エリザベス2世

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エリザベス2世
Elizabeth II
イギリス女王
Elizabeth II greets NASA GSFC employees, May 8, 2007 edit.jpg
NASAゴダード宇宙飛行センター訪問時のエリザベス2世(2007年5月
在位 1952年2月6日 - 在位中
戴冠 1953年6月2日、於ウェストミンスター寺院
別号
全名 エリザベス・アレクサンドラ・メアリー
Elizabeth Alexandra Mary
出生 1926年4月21日(88歳)
イングランドの旗 イングランドロンドンメイフェア
配偶者 エディンバラ公フィリップ
子女
王家 ウィンザー家
王朝 ウィンザー朝
王室歌 女王陛下万歳
父親 ジョージ6世
母親 エリザベス・ボーズ=ライアン
宗教 イングランド国教会
スコットランド国教会
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イギリス王室
Badge of the House of Windsor.svg

エリザベス2世女王
エディンバラ公爵フィリップ王配


エリザベス2世英語: Elizabeth II1926年4月21日[注釈 1] - )は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を含む、16か国の主権国家イギリス連邦王国)の君主であり、54の加盟国から成るイギリス連邦およびイギリスの王室属領海外領土元首である。また、イングランド国教会の首長、およびウィンザー朝の第4代女王でもある。実名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー英語: Elizabeth Alexandra Mary)。

1952年2月6日の即位を以て、イギリス連邦に加盟する独立国家である7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、カナダオーストラリアニュージーランド南アフリカ連邦パキスタンセイロン女王となった。1956年から1992年までの間に、独立を果たしたり、共和制へと移行したりしたことにより、連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は、度々移り変わっていった。

2014年現在の今日においては、(現在まで存続している)前述の4か国(イギリスカナダオーストラリアニュージーランド)に加え、ジャマイカバルバドスバハマグレナダパプアニューギニアソロモン諸島ツバルセントルシアセントビンセント・グレナディーンベリーズアンティグア・バーブーダセントクリストファー・ネイビスが女王を君主としている。こうしてエリザベス2世は、合計16か国の君主を兼ねている。またクック諸島など、上記の国と自由連合制をとる国や、その一部となっている国・地域の中にも女王を元首としているところが存在する。

エリザベス2世のこれまでの62年間という在位期間は、イギリスの君主としては、63年間に亘って在位したヴィクトリア女王に次いで、史上2番目の長さである。2007年12月20日には、高祖母たるヴィクトリア女王を抜いて、イギリス史上最高齢の君主となった。

略歴[編集]

ロンドンメイフェアにて、ヨーク公アルバート王子とエリザベス王妃の長女として誕生し、宮廷内で大切に養育された。1936年、父のアルバート王子が、兄であるエドワード8世の退位を受けて、ジョージ6世として王位に就くと、エリザベス王女は推定相続人となった。王女は、第二次世界大戦中に英国女子国防軍英語版に属して公務に携わるようになった。1947年には、エディンバラ公爵フィリップと結婚し、チャールズアンアンドルーエドワードの4人の子をもうけた。なお、夫(王配)のフィリップは共同君主・共同統治者ではない。女王エリザベス2世に即位するにあたって、1953年6月2日に執り行われた戴冠式は、史上初めてテレビ中継された。

アイルランド共和国への公式訪問英語版や、ローマ教皇との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会合を遂行しただけでなく、イギリスの地方分権英語版やカナダ憲法におけるパトリエーション英語版のように、重大な憲法改正を目の当たりにしてきた。このほか、意義深い個人的な出来事としては、自らの子女の誕生と結婚、および孫の誕生、プリンス・オブ・ウェールズの叙任英語版(立太子礼)、そして自身のシルバー・ジュビリー英語版(1977年)、ゴールデン・ジュビリー英語版(2002年)、ダイヤモンド・ジュビリー英語版(2012年)、それぞれの祝事を経験した。

生い立ち[編集]

1929年、3歳のエリザベス王女

1926年4月21日午前2時40分(BST)、ロンドン市内のメイフェア地区ブルートン・ロード17番地に所在する母方の祖父の家において、ヨーク公アルバート(後のジョージ6世)と妃エリザベスとの間に、第一子として、帝王切開により生まれる。父アルバートは、国王ジョージ5世と妃メアリーの次男で、母はスコットランド貴族の第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの末女である。

