ロバート・バーンズ・ウッドワード

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R. B.Woodward
R・B・ウッドワード
R・B・ウッドワード (1965)
生誕 1917年4月10日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 (1979-07-08) 1979年7月8日(62歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ
居住 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 有機化学
研究機関 ハーバード大学
出身校 マサチューセッツ工科大学
論文 A Synthetic Attack on the Oestrone Problem (1937)
博士課程
指導学生
Harry Wasserman、ロナルド・ブレズロウスチュアート・シュライバーケンダール・ハウク
主な業績 有機合成化学への貢献、構造決定
ウッドワード・ホフマン則
ウッドワード・フィーザー則
主な受賞歴 アメリカ国家科学賞(1964年)
ノーベル化学賞(1965年)
アーサー・C・コープ賞(1973年)
コプリ・メダル(1978年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1965年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:有機合成における業績

ロバート・バーンズ・ウッドワード(Robert Burns Woodward, 1917年4月10日 - 1979年7月8日)は、アメリカ合衆国の有機化学者。「20世紀最大の有機化学者」[1] と評価されている。

人物[編集]

マサチューセッツ州ボストンのアーサー・ウッドワード(イングランド系移民)とマーガレット(旧姓バーンズ、スコットランドグラスゴー出身)の間に生まれた。早くから化学に関心を持ち、1933年にマサチューセッツ工科大学 (MIT) に入学したが勉強不足で翌年放校処分となった。しかし1935年に再度入学を認められ、1936年学士号を取得、さらに翌年には博士号を授与された。その後主にハーバード大学で研究を行った。

1942年からキニーネ全合成に取り組み始め、1944年ウィリアム・デーリングと共に完成させた。この際に用いた「余分な環を作ることにより立体化学を制御する」という手法は、以降天然物全合成における標準的手法となった。

天然物の合成研究(抗生物質キニーネコレステロールコルチゾンストリキニーネリゼルグ酸レセルピンクロロフィルコルヒチンビタミンB12の全合成)により、1965年ノーベル化学賞を授与された。

また同年、ロアルド・ホフマンとともに、有機化学反応の立体選択性を予測する法則(ウッドワード・ホフマン則)を導いた。ウッドワードは合成化学の経験に基づく彼の着想を、分子軌道対称性に基づいて定式化した。彼はホフマンにその考えを確認するための理論計算を依頼し、ホフマンは彼の考案した拡張ヒュッケル法で計算を行った。ホフマンはこの業績により1981年ノーベル化学賞を受賞したが、ウッドワードはすでに死去していたので再受賞はできなかった。

ハーバード大学とともに1963年、スイスバーゼルに設立された「ウッドワード研究所」の所長を務めた。またMITおよびワイツマン研究所イスラエル)の評議員でもあった。

ウッドワードはさらに有機合成化学の研究を続け、1971年にビタミンB12の合成法を発展させた。マサチューセッツ州ケンブリッジで死去したときは抗生物質エリスロマイシン合成の研究中であった。この研究は彼のチームにより1981年に完成された。

若年期・教育[編集]

ロバートは、マサチューセッツ州ボストンのアーサー・ウッドワード(イングランド系移民、マサチューセッツ州ロックスベリー薬剤師ハーロウ・エリオット・ウッドワードの息子)とマーガレット(旧姓バーンズ、スコットランドグラスゴー出身)の間に生まれた。ロバートが1歳の時、父は1918年のスペインかぜの大流行で死去した。

