ニコライ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
ニコライ2世
Николай II
ロシア皇帝
ニコライ2世

戴冠 1896年5月26日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂
先代 アレクサンドル3世

先代 アレクサンデル3世

先代 アレクサンテリ3世

出生 1868年5月18日
ロシアツァールスコエ・セロー
死亡 1918年7月17日(満50歳没)
ロシアエカテリンブルク
埋葬 1998年7月17日
ロシアサンクトペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂
実名 Николай Александрович
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
王室 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
父親 アレクサンドル3世
母親 マリア・フョードロヴナ
配偶者 アレクサンドラ・フョードロヴナ
子女
信仰 キリスト教正教会
親署 ニコライ2世の親署

呼称は、ロシア皇帝・フィンランド大公としてはニコライ2世、ポーランド国王としてはミコワイ2世である。
ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、ニコライ2世に関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。
テンプレートを表示

ニコライ2世ロシア語: Николай II, ラテン文字転写: Nicholai II、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Николай Александрович Романов, ラテン文字転写: Nicholai Aleksandrovich Romanov1868年5月18日ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。

皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女タチアナ皇女マリア皇女アナスタシア皇女アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世イギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。

日露戦争第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、一家ともども殺された。正教会聖人新致命者)に列せられている。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち、皇太子時代

1870年、ニコライと母マリア・フョードロヴナ

アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の第一皇子として生まれる。

1881年に革命家によって暗殺された祖父アレクサンドル2世の死に立ち会っている。父アレクサンドル3世に続き、聖務会院長にして法律家、また専制護持のイデオローグでもあったコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けた。

皇太子時代のニコライは、このような保守的な教育のほか入念な軍人教育も受けており、好みも関心も、当時の普通の青年将校とほとんど変わらず、また、公的な宴会よりも軍隊の仲間たちの中にいることを生涯好んだ。

皇太子時代の1890年から1891年にかけて、地中海スエズ運河イギリス領インド帝国、イギリス領シンガポールオランダ領東インドフランス領インドシナ、イギリス領香港日本などアジア各地を訪問した。

[編集] 大津事件

1891年、長崎訪問時のニコライ皇太子(上野彦馬撮影)

日本には1891年4月27日シベリア鉄道の起工式に参列する途中、ロシア帝国海軍装甲フリゲートパーミャチ・アゾーヴァ」(通称「アゾフ号」)で長崎に渡航した。長崎への公式上陸は5月4日とされていたが、翌日より何度もお忍びで下船し、九州の長崎と鹿児島に立ち寄った後、神戸を経て京都などを観光した。

日本は政府を挙げて訪日したニコライを接待した。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。

5月11日琵琶湖遊覧から京都に戻る際、滋賀県大津において、警備の巡査であった津田三蔵が、人力車に乗って通過するニコライを襲撃して傷を負わせた(大津事件、津田の動機についてははっきりしない)。津田はその場で従弟のギリシャ王子ゲオルギオスや、人力車夫の働きにより取り押さえられた。政府は事の重大さに驚き、松方正義首相はじめ政府首脳が次々に見舞い、明治天皇も京都の常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に滞在していたニコライを見舞っている。なお、負傷の際に着用していたシャツについた血痕が、後に、ニコライ皇帝一家処刑埋葬で、最後まで不明であった2人分の遺骨のDNA鑑定に使用された。

[編集] 即位と結婚

1896年、戴冠式で塗油により成聖されるニコライ2世とアレクサンドラ
ヴァレンティン・セローフ画、1897年
ホディンカの惨事の犠牲者

1894年11月1日、アレクサンドル3世の崩御(急死)を受け、26歳で即位してロシア皇帝となった。同じ年にドイツ帝国ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の娘でイギリス女王ヴィクトリアの孫娘でもあるアリックスと婚配機密を受け、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとした。ニコライは即位すると直ちにゼムストヴォ(ロシアの地方議会)の自由主義議員に対し、専制体制を温存する意思を宣言し、彼らの国政参加の願いを「非常識な夢」として退けた。

1896年ユリウス暦5月14日モスクワクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式を行なった。戴冠式に日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。

戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった(ホディンカの惨事)。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが皇帝と皇后の事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。

[編集] 日露戦争とロシア第一革命

1898年のニコライ2世

初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。

ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を、1894年には露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催を自ら提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。

一方、極東方面に対しては、1895年4月の三国干渉ではドイツ、フランスを誘って「国の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島賠償金3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年に東清鉄道の建設を命じている。ロシアは1894年に露仏同盟を結んで1882年結成の独墺伊の三国同盟に対抗しようとしたが、黄禍論者でもあったヴィルヘルム2世はロシアの目を極東に向けさせることによって対露関係を調整しようとした。三国干渉は日本国民に反露感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「臥薪嘗胆」を合言葉としてナショナリズムの傾向が強まった。