同年5月29日に、バッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルで、ヨーク大主教英語版コズモ・ラング英語版によって洗礼が施された[注釈 2][1]。名前はそれぞれ母エリザベスと父方の曽祖母アレクサンドラ、同じく父方の祖母メアリーに因んで命名され[2]、家族からは“リリベット”の愛称で呼ばれていた[3]。ジョージ5世はエリザベスを溺愛しており、1929年に大病を患った際も、彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病の回復を早めるのに一役買ったと言われている[4]

1930年、4歳の時に、妹マーガレットが誕生した。当時は、結婚を保証されている上流階級の娘達には教育は不必要という時代であったが、祖母メアリー王妃の方針によって、姉妹揃って家庭教師マリオン・クロフォード英語版から、宮廷において、歴史、言語、文学、音楽を中心とした教育を施された[5][6]。クロフォードが後に記した伝記によれば、この頃から馬や犬などの動物好きな傾向が見受けられたことや、規律正しく責任感の強い性格であったと言われている[7]。またウィンストン・チャーチルも、当時2歳だったエリザベスに接して「子供ながら驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している[8]

王女時代[編集]

エリザベス(1933年

出生時における正式な称号は、Her Royal Highness Princess Elizabeth of York(ヨーク公エリザベス王女殿下)であり、伯父の王太子エドワード、父のヨーク公エドワードに次いで、第3位の王位継承順位にあった。エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ若くて独身だった王太子のエドワードおよび将来的に彼が結婚することにより生まれるであろうと思われた、その子への王位継承が期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった[9]

しかし、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて即位したエドワード8世が、イギリスと対立しつつあった枢軸国に親近感があるような態度をとった上に、離婚経験のあるアメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかしたことを受けて、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ、同年12月に退位することとなる(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)[10]。そして、エドワード8世の弟でエリザベスの父であるヨーク公が即位して、ジョージ6世となる。これを受けて、エリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、Her Royal Highness Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる[11]。この時点でもしもエリザベスに弟が存在したならば、彼が王太子となり王位継承順位においてエリザベスよりも上位に位置付けられることとなり、彼女は推定相続人としての地位を逃していたであろうと考えられる[12]

以降は、特に帝王学・法律・歴史・フランス語を中心に学んだ。一方、ガールスカウトなどに参加し、同年代の子供とも積極的に関わっていた。このように、王位継承者として息つく暇も無い日々を送り、たまの休日に田舎道を馬に乗って走ることが唯一の楽しみといった生活を送り続けていたことから、側近には「デイヴィッド(エドワード8世)伯父様が退位しなければ、田舎で馬や犬に囲まれて過ごせていたはずなのにね」とこぼすこともあったという。

1939年には、カナダ政府から両親の外遊に同行するよう打診されるも、父が年齢の幼さと1ヶ月という期間の長さを理由に拒否したため、実現しなかった。

第二次世界大戦[編集]

1939年、祖母メアリー王太后、妹マーガレット王女とエリザベス王女

1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1945年まで続いた。この間、しばしばロンドンも空襲の対象とされ、ロンドンに住む多くの子どもが疎開していった。エリザベス王女姉妹についても、より安全なカナダへと疎開させることが政府から提案されたものの、母エリザベスが「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した[13]

結局、両姉妹は1939年のクリスマスまで、スコットランドのバルモラル城で過ごすことになり、その後はノーフォークサンドリンガム御用邸英語版に移った[14]。さらに1940年2月から5月まで、ウィンザーのロイヤル・ロッジ英語版に滞在した後、ウィンザー城へ移り住み、以後5年近くを過ごすこととなった[15]。ウィンザー城滞在時には、軍用衣類向けのニット生地を生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンドを支援するために、クリスマスに家族や友人たちを招待して、王室職員の子女たちとともに、パントマイムを上演したこともあった。この際、14歳のエリザベスはBBCのラジオ放送を通じて初めて演説を行い[16]

私たちの勇敢な陸海空の軍人の助けとなるために、私たちが出来ることはすべて試みていますし、私たちが共有する戦争の危険や悲しみに耐えようと努力しています。私たち一人一人が、終いには万事上手くいくことを確信しています。[16]

