期に分けられる。フランスへの焦点からブリテン島全域への拡大の変更はランカスター朝とヨーク朝の用法が異なることを示し、両王朝の前方に見渡す国境先にはノーサンブリアを要求する スコットランド古い同盟)が存在し、敵対するプランタジネット家の分家の名に等しいということで特筆される。プランタジネット家が互いに殺し合ったことでウェールズ系のテューダー家が有利になったが、ランカスター家とポルトガル(アキテーヌ維持には不可欠だった)、それにカスティーリャも加わった結び付きは確かなものになった。これがヘンリー8世クレーフェにおけるヨーク朝・ブルゴーニュ公国の古い同盟を選択したことから急に変わり、エリザベス1世の寵臣レスター伯ダドリーの許でのネーデルラント反乱における内紛で更に続行されたイングランドをスコットランド・レノックスの(本来はフランス・オービニー=シュル=ネールに基盤を置いていた)親仏のステュアート家に明け渡すというかつてのノーサンブリア=ウェストモアランド内紛での争いから来る反テューダーという背信への憤りから、このこと全てが並行して行われた。スコットランドの王朝は対象として新たに見つけたイングランドに権威を及ぼすのを維持するためにフランスに依存し、両国は前にも後にも王冠を獲得するために共に戦った。百年戦争以前のヨーク=ブルゴーニュ同盟はウィリアム3世のもとで復活し、これは第二次百年戦争と呼ばれる。

プランタジネット家はイングランドの王章を制定し、これは大抵、王国を掌握ないしは要求する者やその後継者によって示されたが、全く同時期のアイルランドの表象は欠けている。

アンジュー朝[編集]

王の一覧に関して蛇足を加えると、フランス王太子ルイはジョン王に対するバロン戦争の結果、1216年から1217年の短期間にイングランドの半分を支配した。しかし、ラムベス条約に調印したことで自身が正当なるイングランド王ではないことを認めた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ヘンリー2世Curtmantle
(Henri Court-mantel)
12月19日
1154年–1189年[51]
Henry II 1133年3月5日
ル・マン
ジョフロワ4世マティルダの男子[51]
アリエノール・ダキテーヌ
ボルドー聖堂
1152年5月18日
8人の子を儲ける[51]
1189年7月6日
シノン
56歳
フォントヴロー修道院に埋葬[51]
ヘンリー1世の孫
(ウォーリングフォード条約)
若ヘンリー王
(Henri le Jeune Roy)
(父と共同統治)
6月14日
1170年–1183年
Henry 1155年2月28日

ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの男子

マルグリット・ド・フランス
ウィンチェスター大聖堂
1172年8月27日
子を儲けず
1183年6月11日
マーテル=ロットリモージュ
28歳
ルーアン大聖堂 (ノートルダム)に埋葬される
ヘンリー2世の男子
(男子の王として戴冠)
リチャード1世獅子心王
(Richard Cœur de Lion)
9月3日
1189年–1199年[51]
Richard the Lionheart, an illustration from a 12th century codex 1157年9月8日
ボーモート宮殿
ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの男子[51]
ベレンガリア・オブ・ナヴァール
リマソール
1191年5月2日
子を儲けず[51]
1199年4月6日
シャトー=ド=シャル・シャドー
41歳
心臓はルーアン大聖堂に、体はフォントヴロー修道院に埋葬された[51]
ヘンリー2世の男子
(appointment)
ジョン欠地王
(Jean Sans Terre)
5月27日
1199年–1216年[52]
Tomb effigy of John 1166年12月24日
ボーモート宮殿
ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの男子[52]
(1) イザベル・オブ・グロスター
マルボヌン城
1189年8月29日
子を儲けず

(2) イザベラ・オブ・アングレーム
ボルドー大聖堂
1200年8月24日
5人の子を儲ける[52]

1216年10月19日
ニューワーク=オン=トレント
49歳
ウスター大聖堂に埋葬[52]
リチャード1世の弟
(appointment)
ヘンリー3世
10月28日
1216年–1272年[53]
Henry III 1207年10月1日
ウィンチェスター城
ジョンとイザベル・オブ・アングレームの男子[53]
エリナー・オブ・プロヴァンス
カンタベリー大聖堂
1236年1月14日
9人の子を儲ける[53]
1272年11月16日
ウェストミンスター宮殿
65歳[53]
ジョンの男子
(長子相続)
エドワード1世長脛王
11月20日
1272年–1307年[54]
Edward I and II.jpg 1239年6月17日
ウェストミンスター宮殿
ヘンリー3世とエリナー・オブ・プロヴァンスの男子[54]
(1) エリナー・オブ・カスティル
サンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院
1254年10月18日
17人の子を儲ける

(2) マーガレット・オブ・フランス
1299年9月10日
3人の子を儲ける[54]