非常に幼い頃からウッドワードは化学に関心を持ち、マサチューセッツ州クインシーの公立小学校および中等学校に通う間、個人的に化学の勉強に励んだ。高校に入学する頃には、当時広く使われたLudwig Gattermannの実験有機化学の教科書のほとんどの実験を何とか行うことができるようになっていた。1928年に、ウッドワードはボストンにあるドイツ大使館総領事に連絡を取り、彼を通してドイツの学術雑誌で発表されたいくつかの原著論文のコピーを何とか入手した。後にウッドワードはアーサー・C・コープ賞 (Arthur C. Cope Award) の受賞講演で、それらの論文の中でディールス・アルダー反応についてのディールスとアルダーの原著論文 (communication) に偶然出会った時、どれだけ心をとらえられたかについて述べている[2]。彼のキャリアを通して、ウッドワードはこの反応について、理論的ならびに実験的手法の両面から繰り返しそして強力に研究した。1933年、マサチューセッツ工科大学 (MIT) に入学したが勉強不足で翌年放校処分となった。しかし1935年に再度入学を認められ、1936年学士号 (B.Sc. in chemistry) を取得、さらにすぐ翌年(1937年)には博士号 (Ph.D. in chemistry) を授与された。この時彼のクラスメートはまだ学部生であった。ウッドワードの博士論文研究は女性ホルモンエストロンの合成に関連した研究を含んでいる[3]。MITでは大学院生には指導教員がおり、ウッドワードの指導教員はAvery A. Ashdownだった。しかしながら実際にウッドワードが何かAshdownから助言を受けたかは定かではない。イリノイ大学に博士研究員として短期間在籍した後、1937年にハーバード大学のElmer P. Kohlerのウッドワードは1937年から1938年までのハーバード大学の特別研究員 (Junior Fellow) の資格を得て、その後一生様々な立場でハーバード大学に残った。1960年代に、ウッドワードはDonner Professor of Scienceの称号を得た。これによって、正規教育過程での授業から解消され全ての時間研究に打ち込むことが出来るようになった。

初期の研究[編集]

1940年代のウッドワードの最初の大きな業績は、天然物構造決定における紫外分光法の応用に関する一連の論文である。同時に、ウッドワードは多量の実験データを収集し、後にウッドワード則と呼ばれる一連の法則を考え出した。この法則は、新規天然物質や非天然の合成分子の構造を探るのに応用することができる。新たに開発された機器分析技術の目的にかなった利用は、キャリアを通じたウッドワードの特徴であり、これらの機器分析技術はそれまで使われていた非常に退屈で長い化学的な構造決定法からの根本的な変化をもたらした。

1944年、彼のポスドク研究者であったウィリアム・デーリングと共に、ウッドワードはマラリアの治療に用いられるアルカロイドであるキニーネの合成を発表した[4]。この合成は日本占領下の東南アジアから入手困難な医薬化合物の調達におけるブレイクスルーであると宣伝されたが、実際は実用的なスケールに適用するには長く面倒過ぎる合成法だった。にもかかわらず、この合成は化学合成における画期的な出来事であった。この合成におけるウッドワードの際立った洞察力は、ドイツ人化学者Paul Rabeが1905年にキノトキシンと呼ばれるキニーネの前駆体をキニーネに変換していることに気が付いたことだった。したがって、キノトキシン(実際にウッドワードが合成した)を合成すればキニーネに辿り着くことが出来る。ウッドワードがこの業績を達成した時、有機合成はまだ大部分は試行錯誤のものであり、誰もこのような複雑な構造実際に組み立てることが出来るとは考えていなかった。ウッドワードは、有機化学を合理的な科学にすることが出来ること、そして合成が反応性および構造についての確立した原理によって力を得られることを示した。この合成は、彼が取り組んだ一連のことのほか複雑でエレガントな合成の最初の合成である。

後期の業績とその影響[編集]

1930年代を頂点として、イギリスの化学者クリストファー・ケルク・インゴールドロバート・ロビンソンは有機反応の反応機構について研究を行い、有機分子の反応性を予測することが可能な経験則に辿り着いた。ウッドワードはそれらのアイデアを合成の骨組に用いたおそらく最初の有機合成化学者である。ウッドワードの手法は、後に続く多くの医学的に重要かつ構造的に複雑な天然物を合成した合成化学者の仕事への刺激となった。

有機合成とノーベル賞[編集]