と述べた。

これ以後、王位継承者として少しずつ公務に携わるようになる。当初は、看護師となることを志望したものの、父の反対にあったことから実現しなかったが、その代わりとして、1942年に近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。1943年、16歳の時に、エリザベスは初めての単独での公務において、名誉連隊長としてグレナディアガーズを訪問した[17]。以降も各地への訪問および激励を重ねた。

エリザベスと軍用トラック(1945年4月)

18歳の誕生日を迎えると、法律が改正されて、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合(例えば、1944年7月のイタリア訪問時)に、彼女が5人のカウンセラー・オブ・ステート英語版のうちの1人として行動できるようになった[18]。1945年2月には、英国女子国防軍英語版に入隊し、名誉第二准大尉として、「エリザベス・ウインザー」の名および230873の認識番号において[19]、軍用車両の整備や弾薬管理などに従事したほか、大型自動車の免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った[20]

それまでの女性王族は、軍などにおいて肩書きが与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、イギリス本土への上陸の危機という事態を受けて、エリザベスはその慣習を打ち破り、他の学生たちと同等の訓練を受け、軍務に従事する初めてのケースとなった。エリザベスは、一般の兵士とまったく同じ待遇をされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、自分の子供たちも宮廷で学ばせるより、一般の子女たちと同じ学校に通わせることを決意したという。欧州での戦争が終結したヨーロッパ戦勝記念日には、ロンドンの街中で戦勝を祝福する一般市民の中に妹と共に匿名で混じって、真夜中まで喜びを分かち合ったという。

第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の1947年4月には、両親に付き添って初めて外遊し、南アフリカを訪問した。外遊中、ケープタウンにて21歳の誕生日を迎えた際には、英連邦に向けたラジオ演説の中で、エリザベス王女は次のような誓いを交わした。

私は、私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、貴方方と我々のすべてが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、貴方方の前に宣言する。[21]

結婚[編集]

フィリップ(1951年

将来の夫となるギリシャおよびデンマーク王子フィリッポス(フィリップ)とは、1939年7月にダートマス海軍兵学校で出会い、一目惚れして以降、文通を始めることとなる[22]。また、これ以前にも1934年と1937年の二度にわたり面会している[23]。なお、二人はクリスチャン9世ヴィクトリア女王を通して遠戚関係にある。

1947年7月9日に正式に婚約が発表されたが[24]、婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。その要因は、フィリップが経済的に自立していなかったことや、外国生まれであることのほか、フィリップの姉がナチスとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していたこと等にある[25]

同年11月20日にウェストミンスター寺院にて、かねてから交際を続けていたフィリップ王子と婚礼を挙げた。結婚後の数ヶ月間を当時英国領だったマルタで過ごした。夫妻は世界中から2500個の結婚祝い品を受け取った[26]。戦後のイギリスにあっては、婚礼に招待するに際して、当時存命していた3人の姉を含めて、フィリップ(エディンバラ公)のドイツとの関係は受け入れ難いものだった[27]。また、ウィンザー公爵(かつての国王エドワード8世)も招待されなかった[28]

エリザベスは、1948年11月14日に第一子チャールズ王子を出産し、1950年には第二子となるアン王女が誕生した。

女王時代[編集]

エリザベスの即位式
戴冠時の女王夫妻

生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、翌1952年2月6日未明、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸で、就寝中に冠状動脈血栓症により死去した(エリザベスは、オーストラリアニュージーランド公式訪問の途上、ケニア滞在中であった)。これを受けエリザベスは即位して女王「エリザベス2世」となり、同名の母エリザベスは「エリザベス王太后」となる。

翌1953年6月2日にはウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、この模様はイギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新メディアであるテレビにより中継された。

以来半世紀以上に亘ってイギリス女王の座にあり、「国民に親しまれる王室」を目指し、即位後は積極的にイギリス連邦諸国のみならず日本やアメリカ、フランスなどの諸外国を訪問するほか、私生活をテレビで放送するなど新しい試みを行った。その一方で超然たる一面を持ち、マーガレット・サッチャー首相が「女王と服装を合わせたい」と希望した際には「臣下の服装に興味はありません」と一蹴したという。