1307年7月7日
ブルグ・バイ・サンズ
68歳[54]
ヘンリー3世の男子
(長子相続)
エドワード2世
1307年7月7日–
1327年1月25日[55]
Modern depiction of Edward II 1284年8月25日
カーナーヴォン城
エドワード1世とエリナー・オブ・カスティルの男子[55]
イザベラ・オブ・フランス
ブローニュ城
1308年1月25日
5人の子を儲ける[55]
1327年9月21日
バークリー城
43歳 (殺害される)[55] [56]
エドワード1世の男子
(primogeniture)
エドワード3世
1月25日
1327年–1377年[57]
Edward III 1312年11月13日
ウィンザー城
エドワード2世とイザベラ・オブ・フランスの男子[57]
フィリッパ・オブ・エノー
ヨーク大寺院
1328年1月24日
14人の子を儲ける[57]
1377年6月21日
シェーン宮殿
宮殿 64歳[57]
エドワード2世の男子
(primogeniture)
リチャード2世
1377年6月21日 –
1399年9月29日[58]
Richard II, the sol-called 'Westminster Portrait', painted by an unknown artist working in the International Gothic style, 1390s 1367年1月6日
ボルドー
エドワード黒太子ジョーン・オブ・ケントの男子[58]
(1) アン・オブ・ボヘミア
1382年1月14日
子を儲けず

(2) イザベラ・オブ・ヴァロワ
カレー
1396年11月4日
子を儲けず[58]

1400年2月14日
ポンティフラクト城
33歳[58]
エドワード3世の孫
(長子相続)

ランカスター家[編集]

この家系はエドワード3世の四男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子孫である。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ヘンリー4世ボリングブロク
9月30日
1399年–1413年[59]
Henry IV 1366]]1367年|/7年4月3日
ボリングブロク城
ジョン・オブ・ゴーントブランシュ・オブ・ランカスターの男子[59]
(1) メアリー・ド・ブーン
アランデル城
1380年7月27日
7人の子を儲ける

(2) ジョーン・オブ・ナヴァール
ウィンチェスター大聖堂
1403年2月7日
子を儲けず[59]

1413年3月20日
ウェストミンスター寺院
45 ないしは 46歳[60]
エドワード3世の孫及び男子相続人
(簒奪/父方の長子相続)
ヘンリー5世
3月20日
1413年–1422年[59]
Henry V 1386年9月16日ないしは
1387年8月9日[61]
モンマス城
ヘンリー4世とメアリー・ド・ブーンの男子[59]
キャサリン・オブ・ヴァロワ
トロワ城
1420年6月2日
1子を儲ける[59]
1422年8月31日
ヴァンセンヌ城
35歳[59]
ヘンリー4世の男子
(男系の長子相続)
ヘンリー6世
(最初の統治)
1422年8月31日 – 1461年3月4日[62]
Henry VI 1421年12月6日
ウィンザー城
ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの男子[62]
マーガレット・オブ・アンジュー
ティッチフィールド寺院
1445年4月22日
1子を儲ける[62]
1471年5月21日
ロンドン塔
49歳(殺害される)[62]
ヘンリー5世の男子
(男系の長子相続)

ヨーク家[編集]

ヨーク家はエドワード3世の五男ヨーク公エドムンド・オブ・ラングリーの子孫である。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
エドワード4世
(最初の統治)
1461年3月4日 – 1470年10月2日[63]
Edward IV 1442年4月28日
ルーアン
リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの男子[63]
エリザベス・ウッドヴィル
グラフトン・レギス
1464年5月1日
10人の子を儲ける[63]
1483年4月9日
ウェストミンスター宮殿
40歳[63]
エドワード3世の玄孫及び継承権の長
(王位の掌握/親族による長子相続制)

ランカスター家(復帰)[編集]

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ヘンリー6世
(第二次統治)
1470年10月2日 – 1471年4月11日[62]
Henry VI 1421年12月6日
ウィンザー城
ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの男子[62]
マーガレット・オブ・アンジュー
ティッチフィールド寺院
1445年4月22日
1子を儲ける[62]
1471年5月21日
ロンドン塔
49歳(殺害される)[62]
ヘンリー5世の男子
(王位の掌握)

ヨーク家(復帰)[編集]

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
エドワード4世
(第二次統治)
1471年4月11日 – 1483年4月9日[63]
Edward IV 1442年4月28日
ルーアン
リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの男子[63]
エリザベス・ウッドヴィル
en:Grafton Regis
1464年5月1日
10人の子を儲ける[63]
1483年4月9日
ウェストミンスター宮殿
40歳[63]
エドワード3世の玄孫及び継承者の長
(王位を掌握/親族の長子相続)
エドワード5世
1483年4月9日 – 6月25日[64]
Edward V 1470年11月2日
ウェストミンスター
エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの男子[64]
未婚 1483年
ロンドン
約12歳[65]
エドワード4世の男子
(親族の長子相続)
リチャード3世
6月26日
1483年 – 1485年[66]
Richard III 1452年10月2日
ファザーリンゲイ城
リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの男子[67]
アン・ネヴィル
ウェストミンスター寺院
1472年6月12日
1子を儲ける[67]
1485年8月22日
ボズワーズ平原
32歳(戦死)[67]
エドワード3世の玄孫
(en:Titulus Regius)

