ルイス・マウントバッテン

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ルイス・マウントバッテン
Louis Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma
マウントバッテン・オヴ・バーマ伯爵
Mountbatten.jpg
全名 ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン
出生 1900年6月25日
イギリスの旗 イギリス
死去 1979年8月27日(満79歳没)
アイルランド共和国の旗 アイルランドドネゴール湾
配偶者 エドウィナ・アシュレイ
子女 パトリシア
パメラ
父親 初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン
母親 ヴィクトリア
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晩年(1976年)のマウントバッテン伯爵(ライフガーズの制服にメリット勲章ほかを着用)

初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン(Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma、1900年6月25日 - 1979年8月27日)は、イギリスの貴族。ガーター勲章勲爵士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、メリット勲章勲爵士(OM)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー勲爵士(GCSI)、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCVO)、殊功勲章英語版受勲者(DSM)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)[1]

初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンの子で、ヴィクトリア女王の曾孫。ドイツバッテンベルク家出身。海軍元帥

生涯[編集]

生い立ち[編集]

初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンヴィクトリアの子として生まれた。若い頃から傲岸不遜な性格と数々の噂話で有名であった。

中将[編集]

32歳の時、プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード8世→ウィンザー公)と同格の三軍中将(格)に任ぜられた。血統背景からすれば、マウントバッテンの若年での高位任官はお約束事であり、これに対する批判もまた、お約束事であった。当然「能無し」などと見られがちであり、侮る将校も相当数いた。実際、戦闘の面では大いに不安があったが、マウントバッテンが発揮したのは、結果的には戦闘面よりもそれ以外の面であった。

第二次世界大戦[編集]

1939年9月に第二次世界大戦が勃発するや志願して現役に復帰し、海軍少佐に任ぜられた。1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。

その後、東南アジア地域連合軍 (SEAC) 総司令官に就任。ビルマの戦いなどで日本軍との戦いの総指揮を執ったものの、質、量ともに勝る日本軍に痛めつけられた。この際に連絡将校としてマラヤ統一戦線との窓口になっていたのがマラヤ共産党の指導者陳平である。陳平はマウントバッテンとの交流から、大英帝国の敵でありながらイギリスから叙勲されている。その後1国でイギリスやアメリカ中華民国オランダオーストラリアなどの連合国軍と戦う日本軍の戦線が伸び切ったことから、1945年に入りようやくイギリス軍が攻勢を取るにいたったビルマでの一連の戦いが評価され、「ビルマのマウントバッテン」と謳われるようになる。

SEAC時代には情報戦を駆使した戦術を多用し、戦闘を進める一方で、戦後処理の方策も同時に研究させていた。日本の無条件降伏後、シンガポールのシティ・ホールで第7方面軍司令官板垣征四郎を引見して降伏文書を交わしている。

バイティング作戦[編集]

イギリスはドイツの早期警戒レーダー「フライヤ」と標定レーダー「ヴュルツブルク」の2本立てのレーダー技術の情報をつかみドイツが自国よりレーダー技術が進んでいると考え(実際はイギリスの方が進んでいた)レーダー重要部分の強奪を考えた。これによりバイティング作戦がルイス・マウントバッテンにより立案された。地上レーダーは持ち込まれることがないため困難であり敵地へ突入する必要があったが、1942年2月27日から28日に作戦は実行されヴュルツブルクの心臓部入手とヴュルツブルク操作員1名通信兵1名の捕虜を確保しドイツのレーダー技術の実情と詳細を把握できた。[2]

インド総督[編集]

ロンドンケンジントン宮殿マレー人の兵士を閲兵するマウントバッテン卿(1946年)
マハトマ・ガンディーとマウントバッテン夫妻(1947年)
ムハンマド・アリー・ジンナーとマウントバッテン夫妻(1947年)

東南アジア方面の処理が一段落した後、最後のインドの総督に転じる。第二次世界大戦後に疲弊したイギリスには、もはや遠方の植民地を統治する国力は残っておらず、すでにインドの独立は確定していたものの、宗教を理由とする民族対立が激化しつつあった。

マウントバッテンは本国から「インドの統一を保ち撤退せよ」との命を帯びてインドに赴任したが、マハトマ・ガンディージャワハルラール・ネルームハンマド・アリー・ジンナーら指導者との会談を重ねていくうちに民族対立の現実を目の当たりにし、イスラム教徒パキスタンの分離を唱えるジンナーにやや押し切られる形で1947年インド・パキスタン分離独立への道筋をつけた。

要職[編集]

1948年には「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」と述べ、東京裁判を事実上批判したこともあるが、下記のように日本軍に対する怨念は消えなかった。その後は、地中海艦隊司令長官第一海軍卿、国防参謀総長などの軍の要職を歴任した。退役後は維持費捻出のために自宅を一般公開するなどをした。

暗殺[編集]

ラムジー修道院にあるマウントバッテン卿の墓所

1979年に、アイルランド北西部のドネゴール湾で、休暇でヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾により爆破され、孫たちと共に死亡した。実行犯は終身刑となった。

生存者の証言によると爆弾はエンジンに仕掛けられていたらしく、操縦したマウントバッテンは即死状態だった。マウントバッテンは「私のような年寄りに何をするというのかい?」とIRA暫定派からの攻撃が自分らには及ぶまいと高を括っていたのか、大した護衛もつけていなかったという。

なお、テロによるマウントバッテンの死に最もショックを受けたのがチャールズ皇太子だったようで、死の翌年にマウントバッテンの事について語り合った相手がダイアナ・スペンサーだった(「エリザベス女王 決断の10日"10 Days that Made the Queen"」IWC Media(イギリス)、2007)。

主にヨーロッパ諸国の王族がマウントバッテンの葬儀に参加したが、本人の遺言により、かつて戦った日本人の参列を拒否するなど、痛めつけられた旧日本軍に対する感情的なしこりは生涯無くならなかった。

逸話[編集]

ロシア皇帝ニコライ2世の三女マリア・ニコラエヴナの面影を生涯追い続け、彼女の写真を部屋に飾っていたと言われている(なお、マリアとマウントバッテンは従姉弟同士である)。

出典[編集]

  1. ^ Mountbatten; Louis Francis Albert Victor Nicholas (1900 - 1979); 1st Earl Mountbatten of Burma” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
  2. ^ 白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)33-40頁

参考文献[編集]

  • アーイシャ・ジャラール『パキスタン独立』井上あえか訳 勁草書房、1999
  • リチャード・オルドリッチ"Intelligence and the War against Japan"2000

関連項目[編集]

官職
先代:
初代ウェーヴェル子爵
イギリス領インド帝国の旗 インド副王兼総督
1947年
次代:
彼自身
(インド総督)
次代:
ムハンマド・アリー・ジンナー
パキスタン総督
先代:
彼自身
(インド副王兼総督)
Flag of the Governor-General of India (1947-1950).svg インド総督
1947年1948年
次代:
チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー英語版
イギリスの爵位
先代:
新しく創設
Coat of Arms of Louis Mountbatten, Earl of Burma.svg 初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵英語版
1947年 - 1979年
次代:
パトリシア
Coat of Arms of Louis Mountbatten, Earl of Burma.svg 初代マウントバッテン・オブ・バーマ子爵
1946年 - 1979年