1898年には旅順大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置、さらに1900年義和団の乱にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に満洲を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めた。そして朝鮮半島への圧力を強めると日本と対立するようになった(ヴィルヘルム2世の戦争を危惧する親書に対し「朕(ニコライ2世)は戦争を欲しない。よって戦争は起きない」旨の返書をしている)。国内では1900年から1901年にかけて起こった経済危機により、工業製品の発注が激減し、失業者が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で戦争をはじめることにヴィッテは反対し、戦争回避を主張したが、政敵であった内相ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派ベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ、ヴィッテは失脚した。陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンや関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフも主戦論を支持して、日本に対し強硬策をとり続けたため、1904年2月に日本側の攻撃を発端に日露戦争が勃発した。ロシア陸軍総司令官となったクロパトキンは、日本陸軍を内陸部まで引き付けて補給線が伸び切ったところで一気に反撃するという戦略を持っていたために退却を繰り返したが、短期的に見れば敗戦し続けており、ニコライ2世の威信の低下につながった。また海軍も旅順艦隊が壊滅させられてしまった。

[編集] 血の日曜日事件

1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルク冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去った。この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。さらに2月には叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺された。

戦局も好転することなく敗北が続き、本国から派遣したバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)も日本海海戦で壊滅させられた。海戦の結果を受け6月8日に、アメリカ合衆国セオドア・ルーズベルト大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾。ニコライ2世はヴィッテを再登用してポーツマスへ全権として派遣し、日本との交渉に当たらせた。

交渉の最中である6月27日には、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」で水兵による反乱が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。ポチョムキンの反乱に加わったのは水雷艇1隻と戦艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」であった。「ポチョムキン」はルーマニアへ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて処刑か、シベリアへの流刑を言い渡されている。

8月、ニコライ2世は譲歩に応じブルイギン宣言を発した。これは「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、ポーランド人ポーランド語使用、農民の弁済額の減額を認めたものだったが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、ツァーリの諮問に応じるドゥーマ(議会)の創設に応じた。しかし、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化した。9月5日には日露講和条約(ポーツマス条約)が成立。戦争賠償金を払わないなどの譲歩は得たものの、日露戦争はロシア側の敗北という形で終結した。一方で国内の騒乱は収まらず、10月にはゼネストにまで発展した。ユリウス暦10月14日、ヴィッテはアレクシス・オボレンスキイとの共同執筆による十月宣言をニコライ2世に提出した。宣言は9月の地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。

ニコライ2世は3日かけて議論したが、虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年10月30日(ユリウス暦10月17日)に宣言に署名した(十月詔書)。皇帝は署名したことを悔しがり「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と語ったと言われる。宣言が発布されると、ロシアの主要都市では宣言支持の自発的なデモが起こった。ドゥーマの議長となる首相にはヴィッテが指名された。

しかしヴィッテは議会の支持を得られなかったため、変わって1906年5月に改革の敵対者であるイワン・ゴレムイキンが首相となった。ニコライ2世は直前に皇帝専制権が残存する憲法(「基本法」)を発布し、国会を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散、その直後の7月にゴレムイキンを更迭し首相にピョートル・ストルイピンを登用した。ストルイピンは1906年9月9日と、1910年6月14日の法律で、農奴の身分を完全に廃止して個人農を推進するなど、「ストルイピン改革」と呼ばれる近代化を進めたが、後に、その強い主導力に不快感をもった皇帝と対立した。

ニコライ2世は、翌1907年の国会も前年の国会同様「不服従」の理由で会期中に解散させ、反ユダヤ主義の宣伝とテロ活動を盛んに行なっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援した。3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加えたため、貴族ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となった。

[編集] 怪僧ラスプーチンの台頭

日露戦争中の1904年8月に生まれた皇太子アレクセイは、当時不治の病とされた血友病の患者であり、皇帝夫妻は幼い皇太子の将来の身を案じていた。

1905年11月、グリゴリー・ラスプーチンという農民出身の祈祷僧が宮廷に呼ばれた。ラスプーチンが祈祷を施すと不思議なことにアレクセイ皇太子の病状が好転した。このことから、アレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。その後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び寄せられた。皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンはいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。

ラスプーチンは、馬泥棒の経歴が暴かれ、女信者とのみだらな素行を教会に告発され、新聞でも報じられたにも関わらず、皇后からの信頼は崩れず、教会の要職に自分の庇護者を任命させるなど、陰で絶大な権力をふるった。1912年のドゥーマでは皇后がラスプーチンを「皇帝一家の友」としたことが問題にされている。皇帝の周囲にはラスプーチンを排除する声もあったが、優柔不断といわれた皇帝は皇后の意向や皇太子の病気を考慮してこれを拒否した。

ストルイピンは、ラスプーチンを皇帝一家から遠ざけるよう尽力した数少ない人物であったが、1911年、皇帝の目の前でアナーキストドミトリー・ポグロフによって銃撃されて死去し、「ストルイピン改革」も頓挫した。

[編集] 大戦と革命

ニコライ2世と司令部員ら
スタフカ会議におけるニコライ2世と戦線司令官ら

1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日オーストリア=ハンガリー帝国セルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開いた。開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクもペトログラードと改められた。