テューダー家[編集]

テューダー家は14世紀のジョン・オブ・ゴーントとその長年の愛人キャサリン・スウィンフォードの庶子ジョン・ボーフォートの女系の子孫である。イングランド君主の庶系の子孫は王位請求権を持たない。しかし、ジョン・オブ・ゴーントとスウィンフォードが1396年(ジョン・ボーフォートが産まれてから25年目)に最終的に結婚したことが事態を面倒にした。この結婚の視点は、同年に教会がボーフォートはローマ教皇経由の勅書で嫡子であることを遡及して宣言した(同時に1397年の議会の決議に秘められた)。続いてジョン・オブ・ゴーントによって嫡子であることが宣言され、ヘンリー4世もボーフォートを嫡出と認識したが、王位を継承する資格のないことが宣言された。にもかかわらずボーフォート家はジョン・オブ・ゴーントの子孫であるランカスター家と親密に同盟を結んでいた。

ジョン・ボーフォートの曾孫で相続人と見なされたマーガレット・ボーフォートエドムンド・テューダーと結婚した。エドムンド・テューダーはウェールズ大公家の末裔であるオーウェン・テューダーとヘンリー5世の妃であったキャサリン・オブ・ヴァロワの男子である。エドムンド・テューダーとその兄弟は庶子ないしは秘密結婚の産物によるものであり、自分たちの幸運が正嫡の異父兄ヘンリー6世の好意によるものであることを認めていた。ランカスター家が力を失った時にテューダー家が台頭した。

ヘンリー8世ローマ・カトリック教会と断絶するとイングランドの君主はイングランド国教会アイルランド国教会の最高首長となった。エリザベス1世の称号にイングランド国教会最高首長が加えられた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ヘンリー7世
8月22日
1485年–1509年[68]
Henry VII, by Michel Sittow, 1505 1457年1月28日
ペンブローク城
エドムンド・テューダーマーガレット・ボーフォートの男子[68]
エリザベス・オブ・ヨーク
ウェストミンスター寺院
1486年1月18日
8人の子を儲ける[68]
1509年4月21日
リッチモンド宮殿
52歳[68]
エドワード3世の7代の孫
(en:right of conquest)
ヘンリー8世
4月21日
1509年–1547年[69]
Henry VIII, by Hans Holbein, c.1536 1491年6月28日
グリニッジ宮殿
ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの男子[69]
キャサリン・オブ・アラゴン
グリニッジ
1509年6月11日
一女を儲ける
1547年1月28日
ホワイトホール宮殿
55歳[69]
ヘンリー7世の次男
(長子相続制)
アン・ブーリン
ウェストミンスター宮殿
1533年1月25日
一女を儲ける
ジェーン・シーモア
ホワイトホール宮殿
1536年5月30日
1子を儲ける
アン・オブ・クレーヴズ
グリニッジ宮殿ン
1540年1月6日
キャサリン・ハワード
ハンプトンコート宮殿
1540年1月28日
キャサリン・パー
ハンプトンコート宮殿
1543年6月12日
エドワード6世
1月28日
1547年–1553年[70]
Edward VI, by Hans Eworth 1537年10月12日
ハンプトンコート宮殿
ヘンリー8世とジェーン・シーモアの男子[70]
未婚 1553年6月6日
グリニッジ宮殿
15歳[70]
エドワード8世の男子
(長子相続制)

対立王位請求者
名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ジェーン・グレイ
(9日間の女王)
1553年6月10日–7月19日[71]
称号を争う
Streathamladyjayne.jpg 1537年10月
ブラドゲートパーク
サフォーク公ヘンリー・グレイフランセス・ブランドンの女子[71]
ギルフォード・ダドリー
The Strand
1553年5月21日
未婚[72]
1554年2月12日
ロンドン塔
16歳 (斬首刑)[71]
ヘンリー7世の曾孫
(Device for the succession)

エドワード6世はジェーン・グレイを自身の推定相続人とした。エドワード6世死後の4日間、ジェーンは女王と宣言した。宣言から9日後、エドワード6世の異母姉でカトリック教徒であったメアリーは十分な支持を得ることに努め、7月19日にジェーンを捕捉してロンドン塔に送った。ジェーンは16歳で処刑された。今日イギリス王室はジェーンは正統なる君主であると見なしている。