1940年代後半の間、ウッドワードはキニーネコレステロールコルチゾンストリキニーネリゼルグ酸レセルピンクロロフィルセファロスポリンコルヒチンなど多くの複雑な天然物を合成した。これらによって、ウッドワードは、物理有機化学の法則を注意深く応用し細心の計画を立てることにより天然物を合成することが出来ることを示し、ウッドワードの時代 (Woodwardian era) とも呼ばれることのある合成の新時代の扉を開いた。

ウッドワードによる合成の多くは彼の仲間達から驚異的であると称えられた。彼が合成するまで、それらの天然物のを実験室で実際に作り上げることは不可能であろうと考えられていた。ウッドワードの合成はまた、芸術的な要素を有していると表現され、その後の合成化学者は利便性と共に常に美しさを合成の中に追い求めている。彼の仕事はまた、当時新たに開発された赤外分光法や、後には核磁気共鳴 (NMR) 分光法の技術の徹底的な使用を含んでいる。ウッドワードの合成におけるもう一つの重要な特徴は、立体化学や三次元空間における分子の特定の配置に対する注目である。医学的に重要なほとんどの天然物(医薬品)は、それが特定の立体化学を持つときにのみ効果を示す。これによって、特定の立体化学を有する化合物を作り出す「立体特異的合成」に対する要求が生まれた。今日では典型的な合成経路は立体特異的合成をごく普通に含むが、ウッドワードは立体特異的な反応が緻密かつ合理的な計画によって実行できることを示したパイオニアである。彼の合成の多くは化合物中に構造を固定する要素を導入するこおによって特定の配置を分子に取らせる戦略を含んでおり、今日の標準的な戦略となっている。この点において、特にウッドワードによるレセルピンとストリキニーネの合成は大きな進歩である。

第二次世界大戦の間、ウッドワードは軍需生産委員会 (War Production Board) のペニシリンプロジェクトのアドバイザーを務めていた。しばしばペニシリンのβ-ラクタム構造を提唱した功績を認められているが、実際は最初に提唱したのはメルク社とオックスフォード大学の化学者達であり、続いても他のグループ (Shellなど) によって研究された。ウッドワードは最初、Peoriaのペニシリングループによる間違った三環性構造(チアゾリジンが縮環しアミノ架橋したオキサジノン)を支持していた。後に、ウッドワードはβラクタム構造を認めた。このチアゾリジン-オキサゾロン構造と異なっている構造はロバート・ロビンソンによって提唱された。ロビンソンは彼の世代の有機化学者を牽引していった。最終的に、β-ラクタム構造は、1945年にドロシー・ホジキンによってX線回折法を利用して正しいことが明らかにされた。

ウッドワードはまた、赤外分光法と化学分解の技術を複雑な分子の構造決定に応用した。それらの構造決定の中でも特筆すべきなのがサントン酸 (santonic acid)、ストリキニーネ、マグナマイシン、テトラサイクリンの構造決定である。テトラサイクリンに関して、ウッドワードの同僚とノーベル賞受賞者デレック・バートンは次にように述べている。

構造決定のパズルにおいてこれまで行われた中で最も輝かしい解析は、疑いなくテラマイシン(テトラサイクリン)問題の解決(1953年)である。この問題には大きな産業的重要性があったため、多くの優れた化学者が構造決定のために膨大な量の研究を行っていた。この問題を解決するのに過剰なデータがあると思えた。何故なら、かなりの数の実験結果が、実験的に正しいにもかかわらず、非常に誤解を与えるものであったためである。ウッドワードは、大きなボール紙を取りそれに全ての実験事実を書き、思考のみによって、テラマイシンの正しい構造を推定した。当時、他の誰もそれは不可能であった。[1]

それらの一つ一つの場合において、ウッドワードは化学的直感によって融合された合理的な事実と化学的な原則が、いかに課題を達成するために用いることができるかを再び示した。