日本へは1975年(昭和50年)に1度だけ訪問している。5月7日に特別機で羽田空港に到着、その夜は東京都港区元赤坂にある迎賓館昭和天皇主催の晩餐会に出席した。翌5月8日にはNHKを訪問し大河ドラマ元禄太平記』の収録を見学、5月9日には帝国ホテルから国立劇場までの約2kmをオープンカーに乗りパレードしている。5月10日には飛行機で関西へ移動し京都御所などを見学し、翌5月11日には三重県伊勢市伊勢神宮や三重県鳥羽市御木本真珠島を訪問。この日は鳥羽国際ホテルに宿泊した。5月12日に名古屋を経由して東海道新幹線で東京に戻り、そのまま羽田空港から離日した[注釈 3]

2006年に80歳を迎えたが、現在も精力的に公務を行っている。2007年5月、英国植民地設立400周年を記念してアメリカを訪問した。同年11月19日には成婚60周年を祝う祝賀行事が催された。イギリスの君主で成婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問したが、1泊した後、イギリス連邦首脳会議のためウガンダへ出発した。

2010年ウィンブルドン選手権4日目(6月24日)には、1977年以来33年ぶりに、大会を観戦した[29]

2010年12月29日ピーター・フィリップスに女児サバンナ・フィリップスが誕生し、曾祖母となった。

2011年5月17日、1911年のジョージ5世による訪問以来、100年ぶりにイギリスの君主としてアイルランドを公式訪問している[30]。1911年当時はイギリスの植民地であったため、独立後としては初の訪問である。

近年は、息子たちの離婚・再婚問題や孫ヘンリー王子のスキャンダルなどに苦悩が絶えない。一方で、そんな女王自身の人気はイギリス国内でも高く、国民も退位を望まず、「最後まで女王でいて欲しい」などの声も大きい。

称号[編集]

Elizabeth and Robert Menzies at a formal evening event
オーストラリアを初訪問した際にロバート・メンジーズ首相と並ぶエリザベス2世(1954年

エリザベス2世はイギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を持っている。そのうち、イギリスにおける正式称号は以下のものである。

  • Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith
    • 直訳『神の恩寵による、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国ならびにその他の諸王国および諸領土の女王、イギリス連邦の元首、信仰の擁護者、エリザベス2世陛下』

「信仰の擁護者」は、元来はマルティン・ルターに反対したヘンリー8世に対し、ローマ教皇レオ10世から与えられた称号である。1534年の国王至上法によりイングランド国教会首長の称号となった。

論点[編集]

紋章入りの旗
紋章入りのカナダの旗

このため、法的に厳密に考えると、相互に反対の意見を持っている国の元首としての顔を持つことになる。たとえば、2003年に勃発したイラク戦争では、同戦争に賛成したイギリスやオーストラリアなどの元首という立場を持つ一方で、同戦争に反対したカナダの元首として行動することもできる。

実際にイギリス以外の国の元首として行動することもある。特にその国に滞在している場合、たとえば、カナダ滞在中はカナダ女王として、オーストラリア滞在中はオーストラリア女王として、パプアニューギニア滞在中はパプアニューギニア女王として、それぞれ行動する。

イングランド銀行が発行する4種全てのスターリング・ポンド紙幣や王室属領で発行されるマンクス・ポンドガーンジー・ポンド(1ポンドを除く)、ジャージー・ポンド、海外領土のジブラルタル・ポンドフォークランド諸島ポンドケイマン諸島・ドルなどの大半の紙幣で表面に肖像が描かれている。またイギリス連邦加盟国では20カナダドル、5オーストラリア・ドル、20ニュージーランド・ドルなどの紙幣に肖像が描かれている。

称号の変遷[編集]

  • 1926年4月21日 - 1936年12月11日
    • エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)
  • 1936年12月11日 - 1947年11月20日
    • エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth)
  • 1947年11月20日 - 1952年2月6日
    • エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)
  • 1952年2月6日 -
    • 女王陛下(Her Majesty The Queen)

人物[編集]

女王と競馬[編集]

騎乗するエリザベス2世。左はアメリカロナルド・レーガン大統領

近代競馬発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。エリザベス2世も競馬の熱心なパトロンである。イギリス史上初めて、スポーツ団体に勅許を与えてジョッキークラブの決定に法的基盤を付与したのはエリザベス2世である[31] 。この結果、200年以上にわたって「先例」でしかなかったジョッキークラブの裁定には法的な根拠が認められることになり、権威と権限が大幅に強化されることになった[31]。また、ニューマーケットに英国国立牧場を移したのもエリザベス2世である[31]

エリザベス2世は馬主・生産者として大きな成功を収めている[32]。両親の名を冠したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの優勝馬オリオールのほか、4頭のクラシック競走優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる(詳細)。