名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
メアリー1世
(血塗れのメアリー)
7月19日
1553年–1558年[70]
Mary I, by Antonius Mor, 1554 1516年2月18日
グリニッジ宮殿
ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの女子[70]
フェリペ2世
ウィンチェスター大聖堂
1554年7月25日
子を儲けず[70]
1558年11月17日
セント・ジェームズ宮殿
42歳[70]
ヘンリー8世の女子
(en:Third Succession Act)
フィリップ・オブ・スペイン[73]
1554年7月25日–
1558年11月17日
(in the right of his wife)
King Philip of England 1527年5月21日
スペインバリャドリッド
神聖ローマ皇帝兼スペイン王カルロス1世イサベル・デ・ポルトゥガルの男子
(2) メアリー1世
ウィンチェスター大聖堂
1554年7月25日
子を儲けず
他の3人の結婚で
7人の子を儲ける
1598年9月13日
スペイン・エル・エスコリアル
71歳
メアリー1世の王配
(Act for the Marriage of Queen Mary to Philip of Spain)
Coat of arms, 1554–1558

フェリペ2世 とメアリー1世の結婚の取り決めのもとで、フェリペ2世はメアリー1世の称号を享受し、名声は結婚と同じ長さで続いた。議員立法を含む公的文書には両人の名前が記され、議会は夫妻の権威の名のもとで召集された。議員立法はフェリペ2世に王の称号を与え、「メアリー1世陛下の神の恩恵を受けた王国と支配領域の幸福なる行政を……助けるべし」と明記した[74](しかし、あらゆる場所での議決でメアリー1世が「唯一」の女王と明記されている)。にもかかわらず、フェリペ2世はメアリー1世と共同統治を行った[75]。新しいイングランド王は英語 が出来なかったことから、全ての物事とを明記した記録はラテン語ないしはスペイン語で作成しなければならなかった[75][76][77]貨幣にはメアリー1世とフェリペ2世の顔を示したのが刻まれ、イングランドの紋章(右側)はフェリペ2世の物に夫妻の共同統治を示す合わせ紋とした[78][79] 。フェリペ2世の王権に傾斜させる大逆罪の法令はイングランド[80]とアイルランドへもたらされた[81]。1552年にローマ教皇パウルス5世がフェリペ2世とメアリー1世を正統なるアイルランドの王及び王妃とする教皇勅書を発行した。

名前 肖像画t 誕生 結婚 死去 主張
エリザベス1世
(処女王)
11月17日
1558年–1603年[70]
Elizabeth I, by Darnley 1533年9月7日
グリニッジ宮殿
ヘンリー8世とアン・ブーリンの女子[70]
未婚 1603年3月24日
リッチモンド宮殿
69歳[70]
ヘンリー8世の女子
(en:Third Succession Act)

ステュアート家[編集]

1603年にエリザベス1世が後継者を残すことなく没したことで、スコットランド王ジェームズ6世が王位を継ぎ、これは王冠の合同として知られるようになった。ジェームズ6世は曾祖母でヘンリー7世の長女であるマーガレット・テューダーを介してテューダー家の血を引いていた。1604年にジェームズ1世は、かつてのカスティーリャとアラゴンハプスブルク家のスペインで一塊になったのと酷似した「グレート・ブリテン王」の称号を採用した。ジェームズ1世は国境を越えたアイデンティティーを促進させるために、従兄弟のレノックス公リッチモンド公に、他方、en:Lord of the Islesプリンス・オブ・ウェールズに、アルバ公ヨーク公に等と名付けるようにして、称号をスコットランド人イングランド人に対して等しく気前良く与えた。しかし、議会、特に下院は効率良く分かれたままであった。アイルランドは別個として独立し、教会と国家が並存するというイングランドと平行した統治はスコットランドもこれに加わった時に存続したが、ジェームズ1世は自らの同胞をアルスターに紹介することでアイルランドの荘園に変え、彼等の多くはイングランドのレンスター支配に憤りを持っていた。ステュアート朝古い同盟に基づいて長い間カペー家ヴァロワ家を支援し、このことが完全にフランス王位請求を試みるに至らなかった。ステュアート家はブルボン家から年金を受け取っており、継承したイングランド内における自身の外国の適応に対して大概悪口を言っていた。プランタジネット家の裏切りが原因なのかも知れないが、フランス革命の圧力下でステュアート朝の後継者であるハノーヴァー朝がフランス王位を放棄した時に更なる譲歩がなされた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
ジェームズ1世
1603年–1625年[82]
James I, by Paulus van Somer 1566年6月19日
エディンバラ城
ヘンリー・ステュアートメアリー・ステュアートの男子[82]
アン・オブ・デンマーク
オスロ
1589年11月23日
7人の子を儲ける[82]
1625年3月27日
シ-アーボールズ宮殿
58歳[82]
ヘンリー7世の玄孫及び親族の継承者 (長子相続制)
チャールズ1世
(聖チャールズ殉教王[83])
1625年3月27日–1649年1月30日[84]
Charles I, by Anthony van Dyck 1600年11月19日
ダンファームリン宮殿
ジェームズ1世とアン・オブ・デンマークの男子[84]
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
聖アウグスティヌス寺院
1625年6月13日1月30日
9人の子を儲ける[84]
1649年1月30日
ホワイトホール宮殿
48歳 (斬首刑)[84]
ジェームズ1世の男子 (長子相続制)