1950年代前半、ウッドワードは、後にハーバードに来ることになるイギリスの化学者ジェフリー・ウィルキンソンと共に、有機分子とによって構成された化合物であるフェロセンの新しい構造を仮定した[5]。これによって、工業的に非常に重要な分野へと成長する有機金属化学分野の始まりが記された[6]。この業績によって、ウィルキンソンは、エルンスト・オットー・フィッシャーと共に1963年のノーベル化学賞を受賞している[7]。ある歴史家達は[誰?]、ウッドワードがこの業績によってウィルキンソンと共にノーベル賞を受賞すべきであると考えている。珍しいことに、ウッドワード自身もそう考えており、ノーベル委員会に手紙で彼の考えを表明している[8]

ウッドワードは、有機合成法への貢献によって1965年のノーベル化学賞を受賞した。受賞講演で、ウッドワードは抗生物質セファロスポリンの全合成について述べ、ノーベル賞のセレモニーまでに合成が完了するように合成スケジュールを無理に進めたのだとした。

ビタミンB12の合成とウッドワード・ホフマン則[編集]

1960年代前半、ウッドワートはこれまでに合成された中で最も複雑な天然物 - ビタミンB12全合成に着手した。彼の同僚であったチューリッヒアルバート・エッシェンモーザーとの見事な協力により、ほぼ100名の学生と博士研究員からなるチームがこの分子の合成を長年研究した。この仕事は最終的に1973年に発表され、有機化学の歴史において画期的な出来事の一つとなっている。ビタミンB12の合成はほぼ100段階からなり、ウッドワードの仕事において常に特徴的であった綿密な計画と分析を含んでいる。この仕事は他の何よりも、十分な時間と計画があればどんな複雑な物質の合成も可能である、と有機化学者達に確信させた。しかしながら、2011年現在、ビタミンB12の全合成はこれ以後報告されていない。

同年に、ウッドワードがビタミンB12合成の間に得た所見から、ウッドワードとロアルド・ホフマンは、有機化学反応の生成物の立体化学を予測する、現在ウッドワード・ホフマン則と呼ばれる理論を発見した[9]。ウッドワードは彼の有機合成化学者としての経験に基づいて、分子軌道の対称性に基づく彼の着想を定式化した。ウッドワードは、ホフマンに彼の考えを検証するための理論的計算を依頼し、ホフマンは彼の考案した拡張ヒュッケル法で計算を行った。この「ウッドワード・ホフマン則」による予測は、多くの実験によって実証された。ホフマンは、異なるアプローチで同様の業績を挙げた日本人化学者福井謙一と共に1981年のノーベル化学賞を受賞した。存命であれば、ウッドワードも間違いなく2つ目のノーベル賞を得ただろう。

最近、雑誌Natureに、ウッドワード・ホフマン則を力学応力によって打ち破る例が報告されている[10]

ウッドワード研究所と晩年[編集]

ハーバード大学にいる間、ウッドワードはスイスバーゼルに1963年に設立されたウッドワード研究所の所長を務めた。また、彼の母校であるMITの評議員を1966年から1971年までたほか、イスラエルワイツマン研究所の評議員を務めた。

ウッドワードは、就寝中、心臓発作によりマサチューセッツ州ケンブリッジで死去した。当時、彼は抗生物質エリスロマイシンの合成を行っていた。彼の学生の一人は彼に次のように述べている。

私はR. B. ウッドワードから多大な恩恵を受けた。彼は、結果についての明白なアイデアによってではなく、知性と努力がそれらを解決するという自信によって困難な問題に挑むことが出来ることを、私に示した。彼は、現代有機化学の美を、詳細で注意深い論理的思考の分野との関連を、私に示した。彼は、専門化する必要がないことを、私に示した。ウッドワードは、合成戦略、難しい構造の推定、新たな化学の発明、理論的な側面について多大な貢献をした。彼は彼の生徒に、我々の科学に完全に没頭することによって満足が得られるのだ、と模範を示して教えた。このような素晴しい化学者との交流の記憶を私は宝として大切にする。[1]

家族[編集]

1938年に、ウッドワードはIrja Pullmanと結婚した、Irjaとの間には2人の娘がいる。1946年、ポラロイド社で出会った画家で技術者であるEudoxia Mullerと結婚した。この結婚は、1979年のウッドワードの死まで続き、娘1人と息子1人を授かった。