1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主は史上にエリザベス2世のみである[33]。所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服は、紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったものを使用している。

イギリスにおける牡馬・牝馬のクラシック競走のうち、ダービーステークスのみ所有馬の優勝がない。2011年には所有馬のカールトンハウスが1番人気となり、85歳にして初のダービー優勝馬所有なるかと競馬界を超えて広くイギリス社会の注目を集めた。女王自身もエプソム競馬場でレースを天覧したが、落鉄のアクシデントなどもあり3着に終わった。

2013年6月、王室自ら開催するロイヤルアスコット開催において、所有馬のエスティメイトがゴールドカップに優勝し36年ぶりにGⅠ制覇を達成した。

ロイヤルアスコット開催時には、毎年宮殿から馬車アスコット競馬場へ向かうのが慣例である。ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者は、エリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。

イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、アメリカ合衆国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、イギリスの植民地であった香港の「クイーンエリザベス2世カップ」など、エリザベス2世の名を冠した競走が世界各地に存在している。

主な所有馬[編集]

女王とオリンピック[編集]

近代オリンピックの開会宣言はオリンピック憲章によって「開催国の国家元首がこれを行う」と定められている。エリザベス女王を国家元首に戴くイギリス連邦諸国の中ではカナダオーストラリアイギリスで計6回のオリンピックがその在位中に開催されているが、このうち実際に女王が開会式に赴いて開会宣言を行ったのは2回にすぎず、あとは女王の王配が女王の名代として開会を宣言したことが1回あるのみで、その他は事実上の国家元首である総督が自らの名のもとに開会を宣言している。

オリンピック 開催国 開会宣言
1956年 メルボルン五輪 オーストラリア オーストラリア女王の名代として王配エディンバラ公が宣言
1976年 モントリオール五輪 カナダ カナダ女王としてエリザベスが宣言
1988年 カルガリー五輪 カナダ カナダ総督としてジャンヌ・ソーヴェ英語版総督が宣言
2000年 シドニー五輪 オーストラリア オーストラリア総督としてウィリアム・ディーン総督が宣言
2010年 バンクーバー五輪 カナダ カナダ総督としてミカエル・ジャン総督が宣言
2012年 ロンドン五輪 イギリス イギリス女王としてエリザベスが宣言

逸話[編集]

公用車のベントレー・ステートリムジン
  • 執務の一環として、老若男女あらゆる階級から届けられた中で厳選された手紙を読む。内容は主に女王に対する願い事。また最近では電子メールにも目を通している。
  • 即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からベントレー・ステートリムジンが公用車として進呈された。
  • 愛犬家であり、少女時代に父王ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼っている。その他にレトリーバーも飼っている。国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。2012年のロンドンオリンピックの開会式のために『幸福と栄光』というショートフィルムでジェームズ・ボンドと共演したが、このときも愛犬たちも出演している。
    • コーギーを飼っていた日本人が出した手紙に女王の名代で返事の手紙が来たことがある。
  • 「クイーン・エリザベス」というバラが即位の年に出された。在位50年の記念の年には「ジュビリー・セレブレーション」というバラが贈られている。
  • 若い頃に熱中したことがきっかけでクロスワードパズルを解く事が趣味。毎朝目を通す新聞(サン紙などのタブロイドも含む)に掲載されているクロスワードを空き時間などに解く。
  • 孫・ウィリアム王子妃(当時は恋人)のキャサリン妃からクリスマスプレゼントとして贈られたWiiを気に入っており、『Wii Sports』のボウリングでは83歳(当時)には思えない実力を披露したと言われる。
  • 1975年に訪日した際、名古屋駅から東京駅まで東海道新幹線ひかり号に乗車。発車時は大雨の影響で2分遅れていたが、運転士がATC速度ぎりぎりで走行し、東京に定時に到着したため「新幹線は時計より正確」と話したと言われる。[34]
  • 女王自身が「時代に合わない」として1958年を最後に女王主催のバッキンガム宮殿舞踏会デビュタント)は行われなくなった。替わりに、夏のガーデンパーティーが行われている。(BBC製作 ダイヤモンド・クイーン~王室の存亡と近代化~)
  • 祖父ジョージ5世から代々の国王がラジオ放送していたクリスマスメッセージを、1957年テレビで生放送した。現在は事前録画で放送されている。
  • 2012年ロンドンオリンピックの開会式にはバッキンガム宮殿から、ジェームズ・ボンドのエスコートでヘリコプターでオリンピックスタジアム上空まで移動し、ユニオンジャックパラシュートで地上に降下し、貴賓席に姿をあらわす、という「サプライズ演出」がなされた。この演出のためにダニー・ボイル監督とBBCによって『幸福と栄光』というショートフィルムが制作されたが、女王の召喚をうけてバッキンガム宮殿の女王の私室をボンドが訪れる場面では女王本人が出演。その際に私室内での出演のみならず私室の撮影を許可している。在位60年、007シリーズ50周年の節目の年に、ジェームズ・ボンドとエリザベス女王が共演する、「女王陛下の007」が現実のものとなった。2013年4月、これらの功績により、英国映画テレビ芸術アカデミーから、英国アカデミー賞名誉賞を授与される。