共和制[編集]

1649年のチャールズ1世の処刑から1660年のチャールズ2世による王政復古までの間、イングランドには君主がいなかった。代わりに1653年に護国卿が設けられ、この期間は護国卿時代として知られている。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
オリバー・クロムウェル
(Old Ironsides)
1653年12月16日–1658年9月3日[85]
Oliver Cromwell 1599年4月25日
ハンティンドン[85]
ロバート・クロムウェルとエリザベス・ステュワートの男子[86]
エリザベス・ボルチア
St Giles[87]
1620年8月22日
9人の子を儲ける[85]
1658年9月3日
ホワイトホール
59歳[85]
リチャード・クロムウェル
(Tumbledown Dick)
1658年9月3日
– 1659年5月7日[88]
Richard Cromwell, c.1650 1626年10月4日
ハンティンドン
オリバー・クロムウェルとエリザベス・ボルチアの男子[88]
ドロシー・マイジョル
1649年5月
9人の子を儲ける[88]
1712年7月12日
チェシャント
85歳[89]

ステュアート家(復帰)[編集]

1660年に君主制が復活したが、安定した解決は、議会が最終的に意に叶う君主として選ばれた者全てへの権利を宣言した1688年の名誉革命まで訪れなかった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去 主張
チャールズ2世
1649年–1685年[90]
Recognized by Parliament in 1660
Charles II (1670s).jpg 1630年5月29日
セント・ジェームズ宮殿
チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの男子[91]
キャサリン・オブ・ブラガンザ
ポーツマス
1662年5月21日
3人の嫡子を儲ける(全員死亡)[91]
1685年2月6日
ホワイト・ホール宮殿
54歳[91]
チャールズ1世の男子 (長子相続制; 王政復古)
ジェームズ2世
1685年2月6日 –
1688年12月23日 (廃位)[92]
James II by John Riley.png 1633年10月14日
セント・ジェームズ宮殿
チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの男子[92]
(1) アン・ハイド
The Strand
1660年9月3日
8人の子を儲ける

(2) メアリー・オブ・モデナ
ドーバー
1673年11月21日
7人の子を儲ける[92]

1701年9月16日
サン=ジェルマン=アン=レー城
67歳[92]
チャールズ1世の男子(長子相続制)
メアリー2世
1689年2月13日–1694年12月28日[92]
Queen Mary II.jpg 1662年4月30日
セント・ジェームズ宮殿
ジェームズ2世とアン・ハイドの女子[92]
セント・ジェームズ宮殿
1677年11月4日
3人の子を儲ける(全員死亡)[93]
1694年12月28日
ケンジントン宮殿
32歳[92]
ジェームズ2世の女子及びチャールズ1世の孫 (議会の要請で戴冠)
ウィリアム3世
オラニエ公ウィレム3世

1689年2月13日–1702年3月8日[93]
King William III of England, (1650-1702).jpg 1650年11月4日
ハーグ
ウィレム2世メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの男子[94]
1702年3月8日
ケンジントン宮殿
51歳[93]
アン

1702年3月8日–1714年8月1日[95]
連合王国女王
1707年5月1日–1714年8月1日
Anne1705.jpg 1665年2月6日
セント・ジェームズ宮殿
ジェームズ2世とアン・ハイドの女子[96]
カンバーランド公ジョージ
セント・ジェームズ宮殿
1683年7月28日
17人の子を儲ける(全員夭折)[96]
1714年8月1日
ケンジントン宮殿
49歳[96]
ジェームズ2世の女子 (長子相続制; 権利の章典)

イングランド君主の年表[編集]