論文[編集]

生涯に渡る、ウッドワードの筆頭著者、共著者としての論文は約200報あり、その内85報がフルペーパー、残りはコミュニケーション、講演記録、総説などである。彼の科学活動の速度は全ての実験の詳細を発表する許容量をすぐに上回り、彼が携わった多くの仕事は彼の死後数年まで発表されなかった。ウッドワードは、200名以上の有能な博士院生と博士研究員を鍛え、彼らの多くが後に際立ったキャリアを送った。

著名な彼の生徒としては、Robert M. Williams(コロラド州立大学)、Harry Wasserman(エール大学)、岸義人(ハーバード大学)、スチュアート・シュライバー(ハーバード大学)、William Roush(スクリプス研究所)、スティーヴン・ベナーSteven A. Bennerフロリダ大学)、Christopher Spencer FooteUCLA)、ケンダール・ハウクKendall Houk、UCLA)、ポルフィリン化学者Kevin M. Smithがいる。

ウッドワードは百科事典的な化学の知識と、並外れた詳細な記憶力を持っていた[要出典]

個性[編集]

彼の講演は伝説的であり、しばしば3〜4時間続いた。彼の最も長い講演時間はEdgar Heilbronnerによって時間の単位「ウッドワード Woodward」と定義され、それ以後の彼の講演の所要時間は数百ミリウッドワードとして考えられた[2]。講演の多くで、彼はスライドの使用を控え複数色のチョークを使用して美しい構造を描いた。その結果、ウッドワードの講演でよいノートを取るのは常に簡単だった。通常、講演を開始するにあたって、ウッドワードは到着するとカウンター上に大きな2つの白いハンカチーフを配置した。一方の上には4色か5色の新品のチョークが、一列に整然と並べられた。もう一方のハンカチーフ上には、同様に素晴らしい葉巻が一列に並べられた。葉巻は次の葉巻に火を付けるのに用いられた。ハーバードでの彼の有名な木曜日セミナーは、しばしば夜まで続いた。ウッドワードはに執着し、彼の全てのスーツ、車、駐車スペースまで青色だった。彼の研究室の一つでは、学生らが彼らの師匠の大きな白黒写真を天井から吊り下げていたが、それには大きな青いネクタイが付け加えられていた。その写真は、研究室でのボヤ騒ぎで焼け焦げてしまうまでは、何年か(1970年代前半まで)吊り下げられていた[11]。ウッドワードは運動を嫌悪し、毎晩数時間の睡眠で大丈夫で、ヘビースモーカーであり、スコッチ・ウイスキーや1、2杯のマティーニを楽しんだ。

受賞[編集]

彼の業績に対して、ウッドワードは数多くの賞、称号、名誉博士号を得た。これらは、米国科学アカデミー(1953年)や王立協会(1956年)[12] をはじめとする世界中の科学アカデミーの会員への選出を含む。彼はまた、ポラロイド、ファイザーメルクなど多くの企業のコンサルタントを務めた。また1970年には日本から勲二等旭日重光章を受勲している。

受賞歴

名誉学位[編集]