しかし1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して戦況が悪化し「大退却」を余儀なくされると、同年9月5日、皇帝はラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにも関わらず、従叔父にあたる最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので必ずしも好評ではなかった。ただし、1916年6月の浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢では辛くも勝利をつかんでいる。

皇帝不在の都ペトログラードでは、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが「ドイツ女」、「怪物」と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇帝の権威はさらに失墜した。

ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺されたが、皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。

1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。軍隊の一部も反乱に合流し、ロシアは混乱に陥った。ロシアが近代的な総力戦を継続することは既に限界に達していたのである。

[編集] 帝国の崩壊

1917年、トボリスクに監禁されたニコライ2世とアレクセイ

こうした状況下、アレクサンドル・ケレンスキーが指導する二月革命が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。しかし、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位を要求した。1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。この時ニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家は市民になった。ユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。元皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。

[編集] 最期

1917年、ニコライ2世の最後のものと伝わる写真

ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方エカテリンブルクへ移され、イパチェフ館(資産家イパチェフの家)に監禁された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコライは死の4日前まで日記を書き続けた。しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキーYakov Yurovsky)率いる、ユダヤ人・ハンガリー人ラトビア人で構成された処刑隊が、元皇帝一家7人、ニコライの専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕をイパチェフ館の地下で銃殺した。

スターリン時代は皇帝処刑は革命に貢献する行為とされていたため、ソ連政府は一時期、革命教育の一環として処刑に参加した兵士を全国の学校や職場で講演させ、自分の体験を英雄的行為と考える彼らが当日の情況を多くの人に詳細に語った。そのため、皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃の乱射が浴びせられたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、この処刑の状況はきわめて具体的に判明している。

ユロフスキーが残した資料によると、殺害した遺体はその後、一度廃坑に埋められた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表した。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后らの殺害の事実を伏せることにより諸外国とのトラブルを回避する為であった。殺害の決定においては、レフ・トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張してこれを認めさせた。殺害後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキが「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年にはミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されている。

ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。またロシア連邦捜査委員会は2011年1月、レーニンが処刑を下命した証拠は存在しないとの調査結果をまとめた。

[編集] 人物

  • 若い頃はピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼花瓶、竹杖、吸物香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など手当たり次第に日本の工芸品その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に入れ墨をするなど、たいへん日本好きであったという。
  • 小説『坂の上の雲』におけるニコライ2世の人物描写の影響か、大津事件後は日本との関係が悪化したという説や、王朝の公文書に日本人を「マカーキー(猿)」と記載したと指摘する書籍がある。しかしそういうことは無かったとの研究もある。また日記の文面からもニコライ2世がこの事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える(保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』講談社学術文庫を参照)。ニコライ2世は大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめた。但し日本人医師の診察は拒絶している。大津事件を原因とした戦争が起こらなかったのは、ニコライ2世の対応が大きかったという説もある。
  • 首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)を好まず、生地のツァールスコエ・セロー(現在のサンクトペテルブルク市プーシキン区)を愛し、そこに居住することが多かった。
  • ひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。実際は写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、同盟国に対しては忠実であった。
  • 革命が起きた直後、従兄のジョージ5世治下のイギリスへ亡命しようとした。しかし社会主義に対し好意的な労働者や知識階級の暴動が起きることを恐れたイギリス政府はこの要請を黙殺。一方、同じく従兄であるヴィルヘルム2世は逆にドイツへの亡命をニコライ2世に勧めたものの、交戦国への亡命を躊躇したために、結果的に死に至ることとなってしまった。
  • 内気で優柔不断だったという。

[編集] 死後

ペトロパヴロフスキー大聖堂にあるニコライ2世の墓

元皇帝一家の最後の状況については、5番目の皇女がいる、皇帝一家は死んでいない、など長年さまざまな噂が流れていた。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された(エリツィンはロシア連邦大統領になった後にこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1979年になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェヴィキの両親を持つゲリー・リャボフ調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後いったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には2003年になって教会が立てられ、「血の上の教会」と命名された。

1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた「大津事件血染めのハンカチ」も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。元ロシア皇族の末裔らも、鑑定用に検査に応じた。グリュックスブルク家ヘッセン家の血を引くエディンバラ公もその一人である。

結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関による大津事件の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。

2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は、「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。

[編集] 参考文献

[編集] 関連文献

  • アンソニー・ サマーズ/トム・マンゴールド 『ロマノフ家の最期』(高橋正訳、中公文庫、1987年) ※著者はBBCのジャーナリスト
  • パーヴェル・パガヌッツィ 『ロシア皇帝一家暗殺の真相』(進藤義彦訳、展転社、1988年)
  • マーク・スタインバーグ/ヴラジーミル・フルスタリョーフ編 『ロマーノフ王朝滅亡』(川上洸訳 大月書店、1997年)※当時の関係者の手紙・日記を収めた資料集の大著
  • マーリヤ大公女 『最後のロシア大公女 革命下のロマノフ王家』 (平岡緑訳、中公文庫、2002年改版)
※著者はアレクサンドル2世の孫でセーデルマンランド公爵夫人マリア・パヴロヴナ、アメリカに亡命。

[編集] 関連作品

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語