アン (イギリス女王) メアリー2世 (イングランド女王) ウィリアム3世 (イングランド王) ジェームズ2世 (イングランド王) チャールズ2世 (イングランド王) リチャード・クロムウェル オリバー・クロムウェル チャールズ1世 (イングランド王) ジェームズ1世 (イングランド王) エリザベス1世 メアリー1世 (イングランド女王) ジェーン・グレイ エドワード6世 (イングランド王) ヘンリー8世 (イングランド王) ヘンリー7世 (イングランド王) リチャード3世 (イングランド王) エドワード5世 (イングランド王) エドワード4世 (イングランド王) ヘンリー6世 (イングランド王) エドワード4世 (イングランド王) ヘンリー6世 (イングランド王) ヘンリー5世 (イングランド王) ヘンリー4世 (イングランド王) リチャード2世 (イングランド王) エドワード3世 (イングランド王) エドワード2世 (イングランド王) エドワード1世 (イングランド王) ヘンリー3世 (イングランド王) ジョン (イングランド王) リチャード1世 (イングランド王) 若ヘンリー王 ヘンリー2世 (イングランド王) マティルダ (神聖ローマ皇后) スティーブン (イングランド王) ヘンリー1世 (イングランド王) ウィリアム2世 (イングランド王) ウィリアム1世 (イングランド王) エドガー・アシリング ハロルド2世 (イングランド王) エドワード殉教王 ハーデクヌーズ ハロルド1世 (イングランド王) クヌーズ1世 (デンマーク王) スヴェン1世 (デンマーク王) エドマンド2世 (イングランド王) エゼルレッド2世 (イングランド王) エドワード殉教王 エドガー (イングランド王) エドヴィ エドレッド エドマンド1世 (イングランド王) アゼルスタン (イングランド王) エセルウォルト エドワード長兄王 アルフレッド大王 エゼルレッド (ウェセックス王) エゼルベルト (ウェセックス王) エゼルバルト (ウェセックス王) エゼルウルフ (ウェセックス王) エグバート (ウェセックス王) ステュアート朝 テューダー朝 ヨーク朝 ランカスター朝 プランタジネット朝 ノルマン朝 デーン朝 ウェセックス朝

連合法[編集]

一組の議員立法である連合法は、 1706年7月22日に2つの国の議員を代表する委員間の交渉で同意された合同条約を有効にするためにイングランド議会スコットランド議会によって1706年から1707年の間に通過された。立法にはイングランド王国とスコットランド王国(かつては分離した主権国家及び立法府であったが、共通の王を戴いていた)はグレートブリテン王国として一つの王国となることが加えられたT[97]

2つの国は100年間君主を共有してきた(「王冠の合同」:スコットランド王ジェームズ6世がエリザベス1世からイングランド王位を継承した1603年から)。しかし、王冠の合同について述べると1707年以前には実際には同じ頭の上に2つの分かれた王冠が抱かれた。1607年、1667年、1669年の3度にわたって議員立法によって2つの国の合同が試みられたが、18世紀初頭までに実行されることはなかった(意見には背後にある両国の政治的体制の思惑があった、他にも様々な理由があったが)。

称号[編集]

アルフレッド大王からジョン欠王に至るまでの全君主の基本的な称号はRex Anglorum (イングランド王)。付け加えておくと、ノルマン朝以前の君主の称号を以下に記す。

  • アルフレッド大王: Rex Angulsaxonum (King of the Anglosaxons) and Rex Anglorum et Saxonum (アングロ=サクソン王)
  • アゼルスタン: Rex Anglorum per omnipatrantis dexteram totius Bryttaniæ regni solio sublimatus
  • エドマンド1世: Rex Britanniae and Rex Anglorum caeterarumque gentium gobernator et rector
  • エドレッド: Regis qui regimina regnorum Angulsaxna, Norþhymbra, Paganorum, Brettonumque
  • エドウィ: Rex nutu Dei Angulsæxna et Northanhumbrorum imperator paganorum gubernator Breotonumque propugnator
  • エドガー: Totius Albionis finitimorumque regum basileus
  • カヌート大王: Rex Anglorum totiusque Brittannice orbis gubernator et rector and Brytannie totius Anglorum monarchus

ノルマン朝期には基本的にはRex Anglorum は残り、時折Rex Anglie(イングランド王)が使われた。マティルダ自身の称号はDomina Anglorum(イングランドの女主)であった。

ジョン欠地王の時代からは先のその他全ての称号はRex AnglieないしはRegina Anglie(イングランド女王)のため、ここに列挙することは避けておく。

1604年に前年にイングランド王を継承したジェームズ1世は(今日では普通にラテン語よりも英語で表現される)に「グレートブリテン王」の称号を採用した。しかし、イングランドとスコットランドの議会は1707年のアン女王(彼女は勿論「グレートブリテン女王」であった)下での合同法までこの称号を認識していなかった[98]

脚注[編集]