王子女[編集]

夫エディンバラ公爵フィリップとの間には3男1女がいる。

脚注[編集]

  1. ^ 女王公式誕生日英語版とされる5月末から6月初め頃と実際の女王誕生日が異なることについては、当該項目を参照。
  2. ^ 洗礼式で代父母を務めたのは、父方の祖父ジョージ5世、父方の祖母メアリー王妃、母方の祖父ストラスモア伯爵、父方の曾祖叔父コノート公爵アーサー、父方の叔母ハーウッド伯爵夫人メアリー、母方の伯母エルフィンストーン男爵夫人メアリー。
  3. ^ 5月10日の関西への移動も当初新幹線の予定であったが、労働組合によるストライキのため変更となった。名古屋からの帰路は新幹線での移動となり当時の国鉄は面目を保った形になった。なお、京都から伊勢市までと鳥羽市から名古屋までの移動は、ともに近畿日本鉄道が特急用車両による専用列車を運行して対応した。

出典[編集]

  1. ^ Hoey, p. 40
  2. ^ Brandreth, p. 103
  3. ^ Pimlott, p. 12
  4. ^ Lacey, p. 56; Nicolson, p. 433; Pimlott, pp. 14–16
  5. ^ Crawford, p. 26; Pimlott, p. 20; Shawcross, p. 21
  6. ^ Brandreth, p. 124; Lacey, pp. 62–63; Pimlott, pp. 24, 69
  7. ^ Brandreth, pp. 108–110
  8. ^ Brandreth, p. 105; Lacey, p. 81; Shawcross, pp. 21–22
  9. ^ Bond, p. 8; Lacey, p. 76; Pimlott, p. 3
  10. ^ Lacey, pp. 97–98
  11. ^ e.g. Assheton, Ralph (18 December 1936). “Succession to the Throne”. The Times: 10. 
  12. ^ Marr, pp. 78, 85; Pimlott, pp. 71–73
  13. ^ Biography of HM Queen Elizabeth the Queen Mother: Activities as Queen”. Royal Household. 2009年7月28日閲覧。
  14. ^ Crawford, pp. 104–114; Pimlott, pp. 56–57
  15. ^ Crawford, pp. 114–119; Pimlott, p. 57
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  18. ^ Pimlott, p. 71
  19. ^ London Gazette: (Supplement) no. 36973, p. 1315, 1945年3月6日. 2010年6月5日閲覧。
  20. ^ Bradford, p. 45; Lacey, p. 148; Marr, p. 100; Pimlott, p. 75
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  28. ^ Bradford, p. 61
  29. ^ エリザベス女王、33年ぶりにウィンブルドン観戦”. ゆかしメディア (2010年6月25日). 2010年9月5日閲覧。
  30. ^ “英女王、アイルランドを公式訪問”. 産経新聞. (2011年5月17日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110517/erp11051721010008-n1.htm 2011年5月18日閲覧。 
  31. ^ a b c 『競馬資料』1970年3月号,日本中央競馬会,p62-64
  32. ^ 『競馬 - サラブレッドの生産および英国競馬小史』pp.237-238
  33. ^ 『競馬 - サラブレッドの生産および英国競馬小史』p.238
  34. ^ 読売新聞1994年10月1日付朝刊

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式
英国版公式サイト (英語)
カナダ版公式サイト (英語)
その他
1957年のクリスマス - YouTube 女王のメッセージを聞くことが出来る。