ウッドワードは以下大学からの名誉博士号を含む20を越す名誉学位を授与されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Elkan Blout (2001). “ROBERT BURNS WOODWARD 1917–1979 A Biographical Memoir by ELKAN BLOUT”. Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 80: 825–831. http://www.nap.edu/html/biomems/rwoodward.pdf. 
  2. ^ a b Robert Burns Woodward (2001). “18. The Arthur C. Cope Award Lecture (Chicago, 28 August 1963)”. In Otto Theodor Benfey, Peter J. T. Morris. Robert Burns Woodward: architect and artist in the world of molecules. History of modern chemical sciences. Chemical Heritage Foundation. ISBN 9780941901253. https://books.google.co.jp/books?id=jMoiQSZUktoC 
  3. ^ Woodward, R. B. (1937). A synthetic attack on the oestrone problem (Ph.D. thesis). Massachusetts Institute of Technology.
  4. ^ R. B. Woodward and W. E. Doering (1944). “The Total Synthesis of Quinine”. J. Am. Chem. Soc. 66 (5): 849-849. doi:10.1021/ja01233a516. 
  5. ^ Wilkinson, G.; Rosenblum, M.; Whiting, M. C.; Woodward, R. B. (1952). “The Structure of Iron Bis-Cyclopentadienyl”. J. Am. Chem. Soc. 74 (8): 2125–2126. doi:10.1021/ja01128a527. 
  6. ^ Federman Neto, A.; Pelegrino, A. C.; Darin, V. A. (2004). “Ferrocene: 50 Years of Transition Metal Organometallic Chemistry — From Organic and Inorganic to Supramolecular Chemistry”. ChemInform 35 (43). doi:10.1002/chin.200443242. 
  7. ^ "The Nobel Prize in Chemistry 1973". Nobelprize.org. 19 Mar 2011 https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1973/summary/
  8. ^ Werner, H. (2008). Landmarks in Organo-Transition Metal Chemistry: A Personal View. Springer Science. pp. 161–163. ISBN 9780387098470. https://books.google.com.au/books?id=dP4LTfaPzAMC&pg=PA161&dq=woodward+nobel+prize&hl=en&ei=ypsoTdrIJ8jIcfHB_PAB&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CC4Q6AEwAQ#v=onepage&q=woodward%20nobel%20prize&f=false 
  9. ^ Hoffmann, R.; Woodward, R. B. (1970). “Orbital Symmetry Control of Chemical Reactions”. Science 167 (3919): 825–831. 1970 Feb 6. doi:10.1126/science.167.3919.825. PMID 17742608. 
  10. ^ Hickenboth CR, Moore JS, White SR, Sottos NR, Baudry J, Wilson SR (2007). “Biasing reaction pathways with mechanical force”. Nature 446 (7134): 423-427. doi:10.1038/nature05681. PMID 17377579. 
  11. ^ ミシガン州立大学 (2003年5月16日). “Robert Burns Woodward 1917-1979”. MSU Gallery of Chemists' Photo-Portraits and Mini-Biographies. 2011年3月20日閲覧。
  12. ^ "Woodward; Robert Burns (1917 - 1979)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧

参考文献[編集]

  1. Elkan Blout (2001). “ROBERT BURNS WOODWARD 1917–1979 A Biographical Memoir by ELKAN BLOUT”. Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 80: 825–831. http://www.nap.edu/html/biomems/rwoodward.pdf. 
  2. Otto Theodor Benfey, Peter J. T. Morris, ed. (2001). Robert Burns Woodward: architect and artist in the world of molecules. History of modern chemical sciences. Chemical Heritage Foundation. ISBN 9780941901253. https://books.google.co.jp/books?id=jMoiQSZUktoC 
  3. Mary E. Bowden, Otto Theodor Benfey (1992). Robert Burns Woodward and the Art of Organic Synthesis:. The Beckman Center for the History of Chemistry, Publication No.9. Chemical Heritage Foundation. ISBN 978-0941901086. https://books.google.co.jp/books?id=HDo8LQsKXOcC& 
  4. Alexander Todd, John Cornforth (1981). “Robert Burns Woodward. 10 April 1917-8 July 1979”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 27: 628–695. doi:10.1098/rsbm.1981.0025. http://links.jstor.org/sici?sici=0080-4606%28198111%2927%3C628%3ARBW1A1%3E2.0.CO%3B2-W. 
  5. G. Wayne Craig (2011). “The Woodward Research Institute, Robert Burns Woodward (1917 – 1979) and Chemistry behind the Glass Door”. Helvetica Chimica Acta 94: 923−946. doi:10.1002/hlca.201100077. 
  6. Woodward R. B., Sondheimer F., Taub D. (1951). “The Total Synthesis of Cortisone”. J. Am. Chem. Soc. 73: 4057–4057. doi:10.1021/ja01152a551. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]