  1. ^ Keynes, Simon (1999), “Offa”, in Lapidge, Michael, The Blackwell Encyclopedia of Anglo-Saxon England, Oxford: Blackwell, pp. 301–341, ISBN 0-631-22492-0  "The notion that Offa claimed to be 'king of the English', or 'king of the whole country of England', has been shown to depend, however, on charters forged in the tenth century. In his own day he was 'king of the Mercians', and proud enough to be so." (p. 341)
  2. ^ Wormald, Patrick (1982), “The Age of Offa and Alcuin”, in Campbell, James, The Anglo-Saxons, London: Phaidon, pp. 101–128, ISBN 0-14-0143950-5  "Charlemagne, moreover, saw England as if it were ruled by two kings only; Æthelred ruling Northumbria, and Offa everything to the south." (p. 101)
  3. ^ a b The Earliest English Kings, D.P. Kirby
  4. ^ a b c d Burke's Peerage & Gentry. Retrieved 7 September 2007.
  5. ^ Yorke, Barbara. Bishop Æthelwold. His Career and Influence. Woodbridge, 1988. p. 71
  6. ^ Textus Roffensis
  7. ^ a b c d thePeerage.com – Æthelbald, King of Wessex and others”. 2007年10月24日閲覧。
  8. ^ King Egbert”. 2007年10月24日閲覧。
  9. ^ Weir, Alison (1999), Britain's Royal Family: A Complete Genealogy, London, U.K., p. 6 
  10. ^ a b Alfred (the Great) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
  11. ^ Catholic Encyclopedia: Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
  12. ^ Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
  13. ^ a b EADWEARD (Edward the Elder) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
  14. ^ There are various references listing Edward the Elder's birth as sometime in the 870s, being the second child of a marriage of 868. There are no sources listing his birth as after 877. Anglo-Saxons.net : Edward the Elder. Retrieved 15 March 2007.
  15. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Edward the Elder. Retrieved 21 January 2007.
  16. ^ a b c Aethelstan @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
  17. ^ a b c EADMUND (Edmund) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  18. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Edmund the Elder. Retrieved 17 March 2007.
  19. ^ EADRED (Edred) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  20. ^ BritRoyals – King Edred. Retrieved 17 March 2007.
  21. ^ a b c EADWIG (Edwy) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  22. ^ Catholic Encyclopedia: Edwy. Retrieved 17 March 2007.
  23. ^ EADGAR (Edgar the Peacemaker) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  24. ^ The Ætheling. Retrieved 17 March 2007.
  25. ^ a b EADWEARD (Edward the Martyr) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  26. ^ a b c d Æthelred the Unready was forced to go into exile in the summer of 1013, following Danish attacks, but was invited back following Sweyn Forkbeard's death. AETHELRED (the Unready) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  27. ^ Schoolnet Spartacus: Ethelred. Retrieved 17 March 2007.
  28. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Ethelred II, the Redeless. Retrieved 17 March 2007.
  29. ^ English Monarchs”. 2007年10月27日閲覧。
  30. ^ Sweyn (Forkbeard) - Archontology.org”. 2007年10月27日閲覧。
  31. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10242”. 2007年10月27日閲覧。
  32. ^ thePeerage.com – Person Page 102175. Retrieved 25 March 2010.
  33. ^ a b c d EADMUND (Edmund the Ironside) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  34. ^ Schoolnet Spartacus: Ethelred. Retrieved 17 March 2007.
  35. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Ethelred II, the Redeless. Retrieved 17 March 2007.
  36. ^ a b English Monarchs – Kings and Queens of England – Edmund Ironside. Retrieved 17 March 2007.
  37. ^ Edmund II (king of England) @ Britannica.com. Retrieved 25 March 2010.
  38. ^ a b c d CNUT (Canute) @ Archontology.org. Retrieved 21 March 2007.
  39. ^ a b thePeerage.com – Person Page 10219. Retrieved 25 March 2010.
  40. ^ a b c Harold was only recognised as king north of the River Thames until 1037, after which he was recognised as king of all England. Harold (Harefoot) - Archontology.org”. 2007年10月27日閲覧。
  41. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10220”. 2007年10月27日閲覧。
  42. ^ Harthacnut - Archontology.org”. 2007年10月28日閲覧。
  43. ^ a b c d e f g h thePeerage.com – Person Page 10218”. 2007年10月26日閲覧。
  44. ^ a b After reigning for approximately 9 weeks, Edgar the Atheling submitted to William the Conqueror, who had gained control of the area to the south and immediate west of London (Eadgar (the Ætheling) - Archontology.org”. 2007年10月26日閲覧。).
  45. ^ a b thePeerage.com – Person Page 9”. 2007年10月26日閲覧。
  46. ^ a b c d e f g thePeerage.com – Person Page 10203”. 2007年10月25日閲覧。
  47. ^ a b c d e f g thePeerage.com – Person Page 10204”. 2007年10月25日閲覧。
  48. ^ STEPHEN (of Blois) - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  49. ^ a b Matilda ruled at the same time as Stephen, but her reign was disputed. thePeerage.com – Person Page 10204”. 2007年10月27日閲覧。
  50. ^ MATILDA (the Empress) - Archontology.org”. 2007年10月27日閲覧。
  51. ^ a b c d e f g h thePeerage.com – Person Page 10202”. 2007年10月25日閲覧。
  52. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10201”. 2007年10月25日閲覧。
  53. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10193”. 2007年10月25日閲覧。
  54. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10191”. 2007年10月25日閲覧。
  55. ^ a b c d Edward II was officially deposed by Parliament on 25 January 1327, having been imprisoned on 16 November 1326. thePeerage.com – Person Page 10094”. 2007年10月25日閲覧。
  56. ^ The date of Edward II's death is disputed by Ian Mortimer in his book "The Perfect King: The Life of Edward III, Father of the English Nation," in which argues that he may not have been murdered, but held imprisoned in Europe for several more years: ISBN 009952709X
  57. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10188”. 2007年10月25日閲覧。
  58. ^ a b c d Richard II was deposed, and became a prisoner of Henry Bolingbroke, who usurped the throne from the prior claims of the issue of his father John of Gaunt. thePeerage.com – Person Page 10206”. 2007年10月25日閲覧。
  59. ^ a b c d e f g thePeerage.com – Person Page 10187”. 2007年10月25日閲覧。
  60. ^ HENRY IV - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  61. ^ Biography of HENRY V - Archontology.org. Retrieved 28-11-2009
  62. ^ a b c d e f g h Edward IV usurped the throne in 1461 after years of civil war. Henry VI was restored for about five months in 1470 before being deposed again permanently. thePeerage.com – Person Page 10186”. 2007年10月25日閲覧。
  63. ^ a b c d e f g h Edward was briefly deposed during his reign by Henry VI. thePeerage.com – Person Page 10164”. 2007年10月25日閲覧。
  64. ^ a b Edward V was deposed by Richard III, who usurped the throne on the grounds that Edward was illegitimate. EDWARD V - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  65. ^ thePeerage.com – Person Page 10165”. 2007年10月25日閲覧。
  66. ^ RICHARD III - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  67. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10163”. 2007年10月25日閲覧。
  68. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10142”. 2007年10月25日閲覧。
  69. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10148”. 2007年10月25日閲覧。
  70. ^ a b c d e f g h i j thePeerage.com – Person Page 10150”. 2007年10月25日閲覧。
  71. ^ a b c Jane was deposed in favour of Mary I. thePeerage.com – Person Page 10152”. 2007年10月25日閲覧。
  72. ^ Lady Jane Grey: Marriage”. 2007年10月25日閲覧。
  73. ^ Philip was not meant to be a mere consort; rather, the status of Mary I's husband was envisioned as that of a co-monarch during her reign. See Philip II of Spain's reign in England. However the extent of his authority and his status are ambiguous. An Act of Parliament, 1 Mar. stat. 2 c. 2, says that Philip shall have the title of king and "shall aid her Highness ... in the happy administration of her Grace’s realms and dominions," but elsewhere says that Mary shall be the sole Queen.
  74. ^ 1 Mar. stat. 2 c. 2
  75. ^ a b Louis Adrian Montrose, The subject of Elizabeth: authority, gender, and representation, University of Chicago Press, 2006
  76. ^ A. F. Pollard, The History of England – From the Accession of Edward VI. to the Death of Elizabeth (1547–1603), READ BOOKS, 2007
  77. ^ Wim de Groot, The Seventh Window: The King's Window Donated by Philip II and Mary Tudor to Sint Janskerk in Gouda (1557), Uitgeverij Verloren, 2005
  78. ^ Richard Marks, Ann Payne, British Museum, British Library; British heraldry from its origins to c. 1800; British Museum Publications Ltd., 1978
  79. ^ American Numismatic Association, The Numismatist, American Numismatic Association, 1971
  80. ^ en:Treason Act 1554
  81. ^ Robert Dudley Edwards, Ireland in the age of the Tudors: the destruction of Hiberno-Norman civilisation, Taylor & Francis, 1977
  82. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10137”. 2007年10月25日閲覧。
  83. ^ http://philorthodox.blogspot.com/2009/01/saint-charles-of-england-king-and.html
  84. ^ a b c d thePeerage.com – Person Page 10138”. 2007年10月25日閲覧。
  85. ^ a b c d Oliver Cromwell 1599–1658”. 2007年10月25日閲覧。
  86. ^ Oliver Cromwell – Faq 1”. 2007年10月25日閲覧。
  87. ^ New Page 1”. 2007年10月25日閲覧。
  88. ^ a b c Richard Cromwell, Lord Protector, 1626–1712”. 2007年10月25日閲覧。
  89. ^ CROMWELL, Richard - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  90. ^ Britannia: Monarchs of Britain
  91. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10139”. 2008年11月30日閲覧。
  92. ^ a b c d e f g thePeerage.com – Person Page 10136”. 2007年10月25日閲覧。
  93. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10141”. 2007年10月25日閲覧。
  94. ^ WILLIAM III - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  95. ^ Anne (England) - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
  96. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10134”. 2007年10月25日閲覧。
  97. ^ Welcome parliament.uk. Retrieved 7 October 2008.
  98. ^ After the personal union of the three crowns, James was the first to style himself King of Great Britain, but the title was rejected by the English Parliament and had no basis in law. The Parliament of Scotland also opposed it. Croft, p67; Wilson, pp249–252. See also the early history of the Union Flag.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]